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2021年9月14日火曜日

0294 コロナの時代のわれら(単行本) 

書 名 「コロナの時代のわれら」 
原 題 NEL CONTAGIO」2020年
著 者 パオロ・ジョルダーノ 
翻訳者 飯田 亮介 
出 版 早川書房 2020年4月 
単行本 128ページ 
初 読 2021年5月15日 
読書メーター    
ISBN-10 4152099453 
ISBN-13 978-4152099457

 以前、前任者からBCP(事業継続計画)の策定ができていない、と課題として引き継いだ。東日本大震災の教訓として、早急に定める必要があったが、多忙を極める職場で、代々問題意識だけを後任に渡してきていた。私も結局BCPの策定には手が出せなかったのだが、関連資料を集めながら、地震などの自然災害だけでなく、いずれ流行する可能性の高い高病原性新型インフルエンザの対策も必要であることを意識した。とにかく災害備蓄食料を見直して整備するところまではなんとかこぎつけた。というのが前々職場で5年位前の話。
 その頃、自分の自宅は、これも東日本大震災の教訓として、すでに災害対策の諸々の備蓄をしていたが、これに加えて最低一ヶ月は自宅に籠城できる食料備蓄(コメやミソ、保存のきく粉もの類や缶詰など)、飲料水、ポカリスエットの素、ビタミン剤、総合ミネラル剤などに加えて、一家4人×一日1枚×2ヶ月分のサージカルマスクも少しずつ買い足しながら備蓄に加えた。マスクは花粉症持ちが家にいるので、常時需要はあった。(トイレットペーパーはもともとネットで大箱買いしていたので、2ヶ月分位の備蓄がだいたいいつもあった。)
 中国で新型肺炎が流行している、とマスコミで話題になり始めたとき、これは始まるな、と予感がして、まだ店頭に溢れていた不織布マスクをさらに買い足した。翌週にはマスクが街から消えたが、トイレットペーパーまで無くなるのはちょっと予想外だった。家には買い置きが沢山あったが、質の高いマスクがいつ、再度店頭で手に入るようになるかわからない不安から、半年ほどは、不織布マスクを洗濯して再利用もしていた。(ちなみに我が家で備蓄していたのは3Mのサージカルマスクだった。これは未だにネットでも手に入らない。)
 そんな感じだったので、マスクが手にはいらなくて困っている友人に、数箱づつ分けたりする余裕があったのはよかった。

 この本が2020年4月に世にでてから、ちょうど1年と半年が経過したが、いまだこの本の中身は過去のものではない。ウイルスという新たな脅威に直面したとき、人々はどのように困惑し、拒否し、見当違いのものに縋り付き、時間を無駄にし、その結果死者を増やすのか。
 日本の国内でも、多くの人が淡々とワクチン接種を遂行し、うがい手洗いマスクを励行し、他人との接触を避け、自分も他人も害さないように注意深く辛抱強く日常を送っている一方で、いまだにワクチン懐疑派や、イベルメクチン信奉者、NOマスク活動家、コロナは陰謀派などの魑魅魍魎がうごめいている。もともとナチュラルでスピリチュアルなワクチン拒否派は一定数いたので、それが核になっているようにも、取り込まれているようにも見える。

 新型感染症の流行自体は予測可能なもので、問題はそれがどれだけ人間に悪さをするかということだろう。たとえば、2009年には豚由来のインフルエンザウイルスA(H1N1)pdm09が世界的に流行したが、同年秋までには当初怖れていたほどの致死性はないことが判明し、季節性インフルエンザと同様の扱いとなった。今、最も怖れられている高病原性インフルエンザの致死率は20%程度と見込まれていて、もしこれが流行したら、犠牲者はいまの新型コロナの比ではない。ただし希望もある。昨冬、コロナ対策による三密防止を徹底していた日本では、インフルエンザの流行はほぼゼロだった。つまり、コロナ対策はインフルエンザにも通用するということだろう。私が当初から新型コロナにあまりパニクっていないのは、もともと強毒性新型インフルの出現を怖れていたからだ。
 昨日の統計で、日本のワクチン接種率はアメリカに並んだ。しかし当初80%の人が免疫を持てば社会免疫を獲得する、と言われてきたのに、伝播性の強いデルタ株の登場のおかげで、80%では流行を抑制できないらしい。接種率90%以上が望ましいが、それは難しいので85%を目指し、生活様式による予防と組みあわせる、というのが東京の方針のようだ。東京は第5波をついにやり過ごしたところだが、冬場に訪れるであろう第6波に向けて、さらにワクチン接種を進める必要がある。でも、急激な第5波の収束を目の当たりにして、もしかしたら来春には、コロナは『ただの風邪』の仲間入りができるのではないか?という期待も持ちつつある。変異株との戦いはまだまだ続くが、これが新しい、コロナと共存する時代につながっていく。それまでは、自分が感染しないように気をつけながら、新しい生活様式を受け入れて生きていくことを一人でも多くの人と共有したいと思う。

