2025年7月21日月曜日

介護日記的な・・・その18 介護とワクワク?

 もうだいぶ前のことになるが、リビングのごみ箱・・・紙くず入れに、大量の固まったトイレットペーパー・・・・なにかに使って、円筒型状のものに詰め込んだあと、引っ張り出して捨ててた・・・・ような半分ほぐれかけたトイレットペーパー屑、を発見して、一体これはなんだろう、と首をかしげたことがあった。で、一昨日その答えが明白になった。

 トイレに置いてある円筒型のサニタリーボックスの中を何の気なしに改めたところ、ぎっしり。何かに使用済みのトイレットペーパーが出て来たのだ。まさにコレ。

 ————あ————つまりだ。
 母は、たぶん、もうだいぶ前から、使用済みトイレットペーパーをトイレに流していなかったのだ。全部、サニタリーボックスに「捨てて」いた。そしてそれが一杯になったので、リビングのごみ箱に空けた、と。

 ネットにお伺いしてみると、認知症あるあるらしい。

 多分、昭和の頃の脆弱な給排水衛生設備で育った世代は、「詰まらせてはいけない」と思うんだろう。

 なんにせよ、謎がほどけて、困惑が残った。
 こうやって、ひそかに「ヘン」なところはじつは沢山あるんだろうな〜。

 母は、もう短期記憶が1分くらいしか保たなくなっている。言葉の理解も覚束なくなってきた。
 それでも大崩れしない、確固とした生活習慣が身についているっていうのは、それはそれで凄いことだと思う。でもこんな感じでいろいろと綻びが、目立ってきた。

 ここ1ヶ月くらいは、自分でご飯を食べるのが難しくなった。咀嚼も嚥下もできるが、冷蔵庫からご飯はともかく、おかずを取り出して食べる、ということができなくなった。冷蔵庫にいれてあるお惣菜を手にとっても、しばし眺めたあと、また冷蔵庫に戻してしまう。
 小鉢にいれて、「食べてください」と付箋を貼って、冷蔵庫に入れておいたが、母は、「いつからここにあるのかしら」「古くなってるし気持ちわるい」とかいって、捨ててしまったりする。

 結果、先週末の受診では、顔色の悪さと脱水気味を指摘され、「糖尿病がなければ、ポカリ飲ませて」との指示を頂いた。
 500mlのペットボトルを2本買って帰って、とりあえずコップ一杯は飲ませたが、冷蔵庫に入っているものを本人が自分で飲む可能性は皆無に近い。

 人の手が入らなければもう、生活の維持は無理だろう。

 8月から介護休暇を取るか、ひとまずテレワークと出勤と介護休暇を織り交ぜるか。
 
 自分の自宅のこともあるから、母の家に行きっぱなしもできない。特養のショートステイも入れて、その間は自宅に戻るにしても・・・・ううむ。

 ひとまずこの際なので、母の家に私の机を入れてモニターも設置し、テレワークができる体制は作ることにした。(お願いだから、いじらないで壊さないで、コード抜かないで、と願う。)

 で・・・・冒頭のタイトルである。

 事態はそれなりに深刻で、私は家庭生活上も、職業生活上も大幅な変更を余儀なくされているのだが、なんだか、単純にワクワクしていたりもする。なんなら、隙間時間にどの本を読もう、なんて本の選定まで始めている。とにかく、10年以上・・・・ずーーーと、それはそれは多忙な職場を渡りあるき、残業上等、なんなら午前様も当たり前な生活を続けてきた。ここに至って、ある意味、母のために止むなく、ではあるにせよ、「仕事を減らす」事態に心の半分くらいがなんだか歓喜しているみたいな気がするのだ。
 残りの半分は、手離さざるを得ない仕事への気がかりとか、仕事を休んでしまって果たして私は復帰できるのか、という不安や、これでもし、戻れずに離職してしまったら自分の老後は果たして成り立つのか、とか、母の介護そのものへの不安とか、母への献身(?)に、自分の欲求を織り交ぜることへの罪悪感とか・・・・(たとえば、母宅で在宅ワークするため、というのを口実に、ずーーーーっと欲しかったデスクを購入しちゃう、とか(爆)
 重くて引きずり歩くのが億劫な掃除機の代わりに、自分の自宅でも使っているスティック型の軽快な掃除機をAmazonでポチる、とか。

 でもまあ、介護は、生活だ。
 滅私奉公である必要はないんじゃないかな。大変なだけでなく楽しいこともあったほうが良いし、私の精神衛生が良いほうが、絶対に母にも良いはずだ。買い物一つでワクワクできるんならそれはそれで・・・・

 そんなわけで、介護生活の新たな局面に、きっと大変なこともあるだろう、という理性の声を頭の隅に掃き寄せて、なんだかワクワクが止まらなくもある。

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