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2026年4月6日月曜日

0590 ダ・ヴィンチの密命 ガブリエル・アロンシリーズ

書 名 「ダ・ヴィンチの密命」
原 題 「AN INSIDE JOB」2025年
著 者 ダニエル・シルヴァ    
翻訳者 山本 やよい    
出 版 ハーパーコリンズ・ジャパン 2026年3月
文 庫 576ページ
初 読 2026年3月25日
ISBN-10 4302115939
ISBN-13 978-4302115938
読書メーター 
https://bookmeter.com/reviews/134486452

 この巻は、時期を推測する記述が乏しいが、事件の端緒となった水死体の発見・・・・・ヴェネツィアの運河に浮かんでいたところを、ガブリエルが発見・・・・が秋とのこと。前作のコーンウォールの事件が2023年の始めだったので、おそらくは、2023年秋〜翌年にかけての事件だと思う。
 
 冒頭、ガブリエルとキアラは、双子が通う公立小学校の校長室に呼び出されている。
 双子の片割れ、過激な環境保護主義者に育ちつつあるアイリーンが全校生徒をそそのかし、授業をボイコットして地球温暖化に反対するデモを企画している!とのことで、保護者が呼び出されたのだ。デモ行進のチラシを校内に張り出したアイリーンに、ガブリエルは教育的指導を行う。曰く「こちらの手の内を敵に知らせるなど、もってのほかだ」
 アイリーンの行動を大目に見る代わりに、校長先生は、小学校の生徒に美術の指導を行うことをガブリエルに要求。願ったり叶ったりのガブリエルは、しかつめらしく承諾。(本当は、美術教師をやってみたかったらしい)
 ・・・そんな、いささか大胆ながら、微笑ましい子育てをしつつ、やはり事件から絡んでくるのがガブリエルの新しい日常のようで、正体不明の女性の遺体の身元捜索から、新たに発見されたダ・ヴィンチの若い女性の肖像画の盗難事件へと話は進む。

 今回のモチーフとなった絵は、有名な右の素描で、作中では〈若き女性の頭部〉と言われているもの。〈岩窟の聖母〉に登場している大天使のための素描と言われていて、例えば〈モナリザ〉のような単独の肖像画は存在していない。この素描を元にした、若い女性の肖像画が、平凡な聖母子像の宗教画の下に隠されていたのを、イギリスからヴァチカンに研修にきていた若い修復師の女性が発見した。そしてその女性が水死体で発見される。発見したのはガブリエル。死んだ女性が働いていたのは、ヴァチカンの美術修復部。なぜ彼女は殺され、そして盗まれた絵はどこに行ってしまったのか。そして、事件はヴァチカンの深部の金満汚染へと繋がっていく。
 今回は、久しぶりの教皇ドナーティとガブリエルのタッグ。この二人の絡みが好きな人には良い一作である。
 そしてボーナスは、ついに双子の片割れラファエルが絵を描くことに目覚めたことかな。
 

2026年4月5日日曜日

美術修復師ガブリエル・アロン シリーズ

ガブリエル・アロンについての考察はこちら(年表付きです。)

『告解』でガブリエルが手がけている
祭壇画 サン・ザッカリア教会

1【報復という名の芸術】(The Kill Artist 2000年)
1999年。 1,991年1月にガブリエルがウィーンで幼い息子を失ってから9年近くが過ぎていた。シャムロンに逢うのは事件のあとテルアビブで〈オフィス〉の仕事を辞めると伝えた時以来。ガブリエルが隠棲していたのは、イギリス、コーンウォールの海辺のコテージ。かつてはガブリエル専属の支援者(サイアン)だったイシャーウッドとは、本当の画商と絵画修復師の関係となっていた。そんなイシャーウッドからガブリエルの居場所を聞き出して、シャムロンが新たな「復讐」を携えてやってくる。それは、ウィーンでガブリエルの車に爆弾を仕掛け、彼から家族を奪った男への報復だった。
  
2000年頃? この作中で彼は50歳。スイス在住のある資産家が、ガブリエルに接触を図る。その男が秘匿していたのは、かつてナチスがユダヤ人から略奪しした絵画の数々だった。この絵画を巡り、ナチの残党との死闘が始まる。スイスが未だ隠し持つ、かつてのユダヤ人の財産。ヨーロッパ諸国とナチスとの関係は、歴史の暗部となって未だ各国にわだかまっている。ナチスはユダヤ人の財産を奪った、というアロンに対して、ユダヤ人はパレスチナ人から土地を奪った。動産より不動産の方が罪が重い、と論じるスイス人。ユダヤ人とユダヤ人国家にまつわる問題は一筋縄でいくものではないが、だからといってナチスの罪が薄れるわけではない。それに協力した人間の罪も、である。

2001年冬 ガブリエル51歳になったばかり。ベネツィアのサン・ザッカリア教会で祭壇画の修復を手がけていると、シャムロンからの呼び出しが。かつての盟友がドイツで殺害された。調査を始めると、今度はガブリエルが何者かに追跡される。親友だったベンジャミンが追っていたのは、第二次対戦時のナチスとヴァチカンの関係だった。法王庁とローマ・カトリックの権威を至上とするヴァチカンの秘密組織が、ガブリエルと彼が掴んだ証拠を抹殺しようとする。時を同じくして新教皇は、ユダヤ人との和解のための一歩を踏み出そうとしていた。教皇にも危険が迫り、ガブリエルは新教皇を守るために接触を図る。 
 
『さらば死都ウィーン』で
修復を手がけている祭壇画
サン・ジョヴァンニ・クリソストモ教会
ジョバンニ・ベッリーニ作
『聖クリストフォロス,聖ヒエロニムスと
ツールーズの聖ルイス


時期的には2002年か2003年、またしても冬。雪のちらつくウイーンは、ガブリエルにとっては不吉の象徴。親友であり、戦友のエリ・ラヴォンがウイーンで運営していた戦争犯罪調査事務所が爆破される。スタッフは死亡、エリは重体。ガブリエルは追跡調査を開始するが、すぐに命を狙われることになる。エリが追っていたのは、身分を偽装してオーストリアで社会的にも大成功を収めていた元SS将校。その男の成功の原資となったのはユダヤ人から略奪された資産であり、また、その男はガブリエルの母とも因縁があった。ガブリエルは、ヤド・ヴァシェムに残された母の証言書を読み、初めて母の苦難と向き合うことに。

5(Prince of Fire 2005年)未訳
ガブリエルに関する秘密文書が暴露され、ヴェネツィアにいられなくなったガブリエルはキアラを伴いやむを得ずイスラエルに帰国する。キアラとの生活を準備するが、イギリスの病院に入院させていたリーアが誘拐されて・・・・・。紆余曲折ありキアラが1人でヴェネツィアに去る。
 
6(The Messenger 2006年)未訳
ローマ法王パウロ7世がテロの標的に。ガブリエルが法王を守る。法王の計らい(?)でベネツィアにキアラを訪れ、関係復活。『教皇のスパイ』で触れているエピソードがこれ。
 
7(The Secret Servant 2007年)未訳

8(Moscow Rules 2008年)未訳
ガブリエルがモスクワに潜入。 
 
9(The Defector 2009年)未訳

10(The Rembrandt Affair 2010年)未訳

11(Portrait of a Spy 2011年)未訳
サウジアラビアに潜入。サウジ人女性ナディアを救出しようとするが、2人とも砂漠で殺されそうになる。結局ナディアが死に、ガブリエルは重傷。その後サウジ秘密警察に捕らえられ、過酷な尋問を受けて傷を悪化さる。米国CIAの介入で解放されるが、女性の死に責任を感じて深刻なPTSDを患い、イギリス・コーンウォールでキアラとアリに見守られて静養する。このときガブリエルを案じたサラ・バンクロフトの依頼でナディアの肖像画を描き、この絵を契機に精神的に復調するのだが、この絵がMoMA美術館のナディアコレクションの入り口に展示されている。これが、『過去からの密使』の下敷きとなっているエピソード。
12 (The Fallen Angel 2012年)未訳

13 (The English Girl 2013年)未訳

 2014年春〜秋  ガブリエル64歳。キアラは妊娠中。ガブリエルは、カラビニエリの美術班、フェラーリ将軍の依頼により盗難にあったカラヴァッジョの《キリストの降誕》を探すため、盗難絵画のコレクターを釣る餌として、ゴッホの《ひまわり》を盗み出す。しかし、《ひまわり》の盗品売買の相手を追跡するうち、盗難絵画がシリアの独裁者の隠し財産の形成に利用されていることが分かり、事態は一転する。ガブリエル個人の請負仕事が、オフィスの大プロジェクトに展開。標的はシリアの独裁者の財産である。一連の事件終了後、ゴッホ美術館に盗まれた《ひまわり》が戻ってくるが、なぜか手入れをされて盗難前より状態が良くなっていた、ということだ。 

 2014年秋〜冬  亡者のゲームの三日後から。 
 キアラの妊娠後期から出産まで。ガブリエルがロシアの策略で爆弾テロの標的にされる。
 怪我の詳細の記載はないが全身打撲くらいはありそう。 一週間程度で復活している。ロシアが手先に利用したのは、英国人暗殺者との因縁も深い、IRA爆弾テロ犯だった。そしてこの男は、ガブリエルの家族を犠牲にしたウイーンの爆弾テロにも深い関わりが。MI6からの請負仕事だった事件が、復讐の色を濃厚に帯び、事態は逼迫する。今回は絵画修復のシーンはないが、事件終了後、出産間近なキアラが待つエルサレムに帰還し、自宅の子供部屋の壁にダニの顔を模した天使の絵を描いて涙ぐむガブリエルの姿が切ない。

 2015年4月〜12月 ※2015年のISISの戦闘についてと、気候変動抑制に関する協定(パリ協定 2015年12月12日)が結ばれたことについて言及している。 ISISによるユダヤ人の組織を狙った大規模な爆弾テロがパリで起こり、ガブリエルはISISに潜入させる工作員とするため、フランス系ユダヤ人の女医ナタリーをリクルートする。前半はじっくりとスパイを養成するガブリエル。自分の子供時代のことを明かしながら、ナタリーとの信頼関係を築く。
 そして、潜入、テロ計画の始動。標的は、フランス大統領訪米中の合衆国だった。イスラエル、ヨルダン、フランス、イギリス、合衆国それぞれの諜報機関の長たちの協力関係も面白い。 この回でもガブリエルは爆弾テロの現場にいて被害にあう。 

 2016年2月〜11月 サラディンとの決戦。
 上巻冒頭で、エルサレムをイスラエルの首都と認め、「米国大使館」をテルアビブからエルサレムに移設する、 と発言した新しい米大統領の就任の話題があるが、トランプ就任は2017年1月なので、現実とは1年ずれた格好か。
 訪問していたフランス秘密情報部のビルが自動車爆弾で爆破される。間の悪い時に間の悪い場所に居合わせるのがガブリエルの得意技。このときの怪我は爆風とがれきの下敷きになって、肋骨数カ所を骨折、腰椎2か所にひび、重度の脳震盪で一週間ほどダウン。だが復讐の炎が痛みをおしてガブリエルを突き動かす。そして、サラディンをおびき出す作戦が始動。  
 サラディンの収入源である麻薬取引をヨーロッパ側で仕切る男を攻略し、サラディンに繋がる細い道をこじ開ける。米国からの横やりを排除しつつ、CIA、MI6、フランス治安総局と協働し、作戦を遂行。このあたりのガブリエルの政治力も見物。さりげなく出てくるウージ・ナヴォトもなかなか渋い。そしてサハラでサラディンを追いつめるが、サラディンは欧米のどこかに潜伏しているテロリストに攻撃を命じた後だった。