『このように感染症の流行は、集団のメンバーとしての自覚を持てと僕たちに促す。平時の僕らが不慣れなタイプの想像力を働かせろと命じ、自分と人々のあいだにはほどくにほどけぬ結びつきがあることを理解し、個人的な選択をする際にもみんなの存在を計算にいれろと命ずる。感染症の流行に際して、僕たちは単一の生物であり、ひとつの共同体に戻るのだ。』p.42


 

2021年6月10日木曜日

0275 日々翻訳ざんげ エンタメ翻訳この四十年


書 名 「日々翻訳ざんげ エンタメ翻訳この四十年」 
著 者 田口 俊樹
出 版 本の雑誌社 2021年3月 
初 読 2021年6月9日 
単行本(ソフトカバー)216ページ 
ISBN-10 4860114558 
ISBN-13 978-4860114558

 先に読んだ『寝耳にみみず』東江一紀さんのいうところの「マット・スカダー訳者」である田口俊樹さんの翻訳秘話?

 面白い、というより、実に勉強になりました。いや、もちろん面白いのだけど!それよりも、紹介されているあの本、この本、次から次へとAmazonでポチりたくなる。
「残念なことにとっくの昔に絶版になっているけど、アマゾンのマーケットプレースで一円で買える。是非ご一読を!」の一文に切なさを感じつつ。(マーケットプレイスじゃ、ないんだ!と変なところに田口さんのこだわりを感じる。)
 それにしても、田口さん、チャーミングなお人だ。超がつくような大物翻訳家にこんなこと言ったら失礼だろうか?

以下は、レビューというよりは、この本に触発されてあれこれ私が考えたこと。
 私は読んだ翻訳の善し悪しを簡単に口にするが、それってとてつもないことをしているよな、と日々後悔に襲われもする。一方で、読むのは私だ(読者だ)、みたいな不遜な気分もそれなりにあって、私ごときのシロートに何かを言われるような翻訳を世に出さないでよ、という素人の傲慢さ全開で読書ブログを書いている。
 いやだがしかし、私に翻訳文芸を読ませてくれる大切な翻訳家さん達に対してともかくも、やり過ぎないように、中庸に、英語力がちゃんと備わってるわけでもない自分の無知を自覚して、批判ではなくむしろ育てることを意識して、、、、、って、ウチの職場の新人育成じゃあるまいし、プロに対してそれも失礼でしょう?
 世に作品を出すことを、商業ベースでやらねばばらないという難しさももちろん理解できる。
 大抵のことはググれば情報が手に入る時代になったからこそ、機械翻訳が性能を上げてきているからこそ、調べものの手間が減った分で表現を磨いてほしい、とこれからの翻訳家さん達には願う。ああ、何という上から目線なんだろう、恥ずかしい。そして、兎にも角にも、出版社さんには査読を頑張ってほしい。シロートが一発で気付くような間違いを紙面に乗せたまま、作品を世に出してはいけないよ。そういう点では、やはり精度の高さを信頼できるのは、東京創元さんかな。もうここ何年か「初夏のホンまつり」に行けていないが、アン・レッキーとクレイスの続刊を出してくれてありがとう。あの時話相手をしてくれた女性の編集者さんにお礼を言いたい。

 ところで、第5回の、「アクシデンタル・ツーリスト」の和訳タイトルを私も考えてみた。『やむにやまれぬ旅行のために』 これはどうだろうか?

