2021年3月27日土曜日

0263 過去からの密使  (ハーパーBOOKS)

書 名 「過去からの密使」 
原 題 「The New Gir」2019年 
著 者 ダニエル・シルヴァ 
翻訳者 山本 やよい 
出 版 ハーパーコリンズ・ ジャパン  2020年4月 
初 読 2021年3月28日 
文 庫  616ページ 
ISBN-10 4596541345 
ISBN-13 978-4596541345

 いやあ、面白かった!『教皇のスパイ』と読む順番が逆になったが、扱うテーマがまったく違ったので、とくに問題はなし。とはいえ、KMBがどうなったのか、知りたかったというのはあったが。
 最新作『教皇のスパイ』が『告解』の作風への回帰だとすれば、この『過去からの密使』は、まさに“アロン長官”の物語。相変わらずの全方位の活躍ぶりで、今回は、ロシア相手に全面勝利。現実のサウジ皇太子がアレでなければ、きっとこの作品のラストは違うものになっていたのだろうなあ。
 今作でも、ガブリエルの我が身を削るような奮闘ぶりで、あのラストは切なくもある。
 話中、ポロニウム210に類似した暗殺用放射性物質が登場するが、若干訳語?の使い方が気になった。被爆よりは被曝のほうが良いような気がするし、放射線被曝と、放射性物質汚染、放射線と放射能がごっちゃになっているような気がする?
 とはいえ、読むのに差し障りがあるほどではないし、私も専門家ではないので用語に詳しい訳ではないので、こちらの気のせいである可能性も大いにあり。
 ポロニウム210は、極めて線量が高く毒性が強いが、ほとんどアルファ線しか出さないため、透過性が著しく低いので紙一枚でも遮蔽できる。そのため、運搬者にはほぼ害を与えず、摂取した者を確実に害せる、ということは理解した。もっとも、ダニエル・シルヴァは、ポロニウム210に類似した放射性物質、としか書いていない。


ところで、“同僚の多くと違って、彼は裕福な家庭の生まれではない。ノッティング・ヒルやハムステッドのようなおしゃれな地区は、給料だけで暮らしている男にとっては金がかかりすぎる。”とはいかに?
 これは、あれか?我らが警視殿への当てつけだろうか???

あと、こんなシーンも。“ヘスターがカウチに寝そべり、白ワインの大きなグラスをそばに置いて、リーバス警部シリーズの新作を読んでいた。” こっちはリスペクト?

ダニエル・シルヴァ、面白い人だなあ。

前作・・・・だったか(?)では、ガブリエルが帰宅すると、キアラが「良心のある殺し屋」が出てくるアメリカのスパイ小説を読んでいるくだりもあった。キアラに「あなたにちょっと似てるかな」と言わせたその良心のある殺し屋のスパイは、もしかしてコートランド・ジェントリーか?全然キャラが違うような気もするが、巻き込まれ型なところと、間の悪いところに居合わせるのが得意技なところと、負傷が多いところは・・・・・・そっくり?

 今回は、中東の細かい国家間の軋轢にもさりげなく触れられていて、グレイマンシリーズで「アメリカとサウジは同盟国で仲良し」ぐらいの知識しか持っていない身には、いろいろと勉強になった。
 パレスチナ出身の女性記者から、辛辣なイスラエル批判を聞かされて、じっとこらえるガブリエルだが、それでもドイツ語で語気鋭く詰られるのがユダヤ人としては堪える、というのがすごくリアルだ。このハニファ、夫が殺されたのは自分のせいだし、娘を見殺しにされたKBMの方にも、復讐する権利がありそうな気がするのだが、そうでもないのだろうか。いずれにせよ、このハニファに対してもレベッカに対しても、ガブリエルは甘いよなあ、と思う。どうしても女性を守りたくなってしまうのが、ガブリエルの甘さであり、良さなんだろう。
 さて、これで既刊のガブリエルシリーズは踏破した。次は、7月に米国で新刊発売の予定。翻訳を読めるのは来春だろうか?
楽しみがあって幸せ。

2021年3月20日土曜日

0262 教皇のスパイ  (ハーパーBOOKS)

書 名 「教皇のスパイ」 
原 題 「The Order2020 
著 者 ダニエル・シルヴァ
翻訳者 山本 やよい 
出 版 ハーパーコリンズ・ ジャパン  2021年3月 
初 読 2021年3月20日 
文 庫  584ページ 
ISBN-10  4596541507
ISBN-13  978-459654150

 2018年11月。
 オフィスの長官に就任して以来、ガブリエルは働きづめだった。休んだと言えるのは、パリで爆弾テロに巻き込まれた時に腰椎の怪我でやむを得ず自宅で数日静養した時だけで、それ以外は半日の休みもなく働き続けていた。夫の心身を案じたキアラは、一計を講じる。
 夫に内緒で密かに国外での休暇を手配。ウージ・ナヴォトを味方に引き入れ、首相にも根回しし、才能豊かなくせに何の趣味もない夫が退屈しないように、休暇先で夫が修復する絵まで手配する念の入れよう。
 ある日、帰宅したガブリエルが目にしたのは、準備万端の旅行カバンの数々。彼の口から出たセリフは、
「きみ、出て行くのか?」
 ついに、若く美しい妻に愛想を尽かされたと思ったか(笑)
 行き先は、キアラの両親が暮らす懐かしのヴェネツィア。双子が祖父母の家を訪れるのは初めてのことである。その双子ももうすぐ4歳で、いつまでも壮年のような雰囲気を漂わせているガブリエルもそろそろ老いと向かい合いつつある。(ちなみにガブリエルは68歳になるかならないか)
 そして、ヴェネツィアで休暇を開始した数日後、ガブリエルの旧友であったローマ教皇パウロ7世崩御のニュースが世界を駆け巡る。ガブリエルは、教皇の側近だったルイジ・ドナーティ大司教から求められ、ローマに向かう。

 まるで、読者へのプレゼントのように、ガブリエルシリーズの素敵なところがぎっしり詰まっている。双子とガブリエルの睦まじい関わり。キアラとのラブラブな会話。絵画修復にいそしむガブリエル。テーマが久しぶりのユダヤ人迫害とキリスト教の問題なので、これだけだと陰鬱になってしまうが、ガブリエルの家族との幸せエピソードがそれを和らげてくれる。キアラとのペアで、一工作員だった頃のように身軽に調査にうごきまわるのも久しぶりの光景。ガブリエルがナチュラルに妻を礼賛している。旧友ドナーティとの隠密行、ユダヤ人とローマ教会の暗黒史。ドナーティがもう一人の主役である。雰囲気的には、『告解』からストレートにつながる感じだ。コレ一冊で、ユダヤ人とキリスト教の関係をそれこそ紀元30年代からおさらいできる。
 そして、キアラとガブリエルは、長官退任後の残りの人生の計画を立て、一部行動に移したりも。これ、フラグじゃないのか?本当に幸せになれるのか?・・・と夢の老後の先取りをする二人に、読者の私の方が不安でいっぱいだ。(笑)

