2025年6月15日日曜日

コミック バルバラ異界

書 名 「バルバラ異界」  2007年日本SF大賞受賞
著 者 萩尾 望都
連 載 flowers 2002年9月号~2005年8月号
出 版 小学館  2003年6月〜2005年9月
初 読 2025年6月15日
出 版 2003年6月
ISBN-10  091670415
ISBN-13  978-4091670410
読書メーター 
https://bookmeter.com/reviews/128495589 

 フワフワして優しい、ファンタジーSFっぽいテイストで始まったバルバラの世界。しかし、やがてこの世界が青羽という眠り続ける少女の夢の世界であることが判ってくる。
 舞台は心理学的手法の延長のような感じで人の夢の中に入り込む「夢先案内人」や、前世療法など、ちょっと前のSFやサスペンスの流行のテイストなんかを感じさせつつ、不老長寿の研究や、脳内イメージスキャン技術などが出て来て、近未来感を醸す。日本の学制も、高校が寮制の「大学進学校」になっていたり、高速道路は自動誘導システムになっていたりして、近未来の世界観の作り込みが細部まで行き届いている。
 描かれる現実世界は2052年。
 バルバラ界とバルバラの登場人物たち、現実世界の主人公の渡会時夫の関係者、青羽系列の親族関係、青羽周辺の研究者、キリヤの学友たち、もろもろ登場して、頭の中に情報が収まりきらず、アップアップと溺れる感じ。たまらず、とりあえず1、2巻までを再読して人物リストを作成しつつ、物語を再チェックした。一巻目では、物語がどこに向かっていくのかすら、皆目わからない。ただ、導かれるままに、山ほどの疑問を抱えたままヨタヨタ進んでいく感じ。(注:ヨタヨタしているのはストーリーではなく、私の頭!)萩尾望都の大傑作を今、読みつつあるのでは、との予感がひしひしとする。
 1巻目の章立ては以下のとおり。以下、1巻から4巻まで、自分の頭を整理するためにあらすじをまとめる。ネタバレになるので、未読の方はご注意あれ。

その1 世界の中心であるわたし
その2 眠り姫は眠る血とバラの中
その3 講演で剣舞を舞ってはならない
その4 彼の名は絶望 彼女の名は希望
その5 エズラはどこへ消えた?
その6 六本木で会いましょう

【人物】 ※バルバラ人
  青羽(アオバ)      世界の中心であるわたし。ジジからは「よそ者」と誹られている。
  タカ    アオバの従弟。
  パイン   ダイヤの養子。タカの兄弟。アオバの従弟。
  マーちゃん 青羽の母(養母?)
  ダイヤ   マーちゃんの妹。タカの母。 
  千里さん  夢見。夢占い。「夢はね 遠い未来か、遠い過去からのメッセージなんだ」
  雷ジジ   千里さんの祖父。
  ヒナコ   4人養子を取ったが、みんな早逝してしまって悲しんでいる
  ドクター  「ここじゃ なかなか子供が育たんからなァ」
  光合成するおねえさんたち         草木の生えた町の屋根の上で、日光浴。
  秋葉原コスモス      子役俳優。もう30年くらい子役をやっている。
  ※現実世界の人
  渡会時夫        「夢先案内人」(ドイツの〈21世紀ユング研究所所属)を仕事とする。
        キリヤの父。「ベルリンのハンバーグ屋事件」(ベルリンで起こった大量カ
        ニバリズム(食人)事件)の解決で著名になった。ただし、渡会自身はその
        影響で黒髪が白髪に。眠り続ける十条青羽の夢にアクセスすることで、《バ
        ルバラ》に行く。
  大黒先生        渡会の師? 現在は「前世療法」を行っている。火星研究にも詳しいよう。
        もともとは、パーキンソン病の世界的権威。
  北方キリヤ お茶の水山ノ上大学進学校(高校に相当)の生徒。渡会時夫の息子。かつ
        て、孤独心から心の安息地としての《バルバラ》を創作した。火星の夢を見
        て、火星の砂を引き寄せる。
        「世界はぼくを捨てた」「世界はぼくを愛していない」
  北方明美  キリヤの母。渡会の前妻。世羅ヨハネという神父に傾倒している。  
  花園蕾香(ライカ) キリヤの学友。ガールフレンド。アフリカ生まれの神田育ち。両親
        はタンザニアに研究旅行に行っているときに、行方不明になっている。
  風仁    ライカの従弟。秋葉原でバイトしている。
  百田太郎        遠軽(北海道)にある、北海道東中原人間科学研究所の研究者。現実の
        十条青羽の治療に携わる。
  十条青羽  ある凄惨な事件から7年間、東中原研究所で眠り続け、ポルターガイスト
        引き起こしている。幼少時は重篤なアレルギーがあったよう。
  十条茶菜        青羽の母。2024年12月30日、夫の勝一を殺害して、心臓を取り出し、自身も
        自殺。心臓を取り出し、青羽に食べさせた?  
  十条勝一  青羽の父。十条製薬の社長だった。
  十条菜々実 十条茶菜の母。青羽の祖母。菜々実とエズラが離婚したのが2006年。
  エズラ・ストラディ 十条菜々実の前夫で、茶菜の実父。十条製薬の特別研究員だった。
        ドイツと日本のハーフ。菜々実の叔母の静枝と駆け落ちした。晩年は火星研
        究(惑星生物学)を研究していた?
  世羅ヨハネ 神父。世界各地で里親施設を運営。明美はヨハネを「前世の恋人で夫」と信
        じている。ニューヨークで児童施設の〈グリーン・ホーム〉を運営。
  目白秀吉  六本木で〈目白サイコ・クリニック〉を運営。子供の頃の十条青羽と母の茶
        菜がクリニックに通っていた。青羽のポルターガイストで起こった竜巻に巻
        き込まれて死亡。
  目白ましろ 目白秀吉の息子。
  カーラ・シスルバーグ 〈21世紀バルトハウス〉(スイスにある医学研究企業)の職員。


*細胞活性薬《バルバラ》  十条製薬のヒット商品。細胞を活性化させる薬(若返り)の研究。もともとはエズラ・ストラディの研究だった。その薬品名が《バルバラシリーズ》。《バルバラ》は細胞を活性化し、若返らせる合成蛋白質の名前。プリオン蛋白質と同様、胃腸で消化分解されずに人体に取り込まれる。

 夢前案内人を仕事とする渡会時夫は、眠り続ける少女十条青羽の夢を探るために、北海道の研究所に招かれる。時夫が少女の夢に潜ってみると、少女は「バルバラ島」という世界の幸せな夢を見続けていた。しかし、このバルバラ島は渡会の離婚した元妻が引き取った息子であるキリヤが創造した空想の世界だった。
 十条青羽が眠り続けるきっかけになった凄惨な事件の背景を調べるために、時夫は青羽の祖母で十条製薬の会長でもある祖母菜々実に会いにいく。そこで、菜々実の前夫であるエズラの話を聞く。エズラの情報はほとんど見つからないのだが、若い頃の画像があり、その画像を見た時夫は、エズラ博士を画像加工で加齢させると、時夫の元妻の明美が傾倒している世羅ヨハネの顔になることに気付く。世羅ヨハネは、ニューヨークで〈グリーン・ホーム〉という養子縁組のための児童施設を運営していた。
 一方、現世の青羽が時夫の息子であるキリヤの夢の中に現れ、渡会時夫に青羽の夢に干渉させるな、とキリヤに警告する。

出 版 2004年3月
ISBN-10  4091670423
ISBN-13  978-4091670427
読書メーター https://bookmeter.com/reviews/128498109


その7 きみに肩車してあげた
その8 冷蔵庫の中のわたしを食べて
その9 火星の海で泳いでいた
その10 お父さんお帰りなさい
その11 お誕生日は同じ10月1日
その12 東池袋カササギのパン屋

 バルバラ島は実在するのか。眠っている青羽を目覚めさせたら、バルバラ世界はどうなるのか。もし、青羽の夢の世界が完成したら、現実世界と逆転して、現実が「誰かの夢」の世界になるのか? 
 そして細胞活性剤(若返り薬)の〈バルバラ〉を作ったエズラと、夢の世界バルバラはどのような関係があるのか。そして、青羽の夢とキリヤの関係は?
 時夫は、長年生き別れていたキリヤの父親として、キリヤの助けになりたいと願うが、キリヤは時夫を拒絶。一方、バルバラ世界では、キリヤにも時夫にもよく似た少年タカが、時夫を父と慕う。
 北海道の東中原研究所は、眠る青羽の力で水が湧き水没状態に。事態を打開するために、再度青羽の夢に潜った時夫は、《バルバラ世界》にふたたび温かく迎えられるが、徐々にバルバラの秘密に触れることになる。この夢世界の世界観にもカルバニズムが絡んでいる。
 それは、バルバラ人の不老の秘密はバルバラ人同士の食人にあり、そのバルバラ人の遺体が〈外の世界〉の不老不死の製薬に絡んでいる、という不穏な世界観だった。バルバラで4人目の養子を失って自殺したヒナコの葬儀は、実はヒナコの心臓を食する儀式であり、ヒナコの心臓を夢の中で食べた時夫は、現実世界で心停止した。必至の救命で現実世界に生き戻った時夫は、自分の記憶の中の乳幼児のキリヤのイメージがタカのイメージで上書きされていることを自覚。記憶がバルバラのイメージで改編されているのではないかと不安に駆られる。 
 現実の青羽の自我は、キリヤと一つになることを希求している。
 東京のキリヤの学校に、ニューヨークのグリーン・ホーム出身のパリスが転入してくる。
 キリヤは、ニューヨークで世羅ヨハネが運営していた児童施設〈グリーン・ホーム〉が、里親の依頼により試験管ベビーを作っていたこと、パインとタカがその施設で作られた子供であったことを知る。そして、世羅ヨハネは行方が知れず、〈グリーン・ホーム〉は閉鎖されていた。
 バルバラ世界と現実世界との関係を探る時夫は、バルバラの中の時間が2150年であることを知る。バルバラのマーちゃんは、もともとは東池袋で「カササギのパン屋」という小さなパン屋さんを営んでいたらしい。マーちゃんは、2130年に戦争が起きて人工衛星が落とされて地上に降り注ぎ、マーちゃんの家族も家も皆燃えた、という。また、バルバラの人達は「閉じ込められて血を採られて」いるらしい。もしや、ドイツの研究施設では、火星由来のタンパク質を持つ人々を眠らせ、いわば培養し、血液を採取して細胞活性剤バルボラを製造しているのではないのか?夢の《バルボラ》の人々は、その研究所で眠り続ける人達なのか? キアヌ・リーブス主演の『マトリックス』のような世界観が読んでいる自分の頭をよぎるが、物語はこの点には深入りしなかった。(と思う)

出 版 2004年12月
ISBN-10 4091670431
ISBN-13 978-4091670434

その13 長い長い遺伝子の物語
その14 大人にだってわからない
その15 遠軽への遠い道
その16 ひとつになりましょう
その17 誰もあたなの名前を知らない
その18 はじめてのことだから

 青羽は繰り返しキリヤの夢を訪れ、キリヤは青羽から、火星の生命体について教えられる。火星の生命体は、お互いを食べ合うことで、相手の記憶コードを取り入れることができ、全体で一つの記憶と意識を保持していた。火星の生命は遠い過去に絶滅したが、その生命を構成していたタンパク質は、隕石とともに地球に降り注ぎ、地球の生命の遺伝子の中に深く潜航した。(狂牛病の原因物質のプリオンタンパク質が、消化どころか燃焼も腐敗もせずにその構造を留めることを考えれば、このような発想はアリだと思った。)
 そして、その火星の生命の記憶は遺伝子コードの中に組み込まれ、それを引き継いだ青羽の記憶となっており、その青羽に共鳴するキリヤのなかにも潜在した。
 ひょっとして青羽は、グリーン・ホームの4人の子供のうち、死んだことになっている一人なのでは? と一瞬思ったが、そもそも青羽はエズラの実の孫なのだから、エズラの遺伝子をつまりは記憶を受け継いでいるのだ。そしてその記憶は、心臓の筋肉をある特殊な条件下で摂取することで、活性化されるらしい。

 時夫、キリヤ、菜々実その他は、青羽に会うために北海道に向かう。その途中、女満別の空港で、キリヤが老化した世羅ヨハネを目撃。世羅ヨハネは若返り治療を受けるために搬送されるところだった。

 時夫はキリヤの夢の中で現実の青羽に出会い、青羽が《バルバラ》を作ったいきさつを聞き出す。「わたしは火星の記憶をどうかたちにすればいいのかわからなかったけど、島をみつけてここに作ればいいと思ったわ 未来を」
 伊勢では、キリヤの母明美が、本物のキリヤはアレルギーで死に、「ヨハネが生き返らせてくれた」と衝撃の告白。
 菜々実からは、エズラの存在を抹殺したいきさつが証される。
 ここにいたって、バラバラだった情報が、エズラとエズラの研究に集約されてくる。
 不老不死のバルバラタンパク質、人工授精で、火星遺伝子を受け継いだ試験管ベビーたち。バルバラタンパク質は、有害な代謝物を生成するため、生まれてきた子供たちは、ほとんどが重度の免疫不全や心臓病で死んだが、エズラが世羅ヨハネとなった後も研究は密かにつづけられ、生存に成功した4人の子供たちが、グリーンホームで育てらた。うち一人は死んだキリヤの代わりに明美に与えられ、二人は、3人の女性の老化治療の研究に使用され、パリスだけが生き残った。