 この本のレビューからかなり遠方まで離れてしまったので戻すが、私の知らない言葉の知識がたくさんあって、凄く勉強になった。以下に勉強と考察のまとめ。

「口径」と「番径」(p.32)・・・これは知ってたけど、ひとえにWikiのお陰だ。
「ダウンタウン」は、市当局、警察の含み。「ちょっと署までご同行願おうか」って感じ? 頭に浮かぶのがくたびれたトレンチコート着た山さんだ。年齢が知れちゃう(笑)
「書き入れどき」(p.35)・・・掻き入れだと思っていた。帳簿に儲けを「書き入れる」から来ていたとは!
「まさに掬すべき滋味がある。」(p.36)・・・恥ずかしながら掬すべき、という言葉を知らなかった。「「滋味掬すべき」(じみきくすべき)とは「豊かで深い精神的な味わい[=滋味]を、十分味わう[=掬す]べき」ということ。」
「ひとりごちる」と「ひとりごつ」(p.72)
「みみをすまして」と「みみをすませて」(p.73)・・・あれ?それでは大好きなジブリの名作『耳をすませば』はどうなる?
「ソーホース」(p.105)・・・・田口さんに媚びるわけじゃないが、私は「木挽き台」が一番好きだな。イメージがしっくりくる。
「狎れ」(p.118) 
「思しい」(p.154)

2021年3月6日土曜日

0260 ねみみにみみず(作品社)

書 名 「ねみみにみみず」 
著 者 東江 一紀 (著)、越前 敏弥 (編集) 
出 版 作品社 2018年4月 
初 読 2021年3月7日 
単行本 272ページ 
ISBN-10 4861826977 
ISBN-13 978-4861826979
長らく積んでいてごめんなさい。
そして、リアルタイムで著書を買わなかったばっかりに、いまになって古本で集めていて(→翻訳者の印税の足しにならない。)ごめんなさい。

失われた干支2周分の歳月が恨めしいやら口惜しいやら。
私、本が大好きだったことを長らく忘れていたのだ。
今から取り戻せるかどうか。数周回遅れで、1990年代くらいからの「新刊」を必死で追い求める日々です。翻訳小説って足が速いの。あっというまに絶版になるの。どんどん手にはいらなくなっていく、と思うと、読むスピードが遅い、という事実はとりあえず本棚の上の猫しか上がらない隙間に放り投げて、まずは積むべし!(こちらはもちろん本棚の上ではなく、棚板の上に積むのだ)となる。とにかく手にいれるのだ。読むのはそれからだ!その結果の794冊。えええ?半年くらい前にこのブログを立ち上げた時には600冊強とか書いていなかったか?半年で100冊増えたのか?まさか!? そう、この本を読んでいる数日の間にも10数冊増えた。だって、東江さんが紹介してくれるんだもの。
 翻訳者としての覚悟やら、自覚やら、苦しさやら、そしてなにやら隠微な喜びやら、懇切丁寧に教えていただきました。お弟子さんや同業者とのやりとりも面白おかしく、そして、越前敏弥さんの後書きに泣きました。仕事は人格。人としての品格。
 
 それにしても、2000年から2020年までの20年って、私のなかで完全にエアポケット化していて、記憶が薄い。何をしていたかといえば、仕事と子育て。この間の読書で印象に残っていることといったら、息子の授乳に退屈して、鬼平犯科帳全巻を読み尽くしたことと、娘の添い寝に退屈して、赤毛のアンシリーズを読破したこと?くらいだ。気付いたら今年、上の子が二十歳になっていて、我に返った。そして、1990年代の新刊本が、実は二十数年前の刊行だと、いまだに毎日、性懲りも無く驚いている。この間仕事はどんどん忙しくなってきて、今や一日15時間職場にいる日々。おや、これだけは東江さんと一緒だ。椅子に座っている体力(?)だけなら、自宅懲役状態の東江さんと並ぶかも?