18【赤の女 上】【赤の女 下】(The Other Woman 2018年)
 2017年1月頃? 前作の爆弾テロの際の負傷の後遺症?で痛む腰をさすりながらのガブリエル登場である。おかげで若作りのガブリエルもだいぶ歳相応に見えてきた。良い記憶のあまりないウィーンでの作戦。例によって陣頭指揮を執っていたが、目の前で亡命させる予定だったロシアのスパイが殺害されてしまう。その上その場にガブリエルが居合わせたことを隠し撮り写真でマスコミにリークされて窮地に立たされる。
 怒り心頭、恨み骨髄のガブリエルはそこから怒濤の諜報戦に突入するが、判明したのは、宿敵を絡め取ろうとするロシアの策謀が二重三重に張り巡らされていたこと、そしてある伝説の二重スパイの存在だった。 

 12歳の少女(サウジ皇太子の娘)が誘拐され、その父である皇太子が、敵であるはずのガブリエルに捜索と奪還を依頼する。中東との融和の糸口になれば、という思いと、ただ、何の罪もない少女を助けたいという思いで、捜索に協力するガブリエルだが、目の前で少女は爆殺されてしまう。少女の殺害とその父の失脚の裏にロシアの影を見たガブリエルは、復讐の反撃に出る。 
 戦いはガブリエルの勝利に終わるが、少女を助けることができなかった悔恨がガブリエルを苦しめる。サウジ皇太子によるカショギ記者謀殺事件をモチーフに、ロシア、イギリスを絡めたシルヴァ風の一流のエスピオナージ 。

2019年11月。長官に就任して以来、腰を負傷して自宅で療養した数日以外は一日も休まず働いていたガブリエルを見かねて、キアラが休暇を手配する。(なんと首相にまで手を回して!)旅行カバンを用意していたキアラに、「出て行くのかい?」と真顔で尋ねるガブリエル! 休暇の行き先はキアラの両親が暮らすヴェネツィア、仕事ひとすじで余暇の過ごし方など知らないガブリエルの為に、修復する絵まで用意する周到ぶり。そこに、ガブリエルの庇護者でもあった教皇パウロ7世崩御のニュースが。この時点で、彼の任期は2年と1ヶ月。 

21【報復のカルテット】(The Cellist 2021年)
 2020年3月〜2021年4月。世界はcovid(新型コロナウイルス)に支配されている。 
 アロン家は人が多く、ロックダウン中のエルサレム市街の自宅から、故郷のイズレエル谷のラマト・ダヴィドに程近いナハラルに仮住まいしてコロナを避けている。双子たちは田舎暮らしで逞しく成長中。ガブリエルは新しく入手したガルフストリームに現金を詰め込み、人工呼吸器や検査薬や、医療用防護衣を世界中で買い付けて、国内の病院に配布。政治家への転身の準備か・・・との世間の噂も。そんな噂は歯牙にもかけず、ガブリエルはオフィスで諜報戦の陣頭指揮も執っている。そんな折、ガブリエルと旧知のイギリス在住のロシア人富豪が毒殺され、ガブリエルはおなじみMI6のケラーと動き出した。

22【謀略のカンバス】(Portrait of an Unknown Woman 2022年)
 2021年12月〜。ガブリエルはついにオフィス長官を引退し、長年にわたる諜報の世界から身を引いた。カラビニエリのフェラーリ将軍の庇護のある古巣ヴェネツィアに家族と居を構え、キアラはティアボロの美術修復会社の経営に参画し、子ども達は地元の小学校に通っている。キアラの配慮の行き届いた落ち着いた生活で長年の疲労や苦悩が少しづつ薄れ、彼が本来の笑顔やユーモアを取り戻しつつあるころ、旧友のイシャーウッドが、ある絵画売買絡みのトラブルに巻き込まれる。穏やかな日常に少々退屈しつつあったガブリエルは、キアラの赦しをえて調査にのりだす。
2022年秋〜。ベネツィアで絵画修復に携わり、悠々自適・・・のはずのガブリエルは、またもフェラーリ将軍の訪問を受け、ある名画の鑑定を依頼される。しかし、有名なゴッホの盗難名画の横には、空の額縁とキャンバスを失った木枠があり。そのサイズから、ガブリエルはその絵が、これも盗まれたフェルメールだと直感する。フェラーリからの依頼を受け、絵画の追跡に乗り出すも、ロシアの暗殺者、南アフリカの核開発、そして宿敵ウラジーミル・ウラジーミロヴィッチの手先だった男・・・と、話は転がる雪だるまのよう膨らんでいく。 

前作の直後から。2023年1月〜。コーンウォールで「斧男」といわれる連続殺人犯によると思われる殺人事件があり、かつてのティモシー・ピール少年(現在ではデヴォン&コーンウォール警察の刑事部の巡査部長になっている)が捜査に当たることに。ティモシーはある種の直感から、たまたまロンドンに滞在していたガブリエルに連絡を取る。そこから、巨匠絵画のブラックマーケットをめぐる怒濤と流転の展開に。イギリス政界を脅かす陰謀を、ガブリエルが執念で暴く。
 

今作は、時期を推測できる記述が少なかったが、事件の端緒となった、ガブリエルが女性の他殺体をヴェネツィアの運河で発見したのが秋。多分、コーンウォールの事件の後なので、2023年か24年と思われる。ヴァチカンから盗まれた、これまで未発見だったダ・ヴィンチの真作と思しき、若い女性の絵(おそらくは、ダヴィンチの世に知られた習作「若い女性の頭部」と同じ女性・構図の作品)を巡り、ヴァチカンに巣くう金の亡者と、イタリアマフィアの癒着を暴く。ガブリエルと教皇ドナーティの絡みが好きな人には満足な一作。

ガブリエル・アロン来歴《美術修復師ガブリエル・アロンシリーズ》(2026.4.5更新)


《大天使ガブリエル》

 イスラエルの復讐の天使 ガブリエル・アロン
 ダニエル・シルヴァによる、美術修復師にしてイスラエル諜報機関の暗殺工作員(キドン)であり、やがては諜報機関、内部の人間の呼ぶところの〈オフィス〉の長官となるシリーズの主人公、ドイツ系ユダヤ人。
 画家として非凡な才能があったが、ドイツ語を母語とし複数のヨーロッパ言語に堪能だった彼は暗殺工作員として活動することを半ば強いられ、22歳で最初の暗殺を実行する。その後も極限の中で暗殺を重ね、結果として、絵を描く才能は損なわれてしまう。その後、ベネツィアで絵画修復師として修行を積み、独立後はこれを隠れ蓑にヨーロッパで工作員としての活動を継続することになる。

 容姿の形容は、身長175cmくらいで平均以下、自転車選手のような引き締まった体躯、暗色の髪はこめかみに白髪が交じり、知性を感じさせる広い額、面長の顔、目はアーモンド型で不自然なほど鮮やかな緑の瞳、高い頬骨、木彫りのような鋭い鼻の線、細い顎。ちなみに、私の脳内では、キアヌ・リーブスが近い。目の色以外はぴったりだと思っている。もし映画化されることがあるなら、主演は彼でお願いしたい。(正し、身長差はいかんともしがたいが。)

 犬が嫌い。(キアラに言わせると野生動物全般と相性が最悪らしい。たぶんガブリエルも動物に劣らずワガママだからだろうな。)
 ガブリエルの犬嫌いはスパイ業界では有名な話らしく、部下のミハイルによれば、犬とガブリエルは「ガソリンとライターのように危険な組み合わせ」なんだとか。元々好きではなかったらしいが、『イングリッシュ・アサシン』で逃走中にアルザス犬(=ジャーマン・シェパード)と闘う羽目になり、左腕を噛み砕かれたことがあって、以来、犬族全般に対して極めて険悪な感情を持っていると推察される。

 性格はやや神経質で寡黙で暗い。時間を掛けることも待つことも厭わないが、待たされることはあまり好きではない。待たされてイライラすると物や人に当たりちらすこともあり。情緒に乏しく傲慢で冷酷とは少年期の彼に与えられた評価だが、感情表現があまり豊かでないだけで、内実は愛情深く、恩義に厚い。

「・・・石灰岩の建物と、松の香りと、冬の冷たい風雨を愛している。教会と、巡礼の人々と、安息日に車を運転する彼をどなりつける超正統派ユダヤ教徒を愛している。旧市街の市場でアラブ人の露店の前を通り過ぎるとき、彼らの守護聖人たるテロリストを何人も排除してきたのが彼であることを知っているかのように、みんなが警戒の視線を向けてくるが、そんなアラブ人のことすらガブリエルは愛している。信心深い暮らしを送っているわけではないが、旧市街のユダヤ人地区に入って、嘆きの壁のどっしりした石組みの前に立つのを愛している。パレスチナと広いアラブ世界とのあいだに永続的な平和を確保するため、縄張りをめぐる譲歩を受け入れてはいるが、本音を言うなら、嘆きの壁だけは譲りたくないと思っている。エルサレムの中心部に国境が作られることが二度とあってはならないし、ユダヤ人が自分たちの聖地を訪れる許可を求めねばならないような事態を招くことも、二度とあってはならない。嘆きの壁は現在、イスラエルのものとなっている。この国が存在しなくなる日まで、そうありつづけるだろう。地中海沿岸のこの不安定な一帯で、いくつもの王国や帝国が冬の雨のごとく現れ、消えていった。現代によみがえったイスラエル王国もいずれは消えていくだろう。しかし、自分が生きているかぎり、そうはさせない。」ダニエル・シルヴァ. ブラック・ウィドウ 上  Kindle の位置No.945-957 