 『告解』では、ピエトロ・ルチェッシと読みが当てられていたパウロ7世だが、こちらではピエトロ・ルッケージ。なんとなくルチェッシのほうがイタリア人名っぽい?ような気もするが、実際の発音は知らないのでどちらが近いのかは不明。 『さらば死都ウイーン』で「草原」(笑)と訳されているレストラン前の広場は、以下のような描写。〈リストランテ・ピペルノ〉はそこから少し南へいったところにあり、テヴェレ川に近い静かな広場(カンポ)に面している。そうだよねえ。

 さて、ストーリーの話題に戻って、この本のテーマは、イエスの死の責任をユダヤの民に負わせるキリスト教の正典、福音書の記述は真実なのか。とくにマタイ福音書の中のキリストを処刑に至らしめる裁判で、ピラトがユダヤ人の群衆の前で手を洗って言う。「この人の血について、わたしには責任がない。お前たちの問題だ」民はこぞって答えた。「その血の責任は、我々と子孫にある」──『マタイによる福音書』二十七章二十四─二十五節

 これが、以後2000年にわたり、キリスト教がユダヤ人を神の殺害者として迫害し、ついには民族を絶滅させる規模の大虐殺を引き起こし、かつそれをローマカトリックが是認(もしくは黙認)した根源である。この記述は真実なのか。
 多くの研究者が、これは事実ではなく、キリスト教がローマの国教となる過程においてローマ人を取り込む必要性から、キリストの死の責任を、ローマ支配とローマ人であるユダヤ属州総督ピラトからユダヤ人に意図的に歪曲した、と見る。
 イエスは、過越祭の最中に騒ぎを起こした為に捕らえられ、おそらく裁判に掛けられることもなく、そのほかの大勢のユダヤ人とともに、無造作に処刑された。ユダヤの律法を守っていた最高法院が過越祭の最中の深夜に裁判を行うだろうか? あり得ないことだ。と作中でジョーダン神父は語る。この記述はユダヤ教の文化に疎いローマのキリスト教徒による創作だ、と。
 エンタメの体裁をとっているが、キリスト教が、ユダヤ人迫害に関して歴史的に果たした役割と罪を、深く、鋭く指摘している。現代のヨーロッパの移民問題はユダヤ人迫害をも悪化させた。その上コロナ禍で迫害に拍車が掛かり、ユダヤ人の安全は、第二次大戦後、最悪の状況を迎えている。著者はどうしてもこの作品を書く必要があったのだろう。
 母の死、祖父母の死、多くの死んだ、または今生きているユダヤ人の運命、自分の人生、そして自分を見上げる幼い娘の瞳。自分が望むと望まざるとに関わらず、その多くを背負ってきたガブリエルが、静かに涙を流す。

【余談ながら】
「これ、わたしが世界でいちばん好きなベンチかもしれない」キアラが言った。「あなたが意識をとりもどして、家に連れて帰ってほしいとわたしに頼んだ日に、あなたがすわっていたベンチよ。覚えてる、ガブリエル?ヴァチカンが攻撃を受けたあとのことだった」「どっちがひどかったのか、わたしにはわからない。ロケット推進式の手榴弾と自爆テロ犯か、それとも、きみの看護か」「自業自得でしょ、お馬鹿さん。もう一度会うことに同意しなければよかった」『教皇のスパイ』p.36-37

 ガブリエルが意識不明になるような惨事があったのかと気になって気になって(笑)、いろいろ探してしまったが、これ、状況としては多分こっちじゃないかな↓。
「あなたが正気にかえって、よりを戻したいって私に懇願した日に、あなたが座っていたベンチよ。覚えてる?ガブリエル。ヴァチカンが攻撃された後の事だったわね。」
「どちらが酷かったのか解らないな。ロケット推進の手榴弾や自爆テロ犯と、あの時のきみの私への態度と」

さて、何があったのか。。。。(笑)
ガブリエルとキアラは結婚の約束をして、ガブがエルサレムのナルキス通りのアパートを手に入れて、キアラは二人で暮らすために自分好みの内装までしたのだが、結局ガブリエルがリーアを見捨てられなかったため、キアラと破局する。そしてキアラがベネツィアに帰ってしまった、というのが『Prince of Fire』ラストのエピソード。その次の『The Messenger』で、ヴァチカンと教皇を狙った爆弾テロがあってガブが教皇を助けたのだが、その後、教皇がガブに「キアラがヴェネツィアで君が来るのを待っている」と嘘をいう。まさかガブリエルをキアラの元に行かせるために教皇が嘘をついた、とは思わないガブは素直にヴェネツィアを訪れ、キアラに冷たく「そこのベンチに座って待ってろ」と言われた挙げ句、「何しにきた」と怒られた、というのが、くだんの“惨事”であった。教皇パウロ7世。お茶目な人でした。きっとその後、ドナーティ相手に「神父さま、私は親しい友を欺きました」って告解している図まで目に浮かぶわ。白くて、小さくて、善良だったパウロ7世に合掌(←ダメか?)

  


2021年3月15日月曜日

これはやったもの勝ち


ハーパーブックスの背表紙に猫があるってる!!
と思ってから気付いた。これ、犬派の人には「犬が歩いてる!」って見えるんだろうな。
なんという、知能犯め。一気に好感度が上がること請け合いではないか♪
しかし、この肉球がドン・ウィンズロウに似合うかどうかは、私には解らない。。。。 🐾
🐾
🐾ちなみにやっぱり猫でした。

2021年3月14日日曜日

誤訳にもの思う(翻訳という仕事への敬意 改題)

 私は翻訳小説を読むのが好きだ。
 実は日本の小説を読むのは苦手。
 どうしてだろう、と考えるに自分の中に、言葉と語感に対するはっきりとしたイメージがあって、それが日本語で執筆されている作家さんの語感と微妙にズレることがあるのだ。そのズレが収まりが悪くて、どうも上手くストーリーに乗れないことが多い。日本人作家さんは、当然のことながら作品で自己表現をされている訳で、やはり当然のことながら言葉の選択には強いこだわりがあろう。私が文句いう筋合いではないので、そっと本を閉じる。
 その点、翻訳小説だと、自己表現とは別の次元で日本語の表現に取り組んでいる文章表現の専門家が間に挟まるので、本当に素直に物語を読むことができるのだ。翻訳小説は創作者とそれを日本語表現に置き換える翻訳家の共同作業の末できあがる別個の作品であって、これだけの労力が払われているのなら、価格が高くても納得がいく。本当に、翻訳小説が好きだ。

