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2025年4月13日日曜日

0553 ドラゴンフライ アースシーの五つの物語 もしくは ゲド戦記外伝

少年文庫版
書 名 「ドラゴンフライ アースシーの五つの物語 ゲド戦記5」
原 題 「TALES FROM EARTHSEA」2001年
著 者 アーシュラ・K.ル=グウィン    
翻訳者 清水 真砂子    
出 版 岩波書店
初 読 2025年3月22日
初版のハードカバー
読書メーター 
 【岩波少年文庫版】
書 名 「ドラゴンフライ アースシーの五つの物語  ゲド戦記 5 」
少年文庫版  560ページ 2009年3月発行
ISBN-10 4001145928
ISBN-13 978-4001145922


 【ハードカバー版(初版)】
書 名  「ゲド戦記外伝」
単行本 456ページ 2004年5月発行
ISBN-10 4001155729
ISBN-13 978-4001155723

改編後のハードカバー
 【ハードカバー版(改編後)】
書 名  「ドラゴンフライ アースシーの五つの物語  ゲド戦記 Ⅴ」
単行本 464ページ 2011年4月発行
ISBN-10 400115644X
ISBN-13 978-4001156447


 『帰還』と『アースシーの風』の間を埋める『ドラゴンフライ』または『トンボ』(版によって呼び名が違う。トンボをドラゴンフライに改めるくらいなら、オジオンもいっそのことオギオンに改めれば良かったのでは?!)またロークの学院の起源や、若きオジオンとその敬愛する師匠の物語など。
 なぜ、『アースシーの風』の前にこの本を訳出しなかったのだろう。
刊行順にこちらを出版するのでも良かったとおもうのだけど。
ジブリアニメ公開に併せて
再版されたバージョン

 見ての通り、この本は、ハードカバーの『ゲド戦記外伝』→ソフトカバー版『ゲド戦記外伝』(ジブリアニメ化の際に発行されたもの。)、タイトルを改めたハードカバー本『トラゴンフライ』そして物語コレクション版と、岩波少年文庫版の5種類が発行されている。
 後からシリーズの残りを集めようと思って探した時に、おおいに混乱した。ちなみに私が所有しているのは、函入りハードカバー各初版と、岩波少年文庫版と、ソフトカバー版の3種類。なぜかそうなった。
 今年6月に、ル=グウィンが死去してから発行されたゲド最晩年の作品を含む短編と、ル=グウィンの講演録を翻訳した『ゲド戦記を“生き直す”』などが収録されたシリーズ7冊目(多分今度こそ最終巻)が岩波から発行される。ここで函入りハードカバー版を発行しないのは、50年来の読者への裏切りというものだろう!とこれまた若干腹が立つものの、発行自体はとても楽しみにしている。もちろん。
 さて、この別冊改め『ドラゴンフライ』は、短編5作品と著者によるアースシー解説からなる。『カワウソ』はローク学院のはじまりの物語。『ダークローズとダイヤモンド』と『湿原で』は男女の愛に関する物語。『地の骨』は若いオジオンとその師匠の話。『トンボ』改め『ドラゴンフライ』は、例の!アイリアンのお話です。以下感想。

カワウソ
 通り名をカワウソまたはアジサシと名乗った心優しい魔法使いは、様々な曲折を経て、初代の〈守りの長〉となる。アーキペラゴの暗黒時代に灯を点した、ロークの学院草創期の物語。
 ロークの学院の基礎を作ったのは、実は、〈手〉と呼ばれる草の根抵抗組織の女達だった。(レジスタンス、と書いちゃうと、ちょっと時代的に違う感じがする。) 大きな魔力を持ちながら、正しい教育を受ける機会の無かったまじない師のカワウソは、奴隷に落とされたりしながらも正しい魔法と公平と自由を求めて、古来のそれが残っているという島を探しつづけ、ついにその島に辿り着く。そしてその地で愛を得る。魔法が男だけのものになる前の時代の物語でもある。
 意外なローク学院の始まりについては、ちょっと後付け感も感じないではないけど、カワウソの素朴で正直で控えめな人柄は、『アースシーの風』のハンノキにも共通する温かみがある。女性も魔法使いになり、教師になり、長になれていた初期のロークから、どのようにして女性が疎外されていったのか、そこはとても気になる。
 あと、一つだけ言いたい。「タフなヤツだな。」という台詞は、めちゃくそ浮いてるぞ!