出 版 2005年9月
ISBN-10 409167044X
ISBN-13 978-4091670441
読書メーター 
https://bookmeter.com/reviews/128508714

その19 ずっとあなたを愛していた
その20 死者からのメッセージ
その21 バルバラ崩壊
その22 花小金井ヒコバエ保育園
その23 ぼくのキリヤをかえしてくれ
その24 遠い過去から遠い明日へ

 女満別の老人病院で若返り治療を受けたアズーレ=エズラ=ヨハネは、最愛の妻だった菜々実と再会し、全ての秘密とデータをキリヤに手渡して亡くなる。ここまでで、大方の秘密が明らかになった、と読者に思わせ、作中の一行もいったん眠り続ける青羽を研究所に残し、なにかが不完全なまま解散の流れになるが、そこからの怒濤の展開が驚異的だった。

 大黒から、本当のキリヤは2歳で死に、グリーン・ホームのタカがキリヤに成り代わったという仮説を聞かされ、真実を突き止めようと渡会は青羽の夢を通じて三度バルバラに潜り込む。しかし、そのバルバラには破局が訪れていた。未来の2150年、地球政府は火星と決裂し、火星人の遺伝子を持つバルバラ人の抹殺が決定された。時夫が訪れたとき、バルバラ島は、政府の攻撃で蹂躙されていた。時夫は生還するが、バルバラは消滅。

 そしてキリヤの突然の事故死。
 キリヤの蘇りを必死で願う時夫の思念と、青羽の未来に干渉する力が最大化されたときに、起こったこと。
 エズラによく似た千里もまた、彼の血筋なのだろうか。もしかしたら、タンザニアの奥地から生還した花園夫婦の子供の子孫が千里なのかもしれない。その結果の起こったことを初めは拒否し、混乱し、徐々に受け入れる時夫の心理描写が、畳みかけるようで凄い。

 時夫は記憶を再体験し、徐々に記憶が置き換わっていくことを自覚する。

 2052年の火星基地では、化石化した生命の痕跡が発見され、火星にいた基地の地球人たちは、何かの感染症を発症し、死んだ人間の心臓を食べるカルバニズムが発生したようだ。おそらく、ここから地球人と火星人の分化がはじまり、80年後の2130年には火星は地球を攻撃。戦争となる。
 その後2150年に和解が成立。その時代のキリヤや青羽は生き残る未来を得る。
 一時は時夫の息子として2052年に存在したキリヤ(タカ)と、2052年に肉体が死んだ青羽の魂も、それぞれ2150年時点で生存し、おそらくは幸せになるであろう未来が構築されただろう。
 2052年、青羽とキリヤが作った現実と2150年のバルバラ島との接点はほどけ、青羽が作りあげたバルボラ島の未来は現実の未来に、2052年の時点から見た『バルバラ異界』は消滅した。

 いずれにせよ、すごい。すごい物語を読んだ。
 アーシュラ・K・ル=グウィンを読んでいる流れで、ル=グウィンと世界観が似ている(と思える)萩尾望都を読んでいたのだけど、正直いって、萩尾望都の方がはるかに才能がある、と思うようになってきた。

2025年6月8日日曜日

コミック マージナル(小学館文庫1〜3)



書 名 「マージナル」 
著 者 萩尾望都
初 出 雑誌「プチフラワー」1985年8月号~1987年10月号に連載    

 どなたかが、この作品をフェミニズムと結び付けていたのを目にした。
 正直、この作品をそういう視点で見たことは、これまでにまったく無かった。
 だって、女、出てこないじゃない。
 地球上でかろうじて女の要素があるのは、XXYの男の子だけ。
 
 しかし、たしかにフェミニズムの視点からすると、逆説的に面白い。なにしろ、女性がいない。
 2300年に突如地球を席巻した細菌汚染。海も川も湖も沼も水という水は汚れ、雑菌、プランクトン、細菌、微生物で赤くメレンゲのように泡立ち、人間は"D因子”に感染し、生殖能力を失った。人類は月や火星に逃れ、女性と大型動物が死に絶えた地上は、自然や生命が甦るかどうか、の壮大な実験場となった。
 人類はD因子に対する免疫を獲得するが、この免疫はY遺伝子にしか乗らないので、女は生き残ることができない。
 そこで、月の人類は、地球に卵子を持ち込み、地上の男達の精子によって受精させ、試験管で培養された子供たちが供給されるシステムを作りあげた。

 700年後。地上は、一人の母(マザ)と大勢の息子達による、ミツバチ型の社会を構築し、だれもその世界の在り方に疑問を持たなくなっている。しかし、マザは老いて衰え、子供の供給が減り、不安と不穏が地上に蔓延していた。

 というところからの物語。
 女性のことを考えるにしても、生殖や次世代の産出を抜きに、女性の在り方を云々することはできない、ってことを具体的が具体的に突きつけられてるところが面白い。色子制や色子宿などの、性欲解消を代替するシステムが出来上がっているのも面白い。
 地球の人口は、女性の提供卵子に支えられているってところもスゴイ。

 ストーリーを動かすのは、マージナル計画を推進するメイヤード。そしてイワンというマッドサイエンティストが創り上げた4人の子供たち(キラ)と、イワンの足跡を追う、もう一人の科学者ゴー博士。この直情で声がデカく、周囲を憚らないKYが、良くも悪くも物語を転がす。ほんとうにゴー博士はうるさいのだけど、えてして現実社会でもこういう人物が事態を推進するんだよな。

 メイヤードとナースタースの愛は切なく、アシジンは単純で健康的。グリンジャは虚無にはなりきれない。アシジンとグリンジャのキラは、死んで病んだ地球に生命の息吹を吹き込むのか。最後に残ったキラは、どちらかの、もしくは二人の子供を産むのだろうか。地上のキラの子供たち、そして、地球の生命はこれからどうなっていくのか。希望を感じさせる物語だった。

0557 辺境の惑星(ハヤカワSF文庫版)

書 名 「辺境の惑星」
原 題 「Planet of Exile」1966年
著 者 アーシュラ・K・ル=グウィン    
翻訳者 脇 明子    
出 版 早川書房 1989年7月
文 庫 215ページ
初 読 2025年6月7日
ISBN-10 4150108315
ISBN-13 978-4150108311
読書メーター 
https://bookmeter.com/reviews/128345663

 まず、この「辺境の惑星」の設定が面白い。
 太陽は、竜座のγ(ガンマ)、エルタニン。竜座は(この地球の)北の天空の北極星を半円に取り囲んでいる星座で、エルタニンは北極星からは一番遠くに見える二等星。
 その恒星を太陽とするこの惑星(作中ではこちらも「地球」と呼ばれる。)は二重星で、こちらの地球の月よりも(おそらくは)はるかに大きく、それ故、重力の影響も強い月を持つ。
 月の影響による潮の満ち引きは、毎日15フィートから50フィート、というから満潮と干潮では、4メートルから15メートルの海面高の差を生む。干潮から満潮に向けて海が満ちてくるときには、毎日津波のように潮の壁が押し寄せる。ダイナミック!
 月と惑星がお互いを巡る公転周期は400日。月の満ち欠けは400日をかけてゆっくりと行われる。この二重星が恒星(エルタニン)を一回りする公転周期、つまり1年は60ヶ月=24000日、一日の長さについては言及されていないので、ひとまず地球日を当てはめるとして、四季が巡るのに、地球年では65年ほどかかる計算。(作中では、60年と書かれているので、もしかしたら一日の長さは地球よりも短めなのかもしれない。)
 おそらくだが、それだけ月が大きいとなると、月の公転でこの惑星も振り回されるだろうから、一月400日の間にも相当の寒暖差があるのではなかろうか。そして、60ヶ月(地球年で60年)の惑星の公転周期では、氷河期と温暖期ほどの寒暖差が生まれる。

 そんな惑星にもとから生息するヒューマノイド(ヒルフ)と、後から植民した地球人のコロニーが、冬(=氷河期レベル)の脅威と、その天候の中で生まれる生物の大移動によりもたらされる民族存続の危機に立ち向かう、そんな話。この惑星運行のダイナミズムをまず、世界観として楽しもう。

 この小説は、言うまでもなくSF小説のカテゴリーなんだけど、これまでに読んだル=グウィンのSFすべてに当てはまるが、「空想科学」の「科学」の部分はとても薄め。どちらかというと民俗学、folklore。ル=グウィンが70年代以降の米国を代表するSF作家の一人であることには無論異議はないのだが、個人的には、SFというよりはFF=folklore fantasy?fiction?ってカテゴライズを奉じたくなる。だが、それはさておき、物語は起伏に富み、とくに主人公の一人のロルリーの造形もとても良く、面白く読めた。

 遠未来の辺境の星域の惑星。植民したものの、『ロカノンの世界』でも語られた、敵対する異星文明の侵攻の煽りで惑星に置き去られ、忘れ去られた植民者たち。植民星の先住文明に影響を与えることを禁ずる法律を遵守し、原始共産制社会から中世くらいのどこかの発達段階でしかない先住民族の文化レベルに同化せざるをえなかった入植者と現住民の文化の衝突。そして氷河期レベルの冬の到来で、もう一種の北方の先住民族の暴力的な民族大移動に蹂躙される危機。先住民と入植者のコロニーは生存をかけて手を結ぼうとするものの、異文化の排他や、血族や男の沽券なんかも絡んで一筋縄ではいかない。その物語の中で、渦中の主人公ロルリーが異郷の人々の中で静かに意思の強さと賢さを発揮する様子がとても好ましい。(読んでいないけど)ネイティブアメリカンのイシもそんなだったのだろうか?などと想像。ル=グウィンの原体験に根差した作品なのであろうと感じさせられる。
 
 なお、やっとヒルフの指すところがはっきりした。HILF。ハイリー・インテリジェンス・ライフ・フォーム(高度な知性を有する生命体)の頭文字。実は先に読んだ『ロカノンの世界』にも登場していたが、『最高の知性を有する生命体』とサラリと日本語に翻訳されていたために、おそらくこれだろうな、とは思ったが、確信が持てていなかった。なお、『ロカノンの世界』の第1章は、独立した短編『セムリの首飾り』として、ハヤカワSF文庫の『風の十二方位』に収録されており、こちらの翻訳では「高度な知性を有する生命体」にハイ・インテリジェンス・ライフ・フォームと親切にルビが振ってあった。ちょっとすっきりした。

2025年6月2日月曜日

発表順に並べ直して再掲 ル=グウィン作品一覧(邦訳のみ)

ル=グウィン 作品一覧(邦訳)年代順


1966 ロカノンの世界  サンリオSF文庫/ハヤカワ文庫(別訳)
1966 辺境の惑星       サンリオSF文庫/ハヤカワ文庫
1967 幻影の都市    サンリオSF文庫
/ハヤカワ文庫
1968 影との戦い A Wizard of Earthsea
1969 闇の左手     ハヤカワ文庫(新版)★
1971 こわれた腕環 The Tombs of Atuan
1971 天のろくろ     サンリオSF文庫
/ブッキング(改訂復刊)
1972 さいはての島へ The Farthest Shore
1974 所有せざる人々  ハヤカワ文庫★
1975 風の十二方位   ハヤカワ文庫
-主に初期作品集
1976 世界の合言葉は森/ アオサギの眼 (1978)  ハヤカワ文庫
1976 どこからも彼方にある国 あかね書房★
1976 オルシニア国物語  ハヤカワ文庫★
1979 マラフレナ 上・下    サンリオSF文庫
1979 夜の言葉‐ファンタジー・SF論  岩波同時代ライブラリー
/(改訂)岩波現代文庫
1980 始まりの場所  早川書房「海外SFノヴェルズ」★
1982 コンパス・ローズ    サンリオSF文庫/ちくま文庫
 
1985 オールウェイズ・カミング・ホーム上・下 平凡社
1988 空飛び猫
1989 帰ってきた空飛び猫
1989 世界の果てでダンス   白水社(新装版刊)★
1990 帰還 - 最後の書 Tehanu: The Last Book of Earthsea
1992 「ゲド戦記」を‘生きなおす’  (
”Earthsea Revisioned” オックスフォード大学で
   開かれたChildren’s Literature New Englandの大会で講演)
1994 素晴らしいアレキサンダーと空飛び猫たち
1994 内海の漁師    ハヤカワ文庫★
1995 赦しへの四つの道 早川書房「新ハヤカワ・SF・シリーズ」
1998 文体の舵をとれ ル=グウィンの小説教室  フィルムアート社★
1999 空を駆けるジェーン - 空飛び猫物語
2000 言の葉の樹     ハヤカワ文庫★
2001 ゲド戦記外伝(ドラゴンフライ) Tales from Earthsea 
2001 アースシーの風 The Other Wind
2002 世界の誕生日    ハヤカワ文庫(全8篇)★
2003 なつかしく謎めいて  河出書房新社(連作短編)
2004 ギフト ★
2004 ファンタジーと言葉   岩波書店★
2006 ヴォイス★
2007 パワー★
2008 ラウィーニア 河出書房新社/文庫★
2011 いまファンタジーにできること      河出書房新社
2012 現想と幻実 ル=グウィン短篇選集  青土社(全11篇)★
2017 暇なんかないわ 大切なことを考えるのに忙しくて  河出書房新社★
2022 私と言葉たち  河出書房新社★
2025 火明かり ゲド戦記別冊 岩波書店