でも、中には、ダメな翻訳、というのがあるのである。
 ←これは、『報復という名の芸術』から始まる論創社刊のシリーズ4冊を翻訳した人の著書。
 この山本光伸氏は、翻訳界で長く活躍され、翻訳学校を主催され、現在は出版社も経営されている。
 上記の本は、おそらくだが、生徒さんに下訳させたのを何の事情でか、そのまま使ったのじゃないかな?と思っている。 と、いうか、正直言って、この人がこんなお粗末な翻訳をしたとは信じ難いので。(仮にそうだとしても、翻訳者として自分の名前を出している以上、それ相応の責任はあると思うが。)
 ストーリーを理解していれば、少なくとも直前までの流れを理解していれば、絶対にしないような誤訳が見受けられる。
“Vienna”をベニスと訳したり(そもそもViennaはベニスではないが、事件がウィーンで起こったことを理解していれば絶対に「ベニス」とは訳さない。)、見開きで、同じ地名を別音で表記(英語発音と、現地語発音)していたりしているところから考えるに、ストーリーの全体像を把握していない複数の人間が小パートづつばらばらに訳して、ろくにチェックせずに貼り合わせたらこういう出来になるのでは?という翻訳に仕上がっている。

訳語の選択にもセンスが感じられないし、一般常識的な知識が足りていない。

『イングリッシュ・アサシン』では、A million pounds を一万ポンドと訳したり、twenty-five years を20年と訳したり、『さらば死都ウィーン』ではthirty years を13年と訳すというような、中学生レベルの致命的な数詞の誤りがある。

誤訳以前に、原文にない文章の書き足しがある。それが作品のクオリティを上げているならともかく、明らかに落としている。

 具体的な指摘については、こちらへ 

 これほどのキャリアと実力を持つ人が、なぜこんな翻訳を世に出してしまったのか。おそらくそれ相応の事情があるに違いない。(と思いたい。)

 そんなわけで、山本光伸氏の翻訳についての考えを伺ってみるつもりで、この本を読んでみた。
 面白いのは、山本氏と私の翻訳もしくは誤訳に関する考え方がほぼ一致していることだ。
以下に『誤訳も芸のうち』p.45-46から引用する。

 『もう一つ、誤訳にまつわる例を挙げよう。ドイツ語で書かれた原文を英訳した小説の中に、次のような一節があった。
 “The E.coli bacteria colonized his body at great speed.They had been in the water he'd drunk at a petrol station two days ago"

 そしてこの英文は次のように日本語で訳されていた。“だが大腸菌はまたたくまに全身に広がった。ふたりは二日前、ガソリンスタンドで酒を飲む前に、海水浴をしていた。”
 私はこの訳文を読んだ瞬間、おかしいと思った。・・・・』
『私が最初に感じたのはたんなる違和感だった。』

そして、こう仰る。

『この翻訳者の実力からすれば、ケアレスミスにすぎないし、たとえ誤訳であっても、日本語できちんと組み伏せてあればそれで構わない。
 私に取って唯一問題なのは、その訳文が日本語の表現として破綻をきたしていないかどうか、もう一歩踏み込めば、ストーリー展開として自然であるかどうかなのである。その点で、上記の例は誤訳と言わざるを得ないのだ。』

 もう、面白いくらい、私が上記の『報復と言う名の芸術』から『さらば死都ウイーン』の誤訳に関して言っていることと一致している。そもそも、やっていることが一緒だ。これは自分自身に失笑する。山本先生、気が合いますね。同士です。
 ではなぜ、山本光伸名義であんな酷い誤訳本が世に出たのか、ということが更に気になるわけだが、きっと諸般の事情があったのだろう、と思うしかない。誰に説明されたわけでもないが、この本の8ページ冒頭にヒントがあるような気もする。山本氏が翻訳出版を行う出版社を立ち上げた時期と重なっていて、多忙を極めていた、とか、翻訳学校で育てた翻訳家の卵に下訳の仕事を与えなければならないという事情があったとか、査読の手配に行き違いがあったとか? 悪条件が重なってチェックの甘い原稿が流出したのではないか、と勝手に推測している。
 とはいえ、そのような事情が(もしかしたらあったのかもしれないが、)そんなことは、末端の購読者にはなんの関係もないことだ。訳者のほうでも、それくらいのことは承知しておいてもらいたい。(←と、山本先生風に書いてみる。)

 『誤訳も芸のうち』で山本氏が言わんとしていることは、ただ、正確に訳すだけならコンピューターにでもやらせておけ、翻訳者は表現者たれ。ということであり、翻訳者が翻訳した作品は、日本語で表現された文芸作品として確立していなければならない。ということであり、そのためには、原著を深く理解し、その精神を日本語に写し取るために、言葉と格闘しなければならぬ、ということで、その翻訳者としての立ち姿と心意気は、実に立派なのである。

 そう、心意気は大変立派だった。若干自意識が鼻につくところはあるが、そんなのは個性のうち、場合によっては人としての魅力の一つだ。

 ゆえに、なぜあのような誤訳本が世に出たのか、という私の疑問は、解決を見ないまでもまあ、そういう事故的なこともあるよね、と納得せざるを得ない。

 ところで、もう一つ、おそらくこの先も解決をみないであろう、疑問がある。

 今、インターネットで、「山本光伸」「誤訳」などというキーワードで検索をかけると、GoogleでもYahoo!でも、数ページにわたってこの本『誤訳も芸のうち』のブックレビューや通販サイトの記事が延々表示されて、実際の誤訳を指摘した記事や投稿が一切浮かんでこない。
 ひょっとして、ネット上の誤訳批判封じのために、この本を上梓したんじゃね?という底意地の悪い意見が私の頭にこびりついて・・・・

2021年3月12日金曜日

0256 赤の女 上  (ハーパーBOOKS)

書 名 「赤の女 上
」 
原 題 「The Other Woman2018年
著 者 ダニエル・シルヴァ
翻訳者 山本 やよい 
出 版 ハーパーコリンズ・ ジャパン  2019年5月 
初 読 2021年2月5日 
文 庫  344ページ 
ISBN-10  4596541124 
ISBN-13  978-4596541123