 普段はかなり無口で、几帳面で感情の起伏を表に出さないタイプだから、こんな想いを語られるとけっこう胸熱だ。  

以下作中から読み解く彼の来歴
 ※『ブラックウィドウ』を読んで、ガブリエルの生年を上方修正。1950年生まれだ。

◆ ガブリエル・アロンの家族の出身はドイツ、母方はベルリン。父方はミュンヘン。
 母方は一家全員がアウシュビッツに送られ、母のみ生還。母方祖父はヴィクトール・フランケルという名のドイツ印象派の高名な画家であったがアウシュビッツに到着した日に殺害されている。母も才能ある画家で、戦後イスラエルに逃れ、現代イスラエルを代表する抽象画家となったが、心を病み生涯アウシュビッツの記憶に苦しめられた。 父も腕に番号の入れ墨のあるアウシュビッツの生還者だ〔報復という名の芸術〕が、ハーパーブックス以降の巻では、ミュンヘン出身でユダヤ人虐殺が始まるまえにパレスチナに移住した、とされている。作品初期から設定が変わっているのか?それとも戦前のパレスチナへの移住者だが、捕らわれてアウシュビッツに送られるような経緯があったのか? いずれにせよ、ガブリエルは母から芸術家としての才能と、両親からアウシュビッツを生き抜いた強靱で不屈な精神を受け継いだ。
◆ ガブリエルは1950年(の多分冬。11月か12月頃)に、イスラエルのイズレル渓谷にあるラマト・ダヴィドという農業を中心とする入植地で生まれた。〔ブラック・ウィドウ〕
◆    1967年 父が第三次中東戦争(六日間戦争)で死亡。〔ブラック・ウィドウ〕
◆ 1968年 父の死の1年後、母が癌で死亡。〔イングリッシュ・アサシン〕
◆ 兵役(イスラエルのユダヤ教徒は男女とも皆兵。男子は18歳から36ヶ月の兵役を務める。 )ののち、ベツァレル美術学校(ベツァレル美術デザイン学院)に入学。イスラエルの学生は兵役があるため、普通大学に入学した時点で21歳くらいのはずだが、アロンは1972年に暗殺者となったとき20歳、との記載。〔英国のスパイ〕 若干計算が合わない気がしたが、『ブラック・ウィドウ』では「ミュンヘンオリンピックの後、22歳で復讐の天使になった」とのエリ・ラヴォンの言葉があり。そうであれば、1950年生まれで、ハリー・ボッシュと同じ歳(笑)である。これだと、計算があう。というわけで、ざっと年齢を修正。
◆ 在学中に最初の妻、リーアと結婚。
◆ パリに1年留学していた、との記載あり。〔報復という名の芸術〕
 留学、とはいうものの留学生の身分を偽装に利用して暗殺工作を展開するためだった可能性もある。
◆ 1972年のミュンヘンオリンピック事件(ブラックセプテンバー事件)直後の9月、ガブリエルの語学力、兵役時の銃器を扱う才能、偽装に使える画才等を見込んだシャムロンが彼を強引にスカウトし、シャムロン麾下の暗殺工作員(キドン)となる。〔イングリッシュ・アサシン〕 この時22歳。〔ブラック・ウィドウ〕その後3年間にわたって、ブラックセプテンバー事件への報復作戦である「神の怒り作戦」に従事。
◆ ブラックセプテンバー事件の実行犯・関係者12名を暗殺(銃殺もしくは爆殺)して「神の怒り作戦」におけるガブリエルの任務は終了する。ガブリエルはそのうち6名を直接殺害した、とされている。その際、ブラックセプテンバー事件の犠牲になったイスラエル選手団11名の報復として、可能な限り一人につき11発の銃弾を撃ち込んだ。これは、この後もガブリエルの暗殺のスタイルとなっている。
◆暗殺した6人の内のひとりが、マハムンド・アル=ホウラニだった。この男の弟のタリク・アル=ホウラニが、兄を殺された復讐のため後にガブリエルの妻子を爆殺する。〔報復という名の芸術〕
◆ ガブリエルは、3年間作戦に従事したのちイスラエルに帰還し、改めて画家としての活動を再開しようとしたが、キャンバスに向かうと自分が殺した相手の顔がちらついて、絵を描くことができなくなっていた。そこで、シャムロンの了解のもと、ベネツィアの美術修復士のもとに弟子入りし、絵画修復の道に入る。
◆ 1975年〜1977年頃までの3年間、ベネツィアで修行。
  絵画修復師として独り立ちした後は、この身分を隠れみのに、工作員としての活動を継続。
◆    1976年頃には、チューリッヒ在住のパレスチナ人劇作家、アリ・アブデル・ハミディを殺害。〔イングリッシュ・アサシン〕
◆ 1977年頃  シャムロンが修復師修行を終えたガブリエルをイシャーウッドに引き会わせる。
◆ 1988年頃 息子のダニエル・アロン誕生。(ガブリエルはこのとき38歳)
◆ 1988年4月のPLO幹部暗殺事件では、作戦に加わり、暗殺を実行している。
◆ 1991年1月 ウイーンでガブリエルの自動車に仕掛けられた爆弾により息子のダニ(当時2歳半)が死亡、妻リーアは全身大やけどを負い、精神に異常をきたす。〔報復という名の芸術〕
◆ 事件の後、ガブリエルは〈オフィス〉を辞め、イギリスのコーンウォール最南端のガンヴァロー海岸にあるコテージに隠棲。このコテージとアトリエは、こののち長い間彼の心の休息地となるが、『英国のスパイ』では殺戮の舞台となる。
◆ 1998〜1999年頃、イギリス・コーンウォールのヘルフォード川河口、ポート・ナヴァスの近くにあるコテージに移り住む。このコテージの隣家にピール少年が住んでおり、ガブリエルは亡くなった息子ダニエルと同じ歳のピールと交流する。〔報復という名の芸術〕
◆ 1998年頃は「この世界(諜報と暗殺)から遠ざかっていた」と本人の弁。〔英国のスパイ〕この頃はイシャーウッドからの絵画修復の依頼で生計を立て、精神病院に入院していたリーアの治療費を稼いでいた。
◆    1999年頃 シャムロンの要請で〈オフィス〉の現場に復帰。ニューヨークでパレスチナ人テロリスト(タリク・アル=ホウラニ)の銃撃を胸にうけて重傷。〔報復という名の芸術〕
◆ 2001年頃 ナチスによって奪われたユダヤ人が所有していた絵画を巡り、スイスの秘密組織に潜入するも捕らえられて拷問される。なお、この作戦の際、パリで爆弾テロの標的とされ、腕に大怪我もしている。(爆弾テロ1回目)〔イングリッシュアサシン〕
◆ 2001年〜2002年冬 サン・ザッカリア教会の祭壇画(ベッリーニ)の修復。
  盟友ベニがミュンヘンで謀殺される。
  ローマ教皇暗殺犯(ベニを殺した男)をバイクで追跡中転倒し重傷を負う。〔告解〕
◆ 2003年  聖クリストソモ教会の祭壇画(ベッリーニ)の修復。キアラとは恋仲になっている。SS将校であったラデックを捕らえてイスラエルに連行する。〔さらば死都ウィーン〕
【5作目から13作目 未読 ガブリエルがキアラと別れたりくっついたり、ローマ教皇を助けたり、ロシアに潜入して大怪我したり、サウジに潜入して捕まったり、イギリスの首相を助けたりしている。ああ、翻訳読みたい(泣)】
◆    2014年秋  サン・セバスティアーノ教会の祭壇画(ヴェロネーゼ)の修復。
◆ 2014年秋〜12月 英国人の殺し屋ケラーとともに元IRA爆弾テロリストとロシアのスパイを追う。ロンドンで爆弾テロの標的にされて負傷するが、この事件を逆手にとって死亡を装ってテロリストを追撃。
◆    2014年12月 妻キアラとの間に双子誕生。
  女の子をアイリーン(ガブリエルの母の名)、男の子をラファエル(ルネサンスの大画家より)と名付ける。〔ブラック・ウィドウ〕
  カラヴァッジョの祭壇画《キリストの降誕》の修復〔ブラック・ウィドウ〕
◆ 2015年4月〜ISISの爆弾テロ指導者〈サラディン〉を追う。この間、ワシントンで爆弾テロに巻き込まれる。〔ブラック・ウィドウ〕
◆ 2015年の末に 〈オフィス〉長官に就任(65歳)。双子1歳の誕生日。サラディンの追跡を継続。パリのヴォクソール・クロスでまた爆弾テロにあう。〔ブラックウィドウー死線のサハラ〕

◆ 2019年11月 ローマ教皇パウロ7世逝去。双子は4歳で、もうすぐ5歳。ガブリエルは69歳になったところ。ガブリエルの旧友でもあるドナーティが、新教皇に選出される。〔教皇のスパイ〕

◆ 2020年3月 新型コロナの流行。アロン家はナハラルのバンガローに仮住まい。ガブリエルの旧友であるロンドン在住のロシア人富豪が毒殺される。
◆ 2021年1月6日 米国でトランプ支持者による議会議事堂襲撃。 1月20日 大統領就任式の直後にQアノン支持者によるガブリエル暗殺未遂。生死を分ける一週間、さらに2週間の集中治療ののち、ガブリエルはイスラエルに帰国。その後、復帰までにはさらに数ヶ月の静養を要した。〔報復のカルテット〕

◆ 2021年末 オフィス長官辞任。ヴェネティアでついに引退生活に入る。

◆ 2022年春 旧友のイシャーウッドが贋作絵画売買の詐欺に巻き込まれる。1枚の絵の所有者が殺害され、イシャーウッドも狙われるに及んで、ガブリエルが調査に乗り出す。結果、全世界を股に掛けた巨大絵画投資詐欺グループを壊滅に追い込む。〔謀略のカンバス〕
◆ 2022年秋 〈オフィス〉長官引退後、ヴェネティアで絵画修復に励むガブリエルにフェラーリ将軍が巨匠絵画の盗難事件を持ち込む。ガブリエルは調査を請け負うが、それがウクライナ戦争での核使用を目論むロシアの陰謀に繋がり、ガブリエルは再び〈オフィス〉のメンバーを集め諜報戦を指揮することに。〔償いのフェルメール〕
◆ 2023年1月 修復を手がけたゴッホのお披露目の式典のためにイギリス、コートールド美術館を訪れていたガブリエルに旧知のティモシー・ピールから一本の電話が。〈斧男〉と呼ばれた連続殺人犯による殺人に見せかけた美術史家の殺害から、第二次大戦中にフランス在住のユダヤ人から奪われたピカソの作品を知り、事件を追いかけるうちに、ガブリエルはイギリス政界を揺るがす陰謀を暴く。双子は8歳になっている。〔コーンウォールに死す〕
◆ 2023年秋〜初夏頃? ガブリエルはヴェネツィアの運河で、若い女性の他殺体を見つける。女性は、イギリス人の美術修復師で、ヴァチカンで研修中の女性だった。彼女が発見したレオナルド・ダ・ヴィンチの作品を巡り、ガブリエルはヴァチカンの暗部を暴き出す。これまで数学にしか興味を示さなかった双子の片割れラファエルが遂に絵に目覚める。〔ダ・ヴィンチの密命〕

2025年8月13日水曜日

0562 コーンウォールに死す(ハーパーBOOKS)

書 名 「コーンウォールに死す」
原 題 「A DEATH IN CORNWALL」2024年
著 者 ダニエル・シルヴァ
翻訳者 山本 やよい
出 版 ハーパーコリンズ・ジャパン 2025年6月
文 庫 600ページ
初 読 2025年8月12日
ISBN-10 4596572216
ISBN-13 978-4596572219
読書メーター 
https://bookmeter.com/reviews/129618910 