2025年6月1日日曜日

2025年5月の読書メーター

 鋭意、ル=グウィンのSFに取り組んでいたはずなのだが、結構読み進めるのに手間どった一方で、ル=グウィンの世界観と萩尾望都の世界観って共通するよな、との気づきから、無性に萩尾望都も読みたくなり。
 『11人いる!』『マージナル』『銀の三角』などなど。
 しかし手元にある文庫本サイズは、やはり字も絵も細かくて、読むのがしんどい。
 そこでついに、萩尾望都パーフェクトセレクションに手をだした次第。しかし、読みたかったマージナルは文庫本しか手に入らず。ついでに流れでこれまで手を出しかねていた『残酷な神が支配する』も文庫本で入手(ネット古書店で全巻大人買い)。
 『残酷な・・・』は連載時から読んでいたが、あまりにもリアルな内容なので、刊行当時は入手するのを控えていた。このたびやっと、全巻通しで読んでみよう、という気になった。しかし、内容から少し距離を取るために、こちらはあえてのめり込みにくい文庫本サイズにした。いや、こんな用心が必要な作品もそうないよな。
 さて、5月末に、ゲド戦記の最終刊「火明かり」が刊行された。
 すこし読み始めたが、冒頭のル=グウィンによる序文(『The Books of Earthsea』の序文として書かれたもの。)を読んで、少々げっそりとしている。だがまあ、なにはともあれ読むよ。
半世紀来の付き合いだもの。
 さて、そんなこんなで5月は、ル=グウィンのSF2冊。画集が2冊。コミック新刊2冊。萩尾望都4冊という結果。漫画で水増ししているとはいえ、『トーマの心臓』はハードカバーの文学を読むのと同じくらいのエネルギーを要した。

5月の読書メーター
読んだ本の数:10
読んだページ数:2399
ナイス数:513

トーマの心臓2 萩尾望都Perfect Selection 2 (フラワーコミックスペシャル)トーマの心臓2 萩尾望都Perfect Selection 2 (フラワーコミックスペシャル)感想
ユーリの根底にあるのが信仰だという所は自分にはちょっと分かりにくいところ。トーマはなぜあそこまでして?というのもストンとは落ちてこないのだけど。愛するということ、そのためには自らを犠牲にすることも厭わないこと。だけど残された人は、その贈りものを正しく受け取ることができるだろうか。幸いユーリは最後にはきちんと受け止めることができたけど。オスカー、ユーリ、エーリクそれぞれに若い人生に似合わぬ重く辛い経験を背負い、それでも全力で友人を想い、助けようとすることができる。透明で深く澄んだ青い沼をのぞき込んだ気分だ。
読了日:05月31日 著者:萩尾望都

トーマの心臓1 萩尾望都Perfect Selection 1 (フラワーコミックススペシャル)トーマの心臓1 萩尾望都Perfect Selection 1 (フラワーコミックススペシャル)感想
青く、透明で、伶俐で、傷ついていて、優しい。情感がオーバーフローして溺れそうな気分になった。ここから童話のようなファンタジーをそぎ落としていくと『残酷な神が支配する』に到達するのか。久しぶりの再読で、良い感じにストーリーを忘れていて、今更だが『訪問者』がこのオスカーと彼の父の話で、つながっているんだと初めて気付いた。それにしても中高生くらいの寄宿舎って本当に大変。学校が動物園にしか思えない身には、舎監のオスカーとユーリが神がかって見える。
読了日:05月31日 著者:萩尾望都

なのはな (フラワーコミックススペシャル)なのはな (フラワーコミックススペシャル)感想
3.11直後から数週間の心のザワザワには、私も覚えがある。毎日出勤し、だけど仕事が手に着かず、はっと気がついたら年度末になっていて焦った。あの頃、多感な10代だったなほちゃんは、おばあちゃんが帰ってこないことを知っていたが、受け入れきれない。傷ついても身を寄せ合う家族がいるということは、まだ救いがあるようにも思う。だけど、失ったものへの追悼は必要で、そんななほちゃんの心は銀河鉄道に乗っておばあちゃんとのさよならを追体験する。この作品は、モトさんの、心の平静を取り戻すための儀式でもあったよう。
読了日:05月29日 著者:萩尾望都

11人いる! 萩尾望都Perfect Selection 3 (フラワーコミックススペシャル)11人いる! 萩尾望都Perfect Selection 3 (フラワーコミックススペシャル)感想
ル=グウィンのSFからつい脱線、寄り道。11人いる!は最初に読んだのも文庫本。今手元にあるのも文庫本なのだけど、さすがに線の細くて台詞の多いモトさんの作品を小さな画面で読むのは、辛い年頃になってしまった。この萩尾望都自選のセレクションは大型本でとても、とても読みやすかった。それに、やっぱり迫力が違う。そして、やっぱりフロルがかわいい。愛すべきキャラクターだ。大昔、元気者のフロルが第二次性徴を迎えて麗しの乙女になる続編を延々脳内で想像して楽しんだのも、よい思い出。。。
読了日:05月28日 著者:萩尾望都

ロカノンの世界 (ハヤカワ文庫 SF ル 1-5)ロカノンの世界 (ハヤカワ文庫 SF ル 1-5)感想
面白かった。萩尾望都の表紙がとても美しい。物語は、SFと神話世界が融合する独特なファンタジー世界を構築し、萩尾望都のSFと強い親和性を感じた。(というか、萩尾望都が影響を受けたのだと思うけど。)主人公と友人(王/勇者)と従者と矮人というパーティによる未知の世界の踏破は、トールキンにも通じるファンタジーの王道。そこに、ハイニッシュ・ユニバースの人間が光速の壁を越えられないという独自設定が加わり、主人公ロカノンの苦悩と孤独が説得力を持って迫ってくる。主人公の性格が抑制が効いていて、物語に深みを与えていた。
読了日:05月23日 著者:アーシュラ・K・ル・グィン

パウル・クレー作品集 詩と絵画の庭パウル・クレー作品集 詩と絵画の庭感想
クレーの絵をこんなにまとめて見たのは初めてで、もったいないので少しづつ見ている。なぜクレーを手に取ったかというと、萩尾望都のメッシュ スペシャルエディションが書店の店頭に積んであったから。たしかメッシュがクレーの絵を気に入る話がなかったっけ・・・・と連想がつながって。色彩が美しい。クレーってこんなにいろんな作風がある人だったのね。一枚一枚をじっくり見ていたいけど、150ページの『魚の絵』は特に好き。143ページの『野いちご』もどきっとした。119ページ『夢の都市』も。
読了日:05月21日 著者:黒田和士

永山裕子作品集 ひかりの下で永山裕子作品集 ひかりの下で感想
お名前は存じ上げなかったけど、水彩画の画家さんです。美しいものを見たくなって書店にGOして,出会い頭に我が家にお迎えした画集。色が空間に滲むような華、ガラスの質感、花器に張られた水の存在感。現実が幻想に溶け込んでいく瞬間を捉えたような、作品の数々でした。とにかく色が綺麗で。自分もこんな絵が描けるようになれたらよかったのに!とちょっと羨望が湧く。
読了日:05月21日 著者:永山裕子

夜明けの唄 6 (from RED COMICS 072)夜明けの唄 6 (from RED COMICS 072)感想
ミカエルの件が、かなりなし崩し的に悲劇的結末を迎え、南の覡エルヴァの心に大きな傷を残す。アルトは出自の秘密を抱え不安に押しつぶされそうに。そんな二人が身と心を温めあう、南の岬の小さな家の小さな寝床。些細な暮らしが尊い。世界の謎解きはこれから。黒海の正体も今だわからず。
読了日:05月21日 著者:ユノイチカ

10DANCE(8) (ヤンマガKCスペシャル)10DANCE(8) (ヤンマガKCスペシャル)感想
ショックと混乱で棒立ちの杉木ーーー!をWeb連載で読み、その後長らくお預けの苦しみを喫した。コミックスだとそんな場面もするする読めて幸せだ。一体私は何を読まされてるんだ!とあまりのセンスオブワンダーにくらくらする。今回は涙が。ノーマンの滂沱。杉木の宝石のように散るキラキラ涙。もらい泣きして涙。ラスト2ページ目の杉木が別の漫画みたいになってるゾ。愛は人を変えるね〜。手から伝わる想いが画面から溢れてました。いやなんかすごかった。さて、ここから10DANCEにばく進するのか。すでに次巻が待ち遠しい。
読了日:05月21日 著者:井上佐藤

世界の合言葉は森 (ハヤカワ文庫SF)世界の合言葉は森 (ハヤカワ文庫SF)感想
ゲド戦記から評論を経由して、ル=グウィンのSFに着手。この本を最初に手にとったのは偶然。刊行順に読むより行きつ戻りつの方が面白いかと思って。『世界の合い言葉は森』と『アオサギの眼』の中編2本を収録。ハイニッシュ・ユニバースの一冊。読みながら思ったのは、これSFである必要性全然なさそうだな、と。中世とか大航海時代の新大陸とか舞台でも内容的には全然いける。ル=グウィンらしい説教がましさ(笑)と道徳読み物っぽさがあり、私的にはセンスオブワンダーはなかったかな。強いていうならSF寓話。細かくはブログの方に。
読了日:05月13日 著者:アーシュラ K ル グィン

読書メーター

2025年5月26日月曜日

0556 ロカノンの世界(ハヤカワSF文庫版)

書 名 「ロカノンの世界」
原 題 「Rocannon's world 」1966年
著 者 アーシュラ・K・ル=グウィン    
翻訳者 小尾 芙佐     
出 版 早川書房 1989年5月
文 庫 217ページ
初 読 2025年5月18日
ISBN-10 4150108234
ISBN-13 978-4150108236
読書メーター 
https://bookmeter.com/reviews/128057332

 ル=グウィンのデビューSF長編。(なにかの解説に「処女長編」って書いてあったけど、ル=グウィンはそのような表現嫌がりそう(笑))
 ハヤカワ文庫の表紙は萩尾望都で、これがとても美しい。そういえば、SFファンタジーというような作風は、萩尾望都、竹宮惠子などとの同時代性を感じる。実際には大泉組が影響をうけた側だろうと思うが。『銀の三角』とか『マージナル』のような萩尾望都の絵柄で、物語が脳内再生される。神話世界を生きている惑星と、そこに到来した地球(=ハイン)文明、SF的要素が融合した、異世界ファンタジーである。
 第一部は、ある(未開の)惑星の、民俗的伝承から始まる。
 そこで描かれるサファイヤ(たぶん)の首飾りは、初期の探検隊が星から持ち出し、別の惑星にある博物館に収められていた。その首飾りを取り戻すために、神話世界の女王たる美しい女性が、まさに時空を旅してロカノンの元を訪れる。
 一人の異郷の美しい女性に心惹かれた民族学者が、再びその惑星の調査に訪れる。古典SFらしい、光速旅行による時間の遷延が、物語の重要なファクターとしてうまく取り込まれている。また、超光速航法は開発されてはいるが、生物は超光速航法には耐えられず、光速の壁を越えることはできない、というル=グウィンのハイニッシュ・ユニバースの独自設定も面白い。
 一人の成熟した民俗学者である地球人(血統的には純粋なハイン人)のロカノンが、異星民族の調査中に、突然正体不明の敵からの攻撃で仲間と船を失い、母星との連絡手段も失われてしまう。鉄器ー青銅器時代の発展段階の未開な異星にたった一人で取り残された状態から、起死回生のために、現地人の勇者や従者や矮人を連れて、未知の土地に旅に出る。主にロカノンの視点で語られる未開の惑星が、ル=グウィンの手によって色彩も鮮やかに、空気も芳しく描き出される。ロカノンの驚異的な体験や、筆舌に尽くせぬ心象をごく控えめな筆致で描き、ラストでは、この惑星でロカノンがどのように最後の時間を過ごしたのかは読者の想像に委ねられ、読者はその余韻に漂うことになる。
 ロカノンがテレパシー能力を獲得するくだりなんかは、ちょっとご都合主義な感じがしないでもないが、十分に許容範囲。
 読み進めると同時に、萩尾望都を再読したくなった。今時の(?)SFらしいメカニカルなSFとは一線を画する世界観は、ちょっと郷愁めいたものを感じるし、夢中になって萩尾望都を読んでいた、〇十年前を思い出す。

 先に読んだ、『世界の合い言葉は森』は、どこか説教がましい感じがあって、あまりのめり込めなかったが、この作品は十分にセンスオブワンダーを感じる。これが、(初期の)ル=グウィンのSFか。SFと、ファンタジーと、童話を混ぜて練り上げたような、独特の読み応えがとても面白かった。

2025年5月17日土曜日

0555 世界の合言葉は森(ハヤカワSF文庫版)

書 名 「世界の合言葉は森」
原 題 「THE WORD FOR WORLD ID FOREST」1972年
    「HE EYE OF THE HERON 」1978年
著 者 アーシュラ・K・ル=グウィン    
翻訳者 小尾 美佐/小池美佐子     
出 版 早川書房 1990年5月
文 庫 391ページ
初 読 2025年5月11日
ISBN-10 4150108692
ISBN-13 978-4150108694
読書メーター 
https://bookmeter.com/reviews/127873328