2017年1月頃〜 
 前作の爆弾テロによる負傷の後遺症で痛む腰をさすりながらガブリエルが登場する。おかげでガブリエルもだいぶ歳相応に見えてきた。ウイーンの美術館で展示を見ているガブリエル。背後にはやきもきしている若い警備担当のチーフ。ガブリエルが若い警護担当相手に、歳相応、立場相応に偉そうに、重々しい物言いをしているのがなにげにおかしい。
 心配する警護係を追っ払って一人で歩いていった先は、過去の苦しい記憶の現場。甦る記憶に体が硬直し、天を仰いで涙をこらえる。やっぱりガブリエルはガブリエルだ。

 良い記憶のない雪のちらつく冬のウィーンでの作戦指揮。
 例によって陣頭指揮を執っていたが、亡命させる予定だったロシアのスパイがガブリエルの目の前で殺害されてしまう。その上その場にガブリエルが居合わせたところを写した隠し撮り写真がマスコミにリークされて窮地に立たされ、怒り心頭・恨み骨髄のガブリエルは〈オフィス〉の総力を挙げて怒濤の諜報戦に突入する。簡単ななずだった作戦の大失敗の原因は、情報の漏洩としか思えない。〈オフィス〉でなければ、共同作戦を張っていたMI6か? 友人であるはずの「C」との熾烈なやり取りに息がつまる。やがて判明したのは、宿敵ロシアの策謀がガブリエルを絡めとるべく二重三重に張り巡らされていたこと、そしてある伝説の二重スパイの存在だった。
 上巻は、ロシアの裏に潜む伝説の二重スパイの存在が明かになるまで。事が動くのは下巻から。

0261 赤の女 下  (ハーパーBOOKS)

書 名 「赤の女 下」 
原 題 「The Other Woman2018年
著 者 ダニエル・シルヴァ
翻訳者 山本 やよい 
出 版 ハーパーコリンズ・ ジャパン  2019年5月 
初 読 2021年2月5日 
文 庫  328ページ 
ISBN-10  4596541132 
ISBN-13  978-4596541130

 上巻で、はじ
めは楽勝かと思われた作戦が大失敗に終わった挙げ句、人殺しの汚名を着せられた〈オフィス〉長官ガブリエル。実はロシアに手玉に取られていたと分かり、巻き返しを図るため、MI6に喰い込んでいるロシアSVRの二重スパイのあぶり出しに掛かる。
 現代のMI6に影を落とすのは、MI6現長官グレアム・シーモアの父の時代の「ケンブリッジ・ファイブ」、世紀の二重スパイ、キム・フィルビーだった。
 フランスで人知らず育っていたフィルビーの婚外子を、ソ連に亡命していたフィルビーが密かにスパイに育てあげた、というあらすじはいささか荒唐無稽な感じを受けなくもないが、そこは、ガブリエルの緻密な捜索と作戦展開でぐいぐいと読者を惹きつけてストーリー展開の中に連れていかれる。

 その二重スパイをこれまで取り立ててきたのは他ならぬ現長官シーモアであり、ガブリエルの盟友でもあるシーモアは事の責任を問われて失脚しかねない。保身の為か及び腰になるシーモアのやり方に腹を立てつつも、友の立場を守るため、ひいてはそれが母国の為になると信じて敢えて煮え湯を飲むガブリエルである。
 今回はロシアの勝ちなのか。これまで文字通り満身創痍で戦いながら米英の諜報機関との関係を深めてきたガブリエルにとっては苦い結末である。

 なお、今回ガブリエルの射撃の腕前が珍しく披露されている。
 実はシリーズ中、ここに至るまで、ガブリエルが射撃の名手だということを信じきれていなかった。これまでに見た彼の射撃は、例の暗殺スタイル———ベレッタ9mmを構えた姿勢で標的に近寄りつつ全弾連射、というやつ———しかなかったが、今回初めてSVRの凄腕工作員相手に抜き撃ちで二人倒す、ということをやってのけた。ガブリエル、出来る子だったのね。

【覚え書き】後書き代わりの『著者ノート』が強烈である。
ダニエル・シルヴァはこの『著者ノート』に自己の信条を語るために、この長大なエンタメスパイ小説を書いて世に出しているのではないか、と思うほどだ。それほどまでに、ロシアに対する危機感が大きい。世界が平和ではないことを、はっきりと認識している人がここに居る、ということだ。日本の中にいるとなかなか実感できないことだが。

2021年3月10日水曜日

「誤訳も芸のうち」と翻訳者は言った。山本光伸part4 論創社『さらば死都ウィーン』

ハードカバー版
書 名 「さらば死都ウィーン―美術修復師ガブリエル・アロンシリーズ」 
原 題 「A Death in Vienna2004年 
著 者 ダニエル・シルヴァ 
翻訳者 山本 光伸 

 さて、このような不毛な投稿はこれで最後にしたい、と思っています。
ひとことで言うなら、うんざりだ。
気付いていたものの、part3で以下を挙げなかったのは、あまりにもあんまりだと思ったからだ。もしや、翻訳元となった底本の版が違うなどの理由で、参照している英文そのものが違うのでは?とも思った。
 執念深くて恐縮ですが、念のためUSAよりハードカバーを取り寄せてみましたが、とくにKindle版と違いはなかったようです。(すくなくとも当該箇所については。)

4章の中ほど
p.36  “ズビがガブリエルに歩み寄り、患者の容態を説明した。爆発の衝撃により全身の臓器が破壊されているらしい。皮膚の下で瞬間的に軍隊が解き放たれ、カオスの痕跡を残していった。外交官は怪我の症状をそんなふうに例えて、続けた——エリの体は五十フィートほど吹き飛ばされ、頭蓋骨にひびが入った。脳が損傷し、そのダメージの度合いは、本人の意識が回復するまで診断できない。脳の腫れを取り除くべく、二度手術が行われた——と。
「脳機能そのものは損なわれていません」ズビは締め括った。「しかし、当面は、機械によって命をとりとめている状態です」”

・・・・・さて。これは主観に過ぎないが、あまりにも酷い文章だと思わないか?
翻訳以前に、日本語として酷い。全身の臓器が破壊されていたら、死んでしまうよ。皮膚の下で瞬間的に軍隊が解き放たれ、ってどういう状況? 脳が損傷したのに脳機能そのものは損なわれていないって意味が分からない。で、なぜにこんな酷い翻訳になったのか、原文を確認したいと思ったんだが、それが以下の文です。

Zvi, after giving Gabriel a moment to himself, walked over to the glass and brought him up to date on his colleague’s condition. He spoke with the precision of a man who had watched too many medical dramas on television. Gabriel, his eyes fastened on Eli’s face, heard only half of what the diplomat was saying—enough to realize that his friend was near death, and that, even if he lived, he might never be the same. “For the moment,” Zvi said in conclusion, “he’s being kept alive by the machines.”