 パレスチナの惨状で、この作品に対していささかの幻滅が伴っていないといったら嘘になる。
 ダニエル・シルヴァも、絶妙なタイミングでガブリエルを引退させたもんだ、と皮肉っぽくなったりもする。
 でも、ガブリエルが魅力的なことには変わりない。
 前作よりも大人しめで、スキャンダルも陰謀も、最近のこのシリーズからしたら、小ぶりではある。だが毎作、ワロージャと戦争するわけにもいくまいよ。それに(何回も書くが)ガブリエルはもはや70台半ばである。これも何回も書いてるが、ボッシュと同い年だからね。
 それにしては、ガブリエルは異様なくらいに頑健である。今回も殴り倒されてボコボコにされてるが、骨折の一つもせずに、ちゃんと生還。まあ、ジャンプヒーロー並みの生命力だよな。(笑)

 そんなこのシリーズも、今作で24作目。ガブリエルは73歳。双子達は8歳。
 娘のアイリーンは環境問題に敏感で、グレダちゃんみたいになりつつある。
 息子でガブリエルに激似のラファエルは、その才能を美術ではなく、数学方面に発揮しており、ガブリエルはラファエルに絵に興味を持ってもらいたいとの切望を隠しもしていない。
 今回は、前作でガブリエルが修復したゴッホが、イギリスのコートールド美術館でお披露目されるあたりからスタート。ガブリエルの携帯に、コーンウォールに住む旧知の人物からの連絡が入る。・・・・・改めて、振り出しに戻って考えれば、正直いって地元の(ローカルな)殺人事件にすぎないことで、ピール青年(元少年)がガブリエルに連絡を入れることが、一番あり得ないんじゃないか、と思わないでもない。この点が今作一番の無理筋。それ以降は、いつも通りのガブリエルである。

 殺されたのは、女性の美術史家。連続殺人の犠牲者に見せかけた殺人の背景に浮かび上がったのが、かつてユダヤ人が所有していたピカソ作の女性の肖像画。その来歴は、ナチス占領下のフランスで起こったユダヤ人の災禍で所有者から違法に詐取されたもの。この絵を発見した良心的な美術史家が惨殺されたことで、ガブリエルが調査に乗り出す。

 巨額絵画を隠れみのにした資金洗浄と絵画のブラックマーケットは、このシリーズで繰り返しテーマになっているもの。おなじみのガブリエルの模造絵画の作成風景も、今作はあっさり目ながら、読者の楽しみの一つ。話はどんどん流転して、結局英国の首相候補の野心とその妻の欲望に帰結し、犯罪行為に犯罪行為で対抗する手段ゆえに、あちこち結果オーライで、犯罪者は真っ当な法の裁きによることなく、社会的リンチの餌食になった。

 まあ、一時ほどの盛り上がりはないにせよ、ガブリエル・アロンのファンとしては、彼がとりあえず元気でいてくれれば、と思う。ガブリエルが不幸になる姿は絶対に見たくない。 もはや、彼の年齢的にも、シリーズ的にも、毎作がボーナストラックみたいなもんなので、今作もその点では十分に満足に値する。・・・・・ていうか、面白かったよ! ちょっと冗長かな、と思わないでもないけど、全部が全部、ガブリエルで満ちてるから、それだけで読む価値アリでした。
 ガブリエルがコーンウォールに三度目の拠点をもつことになったのも良し。地元住民から愛されているのも良し。
 以前のガンワロー岬のヴィラは、惨劇の舞台になっちゃってたからね。

 巻末の著者ノートは必読。ダニエル・シルヴァが作品を通じて言いたいことは、ここに凝縮している。世界の富の不均衡。貧しいものはより貧しく、富めるものは、いっそう富を集積。その金はどこにあって、何をしているのか。世界はどこに向かっているのか。
 世界の歪んで濁った姿がガブリエルを通じてプリズムを通った光のように分光し、人々の目により分かり安く提示されているように感じる。

2024年6月24日月曜日

0489 償いのフェルメール(ハーパーBOOKS)

書 名 「償いのフェルメール」
原 題 「Collector」2023年
著 者 ダニエル・シルヴァ    
翻訳者 山本 やよい    
出 版 ハーパーコリンズ・ジャパン 2024年6月
文 庫 568ページ
初 読 2024年6月24日
ISBN-10 4596637202
ISBN-13 978-4596637208
読書メーター 
https://bookmeter.com/reviews/121477812

 せっかく、シャムロンが引き留めるのを振り千切り、〈オフィス〉を引退して速攻ヴェネツィアに移住したのに。やっと家族との生活と心の平穏を取り戻し、オリジナルの絵を描く才能さえ取り戻しつつあったというのに!(ほぼ自主的に!)また諜報の世界に引き戻されたガブリエルである。分かってたけどね、こうなるコトは。
 だいたい、いくら少数精鋭とはいえガブリエルの部下は数が少なすぎる。エリ・ラヴォンやミハイルや、ダイナが定位置から動いただけで、もはやロシア側に察知されるのでは? ガブリエルがヴェネチアの修復現場から数日以上姿を消しただけで、影で何らかの動きがあると見做されるのでは? どうしてガブリエルの挙動がロシア側にバレないのか、それが不思議でしょうがない。だけど、そこに引っかかると全てが面白くなくなるので、敢えて気にしないことに。
 内容も、大いなるマンネリの域に達したと言えなくもない。なにしろ今回もまた、有能な女性をスカウトして、対ロシア諜報戦だ。だがしかし。そんなささやかな不満(?)を吹き飛ばす終盤のスリルたるや、大したもの。いやあ、今作も面白かった。

 さて、あらすじである。以下ネタバレ。
 ヴェネツィアで、キアラや子供達と穏やかにすごすガブリエル。聖堂で絵の修復に取り組む彼のもとに、おなじみカラビニエリの美術班を統率するフェラーリ将軍が訪れる。有る場所で見つかった盗難絵画の鑑定を依頼したい、と。なにか裏がありそうだと思いつつ、ガブリエルが伴われた場所は殺人現場。そして美術館から盗まれて行方が知れなかった有名なゴッホ自画像の隣には、空の額縁とキャンバスが剥がされた木枠が残されていた。ガブリエルは、その盗まれた絵を取り戻すよう、フェラーリ将軍から依頼される。

 だが、盗難絵画を追いかけるうち、殺された絵画の所有者がかつて南アフリカで核開発に関係していたこと、そして〈オフィス〉協力者であったことを知る。そして、南アフリカが開発した旧式の核弾頭が、絵画の盗難に隠れて、ロシアの手に渡ったと思われることも判明。

 ウクライナ戦争を決定的な勝利で終わらせるために、ロシアが戦術核を用いるのではないか、と西側(米国)は怖れている。ロシアが秘密裏に入手した旧式の核弾頭が「ウクライナからロシアに対する」先制核攻撃に使われること(もちろんロシア側の偽旗作戦として)を察知したガブリエルは、ふたたび〈オフィス〉に戻り、オフィスの人員・技術と、自分が持つ人脈を集結して、ロシアと対決することを決意。

 と、まあそんな話。

 それにしても、今作は“コマノフスキー”が最高に格好良かったです。後半、ドキドキして、イヤな予感しかしなくて、読み進むのが辛かったわ。

 ガブリエルはもう70歳です。以前も書いたが、ハリー・ボッシュと同じ歳です。ボッシュだって、白血病だの、人口膝関節だの言っているというのに、ガブリエルときたら頑健すぎていささか不気味だ。キアラともまだまだお熱いみたいだし。

 今回、過去の登場人物も沢山でてきて、いったいいつの話なんだか、いささか混乱してきたので、人物リストを作っておく。常連の主要人物は省略で。


イングリッド・ヨハンセン………フリーランスのITスペシャリスト 
アストリッド・ソーレンセン……イングリッドの変名
マルティン・ランデスマン………過去作『報復のカルテット』に登場した、スイスの大富豪で投資会社の経営者。
セルゲイ・モロソフ………………過去作『赤の女』イスラエルに拉致された元SVR工作員。イスラエルの収容所で捕虜生活を継続中。
マウヌス・ラーセン………………〈ダンスクオイル〉のCEO  

グリゴーリー・トポロフ…………ロシア対外情報庁(SVR)の暗殺者  
ニコライ・ペトロフ………………ロシア連邦安全保障会議 書記。ワロージャの側近  
ゲンナージー・ルシコフ…………ロシアのトベリ銀行頭取(過去作に登場していたかは思い出せない)
ワロージャ/ウラジーミル・ウラジーミロヴィチ…………ワロージャはウラジーミルの愛称。言わずとしれた恐ロシアの独裁者。ウラジーミル・ウラジーミロヴィチ・プーチン。

ラース・モーデンセン……………デンマーク国家警察情報局(PET)の長官 
エイドリアン・カーター…………CIA長官。ついに!エイドリアンが長官に昇進!長い道のりだった。
ポール・ウェブスター……………CIAコペンハーゲン支局長
テッポ・ヴァサラ…………………フィンランドの保安情報機関の長官

2023年6月20日火曜日

0433 謀略のカンバス(ハーパーBOOKS)

書 名 「謀略のカンバス」
原 題 「Portrait of an Unknown Woman」2022年
著 者 ダニエル・シルヴァ    
翻訳者 山本 やよい    
出 版 ハーパーコリンズ・ジャパン 2023年6月
文 庫 648ページ
初 読 2023年6月19日
ISBN-10 4596774781
ISBN-13 978-4596774781
読書メーター 
https://bookmeter.com/reviews/114433241

 2021年12月。ガブリエル71歳。
 ガブリエルは、長年身を捧げてきたイスラエルの諜報機関「オフィス」の長官を引退した。幸いにして、1年弱前の暗殺未遂事件による負傷は、大きな後遺症を残さなかったようだ。キアラの敷いた計画どおり、退任したその日にはエルサレムを離れて、古巣ともいえるヴェネツィアに移住した。この地は、若い日に、画家になることを断念したガブリエルが美術修復師になるための修行を積んだ街であり、その後長年にわたって身元を偽って、数々の絵画修復を手がけたガブリエルの第二の故郷であり、そしてキアラの両親が暮らす街でもある。
 双子のアイリーンとラファエルは家から近い公立の小学校に通い、登下校の送り迎えはガブリエルがしている。
 キアラの監督(監視?)の元、ゆっくりと休息をとり、長年の苦労と疲労を落としたガブリエルは1人の画家、もしくは美術修復師として生まれ変わったように・・・・というよりはガブリエル本来のものであったはずの笑顔やユーモアを取り戻しつつある。
 まあ、たまにカラビニエリのフェラーリ将軍が厚情でつけた護衛を、尾行者と間違えてうっかり叩きのめしたりはしているが。
 で、そんな穏やかな新しい生活に、ガブリエル本人がいささか退屈も感じ始めたころ、旧友の画廊経営者であるイシャーウッドが偽造絵画売買に関わるトラブルに巻き込まれてしまう。ガブリエルはキアラの赦しを得て、フランスに出向き、調査に乗り出す。