 ゲド戦記から、評論やエッセイを経由して、ル=グウィンのSFに着手。この本を最初に手にとったのは、ただの偶然。たまたま、Kindle版をスマホにダウンロードしていたから。刊行順に読むより、行きつ戻りつ読んだ方が面白いかと思って。
 この本には、『世界の合い言葉は森』と『アオサギの眼』の中編2本を収録。うち、『世界の〜』はハイニッシュ・ユニバースシリーズの一篇。『アオサギ』の方は多分独立した小説だと思われる。
 ちなみにハイニッシュ・ユニバースとは、ル=グウィンが創作したSF世界。本作中にも登場するハイン人が、過去に宇宙に植民して人類を播種し、それぞれの植民星で人類が個別に進化した、とする世界。詳しくはこちらのwikiを参照のこと→ ハイニッシュ・ユニバース

 ところで、このハヤカワの文庫本裏表紙のあらすじが酷い(笑)。

 「森がどんどん消滅していく———植民惑星ニュー・タヒチでは・・・(中略)。利益優先の乱開発で、惑星の生態系は崩壊寸前。森を追われた原住種族アスシー人は、ついに地球人に牙をむいた! だが、圧倒的な軍事力を誇る地球人に、アスシー人の大集団も歯がたたない。二つの知的種族とその文明の衝突が産む悲劇を、神話的なモチーフをたくみに用いて描き上げる・・・」

 どこがどう酷いのか、説明しがたいほどに酷い。こういう話じゃないよ。ぜんぜん違う。侵略者と被征服民、強者と弱者、正義と悪、そういう二項対立は、ル=グウィンが一番嫌うところだと思う。以下、感想。

◆世界の合言葉は森◆
 植民惑星、原住民、植民軍。“船一隻分の女が新着。繁殖用女性、品質優良のニンゲン212頭。ピチピチはちきれそうなベッド向きのボイン212人”ときたもんだ。なんだかすごいものを読み始めたぞ。と、冒頭うろたえる私(笑)。

 “野蛮人はつねに文明人に道を譲るべきだ。さもなきゃ同化するか。”

 よもやこのデイヴィッドソン大尉が主人公ではあるまいな?とドキドキする。なんだこの植民地主義の男根主義のイカれた男は! アメリカ大陸に押し寄せた侵略者はこんな感じだったんだろうか? 脳内のデイヴィッドソン大尉が、開拓時代の南軍の軍服や、西部劇の騎兵隊の制服で脳内再生されちゃって。インディアン皆殺しだヒャッホー!って感じを地でいく偏見ゴリゴリの勘違い男だが、なまじか頭がよく、信念があり、ありとあらゆる事象を自分に都合良く解釈。でも実際にもこういった人間はいる。ほら、某大統領とか、某県知事とか。現実味があるのが、いっそ恐ろしい。

 「メカ〇〇」とか、「ロボ〇〇」とか、「ロケット船」といった用語も今はなっては古色蒼然、「テレテープ」っていうのは、ビデオテープのようなものだろうか。音声記録はカセットテープ! 2001年宇宙の旅のハルの記憶媒体が磁気テープだった時代だもんな、などと思いながら、でもたとえば、ホーガンの『星を継ぐもの』なんかも1970年代SFだけど、ノートPCに類するガジェットなんかの空想のテクノロジーは、現在でも読むに耐えるものに仕上がってるし、これは、やはり作者の方向性の違い、というかテクノロジーへの関心の高さの違いかも? まあ、ル=グウィンだし、遠未来のテクノロジーを描くことが主題ではないし。なんとか1章を突破して、ようよう2章目から、目前に広がるル=グウィンの世界観!森!森!大森林!
 
さてここから読み進めるのに登場人物一覧と用語集が必要だ。

デイビッドソン大尉———上記、第1章のイカれ男。マッチョな男根野郎。だが、なまじ頭が
            良く、認知は歪んでいるが、リーダーシップもあり、行動力も十分
            にあるのが最低。
ラジ・リュボフ大尉———植民軍の研究者。人類学者。異星社会学、異星文化人類学って感じか。
ゴス      —————ドン大佐の部下
ベントン    —————ドン大佐の部下
ジョシュ・セレン ———技師
ムハメッド少佐  ———植民開拓地ニュー・ジャバの指揮官
ディン・ドン大佐————植民星ニュー・タヒチ(惑星41号)の植民軍現地司令官
ニュー・タヒチ  ———彼らが植民している惑星の通称。地球から27光年離れている。
            この星は大部分がが海で、いくつかの大きめな島があり、密林で覆わ
            れており、人類は、森林資源(材木)を目当てにこの惑星に植民した。
ユング司令官   ———星間光速宇宙船〈シャックルトン号〉指揮官。
アンシブル    ———星間通信装置。光年間の空間で即時通話を可能とする技術。
            この世界ではジャンプ航法やワープ航法はなく、宇宙船の最高速度
            は光速。通信だけが、即時通信出来る設定。
スペッシュ    ———作品中では定義が判らなかった。他の作品読んだら判るか?
            植民軍の中の技術職を指しているのか?科学者のことかも。
クリーチー    ———元々は基地の底辺労働者の意。ここでは原住民(アスシー人)にた
            いする蔑称にも。
ヒルフ      ———現地人の意か? ハイニッシュユニバースの先行本を読むと判るっ
            ぽい。
ルペノン     ———星間輸送船〈シャックルトン号〉でこの植民惑星〈惑星41号〉に
            やってきたハイン人。肌が白く、背が高い。星間連盟政府に所属。
オル       ———セチア人。毛深い。灰色、小男 ルペノンと同じくシャックルトン
            号に乗船していた。
セルバー     ———アスシー人。アスシー人は身長1m弱、緑色の体毛を持つ、アスシー
            の環境に適応して進化した人類。植民者の人間(アスシー人による
            とジンゲン)のリュボスと友誼を結び、お互いの言語を学び、辞書
            を作るなど、リュボスの研究にも貢献。
「神」(アスシー語)——新しい知識や概念をもたらすもの。指導者。アスシー語の神には通
            訳の意も含む。

 地球人側からすれば、植民惑星の開拓だが、実際のところ、侵略と原住民族の殲滅にほかならない。そもそも、デイヴィッドソンのような男を植民軍の先鋒に加えたのが間違いとしか。
 この男が少しずつ軌道がずれて、さらにおかしくなっていくのが、現実的すぎる。どこでどうやったらこの男を止められるのか。作中ではついに止められないけど。こんなのが現実にいたらどうやって対処しよう?と真面目に考えたくなる。

 人間と異星民族のアスシー人とがお互いに理解しあう、とかハイン人であるルペノンであれば融和の導きは可能かも、などという予定調和にもちこむ気は、ル=グウィンにはさらさらなく、異文明の相互理解の難しさが読者の目前に投げ出される。セルバーは人間から「殺人」を学び、行動に移すことで、アスシー人の『神』となる。アスシー人は人間から「殺人」という行動様式を取り込み、この星の文化はこれからどのような局面に向かっていくのか。彼らは平穏で安定した生活を取り戻しうるのか、殺人を知った人々は、もとの現実界と夢見界を行き来する生活に戻ることができるのか。

 彼らの行動様式を外形的に類推はできても、その基盤にある精神生活を根本的に理解することは、わたしたち「ジンゲン」には不可能だ。理解できない。そして、今我々が「理解している」と思っている、この地球上のアレコレだって、実際に理解できているかは怪しいものだ。西欧人にとって、たとえば日本の文化、イスラム文明、何一つ、本当には彼らには理解できていないのではないか。むろん、逆もしかり。私にとっても。そんな疑問を投げかけられる作品だ。

◆アオサギの眼◆
 地球の植民惑星であるヴィクトリア星。そこは、植民地というよりは、流刑地だった。過去2回の植民船の到着。1回目は100年以上前で、南アメリカ大陸から、犯罪者がおくりこまれたよう。2回目は50年くらい前で、このとき送り込まれたのは非暴力・不服従の平和主義者たち・・・いわば政治犯だった。それぞれの植民者達は、シティとタウンの二つのコロニーを形成。お互いに経済的に依存しているが、タウン(後からの植民者)が食料生産を担い、非暴力平和主義のタウンの人々は、先住者の支配を受け入れ、シティ(先住者)は議会を持ち、支配者層を形成している。ル=グウィンは、そんな舞台を作り、女性の自立や『主義』のぶつかり合いを描く。・・・・てか、ル=グウィンが描きたいものを描くための世界の構築なので、けっこう作り物感があって、あまり、没入感は持てなかったのがすこし残念。

 ◆旧世界の代表、マフィアのドンみたいなイメージのファルコ(父親)
 ◆目覚めた女性ラズ(娘)
 ◆夢想家で情熱家で活動家のレヴ(若者)。非暴力不服従の平和主義者

 レヴが語る「理想」という言葉がどうにも胡散臭い。というよりは青臭い? 理想を語る西欧人をとことん信用できないのは、日本人の性かもしれないけど。
 この、現実の暴力を知らない人間たちが、根なし草のようで頼りなく曖昧模糊としている「平和・非暴力」を大義名分にすることの危うさ。そして、大勢の人間から崇拝を集め、人々を「指導」するという優越感や自己陶酔感の危なさ。

 理想や大義を語ることで、周囲の一般大衆から一段高い場所に立ち、注目や崇拝を集め、他人を指揮することの麻薬的な効果が、暴力による優越感と大差ないことを、一人、異邦人のラズだけが看破している。

 しかし、まあ、総じて面白くはあるのだけど、なんとなく、そこはかとなく、説教臭いんだよなあ。ル=グウィンらしいとも思うけど。ちなみに、『世界の〜』はヒューゴー賞を受賞している。

2025年5月10日土曜日

介護日記的な・・・その15 天気が悪い

 天気が悪い日は、憂鬱だ。
 なぜかというに、母が窓から空を見て、必ず言うのだ。

「なんだかおかしい」
「こんな天気の日は、いままでに無かった」

と、言い募る。

 ・・・・・いや、だたの雨の日ですがな。

「ただの雨の日だよ〜。日本は四季があるからね。雨の日もあれば晴れの日もある。春に雨降らなかったらお米も育たなくて全国のお百姓さんが困るでしょ?」

「いや、それでも、こんな天気はいままでで初めて・・・・」 以下リフレイン。

 リフレインするだけでなく、10分とか30分ごとに、窓の外を見る度に、同じ会話になる。

 イラッとしてはいけない。あくまでも軽く、あ、かるく。ファンシイダンス・・・・

 ああ、ファンシイダンスを読み返したくなったな。そういえば、我が家にファンシイダンスはなかったっけ? ううむ。昔揃えて、一度古本屋に売っぱらい、その後、再入手したようなしてないような。。。。

 母は軽い侵入恐怖や視線恐怖っぽいところもあり、窓の外から覗かれる、と頑なにカーテンを閉めたがる。
 とはいえ、昼日中から暗い室内に閉じこもるのはいろいろと良くない。

 で、私はカーテンを開ける。そうすると、空が見える。で、また繰り返す。

 電気を惜しんで、照明を消したがるのも、地味に困るんだよな・・・・

 カーテン締めて、明かりもあまり点けず、薄暗い家の中に一人でいるのは、どうもよろしくない。まあ、平日はデイサービスに行っているので、そうなるのも日曜日だけとはいえ。

2025年5月4日日曜日

2025年4月の読書メーター

 3月下旬から、講演録『「ゲド戦記」を’生きなおす’』(国立国会図書館からお取り寄せ)に取りかかり、あれよあれよという間に2週間くらにになり、こりゃダメだ。となって、もっとル=グウィンを知るために『いまファンタジーにできること』に着手。
 しかし、あまりの新年度の忙しさに、夜中に家に帰って1行読んでいる間に寝落ちする日々。
なんとか、読了できてよかった。
 しばらく、ル=グウィン月間続きます。

4月の読書メーター
読んだ本の数:5
読んだページ数:1452
ナイス数:391

いまファンタジーにできることいまファンタジーにできること感想
ル=グウィンの講演録『「ゲド戦記」を‘生きなおす’』が結構難しく、読むのに難儀していたのだが、この本に収録されている『YA文学のヤングアダルト』がほとんど同じ内容を平易に語っている、と気付いて大変有り難かった。一番ページを割いているのは、『子どもの本の動物たち』で、沢山の動物文学が紹介されており、全部読みたくなって困った。詳細なレビューは、ブログの方に書いた。感想はひとことでは言い難いが、ル=グウィンの人柄が感じられる、ユーモア溢れる本だった。
読了日:04月30日 著者:アーシュラ・K・ル=グウィン

ドラゴンフライ: ゲド戦記 5 アースシーの五つの物語 (岩波少年文庫 592 ゲド戦記 5)ドラゴンフライ: ゲド戦記 5 アースシーの五つの物語 (岩波少年文庫 592 ゲド戦記 5)感想
外伝集と著者によるアースシーの解説書。ゲドも少しだけ登場する。連作というほどではないが、すこしづつ話がつながっている。オジオンとその師匠が大地震からゴントを守った話が良い。物語全体を通して、オジオンが一番優れていて大賢人に相応しかったんじゃ、と思うのは私だけじゃ無いはず。対称的にゲドってそんなに立派だったんかい?とも思う。(『帰還』を読む以前にそう思う。)『アースシーの風』にも登場するアイリアンがトリオンを滅ぼす話は、あまりにも瞬殺。ほぼ『帰還』にでてくる田舎者の魔法使いと同じだった。
読了日:04月13日 著者:アーシュラ・K. ル=グウィン

ゲド戦記外伝ゲド戦記外伝感想
ハードカバーとソフトカバーとKindle併用で読了。この利点はどこででも読めること。難点は金がかかること。感想はこちら→ https://bookmeter.com/reviews/127181820 ロングレビューはこちら→ https://koko-yori-mybooks.blogspot.com/2025/04/0553.html
読了日:04月09日 著者:アーシュラ・K・ル=グウィン