ダークローズとダイヤモンド 
 ダイヤモンドという通り名の青年が、真に自分の魂が求める道に辿り付くまでのお話。ダイヤモンドは“力”のある若者だったが、それが発揮されるのは音楽の道だった。詩がロークの“高尚な”学問に含まれ、歌が含まれなかったのは、学院の始祖たる魔法使いの中に歌を得意とするものがいなかっただけだと『カワウソ』を読んだものなら気づく。それはさておき、ダイヤモンドはロークに行く道を選ばす、愛するものと供にいること、そして歌うことを選んだ。

地 の 骨 
 師匠には「だんまり」と呼ばれた寡黙な少年は、師匠の元で魔法を学び、ゴントで独り立ちした。大地の太古の魔法を知る師匠は、この島に大きな災害が迫っていることを知り、弟子とともに地殻変動に立ち向かう。沈黙のオジオンとその師匠のセレス、さらにその師匠の物語。このシリーズを通じて、オジオンが一番素敵だし、大賢人にふさわしいと思うのは、きっと私だけじゃない。

湿 原 で 
 ある島に現れたまじない師の男は、動物と言葉をかわし、病気を癒やす力を持っていた。疲れはてて一夜の宿を求め、酪農農家の寡婦の家に寄宿することになるが。穏やかで寡黙な男に引かれるおかみさん、男を捜して現れたゲドが語る、男の物語。
 正直、ゲドの語る男のこれまでと、島に現れた男の性格に落差がありすぎて、もうちょっと男の気づきとか改心のいきさつを語ってくれないと、別人のように思える。

ドラゴンフライ(まはたトンボ)
 なんで〈トンボ〉を〈ドラゴンフライ〉に直したかなあ。トンボのままではいけなかったのか。アジサシや、カワウソや、タカも素朴な日本語として意味の通る名前にしたのに、〈トンボ〉をあえて日本人には馴染みのない〈ドラゴンフライ〉にしたのはどうしてだろう。訳者の清水さんにとっては、トンボがどうにも違和感があったらしいのだけど。確かに竜が翔ぶ話なので、ドラゴンフライは本質を突いているんだけど、偉大で巨大な生き物である竜が、人であったときには小さな空飛ぶ昆虫の名前を名乗っている、というギャップも、面白いと思う。
 それはともかく、『アースシーの風』を読むと、突然でてくるアイリアンという女性の名前。そのお話である。最近わたしはKindle版と紙本を併用で読むことが多いのだが、Kindle版は岩波少年文庫版が底本なので「ドラゴンフライ」 紙本(ハードカバー旧版とソフトカバ—版)は「トンボ」。・・・・やっぱりトンボの方が好みだ。
 ゲドの盟友であったトリオンは、ゲドを探しに死者の国に赴いたが、戻ってくることが出来なくなった。しかし、皆がトリオンが死んだと思ったとき、生に対する執着と野心だけが生ける亡者として肉体に戻ってきた。そのトリオンとアイリアンの闘い・・・と思いきや圧倒的物量と熱量の差で、瞬殺。
 にしても、アズバーと守りの長はともかくとして、ロークの賢人団がなかなかのぼんくら揃いに見えてしまうのが残念なところ。