《覚え書き》楡井浩一、菜畑めぶき、川合衿子、梁山泊・・・ではなくて泊山梁、だ。すべて、東江さんの別ペンネーム。

2021年3月5日金曜日

新明解さん賛歌 ねみみにみみず④

 たしか、「新明解さんの謎」という新書本があったような。(確認したら『新解さんの謎』文庫本だった。)
  この超語釈で超有名な国語辞典を、東江さんはご愛用だったようだ。
私もいつか入手しようと思っていたのに、気づいたら第5版、第6判、と版を(改訂を)重ね、編者が変わり、だいぶ中庸になってきている、というニュースを耳にしたのはいつのことだったか。
 そんなで入手をあきらめていたのに、ここに至って東江さんの新明解国語辞典への賛辞を目にすることになろうとは。 やっぱり読みたいなあ~。手元に置いておきたいなあ。ちなみに私が今も手元に置いている国語事典は、これ。『新小辞林 第二版特装版』三省堂。なんと昭和32年初版、昭和52年第2版特装版発行、とある。小学生の時に、学校で初めて辞書を使うので持ってきて、といわれて母から借用し、そのまま私物化したものです。箱と表紙はぼろくなったので、自分で和紙とビニールコーティングで表紙をつけました。
 さて、新明解さんですが、古本で手にはいるかな?
辞書を古書店で入手する、という発想がそもそもなかったが、ここは探してみよう。ついでに最新版(第8版)と左右にならべて、どのあたりが改定されているのか見比べてみたいもの。 つまるところ、わたしはそういう読み方が好きなのだな、と今日の昼休みに職場のビルの中の書店を巡回しつつ、思い当たった。

  おおむかし、「ベルサイユのばら」に夢中になっていた頃、どこまでが史実で、どこからが池田理代子さんの創作か見極めたくて、フランスの図鑑やら、歴史書やらを子供なりに図書館で探索したものだ。主人公オスカル・フランソワの父「ジャルジェ将軍」は実在する人名だと知って感動したりもした。そのあと、「オルフェウスの窓」でも同じような作業をしたので、フランス革命とロシア革命にはそこそこ(小学生にしては)詳しくなったものだ。(今は大半を忘却した。) 
 そう考えると、虚実ないまぜの物語世界を虚と実のギリギリの際まで追い込んで楽しむ癖は、どうやら読書歴の最初からだったようだ。いまもダニエル・シルヴァを読みながら全く同じ作業をしているのが可笑しい。
  一方で、ファンタジー作品で現実とつながってます、という設定は苦手だ。ファンタジーは完璧別世界で頭っからそっちに没入して楽しみたいらしい。
 だから、クローゼットの中がつながっている、とか、3/4番線がある、とかいうのはそもそも物語の入り口でけつまずく。こっちの世界では冴えない子だったのに、向こう側では英雄、というのも苦手。夢オチは最悪。「ソフィーの世界」は最後であの分厚い本をぶん投げたくなった。あの本はそもそも読み方を間違った。物語だと思って読んでいたから、いつ面白くなるだろうと我慢しながら読んでいたのに、最後まで面白くならなかった。しかも哲学の本ですらなく、ただの哲学史の本だった。

 ええと、ずいぶん脱線しているな。とりあえず、新明解さんを探そう。

2021年3月4日木曜日

表現する技術と、表現したいと乞う魂と。 ねみみにみみず③


さらに続いています。「響かせるの巻」p.110より 
翻訳という仕事を、ピアニストと比較。『200クラシック用語辞典』はおすすめされたのでチェック!

 「うーん、翻訳に似てはいないだろうか。文芸にだって、凝りすぎると嫌味になる作品と、文体こそすべてという作品があるよね。青柳さんも、“演奏/演奏家”の項で、翻訳と演奏は「原作と受け手の間でマゾヒスティックに悩む点は、同じだ」と書いている。」 p.110 

  前の記事で、自分は文芸翻訳家を工芸作家にたとえたので、ここで音楽家とのたとえでうなってしまった。
 私の頭はartの方に行ってたけど、なるほとmusicの例えは、すごく腑に落ちる。 なにしろ「作曲家」と「演奏者」がいるわけで、芸術として成立するためには、必ず製作者と作品の受け手の間に表現者が必要になる。譜面通りに弾くだけでは、表現足りえないことも同じ。
そしてこの「表現したい」は「創作したい」じゃないんだよね。自分の中の無形のうぞうぞ蠢く情熱とか情念とかにオリジナルの出口と形態を与えたいのではなくて、もうちょっとささやかで、自分だけじゃあ表出のきっかけもつかめない自分の中にある何かが、他者の作品という触媒に刺激されて自分でも意識しないうちにおずおずと姿を現す感じだ。そして、これだって、表現する技術を極限まで磨いて、追い込まないとできない業(わざ)なんだよ。