心おどる あの人の本棚: NHK趣味どきっ! (NHKシリーズ)心おどる あの人の本棚: NHK趣味どきっ! (NHKシリーズ)感想
放送火曜午後9:30-10:00ってほぼ確実に職場にいるような気がするけど、このテキストだけでも十分。ジブリプロデューサーの鈴木敏夫氏の自宅が素敵。真似できるもんじゃないけど。京極夏彦さんの魔が棲んでそうな書斎は圧巻すぎる。だがしかし,人様の本棚より我が本棚だ。目指せ積読消化。
読了日:04月05日 著者:久住昌之,池澤春菜,角幡唯介


軍人婿さんと大根嫁さん 5 (芳文社コミックス/FUZコミックス)軍人婿さんと大根嫁さん 5 (芳文社コミックス/FUZコミックス)感想
今作は、極めつけに美しいページがありました。胸が締め付けられる。ああ、こんな風に愛されたならば。こんな風に尽くせたならば。麗しい夫婦は切ないおとぎ話のようです。オススメです。
読了日:04月01日 著者:コマkoma

読書メーター

介護日記的な・・・その14 洗濯物の攻防は引き分け。それよりも・・・(第2回戦)

 ご報告である。
 洗濯物については、洗い替えを増量することで、①次週分のセット→②洗濯/干す→③取り込んで畳んで仕舞う  が可能となり、概ね順調。だが、朝洗濯機を回して干して、午前中に買い物に出ていた間に取り込まれてしまった(T-T) (一部、まだ湿っていた。)おまけに、一部をどこかに仕舞われてしまって、家中探した。何のことはない、タンスに仕舞われていたのだけど。まあ、大方想定内と言えなくもない。

 それよりも。

 昨日の夜は、私は遅かったのだ。遅い時間に母宅に到着し、夜の間に、汚れ物をチェックして、翌週用着替えセットを作り、なんなら読書もして・・・・
 それなのに、普段は朝寝坊もするくせに、今日に限って早朝5時に起きだす母。
 仕方ないので、私も起きた。午前中の時間がたっぷりとあるのは良いことだ。
 洗濯もの、朝食、服薬チェックと薬の補充、デイサービスの連絡帳の確認と家での記録を書き、ストック用のご飯を炊いて一食分づつパック詰め、室内の整理、食料品の買い出し、郵便局・・・・全部午前中に終わった。終わったぞ!!

 そして、午後にダウンした。

 いったいなんであの人、あんなにエネルギーあるんでしょうね? 認知症高齢者あるある、らしいですけどね。

2025年5月3日土曜日

0554 いまファンタジーにできること 

書 名 「いまファンタジーにできること」
原 題 「CHEEK BY JOWL」2009年
著 者 アーシュラ・K・ル=グウィン   
翻訳者 谷垣 暁美   
出 版 河出書房新社 2011年8月
単行本 210ページ
初 読 2025年4月30日
ISBN-10 4309205712
ISBN-13 978-4309205717
読書メーター 
https://bookmeter.com/reviews/127612072

 私が、諸々の本の感想の中でル=グウィンについて批判的なことを書いたとしても、ル=グウィンの作品が魅力的であり、ル=グウィンその人が非常に知的で、誠実で、勤勉な人であったろうことには疑いの余地はない。ついでに念を押すが、私はル=グウィンの作品のファンである。その点は最初に言っておかねば。
 ル=グウィンは偶像ではない。彼女の時代と場所に生きた素敵な女性である。この本の訳者後書きに、私は全面的に同意している。

 なお、訳者によるあとがきによれば、この本の原題「CHEEK BY JOWL」はちょっと不思議な言葉で、CHEEKもJOWLも頬を表す言葉、ただしCHEEKは人間のみに用いられJOWLは動物にも用いられる言葉なのだとか。チークキス、ただし人間と動物との。そんなイメージだろうか。この語感を日本語に引き写すことは難しい、との判断で、日本語版のタイトルは、原著のサブタイトルから取ったそう。薄めの本だと侮って手にとったが、いやはや中身は濃厚でした。

■ファンタジーについて前提とされているいくつかのこと
*業界人の集まる大規模なブックフェア、ブック・エキスポ・アメリカでの「児童文学を語る朝食会」2004年4月のスピーチ
 ファンタジーの誤った定義(1)登場人物が白人 (2)中世っぽい世界 (3)善と悪の戦い(バトル・ビトゥイーン・グッド・アンド・イーブル=略してBBGE)。その行動は(敵も味方も)みんな同じ!思慮のかけらもない暴力がひっきりなしに続く。そうではなくて、本当のファンタジーに可能なものがある。それを大切にしないと。という話。

■内なる荒野
*ケイト・バーンハイマー編「鏡よ、鏡——女性作家たちがお気に入りのお伽噺の世界を探求する」の第2版(2002)初出したものを修正。『ファンタジーと言葉』(2004)にも収録。
 誰もが知っている『眠れる森の美女』をひっくり返す。全てが眠っている「しんとした場所」それが、王子のたった一度のキスで破壊される。ひとり満ち足りて眠る少女は、王子に起こされ、日常の喧噪の中に引き戻され、当たり前のようにいきなり彼女を目覚めさせた目の前の王子と結婚させられる。(当然のごとくに恋に落ちて。)この鮮やかな逆転。茨に守られた眠れる王国の静けさとの対比がすごい。さらに、ル=グウィンの『密猟者』には「少年」が登場する。しかし、あのお伽噺は、依然としてそこにあり続ける。
 
■ピーターラビット再読 
*「空想上の友だち」のタイトルで、イギリスの週刊誌『ザ・ニュー・ステイツマン』2006年12月18日号に掲載
 “子どもの頃読んで、そのあとの長い人生にときどき帰っていく一冊の本、あるいはひとつのお話"・・・・私にとっては、まさに『ゲド戦記』がそうなのだけど、ル=グウィンがピーターラビットの絵本を挙げるからには、もっと子供のころの本を考えないといけないだろうか? そしてその子供向けに書かれた本は、ファンタジーである可能性が高い。モダニズムが米英文学の中でファンタジー文学に与えた「子供向け」という刻印のひどい影響について、ル=グウィンの舌鋒は鋭い。今一度、ル=グウィンの手ほどきで児童文学について紐解きたくなった。ルイス・キャロル(アリス)、ケネス・グレアム(たのしい川べ)、ミルン(くまのプーさん)その他もろもろ、そしてトールキン。大人の読者も多い。ファンタジーは年齢を超越することができる文学なのだ。
 「ハリー・ポッター」現象は、改めて、大人の意識をこれまで拒絶していたファンタジーに向かわせ、人々はファンタジーを読む歓びを再発見した。(その点だけは、評価してやらなくもない、というル=グウィンの無言の声が聞こえてきそう・・・)

■批評家たち、怪物たち、ファンタジーの紡ぎ手たち 
 そもそも、ル=グウィンに「素晴らしい本がある。絶対読むべきだ!」と言ってハリー・ポッターを薦める連中の、怖れを知らぬこと!
 「初めてその言葉を聞いたときは、白状すると、わたし自身が書いた『影との戦い』を読めといわれているのだと思った。」と書くル=グウィン。ハリー・ポッター現象を否定するわけではない。あの人気は本物で、シリーズをベストセラーにする装置が動き始めたのは、そもそも人気があったからである。
 しかし、批評家連中は、ハリー・ポッターを褒めそやすことで無知をさらけ出した。モダニズムが文学研究からファンタジーを遠ざけたおかげで、「大人の」書評家や批評家はファンタジーを読む素養をまるで失ってしまっていた。だから、実際には、紋切り型で、模倣的でさえあるハリー・ポッターを「独創的」だ、などと評価することができたのだ。・・・延々ハリー・ポッターの評判を聞かされたり、感想を聞かれたりしたであろうル=グウィンの憮然とした表情が想像できそう。ハリー・ポッターを最初に読んだときに、「こんなのファンタジーじゃない!」と叫び、心底『ゲド戦記』を読みやがれ!と思った私は、これを呼んで我が意を得たりとニヤニヤしている。この論説の前半部分は、批評家に対して、もっと勉強しろ! という罵倒を極めて穏便に(?)書き綴っているようにも見えるが、しかし、それだけでは終わらない。後段は、ファンタジーそのものについて懇切丁寧に我々に教えてくれる。もちろん、そちらの方が重要である。
 また、p.53の「訓練を受けていない人がファンタジーを論じようとすると、ファンタジーを合理化することになりがちだ。」以降の一連の文章は、最近、『「ゲド戦記」を‘生き直す’』という彼女自身の講演録を読んで、モヤモヤしていた私にとっては、示唆に富んでいるように感じられた。
 「・・・そういう合理化は、ファンタジーを拒絶するもの、説明することによって消し去るものだ。ファンタジーにふさわしい読み方をすることによってのみ、読者はファンタジー作品の道徳的な立場や社会との関わりがすこしずつわかりはじめるのだ。」


■子どもの本の動物たち 
*2004年「アーバスノット記念講演」の講演者として、全弁図書館協会の集まりで話した原稿を元に加筆されたもの。
 ル=グウィンはこの本の半分以上のページをこの項に割いている。「わたしが提供できるのは分類だけだ。」本人が書いているように、ル=グウィンはこの論説で、なにかを証明したりはしていない。極めて雑にいうと、「私はこう考えるー各論」と「私はこう考えるー総論」だけで構成されていて、各論で総論を上手に説明できているかというと、私にはあまりそうは思えない。しかしそれよりも、古典的な動物物語(動物が主人公のものから、動物が登場するものまで)ひとつひとつの紹介がとても生き生きとしている。これまで私が読んでいない本がほとんどで、子どものころにやり残したことがこんなにあったのか!ととても残念なきもちでいっぱいだ。とくに『バンビ』。私はディズニーが昔からあまり好きではなく、ディズニーアニメ原作というだけで、この本は読む対象から除外していた。なんて残念な!

 しかし、つい面白いと思ってしまったのは、以下の一節。
「・・・この本の長所を味わうために、この言語道断の性差別主義をがまんする努力をしてもいいのかもしれないが、わたしはどうしてもがまんできない。アダムズがいんちきをしているからだ。彼は男性優位主義のファンタジーを書きたかったのだ・・・・というのは、この本が刊行された1972年には、露骨な男性優位主義はだんだん受け入れられなくなってきていたのに、アダムズは動物の行動だということにしたおかげで、咎められずにやりおおせたからだ。・・・・」(p.115)

 なるほど、『影との戦い』から『さいはての島へ』までが書かれたのが1968年から1972年である。この論説は2004年の講演の原稿に加筆されたものであるが、これは、1990年に『帰還』を書き、1992年8月にオックスフォード大学で『ゲド戦記を"生き直す"』の講演を行い、そして2001年には『ドラゴンフライ』と『アースシーの風』を世に出していなかったら、とてもではないがル=グウィンは、「彼は男性優位主義のファンタジーが書きたかったのだ」などという批判はできなかっただろうな、と思うのだ。アダムスがル=グウィンと違うのは、アダムズが書いた『ウォーターシップダウンのウサギたち』が、参考文献にあげた研究書の内容とは真逆のことをしゃあしゃあと、さも事実のように書いているということで、もちろんそれは、読者に対する、そして動物たちに対する重大な裏切り行為である。とはいえ、「男性優位主義がだんだんと受け入れられなくなってきていた」1970年前後、明らかにその世界の価値観が男性優位主義であるとしかいいようのないゲド戦記を書いてしまった女性の、しかもフェミニズムに目覚めた作家としては、その方向性を修正せざるを得なかったに違いない。
 だが、それをあのような形ですべきだったのか、という一点については、わたしは肯定しきれないし、彼女自身も、他の作家の作品に対してはそう言っているのだ。

「ファンタジー作品で、自分がつくった規則を変えたり、破ったりすると、物語の一貫性がなくなり、つまらないものになる。」(p.139)

 まさにその通りで、ゲド戦記で行われた世界観の「改訂」は、物語のファンタジー性を揺らがせ、その世界に没入していた読者を揺り動かし、現実の世界に引き戻してしまった。『ゲド戦記』はジェンダー的な正しさを手にいれた代わりに、ファンタジー性が大きく損なわれた。少なくとも、私にとってはそうだった。私は女性であるが、本を読んだ10代の初めのとき、男であるゲドに自己を投影することは全く難しいことではなかった。子供は、ウサギにもネズミにも、馬にもなれる。ましてや性別の境など、何ほどでもない。本を読んでいるとき、私はゲドだった。そして、ゲドが作者の手によって損なわれたとき、私の子供時代の何かも損なわれた。それを行うことは、作者の権利ではない、と私は思う。

■YA文学のヤングアダルト 
2004年に、ヤングアダルト向けフィクションの分野でしてきた仕事に対して、全米図書館協会からマーガレット・A・エドワーズ賞を受けた際のスピーチのために書かれた原稿
・・・という小論なのだが、例の私が難解だと思った『「ゲド戦記」を‘生き直す’』の原稿とほぼ同じ内容が、ティーンや一般向けに、ごく噛み砕かれた平易な表現で書かれているようだ、と気づいたので、大変にありがたい読み物だった。なるほど、ル=グウィンはそう考えていたんだな、というのを再確認できた。まあ、このゲド戦記の世界観の改変については、一番正しい形容は、「他人がやれば不倫、自分がやればロマンス」というのがどうしても思い出されてしまうのだけど・・・・ねぇ。