Silva, Daniel. A Death in Vienna (Gabriel Allon Series Book 4) (p.37). Penguin Publishing Group. Kindle 版. 

原文にないよね? 創作?いや、作文するなら、もっとマシな文章かけるのでは? 少なくとも日本語なのだから。いや、書けないからこうなったのか。


もう一カ所挙げておく。


15章冒頭

p.126  ガブリエルはシャムロンに電話を掛け、車を手配してもらってから、ヤド・ヴァシェムを離れた。セーフハウスの前に到着したときには、その車が待っていた。サングラスを掛けたシャムロンの配下が、ボンネットに凭れ、通りをぶらつく若い女たちを眺めている。ガブリエルが運転席につくや、車は真昼の陽光の中へ飛び出していった。
 一昔前なら、高速道路を使用し、ラマッラー、ナブルス、ジェニンを経由して北に向かっただろう。・・・・・”

・・・・・当たり障りのない文章に見えるが、どこか違和感が漂う。
違和感① ガブリエルはシャムロンをあまり当てにしておらず、できるだけ距離を取りたいと思っているのでは? 車の手配が必要だとして、シャムロンにおねだりの電話をするだろうか? 自分でレンタカーを手配するなり、タクシー使うなりするんじゃない? 
違和感② セーフハウスからヤド・ヴァシェムへの往復の足はどうしたのか? 多分徒歩の距離ではない。 
 まあ、とにかく気付いてしまった。15章冒頭の4行は、原文にはないと思われる。
 以下が原著の15章冒頭。

15 
JERUSALEM

IN THE OLD days he would have taken the fast road north through Ramallah, Nablus, and Jenin. Now, even a man with the survival skills of Gabriel would be foolhardy to attempt such a run without an armored car and battle escort. So he took the long way round, down the western slope of the Judean Mountains toward Tel Aviv, up the Coastal Plain to Hadera, then northeast, through the Mount Carmel ridge, to El Megiddo: Armageddon.

Silva, Daniel. A Death in Vienna (Gabriel Allon Series Book 4) (p.135). Penguin Publishing Group. Kindle 版. 

まるっきりの、翻訳者による付け足しです。
ガブリエルの行動手段について、説明不足だと思ったのだろうか?
それなら、そもそも、ヤド・ヴァシェムからエルサレム市街にガブリエルはどうやって戻ったというんだ。朝からヤド・ヴァシェムを訪問したのなら、行きも車だったと思うほうが自然ではないか? とにかく理由は分からないが、翻訳者が原著にない文を書き足してしまった、と考えるべきなんだろう。

なんだかなあ。

言い訳がましくて恐縮だが、私は翻訳に誤訳はつきものだと思っているし、誤訳と意訳のすれすれ、というのもあると思う。「大胆な意訳」というのが、原著の本意を伝える上で必要な場合だってあるだろう。
そうではなくて、原著の面白さを伝えることを阻害するような誤訳は勘弁してほしいだけだ。翻訳したときの作品が、「粗悪品」にならないようにして欲しいだけ。上に書き出したものも、日本語で違和感なくまとめられていたら、そもそも書き足しには気付かないだろうし、個人的には気付かないならそれで良いと思っている。

これが、いわゆる製品製造の世界であれば、SDマークがあったり、不当表示が規制されたり、粗悪品は交換できたり、消費者センターがあったりするわけだし、これがもし、自動車の話だったら、リコールで全部回収するところだ。しかし、こういう創作物に関してはそうもいかない。
読者は、出版社や翻訳者の善意と良心と、プロとしての矜持にすがるしかない。それとも与えられたものを有り難く押し戴いて頂戴しろってか?
少なくとも末端の読者がそれ相応のお金を払って購入するものである以上、最低限のクオリティは確保して欲しいと思う。

これらの本は、査読や、クレジットされる翻訳者自身のチェックや校正でもっとずっと良くなったのではないだろうか。もったいないことだ。


2021年3月6日土曜日

0260 ねみみにみみず(作品社)

書 名 「ねみみにみみず」 
著 者 東江 一紀 (著)、越前 敏弥 (編集) 
出 版 作品社 2018年4月 
初 読 2021年3月7日 
単行本 272ページ 
ISBN-10 4861826977 
ISBN-13 978-4861826979
長らく積んでいてごめんなさい。
そして、リアルタイムで著書を買わなかったばっかりに、いまになって古本で集めていて(→翻訳者の印税の足しにならない。)ごめんなさい。

失われた干支2周分の歳月が恨めしいやら口惜しいやら。
私、本が大好きだったことを長らく忘れていたのだ。
今から取り戻せるかどうか。数周回遅れで、1990年代くらいからの「新刊」を必死で追い求める日々です。翻訳小説って足が速いの。あっというまに絶版になるの。どんどん手にはいらなくなっていく、と思うと、読むスピードが遅い、という事実はとりあえず本棚の上の猫しか上がらない隙間に放り投げて、まずは積むべし!(こちらはもちろん本棚の上ではなく、棚板の上に積むのだ)となる。とにかく手にいれるのだ。読むのはそれからだ!その結果の794冊。えええ?半年くらい前にこのブログを立ち上げた時には600冊強とか書いていなかったか?半年で100冊増えたのか?まさか!? そう、この本を読んでいる数日の間にも10数冊増えた。だって、東江さんが紹介してくれるんだもの。
 翻訳者としての覚悟やら、自覚やら、苦しさやら、そしてなにやら隠微な喜びやら、懇切丁寧に教えていただきました。お弟子さんや同業者とのやりとりも面白おかしく、そして、越前敏弥さんの後書きに泣きました。仕事は人格。人としての品格。
 
 それにしても、2000年から2020年までの20年って、私のなかで完全にエアポケット化していて、記憶が薄い。何をしていたかといえば、仕事と子育て。この間の読書で印象に残っていることといったら、息子の授乳に退屈して、鬼平犯科帳全巻を読み尽くしたことと、娘の添い寝に退屈して、赤毛のアンシリーズを読破したこと?くらいだ。気付いたら今年、上の子が二十歳になっていて、我に返った。そして、1990年代の新刊本が、実は二十数年前の刊行だと、いまだに毎日、性懲りも無く驚いている。この間仕事はどんどん忙しくなってきて、今や一日15時間職場にいる日々。おや、これだけは東江さんと一緒だ。椅子に座っている体力(?)だけなら、自宅懲役状態の東江さんと並ぶかも?