アースシー解説
 ル=グウィンによる、この世界の地理、民族、文化、言語、文字、歴史などの概略解説。
 ル=グウィンはこの世界の言語(真正神聖文字やハード語の文字)を漢字のような表意文字だとしているようだ。解説を読むに、一単語が一字に相当しているよう。
 ネイティブ・アメリカンをモデルにしているという、アーキペラゴの人々に漢字的な表意文字をあて、白人のカルカド人にインカ帝国風の紐を結ぶ伝達の方法をあてるなど、(主には)白人の意識を揺さぶるしくみが仕掛けられてるなあ。
 歌と歌謡は、アーキペラゴの最初の起源を証しているというのに、『ダイヤモンド』で描かれているように、学問大系の中では、歌による伝承の「詩」の部分に重点が置かれて、「歌」の部分はきちんと位置づけられていないんだな。まことの言葉の仕組みとしては、言葉の意味はわからなくても、音律だけで魔法を発動させることも出来そうな気がするんだけど。(そうなると、乾石智子のファンタジー世界っぽいかも。)
 子供は皆教育のようで、6,7歳頃には、『エアの創造』を語り聴かされ、暗唱できるようになる。常識ある大人であれば、だれも『エアの創造』を子供に語ることができる。子供たちは学校でハード語疑似神聖文字(神聖文字に由来し、ハード語を表記するために生まれたた、魔法の力を持たない文字。数百から数千に及ぶ。)を学ぶ。ル=グウィンは、「物語」に丁度良い、閉じて、均質化されていて、文化と富に満ちた世界を創造したようだ。
 ローク学園から女性が排除されたのには、初代大賢人ハルケルの影響が強かったよう。しかし、ロークの設立に女性が深く関わった点については、きちんと知識として継承されればよかったのにね。魔女達のあいだに「魔女の契り」や魔女婚(同性婚)の風習があったのに、魔法使いの間にそれがないのも面白い。

 さて、この巻で既刊の『ゲド戦記』はついに読了。あとは『火明かり』の刊行を待つばかりである。

2025年3月30日日曜日

日々雑感・・・ファンタジーが読みたかっただけなのに


 昨年末から久しぶりにファンタジー作品を読み始めて、原点回帰、とか思って、ん十年ぶりにゲド戦記を読み始めた。私はただ、私のファンタジーの原点・・・指輪物語やゲド戦記に回帰したかっただけなんだよ。あと、ル=グウィンに関しては、まだ完読していない『西の果ての年代記』までは辿り着くことが当初の目的だった。
 だがしかし。
 ゲド戦記の周辺が賑やかすぎて、無視できない。また、作品そのものも、読んだ人間がざわめくのも無理はない程度には、良くも悪くも問題作だった。
 だから、これを読んだ他の人達はどう考えているのだろうか、とかつい気になって、書評のアレコレや、論文や評論にも手をだした。
 結果として,もう手遅れなのだが、純粋にゲド戦記の世界に遊んでいた昔の心持ちに戻れるものなら戻りたい。

 『帰還』も、『アースシーの風』も、絶対に受けつけない人もいるみたいだけど、私はそこまでの拒否感はない。それなりに完成度は高いし、面白い。だけど、そう、なんというか、解釈違いの映画化作品でも見たような気分も無いわけじゃない。ル=グウィンに対しては、彼女のいうところの「今」の作品を書くにしても、なぜゲド戦記の続編でなければならなかったのか、別作品で書いてくれればよかったのに、と、恨めしい気持ちは若干ある。

 『影との戦い』や『さいはての島へ』で出てくる例の石垣については、これまでは、自分なりに、三途の川のようなイメージで読んでいたので、石垣の向こう側があの世だと理解していた。

 だが、『アースシーの風』によって、そのイメージがよく判らなくなった。さらに、外伝(『ドラゴンフライ』)収録の『カワウソ』では死者が石垣のこちら側に居る。根本的な世界観がブレる。『アースシーの風』では死者と生者が力を合わせて石垣を壊す。そして石垣を越えて死者が解放されることが描写されるのだが、それではあの石垣は一体何を仕切っていたのだ?
 生死の世界の分かれ目なのか、西の果てのそのまた西に続く世界のつながりを仕切っていた魔法なのか。死者は石垣のどちら側に居るのか?