 前作に引き続き、かつてのガブリエルの恋人だったアンナ・ロルフが登場。イシャーウッド、サラ・バンクロフト、ケラー、オルサーティ、占い師の老女、おまけに邦訳されていないシリーズ8作目『Moscow Rules』で登場したフィレンツェのヴィラまで登場。(ガブリエルがモスクワに潜入し、ルビヤンカの地下で殴られて目を負傷したのち、脱出してこのヴィラで治療を受け、静養した、、、んだったと思う。たしか。)前作でも思ったが、旧作の登場人物を次々と登場させるあたり、シリーズ総まとめに入っているんだろうか?と感じる。
 おまけに今回は美術界の贋作売買の一大ネットワークを巡る事件なので、ガブリエルの絵画に関する蘊蓄や制作シーンがふんだんに描かれている。ついでに、愛するキアラとの熱々な昼下がりまで、サービス満点。
 絵画と諜報という二大得意分野の合わせ技で、その才能に並ぶものなはなし、各国・各界に助力を惜しまない協力者がいるガブリエルは向かうところ敵なしで、まさに余裕綽々と言ってよく、中盤までの危なげない様子はむしろ退屈と言えなくもない。しかし、終盤に至って、元CIAのきたない金で動く民間警備会社やらが登場し、ガブリエルの計画の進行が怪しくなったあたりからは、いくつかのどんでん返しも仕掛けられてかなり面白かった。総じて、ガブリエルがこんな老後(?)にたどり付けて本当に良かった・・・・・というのが正直なところの感想。
 あと何年・・・・いや、何作続くかわからないけど、本当にもう、これ以上は怪我させないでほしい。

2023年5月26日金曜日

0426 ジャベリン・ゲーム サッチョウのカッコウ (ハルキ文庫)

書 名 「ジャベリン・ゲーム サッチョウのカッコウ
著 者 田村 和大    
出 版 角川春樹事務所  2023年2月
文 庫 317ページ
初 読 2023年5月25日
ISBN-10 4758445419
ISBN-13 978-4758445412
読書メーター 
https://bookmeter.com/reviews/11395961  

 流石に17歳の高校生にいきなりCIA入局を迫るのは荒唐無稽ではないか?などど最初に思ってしまったのだが、ああ、でもジェントリーが犯罪を犯してCIAにスカウトされたのはそのくらいだったかも? 海外小説だと気にならないのに、日本の小説だと気になってしまうのは、やはり国内モノだと“常識”に捕らわれてしまうのだろうか。こういうところで蹴躓いているとせっかくの面白いストーリーに乗れないので、ここはグッとこらえよう。
 大学教授だった父が首を縊られた異様な姿で息絶えているのを発見した17歳の穣は、両親がCIAのエージェントだったことを知る。この時から穣は、父の死を解明し仇を取るため、CIAのエージェントとして育成され、そののち日本の警察組織に潜入して、公安内のロシア諜報組織を追うことを運命づけられる。 
 
 というわけで、日米ハーフの警察官僚が実はCIAのアセットで、米軍で盗まれ、日本国内に持ち込まれ、ロシアに利用されようとしているジャベリンミサイルの行方を、警察の特別調査班の顔をしながら、実は米国大統領命を背負って追う。という和製エスピオナージ。主役の穣(じょう)が、有能な指揮官でユーモアもあり、悩める青年でもあり、で誰かに似ているなあ、と思ったのだが、私の大好きなマックス・ロビショー少佐(『栄光の旗のもとに』ハヤカワSF文庫)と似ているのだな。経験値のすくないデスクワークよりの警察官僚であるはずだが、サクサクと現場指揮をとり、ロシアスパイの陰謀を追いかける。手持ちの兵隊が少ないので、西条刑事がこき使われているのが若干気の毒であるが。銃撃戦あり、海(海上保安庁巡視船)もあり、カーチェイスがないのが不思議なくらいの盛り沢山を、さくっと軽いノリで描く。
 ほんとにこの追跡劇をこの少人数でよいのか?という少数精鋭チームなのだが、最後のびっくり箱のような種明かしには参った。息子の本当のハンドラーは実はかーちゃんなのか?
 そして、父の敵、のロシアスパイはこれからどうするんだ? 事件は一応の解決を見たが、本当のクローハンマー作戦の展開はこれから。今作は役者紹介に過ぎないようだ。私としては西条刑事の今後の不幸を見定めたいところ。ベロニカと美和が実は同級生、とか親友、みたいな展開を希望。
続刊を期待。

2022年8月11日木曜日

0380 猫に知られるなかれ (ハルキ文庫)

書 名 「猫に知られるなかれ」
著 者 深町 秋生       
出 版 角川春樹事務所  2016年10月
文 庫 365ページ
初 読 2022年8月9日
ISBN-10 4758440441
ISBN-13 978-4758440448
読書メーター  https://bookmeter.com/reviews/108223639
  
Cedant arma togae, concedar laurea laudi.
武具は市民服に従うべし。月桂冠は文民の誉れに譲るべし。「キケロー選集〈9〉哲学Ⅱ」

 戦後の日本の再生のために、旧日本陸軍諜報部将校らにより密かに結成された諜報機関CAT。その意は「武具は市民服に従うべし。」

第一章 蜂と蠍のゲーム
永倉一馬を藤江忠吾がCATにスカウト。永倉は抵抗しつつも巻き込まれ、GHQ将校を狙う旧陸軍残党との闘いに臨む。

第二章 竜は威徳をもって百獣を伏す
藤江忠吾、本名平塚三郎 長崎出身。陸軍中野学校出身の情報士官。敗戦後の引き上げてきた鹿児島港でMPに捕らえられ、東京に連行される。散々抵抗して血の気の多い米軍情報将校を煽り、願わくば(日本軍人として)銃殺されることを期待したが・・・・。

第三章 戦争の犬たちの夕暮れ
それぞれの敗戦。業火に巻かれて死んだ市民。命からがら日本で生き延びたもの。遠く大陸で死んだもの。なんとか復員できたもの。そして、さらに遠くの極寒の地で辛酸を舐め尽くしたもの。日本の焼け荒れ果てた姿を目の当たりにして願うのは、ただ、肉親の無事だった。
 
第四章 猫は時流に従わない
池袋界隈の闇市での再会。永倉の幼なじみであった元大尉が登場した時点で、イヤな予感しかしない。だがしかし、永倉が良い漢だ。いくらでも続編が書けそうな話ではあるが、続きは出ていないようだ。このくらいの余韻で終わっていたほうが良いのかも知れない。

【この本を読みながら、ついでに仕入れた雑学】
 敗戦直後の焼け野原の東京で、飢えながら必死に生き延びる日本人と、君臨する占領軍。米軍に接収されて通りの名前まで変わった丸の内界隈。(冒頭の丸の内の地図は必見。)代々木の旧陸軍練兵場は、米軍に接収されて中位の米軍将校のための住宅「ワシントン・ハウス」に。内側は日本政府の財政負担で立てられた日本製の米風住宅、外周を塀で閉ざされたこの地区は、サンフランシスコ平和条約後も都心近くの在日米軍住宅として残ったが、後に東京オリンピックの際に日本政府に返還され、米軍住宅はそのままオリンピック選手村として利用された。現在の代々木公園、国立代々木競技場、国立オリンピック記念青少年総合センター。朝鮮戦争当時、アメリカ合衆国大使館軍事援助顧問団(MAAG)の職員として来日し、ワシントン・ハウスに住んでいたジョン・ヒロム・キタガワが、日本人少年達をあつめた少年野球チーム「ジャニーズ少年野球団」を作り、ここから初代ジャニーズの4人が芸能界デビューし、喜多川はジャニーズ事務所を設立。東京のそこここに、今は目に見えない「敗戦後」の日本の記憶がある。まだ、戦争の記憶が新しかったはずの子どものころより、今のほうが、戦後の時間のつながりを濃く感じるのが不思議だ。

緒方竹虎(ウィキペディアより)(明治21(1888)年1月30日生—昭和31(1956)年1月28日没)
 日本のジャーナリスト、政治家。朝日新聞社副社長・主筆。自由党総裁、自由民主党総裁代行委員、国務大臣、情報局総裁、内閣官房長官、副総理など歴任。
 戦前は朝日新聞社の主筆、副社長を務め、2・26事件にも遭遇。戦中の1944年、国家の情報宣伝を行う情報局の総裁に就任。戦後は公職追放を受けたが、解除された後、衆院選に当選。第4次吉田内閣の内閣官房長官に就任し、保守本流の形成に尽くした。首相候補とも言われたが、56年に急死。

2022年5月1日日曜日

0342 報復のカルテット  (ハーパーBOOKS)

書   名 「報復のカルテット」
原   題 「The Cellist」2021 年
著   者 ダニエル・シルヴァ
翻 訳 者 山本 やよい
出   版 ハーパーコリンズ・ ジャパン  2022年4月
初   読 2022年4月25日
文   庫 600ページ
ISBN-10  4596429251
ISBN-13  978-4596429254
読書メーター https://bookmeter.com/reviews/106114147

 2020年3月〜2021年4月。
 世界はcovid(新型コロナウイルス)に支配されている。

 ガブリエルは、故郷のイズレエル谷のラマト・ダヴィドに程近いナハラルのコテージをオフィスから適正価格以上(←ここ、ポイント!)で賃貸し、妻と子ども達とともに、エルサレム旧市街の自宅からコロナを避けて仮住まいしている。
 双子たちは5歳になり、田舎暮らしで日焼けして、人間の友達とは遊べなくとも羊や牛やひよこを友として逞しく成長中。一方のガブリエルは新しくオフィスが入手したガルフストリームに現金入りのスーツケースを乗せ、人工呼吸器や検査薬や医療用防護衣を世界中で買い付けて、国内の病院に配布。ガブリエルの行動に、政治家への転身の準備か・・・とのマスコミの噂も。
 当のガブリエルはそんな噂は歯牙にもかけず、コロナ対策の傍らオフィスでイランの核開発関連施設の破壊や要人謀殺の陣頭指揮も執っている。
 そんな折、ガブリエルの命の恩人でもある旧友のイギリス在住のロシア人富豪が毒殺される。
 今はMI6のケラーと恋仲になり、イシャーウッドの画廊の後継者として地場を固めつつあるサラ・バンクロフトも事件に巻き込まれ、事態を看過できないガブリエルはMI6のグレアム・シーモアやケラーと協力して動き出す。

 殺されたヴィクトル・オルロフが追っていたのは、ロシア大統領(ウラジーミル・ウラジーミロヴィチ(プーチン、と書かないのは“フィクション”の体裁を維持するため?)が西側に不正に蓄財した財産とその違法な手段。ロシア国庫から莫大な資金を不正に海外に持ち出し、西側の悪徳金融機関を通じて大規模なマネーロンダリングを行い、不動産投資や様々な方法で蓄財している、その資金洗浄ネットワークにいかにして潜入し、機構に打撃を与え、その金を奪い獲るか。これまでもガブリエルが血で血を洗う闘争を繰り広げてきたロシア大統領との戦い再び、である。


 しかし、あまりにも規模が大きい話になっているためか、物語中盤に到るまで解説的な文章が続いて大きな動きがなく、かなり地味な印象。それに、ちょっとストーリー展開が安直な気もしないでもない。過去のガブリエルの恋人アンナ・ロルフ(第2作『イングリッシュ・アサシン』)や、他にも過去作に登場した人物が再登場し、なんとなくオールスター登場のサービス回っぽい感じもあって、いよいよシリーズもグランドフィナーレかな、という感じもする。