《覚え書き》楡井浩一、菜畑めぶき、川合衿子、梁山泊・・・ではなくて泊山梁、だ。すべて、東江さんの別ペンネーム。

2021年3月5日金曜日

新明解さん賛歌 ねみみにみみず④

 たしか、「新明解さんの謎」という新書本があったような。(確認したら『新解さんの謎』文庫本だった。)
  この超語釈で超有名な国語辞典を、東江さんはご愛用だったようだ。
私もいつか入手しようと思っていたのに、気づいたら第5版、第6判、と版を(改訂を)重ね、編者が変わり、だいぶ中庸になってきている、というニュースを耳にしたのはいつのことだったか。
 そんなで入手をあきらめていたのに、ここに至って東江さんの新明解国語辞典への賛辞を目にすることになろうとは。 やっぱり読みたいなあ~。手元に置いておきたいなあ。ちなみに私が今も手元に置いている国語事典は、これ。『新小辞林 第二版特装版』三省堂。なんと昭和32年初版、昭和52年第2版特装版発行、とある。小学生の時に、学校で初めて辞書を使うので持ってきて、といわれて母から借用し、そのまま私物化したものです。箱と表紙はぼろくなったので、自分で和紙とビニールコーティングで表紙をつけました。
 さて、新明解さんですが、古本で手にはいるかな?
辞書を古書店で入手する、という発想がそもそもなかったが、ここは探してみよう。ついでに最新版(第8版)と左右にならべて、どのあたりが改定されているのか見比べてみたいもの。 つまるところ、わたしはそういう読み方が好きなのだな、と今日の昼休みに職場のビルの中の書店を巡回しつつ、思い当たった。

  おおむかし、「ベルサイユのばら」に夢中になっていた頃、どこまでが史実で、どこからが池田理代子さんの創作か見極めたくて、フランスの図鑑やら、歴史書やらを子供なりに図書館で探索したものだ。主人公オスカル・フランソワの父「ジャルジェ将軍」は実在する人名だと知って感動したりもした。そのあと、「オルフェウスの窓」でも同じような作業をしたので、フランス革命とロシア革命にはそこそこ(小学生にしては)詳しくなったものだ。(今は大半を忘却した。) 
 そう考えると、虚実ないまぜの物語世界を虚と実のギリギリの際まで追い込んで楽しむ癖は、どうやら読書歴の最初からだったようだ。いまもダニエル・シルヴァを読みながら全く同じ作業をしているのが可笑しい。
  一方で、ファンタジー作品で現実とつながってます、という設定は苦手だ。ファンタジーは完璧別世界で頭っからそっちに没入して楽しみたいらしい。
 だから、クローゼットの中がつながっている、とか、3/4番線がある、とかいうのはそもそも物語の入り口でけつまずく。こっちの世界では冴えない子だったのに、向こう側では英雄、というのも苦手。夢オチは最悪。「ソフィーの世界」は最後であの分厚い本をぶん投げたくなった。あの本はそもそも読み方を間違った。物語だと思って読んでいたから、いつ面白くなるだろうと我慢しながら読んでいたのに、最後まで面白くならなかった。しかも哲学の本ですらなく、ただの哲学史の本だった。

 ええと、ずいぶん脱線しているな。とりあえず、新明解さんを探そう。

2021年3月4日木曜日

表現する技術と、表現したいと乞う魂と。 ねみみにみみず③


さらに続いています。「響かせるの巻」p.110より 
翻訳という仕事を、ピアニストと比較。『200クラシック用語辞典』はおすすめされたのでチェック!

 「うーん、翻訳に似てはいないだろうか。文芸にだって、凝りすぎると嫌味になる作品と、文体こそすべてという作品があるよね。青柳さんも、“演奏/演奏家”の項で、翻訳と演奏は「原作と受け手の間でマゾヒスティックに悩む点は、同じだ」と書いている。」 p.110 

  前の記事で、自分は文芸翻訳家を工芸作家にたとえたので、ここで音楽家とのたとえでうなってしまった。
 私の頭はartの方に行ってたけど、なるほとmusicの例えは、すごく腑に落ちる。 なにしろ「作曲家」と「演奏者」がいるわけで、芸術として成立するためには、必ず製作者と作品の受け手の間に表現者が必要になる。譜面通りに弾くだけでは、表現足りえないことも同じ。
そしてこの「表現したい」は「創作したい」じゃないんだよね。自分の中の無形のうぞうぞ蠢く情熱とか情念とかにオリジナルの出口と形態を与えたいのではなくて、もうちょっとささやかで、自分だけじゃあ表出のきっかけもつかめない自分の中にある何かが、他者の作品という触媒に刺激されて自分でも意識しないうちにおずおずと姿を現す感じだ。そして、これだって、表現する技術を極限まで磨いて、追い込まないとできない業(わざ)なんだよ。

そんなことを、p.140でこんな風に書かれている。
「達意の文、“芸”の名にあたいする文を綴りながらも、けっして自分の主張を盛り込まない日本語表現力。」

そんなことを、さらにp.179 で展開されている。
「翻訳でないと自己表現ができない人っているんですよ。」

わかる。すごく判る。他人の表現物に乗っかって、触発されて初めて発火できる、なんというか燃焼効率の悪いっていうか、活性化するのに触媒が必要な化学物質みたいなのが自分の中に充満しているのだ。そして、他者の作品に関わることで、そんなエネルギーが音楽、とか外国文学みたいな形で、外形化されたときに、その仕事をお裾分けしてもらえるのが読者の幸せだ。



2021年3月3日水曜日

しばし待たれよ  ねみみにみみず その②


そして、続き。

で、「大先輩の高橋泰邦さんは、「文芸翻訳は、ひも付きの創作である」と言っておられる。これはつまり、純然たる創作ではもちろんないけれど、一方に技術翻訳とか実務翻訳とあいったものを対置してみると、われわれのやっている作業は、どうやら技術でも実務でもない、なにか隠微な、姑息な、いかがわしい要素を含むものらしいということの、韜晦を交えた表現ですね」p.64  と、東江さんがいう。

 