そんなことを、p.140でこんな風に書かれている。
「達意の文、“芸”の名にあたいする文を綴りながらも、けっして自分の主張を盛り込まない日本語表現力。」

そんなことを、さらにp.179 で展開されている。
「翻訳でないと自己表現ができない人っているんですよ。」

わかる。すごく判る。他人の表現物に乗っかって、触発されて初めて発火できる、なんというか燃焼効率の悪いっていうか、活性化するのに触媒が必要な化学物質みたいなのが自分の中に充満しているのだ。そして、他者の作品に関わることで、そんなエネルギーが音楽、とか外国文学みたいな形で、外形化されたときに、その仕事をお裾分けしてもらえるのが読者の幸せだ。



2021年3月3日水曜日

しばし待たれよ  ねみみにみみず その②


そして、続き。

で、「大先輩の高橋泰邦さんは、「文芸翻訳は、ひも付きの創作である」と言っておられる。これはつまり、純然たる創作ではもちろんないけれど、一方に技術翻訳とか実務翻訳とあいったものを対置してみると、われわれのやっている作業は、どうやら技術でも実務でもない、なにか隠微な、姑息な、いかがわしい要素を含むものらしいということの、韜晦を交えた表現ですね」p.64  と、東江さんがいう。

 

 さて、このいわずとしれた大翻訳家の高橋泰邦さん、この方、その方面では有名なとある「事件」をやらかしている。ボライソーシリーズ24巻、主人公ボライソー提督が戦死するシーンで、延々何ページにも渡って創作加筆してしまった。20冊以上分厚い本を訳出してきて、主人公への思い入れもひとしおだったに違いない。原著者が実にあっさり、数行で彼を死なせてしまったので、納得がいかなかったのだろうか。翻訳者は創作者でもある、という自負が暴走したのか。

 私は、といえば、まだこのシリーズ積読中なので、事細かに論評する資格はない。なぜにこの件を知っているかといえば、先達のブログやネット掲示板などで豊富に情報を拾えるから。

 すでに絶版になっているため、Amazonマケプレでこのシリーズを入手した際、版までは確認できず、正直なところ、加筆部分削除修正済みの第2版以降が入手できたならば、このことは知らなかったことにしよう、と思っていたのだ。だがしかし、たまたま手元に届いたのが、加筆部分がばっちり載った初版であった。そこで、第2版以降を探して入手する必要に迫られ、その結果として新旧版を左右見比べる環境が出来上がってしまった。(ある意味、残念。)

 

やはり、一読者としては、誰かの二次創作ではなく、出来も不出来も原著に忠実な物語世界に遊びたい、と思う。

原著の宇宙にいると思っていたのに、いつの間にか二次創作のパラレルワールドに拉致されていた、というのは、やはり読者への裏切りだろう。読者だって延々24冊、主人公と付き合ってきたのだ。果たして今まで、自分は何を読まされてきたのだろう?と疑惑も頭を擡げただろう。これも騒ぎのもとは、翻訳を読んでいて文体に違和感が募り、原著と読み比べた人が出てきたから。

 

さて、そんなことを思い出しつつ、東江さんのエッセイにもどると、こんなことを言っている。

“芸人は「正しいけれど野暮」より、断然「まちがっていても粋」の方を取ってほしい”という中野翠さんの『ひょんな人びと』(文春文庫)からの一文を引きつつ、


「そう、そのとおりだと思いますね。強く、強く思う。で、そういう視線で文芸翻訳ってものを眺めたとき、われわれはやっぱり芸人じゃないという気がするんです。

 原著者は、そりゃ、“まちがっても粋”の路線でだいじょうぶだろうけど、翻訳者のほうは、野暮でもなんでも、とにかく正しく訳さなくちゃ、商売になんないんだもの。

 というより、原著者の“まちがっても”の部分を、そのとおりのまちがいかたで正しく写し取るという、野暮の骨頂みたいなことをわれわれは嬉々として、じゃなくても口元に微苦笑をうかべつつ、日常的にやっているわけです。」p.65

 

そう!そうなのよ、それでこそ名翻訳者!と、私が膝を打つそばからこんなことも書いてる。

 

