昨年末から久しぶりにファンタジー作品を読み始めて、原点回帰、とか思って、ん十年ぶりにゲド戦記を読み始めた。ホント私は、私のファンタジーの原点・・・指輪物語やゲド戦記に回帰したかっただけなんだよ。あと、ル=グウィンに関しては、まだ完読していない『西の果ての年代記』までは辿り着くことが当初の目的。
だがしかし。
ゲド戦記の周辺が五月蠅すぎて、無視できない。また、作品そのものも、読んだ人間がざわめくのも無理はない程度には、良くも悪くも問題作だった。
だから、これを読んだ他の人達はどう考えているのだろうか、とかつい気になって、書評のアレコレや、論文や評論にも手をだした。
正直、もはや手遅れだが、純粋にゲド戦記の世界に遊んでいた昔の心持ちに戻れるものなら戻りたい。
『帰還』も、『アースシーの風』も、絶対に受けつけない人もいるみたいだけど、私はそこまでの拒否感はない。それなりに完成度は高いし、面白い。だけど、そう、なんというか、解釈違いの映画化作品でも見たような気分も無いわけじゃない。もう、最初の三部作だけを読んでいた頃には戻れない。ル=グウィンに対しては、彼女のいうところの「今」の作品を書くにしても、なぜゲド戦記の続編でなければならなかったのか、別作品で書いてくれればよかったのに、と、恨めしい気持ちは若干ある。
『影との戦い』や『さいはての島へ』で出てくる例の石垣については、これまでは、自分なりに、三途の川のようなイメージで読んでいたので、石垣の向こう側があの世だと理解していた。
だが、『アースシーの風』によって、そのイメージがよく判らなくなった。さらに、外伝(『ドラゴンフライ』)収録の『カワウソ』では死者が石垣のこちら側に居る。根本的な世界観がブレる。『アースシーの風』では死者と生者が力を合わせて石垣を壊す。そして石垣を越えて死者が解放されることが描写されるのだが、あの石垣は一体なんだったんだろう?
生死の世界の分かれ目なのか、西の果てのそのまた西に続く世界のつながりを仕切っていた魔法なのか。死者は石垣のどちら側に居るのか?
ル=グウィンが十年、二十年の時を経て、アースシーに戻って、その世界を覗き、そこで見たものを作品に紡いだことで、それまでに読者が過去のル=グウィンの言葉をよすがに創り上げていた、日本人にとっては「ゲド戦記」であり、海外の読者にとっては「アースシー」であるところの、ファンタジー世界の土台は壊れてしまった。あの石垣の如くに。
べつに著者が何十年かけて作品を書いてもそれは良い、が、著者自ら世界を改変するのは、できれば止めて欲しかった。いったんは読者に委ねた作品であれば、過去の作品が未熟なら未熟なまま、読者に預けておいてくれたらよかったのに。
まず、このゲド戦記6巻(この6月頃には、7巻になる予定。)を読んで思うのはそのことである。
そして、外野はやっぱり五月蠅すぎる。(私自身も含めてだ!) 作品を楽しむこと以外しなくでもいいじゃないか、と思う。
だがしかし何よりも、過去の作品世界をいじらないで、と思うその気持ちが、程度の差こそあれ、例の栗本薫に思ったことと根っこのところでは大差無い、というのが、正直一番の_| ̄|○ なのだった。
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