 イギリスパートには必ず登場する、ダートムーアのワームウッド・コテージのおなじみの面々も登場。執事のパリッシュも相変わらずのご様子なのが嬉しい。パリッシュの有能な相棒のミズ・コヴェントリーは、これまでただの料理番の役どころだったが、じつはロシア語も堪能な元諜報部員であった。ケラーがお気に入りの彼女は、彼が滞在するときには必ず特製のコテージパイを用意する。食材に豚肉は避けるようにと言われて、パリッシュは客人にイスラエル人の友人が含まれていることを察する。ここは、『英国のスパイ』で爆弾テロの標的となったガブリエルが担ぎ込まれて、治療を受けたりもしたMI6の隠れ家である。


 そして、もう一つ、ラストに大きな山場がある。そう、アメリカ大統領選挙だ。
 ロシアとの真っ黒な関係が取り沙汰されていたトランプ氏であるが、あの選挙選最中のQAnon絡みの騒動は日本人の記憶にも新しい。と、いうか件のQからの情報発信が日本発祥の巨大匿名掲示板(2ちゃんねる)の関係者が米国で運営する4chanと8chanで行われていた事実にはちょっと驚く。2ちゃんねるなんて、ネットリテラシーをわきまえた大人の遊び場くらいに思っていた身としては、これが大衆扇動の凶器になりうるという事実に,認識の甘さを突かれた思いだ。
 作中でガブリエルは、これがアメリカを混乱に陥れ、アメリカ民主主義を根底から脅かすロシアの情報戦略であること、そして大統領就任式に企図された大統領暗殺計画を把握し、これを未然に防ぐ為に大統領候補の元に飛ぶ。しかし、ロシアの本当の狙いは大統領ではなかった・・・・・
ダニエル・シルヴァが参考にした、オラツィオ・
ジェンティレスキ作『リュートを弾く女』

 今回シルヴァは、米大統領選の混乱とホワイトハウスへの暴徒の乱入、というアメリカ民主主義の危機を目の当たりにして、後半を大幅に書き直したという。あらためてWikiでQAnon関連のコンテンツを読んだが、人はいかに簡単に荒唐無稽な話を信じることができるのか、また『信じ』たが最後、どこまで愚かな行動に走ることができるのか、とこれまた暗澹となる。今、コロナで学校でもオンライン授業が大規模に導入され、国のICT計画で、小学生まで一人一台タブレットが用意される時代となった。


 ネットリテラシー教育が追いついていくのか、情報弱者や判断能力の低い層が喰いものにされないように、どのように防御していくことができるのか、決して人ごとではない。人は、信じたいものを簡単に信じてしまい、そして一度信じたら、なかなか意見を変えることができない存在だ。そして、「仲間」がいないと生きていけない生き物でもある。様々な理由から分断され、孤独感を味わっている人々が、ネットの裏に潜む悪意からどのように身を守っていけるのか、これからの社会のあり方を方向付ける上で、非常に重要な課題であると感じている。


 それにしても、これまでダニエル・シルヴァのプーチン&ロシア嫌いは偏執的な域なんじゃないかと感じたりしていたのだが、こと、現実がウクライナで示されているのを見ると、いやはや、と驚き・・・・というか嘆息。シルヴァの情報筋のアドバイザーは当然ながら明かされていないが、いつものことながら、この巻末ノートを世に出すために小説を書いているのではないかという気すらする。なにはともあれ、巻末は必読。


アルテミジア・ジェンティレスキ作
『リュートを弾く自画像』
【追伸】 
 前にもどこかで書いたけど、ダニエル・シルヴァは人体の強度については少し考えを改めたほうが良いと思うよ。ガブリエル、これまでにも肺を損傷するような銃創2回、爆弾テロに遭遇すること3回・・・いや、4回か。(イングリッシュ・アサシン、英国のスパイ、ブラックウィドウ、灼熱のサハラ)、シェパード犬に噛まれて左手を骨折し、爆弾テロのガラスの破片で腕の腱を痛め、ボコボコに殴られて、全身打撲と顔面骨折と100針縫う大怪我・・・・。翻訳されているだけでコレだからね。(あ、いや、サウジで胸を撃たれた話は翻訳されてないや。)そういやあ、バイク事故で石畳みで背中をすりおろしたこともあったっけ(『告解』)。あのときは頭蓋骨骨折もしていた。それ以外にも、ルビヤンカで殴られて眼窩を骨折して失明の危機、とか、階段から突き落とされたらしいとか、未訳本の方にもいろいろ。おまけに、今回は文字通り瀕死の重傷。
 ガブリエル、若作りに見えるけど、もう70歳だからね。労ってあげようよ。ジャンプヒーローはもう卒業させてあげて!
 ほんと、スパイ小説のヒーローは数あれど、ガブリエルほど、穏やかな引退生活を送らせてあげたいと願うキャラクターはいない。大好きなベネツィアで、愛する妻子に囲まれ絵筆を握り、老後の穏やかな時間を過ごさせてあげたい。ガブリエル引退まで、あと1作か2作だろうか。もう、祈るような気持ちだ。


 ガブリエル・アロンシリーズ。次作は『Portrait of an Unknown Woman』 2022年7月刊行予定です。さて、ガブリエル引退まであと7ヶ月。しかし、タイトルからしてまた女絡みだなあ。


2021年12月18日土曜日

0311 ヒューマン・ファクター グレアム・グリーン・セレクション (ハヤカワepi文庫)

書 名 「ヒューマン・ファクター」 
原 題 「THE HUMAN FACTOR」1978年
著 者 グレアム・グリーン
翻訳者 加賀山 卓朗
出 版 早川書房 2006年10月 
単行本 495ページ
初 読 2021年12月18日
ISBN-10 415120038X
ISBN-13 978-4151200380
 
「文学」と「小説」の間に明確な区分などないとは思うが、これは、文学よりのスパイ小説。・・・・というより二重スパイを主人公とした文学作品、の味わい。

 MI6の長官、その親友である医師(治療より毒物研究や謀殺担当?)、保安担当の大佐、主人公、そしてその同僚。登場人物は多くないが、描写は細やかで、それぞれのキャラクターが見事に立ち上がっている。とくにパーシヴァル医師の酷薄さは、現実にもまさに居そうで背筋が寒い。

 また、かつての植民地宗主国の筆頭であるイギリスの小暗い歴史を背景に、登場人物各人がアフリカに向ける思いはイギリスならでは。アパルトヘイト政策を現地で支持した白人は、すでに入植から300年以上もたつ「アフリカ人」だったのか。こういう本でも読まないと、日本人である自分には気づけない事柄もあった。

 二重スパイを疑われたMI6の若手の要員デイヴィスの死が周囲に及ぼす波紋。慎重に沈黙を守ってきた二重スパイがついに耐えきれなくなって、破綻していく様子がリアルである。
 ラストの無情さ、無残さは、現実の世界情勢の救いのない無残さを思わせる。
 彼は妻と再会できるのか。できたとして、年齢の離れた2人を死が分かつとき、妻は、かの国でどうやって生きていけるのだろうか? 彼らの息子の命運は? と最後のページをめくってこれが物語の終わりだと気付いた時に自分の中にのこされた不安と愕然に呆然とする。
 人間は、卑小な存在なのに大きな物事を動かしたがりすぎだ、とも思う。
 他人の人生、一国の命運、歴史、そんなものを担い、動かす能力など人間にはないではないか。主義を持たぬ者が、主義者達に翻弄される話でもある。なんとも感想としてまとまりがないが、まさにタイトル通り「ヒューマン・ファクター」を語り上げる物語だった。
 よどみなく流れる翻訳も素晴らしいと思う。

2021年9月5日日曜日

0290 ベイジルの戦争 (海外文庫) 扶桑社ミステリー

書 名 「ベイジルの戦争」 
原 題 「Basil's War」2021年
著 者 スティーヴン・ハンター 
翻訳者 公手 成幸(くで しげゆき) 
出 版 扶桑社 2021年8月 
文 庫 304ページ 
初 読 2021年9月4日 
読書メーター https://bookmeter.com/books/18304756   
ISBN-10 4594088228 
ISBN-13 978-4594088224

 「巨匠ハンターが描く傑作エスピオナージュ」という帯の謳い文句に大いに心惹かれたのだが。
 スティーブン・ハンターの第二次大戦もの、しかもエスピオナージュということでかなり期待して臨んだ—————が、なんというか大味。 読み始めての印象は、『エニグマ奇襲指令』。イギリス、フランス、ドイツがドイツ占領下のフランス国内でドタバタやるとなると、こういうテイストになってしまうのだろうか?
 ナチ嫌いのアプヴェーアの大尉マハトと部下のアベルのやり取りはそれなりに楽しい。上司の大尉を“ディディ”と愛称でよぶアベルは結構な皮肉屋だが、のびのびとした育ちの良さを感じる。
 途中から出てくる単語「ミサゴ(OSPREY)」がなんなのか、よく解らないままに、話は進む。極秘の諜報網を指すのかか、もしくはスパイのコードネームか。物語全体としては、ベイジルが従事したとある稀覯本(というがその原稿の風変わりな複製)の写しの入手、という作戦自体がある意味読者に対する陽動のようなもので、最終的には件のオスプレイの正体に迫っていくわけだが、明確にだれがどうと示されたわけではなく、私の頭が悪いのか、全体がなんとなく曖昧模糊としているような、いないような。
 たとえば、私が大好きなハリイ・マクシムのように、主人公ベイジルの為人と楽しむ本というほどには主人公が魅力に溢れているわけでもなく、どちらかというと少年冒険小説の読後感。ただただあの時代への憧憬のようなものを感じる。ブリーフィングと実際の作戦行動のシーンを交互に差し挟むのも、ちょっと技巧に走りすぎ、かなあ。美人女優のラストの夫とのホテルのくだりが必要だったのか、よくわからん。私が粋というものを解していないからだろうか? 読者をたのしませてやろう!という作者の気持ちは良くわかった。ちなみに解説によれば、作者スティーブン・ハンターはベイジルを多いに楽しまれたようだ。
 まあ、たまにはハズレもあるさ、な一冊でした。
 それと、脱字を一箇所発見。119ページ7行目。


2021年6月4日金曜日

0274 裏切りのシュタージ (ハーパーBOOKS) 

書 名 「裏切りのシュタージ」 
原 題 「QUATTRO PICCOLE OSTRICHE」2019年
著 者 アンドレア・プルガトーリ 
翻訳者 安野 亜矢子 
出 版 ハーパー・コリンズ・ジャパン 2020年8月 
初 読 2021年6月4日 
文 庫 392ページ 
ISBN-10 4596541418 
ISBN-13 978-4596541413

 イタリア人の著者が、旧東ドイツの諜報機関をテーマにした小説を書いているわけだが、ドイツ人に対して、イギリス人vsフランス人みたいなのとはまた違う、なんだか底冷えするような悪感情があるような気がしたんだよねえ。気のせいかなあ?