翻訳家どうしは仲が良い。ぶつかり合わない、冷めている、引いている、抑えている。で、ひたすら和やか、なんだそうな。


「要するに、同業者が敵じゃないんでしょう。むしろ、原著者、編集者、書評家、読者などの外部の諸団体に対して、結束しているような感がある。・・・・・」p.66


翻訳業界の微温湯的同族感。

そうかあ、それじゃあ、お前あんなくそな翻訳世に出すんじゃねーよ!翻訳者の名折れだろうーが。業界全体がめーわくすんだよ!みたいな喧嘩は期待できないのだな。まあ、それが当然だよねえ。小さな業界なんだもの。それに私だって、それじゃ職場のウマが合わない同僚と、口角泡飛ばして喧嘩できるかっていわれたら出来ないもの。


そういえば、この本を読みつつあちこちネット上をうろうろしていて、一般社団法人日本翻訳協会という団体さんを見つけました。ここの団体の倫理綱領がちょっと面白かった。

→翻訳者の倫理綱領 4の同業者との関係、とか・・・・・・とっても微温湯的。個人的ににやにやしたのは、「汚い手段」とか「悪しざま」とかの言葉の使い方、文芸翻訳家っぽくて面白い。あと、4(2)の条文だけ、主語の書き方が違うのはなぜだ。


 

さて、私が、なぜにこんなに誤訳本に粘着しているのかと問われれば、人間の性で、そこでその時「何が起こったのか」を理解したいのだな。なんで、あんな翻訳がされて、編集のチェックも受けずに(いや、受けたのか?まさか?)、印刷されて、世に出てしまったのか。 自分で納得して、さもありなん、と思えないと気持ちが悪いのだ、きっと。でもこれもある意味傲慢な感覚ではある。理解できないものを批判する、という行為は、いじめ、とか、蔑視、とか、排斥、とか、暴力、とか、民族差別、とか、宗教差別、とか、ジェノサイド、につながる階段の最初の一段目かもしれんぞ。

と、風呂敷が収集つかないレベルまで大きくなったところで、我に返って最初に戻って修正。

つまり、


・不良品を、他人に売りつけてはなりません。

・自分の仕事は、誠実に行うべきです。

・なぜなら、あなたの仕事を待っている人がいるからです。

 

ほっ。小学生の道徳レベルまで引き戻せた。ダメなものはダメなのです。

 

それにしても、微温湯のなかをふわふわと漂うような文章ながら、羽毛枕に鈍器を仕込んだようなやわらかさで某氏のことを批判していると読めるのは、気のせいじゃないよねえ? でも、ここで気付いた。某ライソーシリーズ24巻目よりも、このエッセイの方が先に世に出ている。やっぱり私の気のせいだろうか。。。。

2021年3月2日火曜日

しばしの休息  ねみみにみみず その①

私は文句つけたがりの性格破綻者じゃない
翻訳小説をココロから愛しているだけだ
翻訳家の仕事を心底敬愛しているだけだ
大好きな作品をテキトーに訳されているのを見つけちゃっただけなんだよ〜〜〜!と叫んでみる。

そんなやさぐれた心に一服の清涼剤を
東江一紀さんのだじゃれwww

ああ癒やされる。
一冊終えるごとに3,4冊抱え込むって、それ、ワタシの積読と同じ(笑)

とりあえず、出てきた書名やら人名をメモメモ。
★『ストーン・シティ』東江さんの翻訳作品、新潮文庫・・・・・1993年刊。絶版。マケプレ頼み。→ポチっとな。でも、古書では印税の足しにならないので、本当は新本を買いたい。私が出来るだけ新本を買う理由の一つ。
★ 伏見威蕃さん 翻訳者 最近ではもちろんグレイマン・シリーズ♪・・・・・Wikiで調べてみて、はじめて「いわん」さんだと知った。不覚。クライブ・カッスラーとか、トム・クランシーとかの他に、ビジネス系、政治系ノンフィクションや指南本も沢山訳していらっしゃる。
★マッド・スカダー訳者。もちろん翻訳家の田口俊樹さん。スカダーシリーズは鋭意積読中だ。 
★『ヴァーディカル・ラン』、邦題は『垂直の戦場』徳間書店 (1996/9)東江さんの翻訳作品。ちなみにハードカバーのみ(笑)。そして絶版。ああ勿体ない。 ・・・・私、このエッセイ読み終わるまでに何冊ポチるだろうか? 
★大先輩の高橋泰邦さん (1925年生-2015年没)、ホーンブロワー、ボライソー、オーブリー&マチェリンなどの海洋冒険小説を訳出したその道の大家。そういえば、ダグラス・リーマン(アレグザンダー・ケントの別名義)を翻訳している大森(高永)洋子さんや高津幸枝さん、高沢次郎さんは、お弟子さん。「高」の一字を師匠から頂いているのね。