 さて、このいわずとしれた大翻訳家の高橋泰邦さん、この方、その方面では有名なとある「事件」をやらかしている。ボライソーシリーズ24巻、主人公ボライソー提督が戦死するシーンで、延々何ページにも渡って創作加筆してしまった。20冊以上分厚い本を訳出してきて、主人公への思い入れもひとしおだったに違いない。原著者が実にあっさり、数行で彼を死なせてしまったので、納得がいかなかったのだろうか。翻訳者は創作者でもある、という自負が暴走したのか。

 私は、といえば、まだこのシリーズ積読中なので、事細かに論評する資格はない。なぜにこの件を知っているかといえば、先達のブログやネット掲示板などで豊富に情報を拾えるから。

 すでに絶版になっているため、Amazonマケプレでこのシリーズを入手した際、版までは確認できず、正直なところ、加筆部分削除修正済みの第2版以降が入手できたならば、このことは知らなかったことにしよう、と思っていたのだ。だがしかし、たまたま手元に届いたのが、加筆部分がばっちり載った初版であった。そこで、第2版以降を探して入手する必要に迫られ、その結果として新旧版を左右見比べる環境が出来上がってしまった。(ある意味、残念。)

 

やはり、一読者としては、誰かの二次創作ではなく、出来も不出来も原著に忠実な物語世界に遊びたい、と思う。

原著の宇宙にいると思っていたのに、いつの間にか二次創作のパラレルワールドに拉致されていた、というのは、やはり読者への裏切りだろう。読者だって延々24冊、主人公と付き合ってきたのだ。果たして今まで、自分は何を読まされてきたのだろう?と疑惑も頭を擡げただろう。これも騒ぎのもとは、翻訳を読んでいて文体に違和感が募り、原著と読み比べた人が出てきたから。

 

さて、そんなことを思い出しつつ、東江さんのエッセイにもどると、こんなことを言っている。

“芸人は「正しいけれど野暮」より、断然「まちがっていても粋」の方を取ってほしい”という中野翠さんの『ひょんな人びと』(文春文庫)からの一文を引きつつ、


「そう、そのとおりだと思いますね。強く、強く思う。で、そういう視線で文芸翻訳ってものを眺めたとき、われわれはやっぱり芸人じゃないという気がするんです。

 原著者は、そりゃ、“まちがっても粋”の路線でだいじょうぶだろうけど、翻訳者のほうは、野暮でもなんでも、とにかく正しく訳さなくちゃ、商売になんないんだもの。

 というより、原著者の“まちがっても”の部分を、そのとおりのまちがいかたで正しく写し取るという、野暮の骨頂みたいなことをわれわれは嬉々として、じゃなくても口元に微苦笑をうかべつつ、日常的にやっているわけです。」p.65

 

そう!そうなのよ、それでこそ名翻訳者!と、私が膝を打つそばからこんなことも書いてる。

 

翻訳家どうしは仲が良い。ぶつかり合わない、冷めている、引いている、抑えている。で、ひたすら和やか、なんだそうな。


「要するに、同業者が敵じゃないんでしょう。むしろ、原著者、編集者、書評家、読者などの外部の諸団体に対して、結束しているような感がある。・・・・・」p.66


翻訳業界の微温湯的同族感。

そうかあ、それじゃあ、お前あんなくそな翻訳世に出すんじゃねーよ!翻訳者の名折れだろうーが。業界全体がめーわくすんだよ!みたいな喧嘩は期待できないのだな。まあ、それが当然だよねえ。小さな業界なんだもの。それに私だって、それじゃ職場のウマが合わない同僚と、口角泡飛ばして喧嘩できるかっていわれたら出来ないもの。


そういえば、この本を読みつつあちこちネット上をうろうろしていて、一般社団法人日本翻訳協会という団体さんを見つけました。ここの団体の倫理綱領がちょっと面白かった。

翻訳者の倫理綱領 4の同業者との関係、とか・・・・・・とっても微温湯的。個人的ににやにやしたのは、「汚い手段」とか「悪しざま」とかの言葉の使い方、文芸翻訳家っぽくて面白い。あと、4(2)の条文だけ、主語の書き方が違うのはなぜだ。


 

さて、私が、なぜにこんなに誤訳本に粘着しているのかと問われれば、人間の性で、そこでその時「何が起こったのか」を理解したいのだな。なんで、あんな翻訳がされて、編集のチェックも受けずに(いや、受けたのか?まさか?)、印刷されて、世に出てしまったのか。 自分で納得して、さもありなん、と思えないと気持ちが悪いのだ、きっと。でもこれもある意味傲慢な感覚ではある。理解できないものを批判する、という行為は、いじめとか、蔑視とか、排斥とか、暴力とか、民族差別とか、宗教差別とか、ジェノサイド、につながる階段の最初の一段目かもしれんぞ。

と、風呂敷が収集つかないレベルまで大きくなったところで、我に返って最初に戻って修正。

まり、


・不良品を、他人に売りつけてはなりません。

・自分の仕事は、誠実に行うべきです。

・なぜなら、あなたの仕事を待っている人がいるからです。

 

ほっ。小学生の道徳レベルまで引き戻せた。ダメなものはダメなのです。

 

それにしても、微温湯のなかをふわふわと漂うような文章ながら、羽毛枕に鈍器を仕込んだようなやわらかさで某氏のことを批判していると読めるのは、気のせいじゃないよねえ? でも、ここで気付いた。某ライソーシリーズ24巻目よりも、このエッセイの方が先に世に出ている。やっぱり私の気のせいだろうか。。。。

2021年3月2日火曜日

しばしの休息  ねみみにみみず その①

私は文句つけたがりの性格破綻者じゃない
翻訳小説をココロから愛しているだけだ
翻訳家の仕事を心底敬愛しているだけだ
大好きな作品をテキトーに訳されているのを見つけちゃっただけなんだよ〜〜〜!と叫んでみる。

そんなやさぐれた心に一服の清涼剤を
東江一紀さんのだじゃれwww

ああ癒やされる。
一冊終えるごとに3,4冊抱え込むって、それ、ワタシの積読と同じ(笑)