 それと、翻訳がいまいち。たとえば、次の一文。
 “ニナは、ペーターを恋に落とす唯一の存在だった。”・・・・・恋は落とすものではなく、落とされるものでもなく、落ちるものだ。

もう一つ。「カラブリア人です」ニナはそっけなく答えた。
あまりにも容赦なく吐き捨てたため・・・・・・
 「そっけなく答える」のと、「あまりにも容赦なく吐き捨てる」は同じ動作に対する形容なのかな? ずいぶん語気が違うような気がするんだけどな。

 “ベックは、ニナが少女のころ麻薬に溺れていたことをある程度は打ち明けられる、唯一の人間だった。おそらくニナの正気を失った家族か、かかわりのあった薬物依存者が、彼女に煙草からコカイン、そしてヘロインまでのすべてのステップを踏ませたのだろう。”
 と書いてあれば、「おそらく・・・すべてのステップを踏ませたのだろう」と考えているのは、当然ベックだと思うだろう。
 ところが、
“それでもニナは、全てをベックに打ち明けられず、マリファナを少しやっていたとしか言えなかった。”
 と次の文が来る。それではベックは、ニナがヘロインまでやっていたことを知りようもなく、前段は、誰の視点の文章なのか良く分からなくなる。あとも一つ。

 とにかく息をするのがつらい。機械的な動きで何かを椅子の後ろから取り出して、顔に近づけた。酸素カニューレだった。
 
 末期の肺がんである女性がやっとアパート4階の自宅に帰り着き、椅子にすわって、そこにセットしてあるカニューレで酸素を吸入する。慣れた機械的な動きで、酸素吸入器につながるチューブ(カニューレ)を取り出して、顔にセットするシーン。女性は当然ながら自分が何を手にしているか熟知しているわけで、それを「何か」と形容するのは変だ。これが、たとえば「あるもの」だったとしたら、文の流れはスムーズになる。「とにかく息をするのがつらい。機械的な動きであるものを椅子の後ろから取り出して、顔に近づけた。酸素カニューレだった。」
 小説の地の文は、「一人称で登場人物視点」と「三人称で登場人物視点」と「三人称で神視点」のおおよそ3パターンがあるかと思うが、この本の翻訳の場合、「三人称で登場人物視点」と「三人称で神視点」が混ざってしまっていて、読者を混乱させているように思う。

 ほかにも、読んでいて思わず蹴つまずいた表現がたくさんあって、多分私はこの翻訳者さんとは感覚的なところで、日本語の表現にズレがあるんだろうなぁ。こうなると、ストーリーに入り込めないので辛い読書になる。
 ついでにいうと、やけに滑らかに(普通に)読めるパートと、いちいち引っかかってしまうパートがある謎。
物語の小道具 ビートルスのアルバム

 さて、謎といえば、この話に出てくるドイツの捜査当局の階級が謎だ。
 ヒロインのニナ・バルバロは登場人物一覧によると、「州刑事庁第六機動部隊(テロ対策部隊)」の副隊長。そして、一緒に捜査に当たっているフランツ・ベックが大佐。日本と違って、警察組織の階級名称が軍隊の階級名称と同じ国はたくさんあるが、「大佐」はどう考えてもかなりな高級将校もしくは高級官僚だ。それにしては、捜査陣の中での立ち位置が微妙なのだ。考えられるのは、軍の治安維持部隊からの出向とか?
 ちょっとドイツの警察機構についてググってみた。
 うん。よくわからない♪
 ついでに、ヘロイン中毒の前歴があり、マフィアの眷属を父にもつ移民の女性が、警察機構に入り、昇進していけるものなのだろうか?というのも謎といえば謎。

 さてストーリーについてだが。「ウォルラス計画」の根本的な疑問として、記憶も知識も白紙に近い子どもを使って暗殺者に仕立てるのなら、そのように育てれば良いわけで、あえて催眠術で、しかも何十年もかけて、二重人格のように仕立てる意味が薄くないか?しかも、催眠術下で殺害したとはいえ、誰に命令されて人を殺した、という自覚は本人にあるので、秘密保持の足しにもなっていない。また、そこまで手をかけて、子どもを各国の一般市民として育てるのであれば、その子どもの養父母が各国に潜入している工作員だというのは、なんというか、危機管理上マズくはないか? 4人の子どもに4人の工作員、作戦管理者、そして心理学者が関わりソ連、東ドイツ、統一ドイツ、ロシア、と社会情勢の変化をモノともせず何十年も継続する計画として金も手間暇もかける意味がいま一つよくわからない。
 なんというか、壮大に費用対効果のバランスがおかしいような気がする。
 そして、ストーリーの途中でベック大佐が消失するし。イタリア靴マニア、ゾクラトの様な男がユーリに重宝されているというありえなさ。ひょっとしてもしかして、ここはクスリと笑うところなのか? そもそも、ウォルラス計画が何を意図して発動したのかが良く分からない、というもどかしさ。30年前の恋愛をぐずぐず引きずっている元スパイの自責の念、というか未練にぐだぐだとつきあわされる苦行。14歳までにコカイン中毒と売春でできあがっていた移民の少女が、さくっと立ち直って警察機構をのし上がっている不自然さ。いやあ、これほど膚に合わない小説も珍しいのに、最後まで読んでしまったのは、ベルリンの壁崩壊時の混乱、とか、そのときそこに居合わせたある「KGB将校(実在!)」とか、組織の崩壊を目の当たりにして組織の金を横領して逃亡したスパイ、とかの着想や素材はかなり面白いからなんだよね。ラストもそれなりに味わいがある。それに登場人物がなかなかのキャラ立ち具合もよい。著者および訳者の力量不足がなんとも勿体ない、というか荒削りにもほどがある、と思わされる出来の小説でした。これは、今後の鍛錬を期待すべきかな。訳の出来については、もうちょっと担当さんに査読をがんばってほしい。これでも本買って応援してるので、がんばれ〜!!!

2021年3月27日土曜日

0263 過去からの密使  (ハーパーBOOKS)

書 名 「過去からの密使」 
原 題 「The New Gir」2019年 
著 者 ダニエル・シルヴァ 
翻訳者 山本 やよい 
出 版 ハーパーコリンズ・ ジャパン  2020年4月 
初 読 2021年3月28日 
文 庫  616ページ 
ISBN-10 4596541345 
ISBN-13 978-4596541345

 いやあ、面白かった!『教皇のスパイ』と読む順番が逆になったが、扱うテーマがまったく違ったので、とくに問題はなし。とはいえ、KMBがどうなったのか、知りたかったというのはあったが。
 最新作『教皇のスパイ』が『告解』の作風への回帰だとすれば、この『過去からの密使』は、まさに“アロン長官”の物語。相変わらずの全方位の活躍ぶりで、今回は、ロシア相手に全面勝利。現実のサウジ皇太子がアレでなければ、きっとこの作品のラストは違うものになっていたのだろうなあ。
 今作でも、ガブリエルの我が身を削るような奮闘ぶりで、あのラストは切なくもある。
 話中、ポロニウム210に類似した暗殺用放射性物質が登場するが、若干訳語?の使い方が気になった。被爆よりは被曝のほうが良いような気がするし、放射線被曝と、放射性物質汚染、放射線と放射能がごっちゃになっているような気がする?
 とはいえ、読むのに差し障りがあるほどではないし、私も専門家ではないので用語に詳しい訳ではないので、こちらの気のせいである可能性も大いにあり。
 ポロニウム210は、極めて線量が高く毒性が強いが、ほとんどアルファ線しか出さないため、透過性が著しく低いので紙一枚でも遮蔽できる。そのため、運搬者にはほぼ害を与えず、摂取した者を確実に害せる、ということは理解した。もっとも、ダニエル・シルヴァは、ポロニウム210に類似した放射性物質、としか書いていない。


ところで、“同僚の多くと違って、彼は裕福な家庭の生まれではない。ノッティング・ヒルやハムステッドのようなおしゃれな地区は、給料だけで暮らしている男にとっては金がかかりすぎる。”とはいかに?
 これは、あれか?我らが警視殿への当てつけだろうか???

あと、こんなシーンも。“ヘスターがカウチに寝そべり、白ワインの大きなグラスをそばに置いて、リーバス警部シリーズの新作を読んでいた。” こっちはリスペクト?

ダニエル・シルヴァ、面白い人だなあ。

前作・・・・だったか(?)では、ガブリエルが帰宅すると、キアラが「良心のある殺し屋」が出てくるアメリカのスパイ小説を読んでいるくだりもあった。キアラに「あなたにちょっと似てるかな」と言わせたその良心のある殺し屋のスパイは、もしかしてコートランド・ジェントリーか?全然キャラが違うような気もするが、巻き込まれ型なところと、間の悪いところに居合わせるのが得意技なところと、負傷が多いところは・・・・・・そっくり?

 今回は、中東の細かい国家間の軋轢にもさりげなく触れられていて、グレイマンシリーズで「アメリカとサウジは同盟国で仲良し」ぐらいの知識しか持っていない身には、いろいろと勉強になった。
 パレスチナ出身の女性記者から、辛辣なイスラエル批判を聞かされて、じっとこらえるガブリエルだが、それでもドイツ語で語気鋭く詰られるのがユダヤ人としては堪える、というのがすごくリアルだ。このハニファ、夫が殺されたのは自分のせいだし、娘を見殺しにされたKBMの方にも、復讐する権利がありそうな気がするのだが、そうでもないのだろうか。いずれにせよ、このハニファに対してもレベッカに対しても、ガブリエルは甘いよなあ、と思う。どうしても女性を守りたくなってしまうのが、ガブリエルの甘さであり、良さなんだろう。
 さて、これで既刊のガブリエルシリーズは踏破した。次は、7月に米国で新刊発売の予定。翻訳を読めるのは来春だろうか?
楽しみがあって幸せ。

2021年3月20日土曜日

0262 教皇のスパイ  (ハーパーBOOKS)

書 名 「教皇のスパイ」 
原 題 「The Order2020 
著 者 ダニエル・シルヴァ
翻訳者 山本 やよい 
出 版 ハーパーコリンズ・ ジャパン  2021年3月 
初 読 2021年3月20日 
文 庫  584ページ 
ISBN-10  4596541507
ISBN-13  978-459654150

 2018年11月。
 オフィスの長官に就任して以来、ガブリエルは働きづめだった。休んだと言えるのは、パリで爆弾テロに巻き込まれた時に腰椎の怪我でやむを得ず自宅で数日静養した時だけで、それ以外は半日の休みもなく働き続けていた。夫の心身を案じたキアラは、一計を講じる。
 夫に内緒で密かに国外での休暇を手配。ウージ・ナヴォトを味方に引き入れ、首相にも根回しし、才能豊かなくせに何の趣味もない夫が退屈しないように、休暇先で夫が修復する絵まで手配する念の入れよう。
 ある日、帰宅したガブリエルが目にしたのは、準備万端の旅行カバンの数々。彼の口から出たセリフは、
「きみ、出て行くのか?」
 ついに、若く美しい妻に愛想を尽かされたと思ったか(笑)
 行き先は、キアラの両親が暮らす懐かしのヴェネツィア。双子が祖父母の家を訪れるのは初めてのことである。その双子ももうすぐ4歳で、いつまでも壮年のような雰囲気を漂わせているガブリエルもそろそろ老いと向かい合いつつある。(ちなみにガブリエルは68歳になるかならないか)
 そして、ヴェネツィアで休暇を開始した数日後、ガブリエルの旧友であったローマ教皇パウロ7世崩御のニュースが世界を駆け巡る。ガブリエルは、教皇の側近だったルイジ・ドナーティ大司教から求められ、ローマに向かう。