そういえば、ふと思ったのだけど、職業翻訳家って、工芸作家と似ているよな。たとえば文学作品を書くのがファイン・アートなら、翻訳は工芸品。あくまでも出過ぎず、規範にのっとり、実用的でなければならぬ。しかしそこには確かに技があって、その技倆によって翻訳家さんによっては作品がリアルアートたる文芸作品になりうる。であるからこそ、原著の劣化版みたいな作品は御免被りたいわけで。。。。
昔、十代の学生の頃、いや、その前の小学生の頃だな。絵を描くのが大好きだったけど、自分にはファイン・アートをやる才能は無い、とはっきり自覚できていた。だから、実用の美である工芸に心惹かれたんだよなあ。今、翻訳小説に心惹かれるのも似たような心境かもしれない。

2020年4月11日土曜日

0196 多分そいつ、今ごろパフェとか食ってるよ。

書 名 「多分そいつ、今ごろパフェとか食ってるよ。」 
著 者 Jam 
出 版 サンクチュアリ出版 (2018/7/7) 
初 読 2020/04/11 


  職場のビルで営業している本屋さんの、入り口正面の棚に平置きで鎮座しているこの本。やるな、本屋さん。そして気晴らしに本屋に入る度に立ち読みするワタシ。もう買っちゃえよ。とささやくワタシの中の本の虫。「恋するように嫌なヤツのことを考えるのやめよう・・・・」至極名言。そうだよ、そんなこと、そんなヤツのためにワタシの貴重な時間を費やすくらいなら好きな本でも読もうぜ? でも、ネットでお仕事されている方なので、“嫌なこと”が弱冠SNSに偏ってるかな。離れるという選択は、逃げじゃなくて知恵。これも名言。猫絵がかわいい。

2020年2月25日火曜日

0194 本屋の新井

書 名 「本屋の新井」 
著 者 新井 見枝香 
出 版 講談社 (2018/10/4) 
初 読 2020/02/25 


 やっぱり新井さんは本を愛していた。それは深く、とっても深く。そしていいなぁ「新井賞」。私も賞を出したい。1番面白かった小説に「くたくた賞」いやいくらなんでもこれは売れんだろう。◯◯賞、私も売りたい。愛するあの本やこの本を。このままでは続刊が日本で日の目を見ることも無さそうなあの本たちを。ってか新井さんどうか売ってくれ。ポップを付けておくれ!

2020年2月24日月曜日

0193 探してるものはそう遠くはないのかもしれない

書 名 「探してるものはそう遠くはないのかもしれない」 
著 者 新井見枝香 
 出 版 秀和システム (2017/12/16) 
初 読 2020/02/24 

 そりゃ美味しいよ。キャベツ太郎は一人で食べても美味しいんだから!ただ、私がもしなるなら・・・・・って、ちょっとまて、新井サン。どうしてそこで、「私がもしなる」話に飛躍するんだ新井サン!

 飛躍・脱線、自覚・無自覚。心の赴くままに駆け巡る面白エッセイ。果たして彼女は本を愛してるのか、いないのか。某ビジュアル系バンドを愛して止まないのだけは分かるんだがな。こんなヒトが某大規模書店で文芸書の売り上げを支えてるんだな。ありがたや。私も大昔、へんにひねくれずに文学部にでも進学して、素直に大好きな本屋さんに就職を目指せば良かった、と遠い目になる。でもそしたら、旦那もいなかっただろうし、子供もいないだろうし、この読メに書き込んでる自分もいないだろうな〜、と、ココから自分の思考が時間SFに寄っていこうか、哲学風に寄っていこうか、と、迷っている、うちに消失するんだな。これが。