2023年10月22日日曜日

0444 SENTIMENTAL JOURNEY<矢代俊一シリーズ22>

読書メーター https://bookmeter.com/reviews/116766094   

Amazonより・・・アメリカ・ツアーでニューヨークを訪れた矢代俊一はバンドメンバーと別行動でかつての恋人と会い、また金井恭平との逢瀬を時を持つ。しかし、ツアーの歓迎パーティ会場に現れたニューヨーク在住のピアニストとのトラブル、懸念されていた森晃一の力不足が露呈するなど不穏な要素をはらみつつデトロイト、ロサンゼルスとツアーは進んでいく。それはグループにも矢代俊一本人にも先送りにされていた問題の総決算を予感させるものでもあった。矢代俊一シリーズ第22巻。

  相変わらず良く書けてるなあ。Amazonのリード。
 ものすごく美しくまとめるとそんな感じです。

 読み始めて改めて思ったのは、俊一が人を判断する基準が「自分を心配してくれるか否か」「自分のわがままを聞いてくれるか否か」「自分を中心に動いてくれるかどうか」になっている、ということ。俊一は、自分が居心地悪いと機嫌が悪くなり、それをいいよいいよ、と受け止めて甘やかしてくれる強い男を自分の周りに引きつける。そして自分を囲わせる。風間いわくセイレーン。美形の天才だからそれが許される。甘やかす者と甘やかされるもの。このキャラクターを嫌味なく、違和感なく書いちゃう薫サンにびっくりだよ。しかも薫サン、魔性の女だか男だか、奔放な性やら情熱やらを描こうと思って、こう書いているわけではない、という気がする。いやこれ、やっぱりなんの悪意もなく素で書いてるよね。だから薫サンも素でこんな感じだったんじゃないか?想像してしまうのだけど。

 それにしても、俊一の忙しいこと。
 俊一を敵視するゲイの三流ピアニストに気持ちを掻き乱され、英二にやきもちを焼き、風間をしつこく誘惑し、そうこうしているうちに俺はミューズに愛されてるんだ!と何100回目かの気付きを得て、恭平との別離を覚悟するかと思えば、その恭平との一夜の契りで熱烈に愛を語らう。でも、英二と一緒にいれば英二に絆されて、恭平との別れを強く決意。そして俺はミューズの使徒なんだ!と何101回目の気づきと喜び! 傍目でみれば、単にその場の状況に流されてるだけなんだが、そこは薫サンが臆面もなく書き抜いてる流れで、なんとかストーリーの体裁になっているような、・・・いやなっていないだろ。

 まあしかし、読者不在であることは間違いない。
 自分の、自分による、自分のための・・・・「小説」ともいえないような言葉の羅列だ。
 これが小説だと思えないのは、エンターテイメントではないから。初めから「読者」がいない。作品を通じて相対する者の存在は、求められていない。この点は、初期の作品とは明らかに一線を画しているとは思う。この一連の作品が同人誌で発表されたことが表しているように、これは教祖が信奉者に垂れた高説みたいなもので、ありがたがる人がありがたがれば良い、金色に塗られた壺とか泥人形みたいなもの。私はそれを見せられて「こんなの仏像じゃない!」と怒ってる勘違い人間なのだと思う。
 それは、たとえば贋作だって買う方が本物だと思えば芸術作品さ、といって高値で売りつける悪徳美術商か、もしくは贋作を真作だと思い込んで売ってる鑑定眼のない古物商みたいなもんで、これを「小説」だと言って世に出して、読者はこれを「小説」と勘違いして読んでいるのだ。

 作中でベーシストのサミーが俊一に語る。
 『———カネ(金井)も晃市も、なんといったらいいか———地上に生きる、形而下の種族なんだ。それは決定的なことだ———どれほど魂が深くなっても、ついにかれらは地上にしか生きられない。だがお前は———あえて云わせてもらうなら俺もまた、そしてお前の父上ももちろん……我々は、地上には生きない。地上の価値や成功は我々にはどうでもいい。宇宙の神秘、ひとの心の不思議と悲しみ、運命と摂理の偉大さ、この世がこのようであること———その悲しみと歓喜と狂おしさ、それが我々の心をとらえ、そして表現へとおもむかせる。———その深い思いはついにかれらは知ることがない。かれらを幸せにするのは簡単だ———不幸にするのも簡単だ。簡単に幸せになれる心は、結局———簡単にしか生きられないんだ」』

 我らは芸術の使徒たる人種なのだとベーシストのサミーに語らせる薫サン。なぜこの台詞がいっこうに感動的ではなく、あまりにも陳腐なものになってしまうのか。それは、彼らが芸術の使徒であっても、薫サンがそうではないからだよ。

 本当に表現に魂を捧げた表現者であるならば、あんな駄文の数々を世に送り出したりしないはずだからだよ。

 今回、晃市のピアノの「浅さ」問題が作中で表出しているんだが、奇しくも今回辛い目をみた晃市が、案外薫サンと同類なのかもしれない。頭がよくて、要領が良くて、早わかりして、早弾き(早書き)が得意だけど、実は自分に自信がなくてコンプレックスの塊で、自分の望む容姿はしていなくて。・・・・でも、はるかに晃市の方が謙虚だ。なにしろ晃市は努力してるから。

 でも、私自身も一体なんでこんなに駄文メーカーの栗本薫に執着してるんだろうな、とは思う。

 各章の末尾に、作品を書いた年月日が付されているんだが、今回最後の数章には、「2007年●月●日 昭和大学病院1617号室にて」と、記されている。病床でこれを書いて、薫サンにも思うところがあったんだろう、人生とか命とかにしみじみと言及している文が結構ある。でも作品のなかに、書いた人間の状況を滑り込ませてくるって、あざとさを感じるよね。自分が批判していることが、なんだか悪いことをしているような気持ちにさせられるもの。 

 人の妻であり人の母であった一個人を、こうやって貶めることになんの意味があるのか。もしかしたら、私の「思慮のない駄文」で不愉快になったり、傷つく人も、怒るひともいるかも知れない。 
 でも、この「小説」みたいな何かを「小説」やら「作品」として世に出すことに意味を見いだしている人たちがいて、それで収益も得ていて(しかも、私も金を払ってる!)るんだから、この「小説」とは思えない何かを私が「作品」として扱って批判することもまた、正当なことだと思うのだ。 

 そうはいっても、今作。前2冊と比べると、格段に読みやすくはあった。
 おそらく、舞台がアメリカツアーに移って、形容するものが沢山あったからだと思われる。例の脳内ダダ漏れグダグタが、相対的に減って、普通の情景描写が増えているのが、読みやすい原因。あと、俊一父の出番が減って、あの気持ち悪い父子の交わりってか語らいが減ったのもその理由の1つ。ただし、前述のとおり、内容は推して知るべし。

0 件のコメント:

コメントを投稿