 まるで、読者へのプレゼントのように、ガブリエルシリーズの素敵なところがぎっしり詰まっている。双子とガブリエルの睦まじい関わり。キアラとのラブラブな会話。絵画修復にいそしむガブリエル。テーマが久しぶりのユダヤ人迫害とキリスト教の問題なので、これだけだと陰鬱になってしまうが、ガブリエルの家族との幸せエピソードがそれを和らげてくれる。キアラとのペアで、一工作員だった頃のように身軽に調査にうごきまわるのも久しぶりの光景。ガブリエルがナチュラルに妻を礼賛している。旧友ドナーティとの隠密行、ユダヤ人とローマ教会の暗黒史。ドナーティがもう一人の主役である。雰囲気的には、『告解』からストレートにつながる感じだ。コレ一冊で、ユダヤ人とキリスト教の関係をそれこそ紀元30年代からおさらいできる。
 そして、キアラとガブリエルは、長官退任後の残りの人生の計画を立て、一部行動に移したりも。これ、フラグじゃないのか?本当に幸せになれるのか?・・・と夢の老後の先取りをする二人に、読者の私の方が不安でいっぱいだ。(笑)

 『告解』では、ピエトロ・ルチェッシと読みが当てられていたパウロ7世だが、こちらではピエトロ・ルッケージ。なんとなくルチェッシのほうがイタリア人名っぽい?ような気もするが、実際の発音は知らないのでどちらが近いのかは不明。 『さらば死都ウイーン』で「草原」(笑)と訳されているレストラン前の広場は、以下のような描写。〈リストランテ・ピペルノ〉はそこから少し南へいったところにあり、テヴェレ川に近い静かな広場(カンポ)に面している。そうだよねえ。

 さて、ストーリーの話題に戻って、この本のテーマは、イエスの死の責任をユダヤの民に負わせるキリスト教の正典、福音書の記述は真実なのか。とくにマタイ福音書の中のキリストを処刑に至らしめる裁判で、ピラトがユダヤ人の群衆の前で手を洗って言う。「この人の血について、わたしには責任がない。お前たちの問題だ」民はこぞって答えた。「その血の責任は、我々と子孫にある」──『マタイによる福音書』二十七章二十四─二十五節

 これが、以後2000年にわたり、キリスト教がユダヤ人を神の殺害者として迫害し、ついには民族を絶滅させる規模の大虐殺を引き起こし、かつそれをローマカトリックが是認(もしくは黙認)した根源である。この記述は真実なのか。
 多くの研究者が、これは事実ではなく、キリスト教がローマの国教となる過程においてローマ人を取り込む必要性から、キリストの死の責任を、ローマ支配とローマ人であるユダヤ属州総督ピラトからユダヤ人に意図的に歪曲した、と見る。
 イエスは、過越祭の最中に騒ぎを起こした為に捕らえられ、おそらく裁判に掛けられることもなく、そのほかの大勢のユダヤ人とともに、無造作に処刑された。ユダヤの律法を守っていた最高法院が過越祭の最中の深夜に裁判を行うだろうか? あり得ないことだ。と作中でジョーダン神父は語る。この記述はユダヤ教の文化に疎いローマのキリスト教徒による創作だ、と。
 エンタメの体裁をとっているが、キリスト教が、ユダヤ人迫害に関して歴史的に果たした役割と罪を、深く、鋭く指摘している。現代のヨーロッパの移民問題はユダヤ人迫害をも悪化させた。その上コロナ禍で迫害に拍車が掛かり、ユダヤ人の安全は、第二次大戦後、最悪の状況を迎えている。著者はどうしてもこの作品を書く必要があったのだろう。
 母の死、祖父母の死、多くの死んだ、または今生きているユダヤ人の運命、自分の人生、そして自分を見上げる幼い娘の瞳。自分が望むと望まざるとに関わらず、その多くを背負ってきたガブリエルが、静かに涙を流す。

【余談ながら】
「これ、わたしが世界でいちばん好きなベンチかもしれない」キアラが言った。「あなたが意識をとりもどして、家に連れて帰ってほしいとわたしに頼んだ日に、あなたがすわっていたベンチよ。覚えてる、ガブリエル?ヴァチカンが攻撃を受けたあとのことだった」「どっちがひどかったのか、わたしにはわからない。ロケット推進式の手榴弾と自爆テロ犯か、それとも、きみの看護か」「自業自得でしょ、お馬鹿さん。もう一度会うことに同意しなければよかった」『教皇のスパイ』p.36-37

 ガブリエルが意識不明になるような惨事があったのかと気になって気になって(笑)、いろいろ探してしまったが、これ、状況としては多分こっちじゃないかな↓。
「あなたが正気にかえって、よりを戻したいって私に懇願した日に、あなたが座っていたベンチよ。覚えてる?ガブリエル。ヴァチカンが攻撃された後の事だったわね。」
「どちらが酷かったのか解らないな。ロケット推進の手榴弾や自爆テロ犯と、あの時のきみの私への態度と」

さて、何があったのか。。。。(笑)
ガブリエルとキアラは結婚の約束をして、ガブがエルサレムのナルキス通りのアパートを手に入れて、キアラは二人で暮らすために自分好みの内装までしたのだが、結局ガブリエルがリーアを見捨てられなかったため、キアラと破局する。そしてキアラがベネツィアに帰ってしまった、というのが『Prince of Fire』ラストのエピソード。その次の『The Messenger』で、ヴァチカンと教皇を狙った爆弾テロがあってガブが教皇を助けたのだが、その後、教皇がガブに「キアラがヴェネツィアで君が来るのを待っている」と嘘をいう。まさかガブリエルをキアラの元に行かせるために教皇が嘘をついた、とは思わないガブは素直にヴェネツィアを訪れ、キアラに冷たく「そこのベンチに座って待ってろ」と言われた挙げ句、「何しにきた」と怒られた、というのが、くだんの“惨事”であった。教皇パウロ7世。お茶目な人でした。きっとその後、ドナーティ相手に「神父さま、私は親しい友を欺きました」って告解している図まで目に浮かぶわ。白くて、小さくて、善良だったパウロ7世に合掌(←ダメか?)

  


2021年3月12日金曜日

0256 赤の女 上  (ハーパーBOOKS)

書 名 「赤の女 上
」 
原 題 「The Other Woman2018年
著 者 ダニエル・シルヴァ
翻訳者 山本 やよい 
出 版 ハーパーコリンズ・ ジャパン  2019年5月 
初 読 2021年2月5日 
文 庫  344ページ 
ISBN-10  4596541124 
ISBN-13  978-4596541123

2017年1月頃〜 
 前作の爆弾テロによる負傷の後遺症で痛む腰をさすりながらガブリエルが登場する。おかげでガブリエルもだいぶ歳相応に見えてきた。ウイーンの美術館で展示を見ているガブリエル。背後にはやきもきしている若い警備担当のチーフ。ガブリエルが若い警護担当相手に、歳相応、立場相応に偉そうに、重々しい物言いをしているのがなにげにおかしい。
 心配する警護係を追っ払って一人で歩いていった先は、過去の苦しい記憶の現場。甦る記憶に体が硬直し、天を仰いで涙をこらえる。やっぱりガブリエルはガブリエルだ。

 良い記憶のない雪のちらつく冬のウィーンでの作戦指揮。
 例によって陣頭指揮を執っていたが、亡命させる予定だったロシアのスパイがガブリエルの目の前で殺害されてしまう。その上その場にガブリエルが居合わせたところを写した隠し撮り写真がマスコミにリークされて窮地に立たされ、怒り心頭・恨み骨髄のガブリエルは〈オフィス〉の総力を挙げて怒濤の諜報戦に突入する。簡単ななずだった作戦の大失敗の原因は、情報の漏洩としか思えない。〈オフィス〉でなければ、共同作戦を張っていたMI6か? 友人であるはずの「C」との熾烈なやり取りに息がつまる。やがて判明したのは、宿敵ロシアの策謀がガブリエルを絡めとるべく二重三重に張り巡らされていたこと、そしてある伝説の二重スパイの存在だった。
 上巻は、ロシアの裏に潜む伝説の二重スパイの存在が明かになるまで。事が動くのは下巻から。

0261 赤の女 下  (ハーパーBOOKS)

書 名 「赤の女 下」 
原 題 「The Other Woman2018年
著 者 ダニエル・シルヴァ
翻訳者 山本 やよい 
出 版 ハーパーコリンズ・ ジャパン  2019年5月 
初 読 2021年2月5日 
文 庫  328ページ 
ISBN-10  4596541132 
ISBN-13  978-4596541130

 上巻で、はじ
めは楽勝かと思われた作戦が大失敗に終わった挙げ句、人殺しの汚名を着せられた〈オフィス〉長官ガブリエル。実はロシアに手玉に取られていたと分かり、巻き返しを図るため、MI6に喰い込んでいるロシアSVRの二重スパイのあぶり出しに掛かる。
 現代のMI6に影を落とすのは、MI6現長官グレアム・シーモアの父の時代の「ケンブリッジ・ファイブ」、世紀の二重スパイ、キム・フィルビーだった。
 フランスで人知らず育っていたフィルビーの婚外子を、ソ連に亡命していたフィルビーが密かにスパイに育てあげた、というあらすじはいささか荒唐無稽な感じを受けなくもないが、そこは、ガブリエルの緻密な捜索と作戦展開でぐいぐいと読者を惹きつけてストーリー展開の中に連れていかれる。

 その二重スパイをこれまで取り立ててきたのは他ならぬ現長官シーモアであり、ガブリエルの盟友でもあるシーモアは事の責任を問われて失脚しかねない。保身の為か及び腰になるシーモアのやり方に腹を立てつつも、友の立場を守るため、ひいてはそれが母国の為になると信じて敢えて煮え湯を飲むガブリエルである。
 今回はロシアの勝ちなのか。これまで文字通り満身創痍で戦いながら米英の諜報機関との関係を深めてきたガブリエルにとっては苦い結末である。

 なお、今回ガブリエルの射撃の腕前が珍しく披露されている。
 実はシリーズ中、ここに至るまで、ガブリエルが射撃の名手だということを信じきれていなかった。これまでに見た彼の射撃は、例の暗殺スタイル———ベレッタ9mmを構えた姿勢で標的に近寄りつつ全弾連射、というやつ———しかなかったが、今回初めてSVRの凄腕工作員相手に抜き撃ちで二人倒す、ということをやってのけた。ガブリエル、出来る子だったのね。

【覚え書き】後書き代わりの『著者ノート』が強烈である。
ダニエル・シルヴァはこの『著者ノート』に自己の信条を語るために、この長大なエンタメスパイ小説を書いて世に出しているのではないか、と思うほどだ。それほどまでに、ロシアに対する危機感が大きい。世界が平和ではないことを、はっきりと認識している人がここに居る、ということだ。日本の中にいるとなかなか実感できないことだが。