2021年3月4日木曜日

表現する技術と、表現したいと乞う魂と。 ねみみにみみず③


さらに続いています。「響かせるの巻」p.110より 
翻訳という仕事を、ピアニストと比較。『200クラシック用語辞典』はおすすめされたのでチェック!

 「うーん、翻訳に似てはいないだろうか。文芸にだって、凝りすぎると嫌味になる作品と、文体こそすべてという作品があるよね。青柳さんも、“演奏/演奏家”の項で、翻訳と演奏は「原作と受け手の間でマゾヒスティックに悩む点は、同じだ」と書いている。」 p.110 

  前の記事で、自分は文芸翻訳家を工芸作家にたとえたので、ここで音楽家とのたとえでうなってしまった。
 私の頭はartの方に行ってたけど、なるほとmusicの例えは、すごく腑に落ちる。 なにしろ「作曲家」と「演奏者」がいるわけで、芸術として成立するためには、必ず製作者と作品の受け手の間に表現者が必要になる。譜面通りに弾くだけでは、表現足りえないことも同じ。
そしてこの「表現したい」は「創作したい」じゃないんだよね。自分の中の無形のうぞうぞ蠢く情熱とか情念とかにオリジナルの出口と形態を与えたいのではなくて、もうちょっとささやかで、自分だけじゃあ表出のきっかけもつかめない自分の中にある何かが、他者の作品という触媒に刺激されて自分でも意識しないうちにおずおずと姿を現す感じだ。そして、これだって、表現する技術を極限まで磨いて、追い込まないとできない業(わざ)なんだよ。

そんなことを、p.140でこんな風に書かれている。
「達意の文、“芸”の名にあたいする文を綴りながらも、けっして自分の主張を盛り込まない日本語表現力。」

そんなことを、さらにp.179 で展開されている。
「翻訳でないと自己表現ができない人っているんですよ。」

わかる。すごく判る。他人の表現物に乗っかって、触発されて初めて発火できる、なんというか燃焼効率の悪いっていうか、活性化するのに触媒が必要な化学物質みたいなのが自分の中に充満しているのだ。そして、他者の作品に関わることで、そんなエネルギーが音楽、とか外国文学みたいな形で、外形化されたときに、その仕事をお裾分けしてもらえるのが読者の幸せだ。



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