■メッセージについてのメッセージ 
『チルドレンズ・ブック・カウンシル・マガジン』2005年夏号掲載に加筆
 ファンタジーは何かの(道徳的な)メッセージを伝えるためのものではない。ファンタジーが貴方につたえるのは物語だ。というメッセージ。ウィットに富んだタイトルがとても素敵。

■子どもはどうしてファンタジーを読みたがるのか
『タイムアウト・ニューヨーク・キッズ』誌2004年6~9月号「クエストワード・ホー(いざ、冒険へ)」という見出しのコラムに掲載されたもの。
 「ティーンエイジャーたちは、自分の住む世界を理解し、意味を見出し、その中で生き、道徳的な選択をするために猛烈な意識的努力をする。その苦闘は往々にして、ほんとうに死に物狂いのものだ。彼らは助けを必要としている。」p.115)
 その助けになるものがファンタジーである。現実の世界では難しい冒険を、物語は体験させてくれる。その中で、ティーンエイジャーは、自分を自分で導く機会が与えられる。とはいえ、そういうファンタジーの魅力は、商業主義にとっても大いに魅力的で、世の中には複製され矮小化され、単なる闘争に善玉と悪玉の仮面を被せただけの粗製濫造された偽物が溢れている。だが、注意深く探せば、本物を探し出すことができるだろう。

2025年4月30日水曜日

ノート 「ゲド戦記」を“生きなおす” を読んで思うこと

雑誌「へるめす」1993年 No.45 岩波書店
タイトル「ゲド戦記」を“生きなおす”
著 者 U.ル=グウィン    
翻訳者 清水 眞砂子   
国立国会図書館 所蔵


 まず最初に、この文章は講演録であり、1992年8月にオックスフォード大学で開かれたChildren’s Literature New England(子どもの本の作家・研究者の団体。本部ヴァージニア州アーリントン)の大会で行われた講演”Earthsea Revisioned”の文字起こし(の翻訳)であることを押さえて置く必要があるだろうと思った。

 多分、この講演は、ル=グウィンが同業者や研究者に向けて行ったもので、同じコミュニティの人間には通じるウィットに富んだ内容を含んでいるのだろうと考える。そこに表現されたアレコレは、そういう文脈で捉える必要がある。特にこの講演録で特徴的だと私が感じたのは、“読者”の存在がほとんど感じられなかったこと。この文章だけを読むと、ル=グウィンは一体誰のために、なんのために創作しているのか、と疑問にすら思えてしまう。だが、彼女のエッセイ集などの別の書籍を読めば、当たり前すぎることではあるが、彼女がきちんと読者に向き合っていることが判る。

 この講演録は5月末に岩波書店から刊行される『火明かり ゲド戦記7』に収録されるとのこと。
 しかし、この論文は特殊な状況でごく限られた聴衆に対して語られたものであり、そのことを踏まえずに、一般読者に供されれば、読者に誤解を与えるのではないか、と若干、危惧している。
 先に読んだ、清水眞砂子氏の『「ゲド戦記」の世界』(岩波ブックレット No.683)も、清水氏の2回の講演会の内容をまとめたもので、そちらも内容のまとまりの無さや、ちょっと言い過ぎちゃった?って感じの部分もあり、1回限りの(ある意味言いっ放しの)講演と、あとまで延々と残る本では、取り扱われる情報の精度にも差があるであろうことは、書籍化の際には注意が必要だと思った。

 しかし一方で、ル=グウィンこの講演で語ったことは彼女にとって紛れもない真実である。
 『「ゲド戦記」の世界』の中で、清水眞砂子氏は、この講演録についてこう語っている。

————私はそれを早速読んだのですが、たしかに面白いものの、一方にだんだん不満がでてきまして・・・・・。「「ゲド戦記」の第4巻って、このスピーチよりもずっとずっと豊かなのに」と思ったんです。「こんなもんじゃないぞ」と。(中略)このスピーチの翻訳はいま、ちょっと手にはいりにくいかと思いますが、かつて岩波書店から出ていた『ヘルメス』の45号にのっています。私はここにこっそりのせました。第4巻をこんなにやせ細ったものとして読んでほしくなかったのです。
(『「ゲド戦記」の世界』清水真砂子著 岩波ブックレットNo.683 p.31-32)

————私の手許には、先程ふれた会議の講演録のコピーが届けられてきており、その中味をすぐにもみなさんにお伝えしたい、との思いが強くあります。けれど、それは少し時期を待って、別の場所で、ともうひとつの声が制止します。その声に従うことにいたします。(アーシュラ・K.ル=グウィン著 清水 真砂子訳『帰還 ゲド戦記4』岩波書店 初版あとがきより)

 ル=グウィンに深い尊敬を寄せている訳者をして、このように言わしめ、これまで大々的な刊行を控えていたこの翻訳を、今回世に出すことにしたいきさつやそこに込められた思いは、新刊の中で明らかにされるのだろうか。新刊刊行を目前にして、ついうっかり、『ヘルメス』45号に掲載されたこの講演録を入手してしまったので、ゲド戦記本当に最後の書の刊行を前に、感想やら、読んで考えたことなどをノートにまとめておこうと思う。


■アーシュラ・K・ル=グウィンという人について
 1929年生まれ。父はアメリカの著名な文化人類学者のフレッド・クローバー教授。母は作家で、『イシ——北米最後の野生インティアン——』の著者、シオドーラ・クローバー女史。夫は、フランス人の歴史学者で米ポートランド大学の教授をしているシャルル・A・ル=グウィン。

 私の母が1938年生まれなので、同時代と言えなくもない。なお、翻訳者の清水さんはル=グウィンより10歳年下とのことだったので、私の母と完全に同世代である。母達の世代の女性が自立して生きていこうとしたときの困難に思いを馳せる。ル=グウィンや清水眞砂子氏の「フェミニズム」はそういう時代の女性の経験が反映されたものだということを意識しないといけない。

清水さんは、この講演録の解説の中で、彼女が『帰還』を読んだ時の感動を、以下のように述べられている。
————私はこの作者に心から共感した。こみ上げてくる歓びにじっとしていられなくて、私はよく本を置いて部屋の中を歩き回った。それはまるで私の生きてきた日々を、そして抱くにいたった人生への、人々への、世界への思いをそのまま語ってくれているようだった。(中略) 私もまた“テハヌー”をようやく見つけ出していた。太平洋をはさんで東と西で、言葉もかわしたことのない見ず知らずのもの同士がほぼ同じ時期に同じことを考えていたこと。————

 同時代の女性として、極めて深い共感を持っていることが判る。それと対照的に、私にはル=グウィンの言葉は、実感や体感としては理解できないものも多い。彼女たちがジェンダーについて語るとき、その時代性や育った文化について考慮せずに理解することは不可能だ。

■まず、最初の印象として ――“読者の不在”
 この講演録を読んで、清水眞砂子さんが、「やせ細ったもの」とつい表現してしまったのも判る気がするのだ。なによりも、初読で感じるのは、ル=グウィンが、(男性の理論に基づく)批評家や専門家の評価を強く意識していること、そののちは「フェミニスト」の評価を気にしていること。それに比して、読者の存在感が皆無であること。いったい、ル=グウィンは誰のために、何のために、物語を書いているのだろう、と首をかしげたくなってしまった。しかし、それは冒頭に述べたように、この文章が、ごく限られた聴衆にむかって語られた講演であるからだろうと思う。

「芸術はジェンダーを超えてあるべきものだったのです。この無性性、あるいは両性具有性こそヴァジニア・ウルフの言った偉大なる芸術家達のあるべき心的態度でした。私にとってそれはきついことではあるけれど、まことにもっともな、永遠の理想のひとつといえます。」

 このように語るル=グウィンはしかし、それを評価する批評界を牛耳る力ある者達は男だったし、ジェンダーを定義していたのも男の視点 だった、と指摘する。そして、初期のゲド戦記3部作は、男性の視点で、男性に成り代わって、男性的なヒーローの物語を描いたからこそ、批評家に受け入れられた。また、子供むけの本として書いたからこそ、子供の面倒を見る女の役割を果たしていたからこそ、認められたと語る

 「女であり、芸術家である私もフェミニストを自任する天使たちときちんと向かい合わないままに勇者の物語を書き続けることはできなくなりました。彼女たちから合格点をもらうまでにはずいぶん長くかかりました。」 

 そしてゲド戦記の「改定版」を書いたのだと。
 この論文だけを読んでいると、ル=グウィンの世界にはまるで、批評家の男とフェミニストで活動家の女しかいないかのような気分になってくる。だけど、この物語にとって、本当の主人公は私達読者じゃないのか?とも思うのだ。

■作家が考えた以上に、ファンタジーの世界は豊かであること。
 一旦世に出して、読者に手渡された作品というものは、著者一人の思惑を超えた、複層的な豊かさを持つようになるものではないだろうか。
 清水さんは、「あなたの世界は、あなたが考えるよりはるかに豊かだ」と指摘したのは、私のいうこの意味ではないにしろ、本当にその通りだと思う。
 アースシーの世界は、多くの人に読まれ、共有され、確かに豊かな世界を形成していた。ル=グウィン自身も直観的な作家のように見えるが、彼女の前に立ち現れた世界は、多くの潜在的なものを反映し、ル=グウィンが言語化する以上のものを含んでいて、それが読者と共鳴したからこそ、ここまで世界的なベストセラーとして長く読み継がれてきたはずだ。

■読者の権利は存在するのか? それは著者とどのような関係にあるのか?
 読者は、作品をお金を出して買い、それを読むことに自分の時間を使い、そのイメージを自分の中に構築する。著作権はもちろん著者にあるにしても、読者はそのように作品を共有する権利を持っていると私は思っている。

 「自分が成長したから」「自分がより成長するために」「自分自身を解放するために」もしくは、「自分の発展を世に示すために」、数多の読者の投じた時間や読者がそこに感じている価値を足蹴にしてよいものではないと思うのだ。読者には自分のなかに取り込んだ物語に対して権利がある。この作品世界の改訂が、世の多くの読者に波風を立てたのは、ル=グウィンにとって、比較的、読者の存在が希薄だったからではないか、と感じた。 

 私は『帰還』が日本国内で出版された時に比較的すぐ読み、その作品世界の改訂を受け入れていた。多分、あの頃はまだ若く、柔軟性があったし、その一方で深くは考えず、与えられたものを飲み込んだのだと思う。3巻『さいはての島へ』を読んだのがはるか昔だっために、1巻から3巻までを細部まで覚えていなかったことも幸いした。今回まとめて再読した時の方が、違和感ははるかに強かった。

■片方を持ち上げるために、もう片方を墜としてはいけない
 『帰還』のストーリー全般については、さほど大きな問題は感じないし、良く出来た物語だと思っている。しかし、ゲドをあそこまで「墜とす」必要はなかっただろう、とは思うのだ。
 対立する二項があるとして、一方を持ち上げるために、一方を墜とすのはダメだ。 
 女をもり立てるために、男を貶める必要はない。いかに、物語の中で女が男に貶められていようとも。 
 しかも、前作との矛盾を作り出してまで、そうする必要はまったく無かった。 「さいはての島へ」の中で、ゲドは、こう言っている。 
 ———「だが、ハブナーにもロークにも、わしはもどるまい。もう、力とはおさらばする時だ。古くなったおもちゃは捨てて、先へ行かなければ。故郷へ帰る時が来たのだ。(中略) あそこへ、ひっそりと、ひとり帰っていく時が来たのだ。あそこへ行けば、わしもついには学ぶだろう。どんな行為も術も力もわしに教えてはくれないものを。わしがまったく知らずにきたものを。」(『さいはての島へ』)

 ゲドは、全ての力を失うことを受け入れ、ただの人として、故郷にかえり、これまでは知らなかった「ただの人としての生活」を知る時が来ることを、知っていた。望んでさえいた。そのために、竜の背にのって、ゴントに帰還したのだ。 
 「さいはての島へ」の続きのゲドであったなら、自分を卑下することもなく、だからといって自分の功績に縋るでもなく、ただ、淡々と力を失った自分と向き合い、新たに知るべきことを知ることに、喜びさえ見いだしたのではないだろうか。実際、競争社会をリタイアして、世俗的な力を失ったあとも、実質的な力を伴わないが名誉や尊敬をまとって淡々と誇り高く生活している人はこの世にいくらでもいるだろう。なのになぜゲドは、あのように未練がましく、卑屈で小さな男として描かれなければならなかったのか。 
 なぜ、既存の権威を破壊するだけでなく、貶める必要があるのだろう。こういったことは幻実の活動の中でも随所に見かける。政治活動などなら当たり前ですらある。だが、このファンタジーの中ではまるで必要ではない。 あのように描いたことで、ゲド戦記はファンタジーとしての力をだいぶ減じたと思う。

 ジェンダーからの解放を描くために、一方の性を、男を、貶める必要はない。世の中にダメな男はごまんといるだろうが、ちゃんとした男には、ちゃんとした男なりの乗り越え方というものがあるはずだ。ル=グウィンはゲドにそうさせればよかったのに、ととても残念なのだ。

■テナーとテルーの造形
 自由な女であるところのテナーについても、いろいろと思うところはある。 
 たとえば、ジェンダーの象徴である女性的な美や処女性を奪われたテルーに対して、テナーは、最初の服として、赤いドレスを仕立てる。別染か生成りのあまり生地でエプロンも仕立てたろう。エプロンとは!まさに女仕事の象徴のような気がするのだけど、穿ち過ぎだろうか。 ともあれ、ジェンダーの軛の外に置かれたはずのテルーに、女性の象徴ともいえるような洋服を仕立てるのがテナーであり、ル=グウィンでもある。テルーは「アースシーの風」では、絹のシフトドレスを纏っている。障害のあるテルーは引っ込み思案で母から離れることができず、遠出の旅に、テナーに一緒にきてくれるように懇願するような女性に成長している。傷を黒髪で隠し、傷ついた側を人目から遠ざけるように行動する。それに対して、竜のアイリアンは男の子のような粗末なズボンと裸足で姿を現す。なぜ、テナーは、テルーをズボンをはいて元気な風のような子に育つことができなかったんだろう?たしかに、それには、テルーが背負った傷は大きすぎる。しかし、ル=グウィンが言うように、テルーがこの世界のいわば「導き手」として配置されたのなら、ジェンダーの外側に置かれたテルーを、もっと自由な存在にすることはできなかったのだろうか。この物語は、そういう話であってもよかったように思うのだ。

 例えば、テナーが 幼いテルーに、「あなたの本質は外形ではない。火傷ではない。本当のうつくしさは、そんなものじゃないの」といって、赤いエプロンドレスの替わりに、柔らかい上等の生地で作ったズボンやチュニックを着せ、ゲドやテルーの持てる知識をすべて与えて育てたらどうなっていたろう。テナーが拒絶したオジオンのあたえようとしたものを、テルーが受け取るストーリーだって可能だろう。
 もし、テルーが、その知識を力をもって、初めてハーバード大学に入学した女子学生のようにローク学院に入学したとしたらどうだろう?