とりあえず、出てきた書名やら人名をメモメモ。
『ストーン・シティ』東江さんの翻訳作品、新潮文庫・・・・・1993年刊。絶版。マケプレ頼み。→ポチっとな。でも、古書では印税の足しにならないので、本当は新本を買いたい。私が出来るだけ新本を買う理由の一つ。
★ 伏見威蕃さん 翻訳者 最近ではもちろんグレイマン・シリーズ♪・・・・・Wikiで調べてみて、はじめて「いわん」さんだと知った。不覚。クライブ・カッスラーとか、トム・クランシーとかの他に、ビジネス系、政治系ノンフィクションや指南本も沢山訳していらっしゃる。
マッド・スカダー訳者。もちろん翻訳家の田口俊樹さん。スカダーシリーズは鋭意積読中だ。 
『ヴァーディカル・ラン』、邦題は『垂直の戦場』徳間書店 (1996/9)東江さんの翻訳作品。ちなみにハードカバーのみ(笑)。そして絶版。ああ勿体ない。 ・・・・私、このエッセイ読み終わるまでに何冊ポチるだろうか? 
★大先輩の高橋泰邦さん (1925年生-2015年没)、ホーンブロワー、ボライソー、オーブリー&マチェリンなどの海洋冒険小説を訳出したその道の大家。そういえば、ダグラス・リーマン(アレグザンダー・ケントの別名義)を翻訳している大森(高永)洋子さんや高津幸枝さん、高沢次郎さんは、お弟子さん。「高」の一字を師匠から頂いているのね。


そういえば、ふと思ったのだけど、職業翻訳家って、工芸作家と似ているよな。たとえば文学作品を書くのがファイン・アートなら、翻訳は工芸品。あくまでも出過ぎず、規範にのっとり、実用的でなければならぬ。しかしそこには確かに技があって、その技倆によって翻訳家さんによっては作品がリアルアートたる文芸作品になりうる。であるからこそ、原著の劣化版みたいな作品は御免被りたいわけで。。。。
昔、十代の学生の頃、いや、その前の小学生の頃だな。絵を描くのが大好きだったけど、自分にはファイン・アートをやる才能は無い、とはっきり自覚できていた。だから、実用の美である工芸に心惹かれたんだよなあ。今、翻訳小説に心惹かれるのも似たような心境かもしれない。

2021年3月1日月曜日

2021年2月の読書メーター

 1月はかなり飛ばしてましたが、2月は重い(いろんな意味で)本に当たり、冊数は振るわず。3月はもう少し楽しく読書しようと思います♪ 逆説的に、つくづく自分は翻訳小説が好きなんだと気付いた2月でした。 
 ガブリエル・アロンシリーズはあと2冊。3月には新刊が出ます。
 現在待たせているパイクとジェントリーをまずは読まねばなりますまい。
2021年2月の
読んだ本の数:6
読んだページ数:1798
ナイス数:935

さらば死都ウィーン―美術修復師ガブリエル・アロンシリーズさらば死都ウィーン―美術修復師ガブリエル・アロンシリーズ感想
やーーーっと読了。シリーズ中ではとても大切な巻なのに、例によって翻訳がまずいです。→https://koko-yori-mybooks.blogspot.com/2021/02/part.html これまでガブリエルの生い立ちが気になっていたが、この巻でだいぶ亡き母との関係が判明した。そして、シャムロンの強引さに振り回されていた感のあるガブリエルと師との関係にも変化の兆しが? ガブリエルがシャムロンに、人殺しはしたくない、とはっきり口にしたのは大きい。だからといってそれが許容されるわけではないのだが。
読了日:02月28日 著者:ダニエル シルヴァ

報復という名の芸術―美術修復師ガブリエル・アロン報復という名の芸術―美術修復師ガブリエル・アロン感想
ガブリエル・アロンシリーズ記念すべき1冊目。だがしかし、翻訳が酷い。詳細はこちら→https://koko-yori-mybooks.blogspot.com/2021/02/blog-post_6.html  ひっそり絶版しているには訳があったのか? しかしともあれ、ハーパーブックスの方のシリーズに繋がる最初の一冊。ガブリエルの過去の事件や、両親のことなど、シリーズを読む上での情報満載。ウージとの初対面や、CIAのエイドリアンも登場。シャムロンが矍鑠としている。翻訳を改めてハーパーから再版希望。 
読了日:02月17日 著者:ダニエル シルヴァ

夜と霧 新版夜と霧 新版感想
強制収容所に収容されたユダヤ人心理学者、という特異な視点から、その様な環境におかれた人間の心理をつとめて客観的・普遍的な視点から記述しようとしたもの。古典的名著であるが、これは1977年版を底本とした新版である。穏やかで慎み深い翻訳となっている。旧版が1947年、解放直後に記されたものであり、イスラエル建国の時期とも重なり、アンネの日記同様、様々なプロパガンダにも利用されたことを、著者は苦しく思っていたとのこと。学術的・普遍的な視点に立ち戻り、改稿されている。著者が語っているように「個人的」で内的な体験として語られていること、そしてここでは敢えて語られていないことにも意識を向けながら読まなければならない。当時ヨーロッパで暮らしていた1,100万人のうち600万人が組織的に、きわめて「効率よく」殺害されたこと。生き残った人々にも様々な困難が残されたこと、など。
読了日:02月10日 著者:ヴィクトール・E・フランクル

告解―美術修復師ガブリエル・アロンシリーズ告解―美術修復師ガブリエル・アロンシリーズ感想
ガブリエル・アロンシリーズ3作目。ナチス3部作2作目。ホロコーストに協力しナチスの戦争犯罪者の逃亡を助けた法王庁、ローマ・カトリック教会に対する告発と、ユダヤ迫害を肯定し、ローマ・カトリックの権威と権益を守ろうとする法王庁内の秘密組織との暗闘。1942年のある重大な事件の調査を手掛けたためにガブリエルの旧友が抹殺された。彼が殺された理由とその資料を追ううちにガブリエルも命を狙われ、ユダヤ人との和解を目指していた新教皇もまた、暗殺の危機に。ガブリエルは教皇を守り、秘密組織に対抗しようとするが。
読了日:02月05日 著者:ダニエル シルヴァ
赤の女 上 (ハーパーBOOKS)赤の女 上 (ハーパーBOOKS)感想
2017年1月頃〜 前作の爆弾テロによる負傷の後遺症で痛む腰をさすりながらガブリエル登場。おかげでガブリエルもだいぶ歳相応に見えてきた。良い記憶のない冬のウィーンでの作戦指揮。例によって陣頭指揮を執っていたが、亡命させる予定だったロシアのスパイが目の前で殺害されてしまう。その上その場にガブリエルが居合わせたことをマスコミにリークされて窮地に立たされる。怒り心頭のガブリエルは怒濤の諜報戦に突入するが、判明したのは、宿敵ロシアの策謀が二重三重に張り巡らされていたこと、そしてある伝説の二重スパイの存在だった。
読了日:02月04日 著者:ダニエル シルヴァ

アンジュール―ある犬の物語アンジュール―ある犬の物語感想
泣く。この胸苦しさを言葉にしたくない。
読了日:02月03日 著者:ガブリエル バンサン

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