 ル=グウィン自身の物語の中では、テルーは兄弟の竜たちとともに西の果てのそのまた西に旅立ってしまったが、それは一つの物語であって、アースシーはそれ以外にも無数の物語をはらんでいるではないか。(まあ、ここまでくると、二次創作になってしまうけど)
 なお、ここでは余談になってしまうが、翻訳者の清水さんは前述の『「ゲド戦記」の世界』の中で、テルーが最初に所有したものが、テナーの作ったドレスであったことに着目しているが、むしろ、子供時代を奪われたテルーの最初の私物が「骨のイルカ(おもちゃ)」であったことの方がはるかに象徴的なのではないだろうか、と考えている。

■フェミニズムについて
 人の数だけフェミニズムがある、とは良くいったもので、フェミニズムは自分の体験を通して理解せざるを得ず、その経験は、本当に人それぞれなのだ。自分と世の中の関係、自分と異性との関係、自分と親との関係、時代、所属する社会、階級そう言ったもので千差万別である。私のフェミニズムは誰かのフェミニズムとは相容れないし、相互理解も難しい。なぜなら、根本的なところで、体験に依拠しているからだ。

 では、多くの体験から上澄みを掬って、学問的に純化できるものだろうか。そうすることに意味があるのか?

 世の中には半数近くの女と半数近くの男と、比較的少数の、それの両方に属する人と、おそらくはもっと少数のどちらにも属さない人で構成されている。

 目指すのは、その全ての人が自由である社会である。
 内心の問題は取扱いが難しいが、まず、目指すべきは外形的な平等だろう。

 とはいえ、絶対に平等にはなり得ない部分が生殖である。そういったことを、現代のフェミニズムでは、どのように取扱い、消化しているのか、私はまったくの勉強不足なので、これから本を読もうと思っている。

2025年4月27日日曜日

介護日記的な・・・その13 洗濯物の攻防に負けた。(第1回戦)

 先週から、毎日の衣類交換がフルコースになった。
(ショーツ、ブラ、靴下、ガードル、肌着の5点セット)
 デイからの着用済みの洗濯物が火曜日に1回返ってきたが、これは次からは週1回金曜日に月〜金の5日分をまとめて返してもらえるように変更した。
 なぜ、というに火曜日の夜に洗濯機に入れておいた洗濯物にたまたま母が気付き、洗濯してしまったからだ。(気付かないで溜まっていることの方が多いのだけど。)
 そのこと自体は、ああ、まだ洗濯機使えるんだ〜と、喜ばしくおもわないでもないのだけど。
 難点① ただ、正しく洗剤を使えているかどうかが判らない。(今回は、洗濯洗剤の位置が、普段の場所から移動していたので、ああ、この洗剤を使ったんだな、と判った。)
 難点② 洗濯から、干す→取り込む→畳む→仕舞う、という普段の生活にないサイクルが始まってしまい、生活リズムが崩れてしまう。
 難点③ 畳んだ洗濯物をどこに仕舞うか判らないので、あちこち探して回収しなければならなくなる。
 と、いう事情なので、できるだけ、私がいるときに一連の洗濯→次週用をセットまで、全部済ましてしまいたいのだ。

 さて、そんなで迎えた週末である。

 金曜日の夜に自分が母宅に到着。
 デイの送迎と申し合わせてある着替え受け渡し場所(玄関の天袋収納。母が普段は開けないところ)から、今週後半分の洗濯物入りのバッグを取り出す。
 翌日ができるだけ楽になるように、と夜のうちに洗濯→干すまでやってしまう。
 母がなかなか寝付かず、私が起きているからかえって向こうも興奮して寝ないのか?と思って自分は寝室に撤収→疲労困憊寝落ち。
 明け方4時頃に、なにやら母が陽気に独り言を言っているのに気付いて覚醒。
 びっくりして様子を見に行くと、母がまだ昨日の洋服を着たまま、元気に活動している。
 そして、私がベランダに干しておいた洗濯物を畳んで、どこに仕舞おうかとうろうろしていた。

 今何時だよ!4時だよ! 明日は通院だよ! なにやってんのこの人!!!
 だがしかし、怒ってもしかたない。
 とはいえさすがに声が上ずる。
 
 何やってんの。4時だよ。寝てないの? 明日辛くなっちゃうよ。 早く寝て寝て。とにかく寝て〜〜! と急かして急かしてとにかく寝る気にさせて、寝室に押し込んだのが4時20分頃か?
 寝室に入れてドアを閉めた後は、なにしてんのか判らないけど、多分着替えて寝たはず!
 幸い、寝付きだけは良い人なのだ。

 いや。ビックリしたね。
 後から、監視・・・もとい見守りカメラの録画画像で確認したが(寝室の中は判らないけど、リビングの寝室のドアが写る位置に設置してある。)、母は昨夜、いったんは普段の居場所のリビングを片付けて、電気を消して、寝る態勢で寝室に入ったのだ。それが深夜1時前頃。(それでも遅いがな!)
 しかし、ほどなく部屋から出て来てしまい、ベランダの洗濯物を取り込んできていた。
 母の寝室は、いつもカーテンが締めっぱなしなのだが、おそらく寝る前にカーテンをめくって外を見て、洗濯物が干してあることを発見してしまったのだろう。
 
 あら、洗濯物を忘れてるわ。からの 取り込み→畳みサイクルが始まってしまった。
 洗濯物は3時間強しか干されていないが、幸いあらかた乾いていたようだ。母は洗濯物1枚1枚を検分し、畳みかたを考え考え(これまでの知識や経験の蓄積は、すでに役に立たなくなっている。この洗濯物はこうたたむ、という自分ルールは失われているので、その都度、一枚ずつ悩む。)、それでも全部四角く畳み、しかし「ちがう」と思ったのかまた、広げて畳み直し。積み上げてどこかに移動し、また移動し、また畳みなおし。 この人が小銭を数えているときもそうなんだが、積み上げて横に置くと判らなくなって、やり直すので、賽の河原状態になる。
 明け方までこの人いったいなにしてたんだ!と最初思ったが、画像を確認したら何のことはない。1時から4時までず〜〜〜〜〜〜〜〜〜っと、洗濯物をたたんでいたよ。

 これは、私が悪い。
 私が悪うございました。
 あの空かずのカーテンを開けて外を見てるとは存知ませんでしたよ。

 夜のうちに洗濯して干すのはナシだ。

 かくして作戦は変更された。

 とりあえず、着替え2サイクル分は数を用意する。(母が着替えたくなったときに困らないように、普段使い用に家においておく分も必要なので、ブラやらガードルやら肌着は枚数が足りない。)足りない分をいくらか買い足しする。

 翌週分のセットを、金曜夜のうちに出来るようにして、洗濯は土曜日の日中にする。これでいこう。そうしよう。

 第2回戦は、次週開催予定。乞うご期待。
 

2025年4月20日日曜日

介護日記的な・・・その12 久しぶりの投稿である。

 さて、このネタでの前回の投稿が去年の8月なので、久しぶりの投稿になる。
 この間、母は超低空飛行ながらまだ滑空を続けており、胴体着陸には至っていない。
昨年11月からこっち、住居のマンションの外壁塗装工事があり、足場が組まれたり、シートがかけられたり、窓の外(高層階)を職人さんが歩いていたり、といろいろあったが、幸いにして足場を組んでの外壁補修も三回目なので、なんとなく馴染みがあるのか、大事には至らず、すごすことができた。これに関しては、本当に、無事に乗り切れてよかった。

 母は、だんだんやらないことが増えてきた。
 近所に買い物に出なくなったのは、昨年夏。 
 掃除機をかけなくなった。
 洗濯機を回さなくなった。

 たまに、台所のビニール床の拭き掃除はしている・・・かもしれない。
 幸い、歯磨きとか洗顔はちゃんとしている。

 衣類は、以前は手洗いしているのかな?と思った時もあったが、今はまず、洗濯していない。とはいえ、代謝も落ちているのか、汗もあまりかかないようで、衣類が汚れることもあまりなく、不潔になることはないようだ。
 当初は、毎日とはいわずとも、下着類を洗濯している気配があったのだが、この前、洗濯機の前で、洗剤が判らなくなっているところに遭遇。実はこれまでの洗濯も、洗剤は入れて無かったのかも? ここ最近は週末に私が洗濯機を回していた。しかし、洗濯機の中の下着が明らかに少ない。

 だいたい、寝間着に着替えるときに脱いでも、翌日に同じものを着ているのだろう。

 本人に認知の自覚はまるでない上に、ADLは完全に自立しているので、着替えを手伝うこともできず、下着類のチェックがしづらい。

 そこで、先週から、デイサービスの入浴の際に、下着を新しいものにすり替えてもらう作戦に出た。

 先週はとりあえず、ショーツと肌着に挑戦。
 問題なく衣類交換ができたので、今週からは、靴下やブラなども追加した。

 で、問題になるのが、週末の洗濯である。

 もちろん、一週間分、私が洗濯するのだが、まず、洗濯ものハンガーが足りない。ピンチも足りない。(昔は潤沢にあったものも、だんだんに数を減らし、本人が一人暮らしになってからは、ほとんどピンチハンガー(しかもぼろ)一個だけでこと足りていた。だが、一週間分まとめてとなるとそうはいかない。とりあえず、ダイソーとAmazonで洗濯用品を調達。
 そして、着替えが足りない。新しい下着を買っても、本人に多分「自分のもの」だと認知してもらえないので、家の中のストック(昔の人なので、古いものも全部取ってある。)から、状態の良いものを探し、数を揃えて名前付けをした。

 洗濯に関しては、干したそばから取り込まれる、というのを数回。本人に任せるとどこかにしまわれてしまうので、母の目を掠めて取り込みして、デイサービス用にパッキングして、母の目に付かないところに隠し、デイのお迎えの際にさりげなく送迎のスタッフにもって行ってもらうことにした。

 なにしろ、本人は、今だに自分がデイサービスに通っていることも、そこで毎日お風呂に入れてもらってることも覚えていないのだ。下着の入った袋など、見つけようものなら、「あらこれ何かしら」と、タンスにしまわれてしまうか、押し入れのどこかに押し込まれるか。

 それにしても、ここのところ落ち着いていた週末の往来が、俄に大変になってしまった。
 来週は加えて、通院もある。頑張らねばならぬ。

2025年4月18日金曜日

アーシュラ・K・ル=グウィン  略歴と著作(邦訳・代表作のみ)



アーシュラ・クローバー・ル=グウィン(Ursula Kroeber Le Guin)  1929年10月21日生 2018年1月22日没

・アメリカの小説家でSF・ファンタジー作家。
・1929年10月21日、カリフォルニア州バークレー生まれ。
・父親はドイツ系の文化人類学者のアルフレッド・L・クローバーで、1901年にコロンビア大学でアメリカ合衆国初の人類学の博士号を取得し、カリフォルニア大学バークレー校でアメリカで2番目の人類学科を創設した。
・母親は、夫が研究で係わったアメリカ最後の生粋のインディアン「イシ」の伝記を執筆した作家で文化人類学者のシオドーラ・クラコー・ブラウン。
・ル=グウィンが生まれた日は、カトリックの聖女である聖ウルスラ(Saint Ursula)の祝日で、彼女は聖ウルスラに因んで、アーシュラ(Ursula)と名づけられた。

・子供時代は、バークレーで育つ。大学はラドクリフ・カレッジ(ハーバードと提携関係にあった名門女子大学。のちにハーバードと合併)に進学、フランスとイタリアのルネサンス期文学を専攻し、コロンビア大学で修士号を取得。1953年にフルブライト奨学生としてパリに留学し、フランス人の歴史学者チャールズ・A・ル=グウィン(Charles Le Guin)と結婚。帰国後に夫は州立ポートランド大学の教授となり、自身はマーサー大学、アイダホ大学などでフランス語を教える。1957年長女を出産、その後オレゴン州ポートランドに住む。1959年次女、1964年に長男出産。

・1958年頃から雑誌の書評欄や、現代の架空の国オルシニアを舞台にした短編を書き始め、1961年にその一つ「音楽によせて」(An Die Musik)を『ウェスタン・ヒューマニティズ・レビュー』誌に発表し、初めての商業誌掲載となった。
・1962年に『ファンタスティック』誌9月号に短編「四月は巴里」(April in Paris)が掲載されて本格的に作家デビュー、定期的に作品が雑誌に掲載されるようになる。
・その後『ロカノンの世界』『辺境の惑星』「幻影都市』の3長編を出版したが、注目されなかった。
・1968年に長編『影との戦い』を出版。
・1969年発表の『闇の左手』でヒューゴー賞、ネビュラ賞を同時受賞し、広く知られるようになった。
・2018年1月22日、ポートランドの自宅で死去。

作品一覧(邦訳)
《ハイニッシュ・サイクル》Hainish Cycle
・ロカノンの世界 (1966年)  サンリオSF文庫
             ハヤカワ文庫(別訳)
・辺境の惑星   (1966年)    サンリオSF文庫、ハヤカワ文庫
・幻影の都市  (1967年)        サンリオSF文庫、ハヤカワ文庫
・闇の左手  (1969年)         ハヤカワ文庫(新版)
・所有せざる人々  (1974年)    ハヤカワ文庫
・世界の合言葉は森  (1976年)   ハヤカワ文庫
     アオサギの眼  (1978年) を併録
・言の葉の樹   (2000年)  ハヤカワ文庫

《アースシー》(ゲド戦記) 岩波書店 
・影との戦い A Wizard of Earthsea (1968年)
・こわれた腕環 The Tombs of Atuan (1971年)
・さいはての島へ The Farthest Shore (1972年)
・帰還 - 最後の書 Tehanu: The Last Book of Earthsea (1990年)
・アースシーの風 The Other Wind (2001年)
・ゲド戦記外伝(ドラゴンフライ) Tales from Earthsea (2001年) - 短編集

 ・どこからも彼方にある国(1976年) あかね書房

《オルシニア》  架空の国を舞台にした非SF作品
・オルシニア国物語   (1976年) ハヤカワ文庫
・マラフレナ   (1979年)                サンリオSF文庫(上・下)

《空飛び猫》(絵本)
・空飛び猫  (1988年)
・帰ってきた空飛び猫 (1989年)
・素晴らしいアレキサンダーと空飛び猫たち  (1994年)
・空を駆けるジェーン - 空飛び猫物語  (1999年)

《西のはての年代記》 
・ギフト Gifts (2004年)
・ヴォイス Voices (2006年)
・パワー Powers (2007年) 

・天のろくろ (1971年) - サンリオSF文庫、ブッキング(改訂復刊)
・始まりの場所   (1980年) - 早川書房「海外SFノヴェルズ」
・オールウェイズ・カミング・ホーム   (1985年) - 平凡社(上・下)

《中短編集》
・ラウィーニア  (2008年)    河出書房新社 のち文庫
・風の十二方位   (1975年)  ハヤカワ文庫-主に初期作品集
・コンパス・ローズ   (1982年)  サンリオSF文庫、ちくま文庫 
・内海の漁師   (1994年)     ハヤカワ文庫(一部が《ハイニッシュ・サイクル》)
・赦しへの四つの道   (1995年)  早川書房「新ハヤカワ・SF・シリーズ」
・なつかしく謎めいて  (2003年)  河出書房新社(連作短編)
・世界の誕生日 (2002年)     ハヤカワ文庫(全8篇)
・現想と幻実 ル=グウィン短篇選集   (2012年)    青土社(全11篇)

《エッセイ等》
・夜の言葉‐ファンタジー・SF論   (1979年)  岩波同時代ライブラリー、(改訂)岩波現代文庫
・世界の果てでダンス  (1989年) - 白水社(新装版刊)
・文体の舵をとれ ル=グウィンの小説教室   (1998年)  フィルムアート社
・ファンタジーと言葉   (2004年)   岩波書店
いまファンタジーにできること   (2011年)   河出書房新社、河出文庫
・暇なんかないわ 大切なことを考えるのに忙しくて - 河出書房新社
・私と言葉たち (2022年) - 河出書房新社

2025年4月13日日曜日

0553 ドラゴンフライ アースシーの五つの物語 もしくは ゲド戦記外伝

少年文庫版
書 名 「ドラゴンフライ アースシーの五つの物語 ゲド戦記5」
原 題 「TALES FROM EARTHSEA」2001年
著 者 アーシュラ・K.ル=グウィン    
翻訳者 清水 真砂子    
出 版 岩波書店
初 読 2025年3月22日
初版のハードカバー
読書メーター 
 【岩波少年文庫版】
書 名 「ドラゴンフライ アースシーの五つの物語  ゲド戦記 5 」
少年文庫版  560ページ 2009年3月発行
ISBN-10 4001145928
ISBN-13 978-4001145922


 【ハードカバー版(初版)】
書 名  「ゲド戦記外伝」
単行本 456ページ 2004年5月発行
ISBN-10 4001155729
ISBN-13 978-4001155723

改編後のハードカバー
 【ハードカバー版(改編後)】
書 名  「ドラゴンフライ アースシーの五つの物語  ゲド戦記 Ⅴ」
単行本 464ページ 2011年4月発行
ISBN-10 400115644X
ISBN-13 978-4001156447


 『帰還』と『アースシーの風』の間を埋める『ドラゴンフライ』または『トンボ』(版によって呼び名が違う。トンボをドラゴンフライに改めるくらいなら、オジオンもいっそのことオギオンに改めれば良かったのでは?!)またロークの学院の起源や、若きオジオンとその敬愛する師匠の物語など。
 なぜ、『アースシーの風』の前にこの本を訳出しなかったのだろう。
刊行順にこちらを出版するのでも良かったとおもうのだけど。
ジブリアニメ公開に併せて
再版されたバージョン

 見ての通り、この本は、ハードカバーの『ゲド戦記外伝』→ソフトカバー版『ゲド戦記外伝』(ジブリアニメ化の際に発行されたもの。)、タイトルを改めたハードカバー本『トラゴンフライ』そして物語コレクション版と、岩波少年文庫版の5種類が発行されている。
 後からシリーズの残りを集めようと思って探した時に、おおいに混乱した。ちなみに私が所有しているのは、函入りハードカバー各初版と、岩波少年文庫版と、ソフトカバー版の3種類。なぜかそうなった。
 今年6月に、ル=グウィンが死去してから発行されたゲド最晩年の作品を含む短編と、ル=グウィンの講演録を翻訳した『ゲド戦記を“生き直す”』などが収録されたシリーズ7冊目(多分今度こそ最終巻)が岩波から発行される。ここで函入りハードカバー版を発行しないのは、50年来の読者への裏切りというものだろう!とこれまた若干腹が立つものの、発行自体はとても楽しみにしている。もちろん。
 さて、この別冊改め『ドラゴンフライ』は、短編5作品と著者によるアースシー解説からなる。『カワウソ』はローク学院のはじまりの物語。『ダークローズとダイヤモンド』と『湿原で』は男女の愛に関する物語。『地の骨』は若いオジオンとその師匠の話。『トンボ』改め『ドラゴンフライ』は、例の!アイリアンのお話です。以下感想。

カワウソ
 通り名をカワウソまたはアジサシと名乗った心優しい魔法使いは、様々な曲折を経て、初代の〈守りの長〉となる。アーキペラゴの暗黒時代に灯を点した、ロークの学院草創期の物語。
 ロークの学院の基礎を作ったのは、実は、〈手〉と呼ばれる草の根抵抗組織の女達だった。(レジスタンス、と書いちゃうと、ちょっと時代的に違う感じがする。) 大きな魔力を持ちながら、正しい教育を受ける機会の無かったまじない師のカワウソは、奴隷に落とされたりしながらも正しい魔法と公平と自由を求めて、古来のそれが残っているという島を探しつづけ、ついにその島に辿り着く。そしてその地で愛を得る。魔法が男だけのものになる前の時代の物語でもある。
 意外なローク学院の始まりについては、ちょっと後付け感も感じないではないけど、カワウソの素朴で正直で控えめな人柄は、『アースシーの風』のハンノキにも共通する温かみがある。女性も魔法使いになり、教師になり、長になれていた初期のロークから、どのようにして女性が疎外されていったのか、そこはとても気になる。
 あと、一つだけ言いたい。「タフなヤツだな。」という台詞は、めちゃくそ浮いてるぞ!

ダークローズとダイヤモンド 
 ダイヤモンドという通り名の青年が、真に自分の魂が求める道に辿り付くまでのお話。ダイヤモンドは“力”のある若者だったが、それが発揮されるのは音楽の道だった。詩がロークの“高尚な”学問に含まれ、歌が含まれなかったのは、学院の始祖たる魔法使いの中に歌を得意とするものがいなかっただけだと『カワウソ』を読んだものなら気づく。それはさておき、ダイヤモンドはロークに行く道を選ばす、愛するものと供にいること、そして歌うことを選んだ。

地 の 骨 
 師匠には「だんまり」と呼ばれた寡黙な少年は、師匠の元で魔法を学び、ゴントで独り立ちした。大地の太古の魔法を知る師匠は、この島に大きな災害が迫っていることを知り、弟子とともに地殻変動に立ち向かう。沈黙のオジオンとその師匠のセレス、さらにその師匠の物語。このシリーズを通じて、オジオンが一番素敵だし、大賢人にふさわしいと思うのは、きっと私だけじゃない。

湿 原 で 
 ある島に現れたまじない師の男は、動物と言葉をかわし、病気を癒やす力を持っていた。疲れはてて一夜の宿を求め、酪農農家の寡婦の家に寄宿することになるが。穏やかで寡黙な男に引かれるおかみさん、男を捜して現れたゲドが語る、男の物語。
 正直、ゲドの語る男のこれまでと、島に現れた男の性格に落差がありすぎて、もうちょっと男の気づきとか改心のいきさつを語ってくれないと、別人のように思える。

ドラゴンフライ(まはたトンボ)
 なんで〈トンボ〉を〈ドラゴンフライ〉に直したかなあ。トンボのままではいけなかったのか。アジサシや、カワウソや、タカも素朴な日本語として意味の通る名前にしたのに、〈トンボ〉をあえて日本人には馴染みのない〈ドラゴンフライ〉にしたのはどうしてだろう。訳者の清水さんにとっては、トンボがどうにも違和感があったらしいのだけど。確かに竜が翔ぶ話なので、ドラゴンフライは本質を突いているんだけど、偉大で巨大な生き物である竜が、人であったときには小さな空飛ぶ昆虫の名前を名乗っている、というギャップも、面白いと思う。
 それはともかく、『アースシーの風』を読むと、突然でてくるアイリアンという女性の名前。そのお話である。最近わたしはKindle版と紙本を併用で読むことが多いのだが、Kindle版は岩波少年文庫版が底本なので「ドラゴンフライ」 紙本(ハードカバー旧版とソフトカバ—版)は「トンボ」。・・・・やっぱりトンボの方が好みだ。
 ゲドの盟友であったトリオンは、ゲドを探しに死者の国に赴いたが、戻ってくることが出来なくなった。しかし、皆がトリオンが死んだと思ったとき、生に対する執着と野心だけが生ける亡者として肉体に戻ってきた。そのトリオンとアイリアンの闘い・・・と思いきや圧倒的物量と熱量の差で、瞬殺。
 にしても、アズバーと守りの長はともかくとして、ロークの賢人団がなかなかのぼんくら揃いに見えてしまうのが残念なところ。

アースシー解説
 ル=グウィンによる、この世界の地理、民族、文化、言語、文字、歴史などの概略解説。
 ル=グウィンはこの世界の言語(真正神聖文字やハード語の文字)を漢字のような表意文字だとしているようだ。解説を読むに、一単語が一字に相当しているよう。
 ネイティブ・アメリカンをモデルにしているという、アーキペラゴの人々に漢字的な表意文字をあて、白人のカルカド人にインカ帝国風の紐を結ぶ伝達の方法をあてるなど、(主には)白人の意識を揺さぶるしくみが仕掛けられてるなあ。
 歌と歌謡は、アーキペラゴの最初の起源を証しているというのに、『ダイヤモンド』で描かれているように、学問大系の中では、歌による伝承の「詩」の部分に重点が置かれて、「歌」の部分はきちんと位置づけられていないんだな。まことの言葉の仕組みとしては、言葉の意味はわからなくても、音律だけで魔法を発動させることも出来そうな気がするんだけど。(そうなると、乾石智子のファンタジー世界っぽいかも。)
 子供は皆教育のようで、6,7歳頃には、『エアの創造』を語り聴かされ、暗唱できるようになる。常識ある大人であれば、だれも『エアの創造』を子供に語ることができる。子供たちは学校でハード語疑似神聖文字(神聖文字に由来し、ハード語を表記するために生まれたた、魔法の力を持たない文字。数百から数千に及ぶ。)を学ぶ。ル=グウィンは、「物語」に丁度良い、閉じて、均質化されていて、文化と富に満ちた世界を創造したようだ。
 ローク学園から女性が排除されたのには、初代大賢人ハルケルの影響が強かったよう。しかし、ロークの設立に女性が深く関わった点については、きちんと知識として継承されればよかったのにね。魔女達のあいだに「魔女の契り」や魔女婚(同性婚)の風習があったのに、魔法使いの間にそれがないのも面白い。

 さて、この巻で既刊の『ゲド戦記』はついに読了。あとは『火明かり』の刊行を待つばかりである。