 ル=グウィンが十年、二十年の時を経て、アースシーに戻って、その世界を覗き、そこで見たものを作品に紡いだことで、それまでに読者が過去のル=グウィンの言葉をよすがに創り上げていた、日本人にとっては「ゲド戦記」であり、海外の読者にとっては「アースシー」であるところの、ファンタジー世界の土台は壊れてしまった。あの石垣の如くに。

 べつに著者が何十年かけて作品を書いてもそれは良い、が、著者自ら世界を改変するのは、できれば止めて欲しかった。いったんは読者に委ねた作品であれば、過去の作品が未熟なら未熟なまま、読者に預けておいてくれたらよかったのに。

 まず、このゲド戦記6巻(この6月頃には、7巻になる予定。)を読んで思うのはそのことである。
 そして、外野はやっぱり五月蠅すぎる。(私自身も含めてだ!) 作品を楽しむこと以外しなくでもいいじゃないか、と思う。

 だがしかし何よりも、過去の作品世界をいじらないで、と思うその気持ちが、程度の差こそあれ、例の栗本薫に思ったことと根っこのところでは大差無い、というのが、正直一番の_| ̄|○ なのだった。

ノート 「ゲド戦記」の世界 (岩波ブックレット NO. 683) 

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書 名  「ゲド戦記」の世界 (岩波ブックレット NO. 683) 
著 者  清水 真砂子
出 版  岩波書店  2006年9月
ブックレット  60ページ
初 読 2025年3月23日
ISBN-10 4000093835
ISBN-13 978-4000093835

簡単なレビューはすでにアップしたのだが、このブックレットにいろいろと思考が触発されたので、ノートを作っておく。

子供はいつ「ノー」ということを覚えるのだろう 
 冒頭、「ノー」と言う言葉については、いろいろと思うところがある、と清水さんは語られている。しかし、最初に子供に覚えてほしい言葉は「ノー」であるとのくだりで、あ、この方は子育てはしたことがないのかな、と思った。 
 自我が育ってきた子供が「いや」と言えることは大切なことであるのは、否定するつもりはない。
 しかし、実際には赤ん坊は言葉を獲得する以前に「いや」と言っているのだ。泣くことによって。
 「いや」という言葉を覚えているかいないか、という以前の話で、赤ん坊が泣く→養育者が赤ん坊の欲求を満たすという反復を繰り返すことで、子供は、自己の存在を無条件に受け入れられているという、世の中と自身に対する基本的な肯定感を育む。この時に構築される養育者との愛着関係がその人の根っこを作る。これが人生のスタートで何よりも大切なことである。子供が最初に覚える言葉が、「いや」ではなく、ママであり、妈妈でり、マンマであることには、それ相応の理由がある。
 講演会の導入部で、聴衆に受けの良いであろう話題を選ばれたのかもしれないけれど、この内容は少々的外れなように感じるし、この導入って、『ゲド戦記』の話に必要なん?と思った。

■ものを読むということは
 ものを読むということは、書かれていることを読むだけではだめで、何が書かれていないか、新聞であれば何が取り上げられていないかがわかって、初めて読んだことになる。
 これはとても大切なことで、肝に銘じたい。

■訳語一つへのこだわり
 言葉には既成のイメージがある。「ひとつの言葉には、その言葉の歴史が全部まとわりついている」(P.13 )。そして、その一つの言葉の歴史は、書く人、読む人のそれまでの生活・人生で経験してきたものでもちがう。 その前提で、著者のイメージを過不足なく正確につたえるために、言葉の一つ一つを吟味する作業を繰りかえす。そういった作業に真摯に取り組まれている清水さんは、素晴らしい翻訳者だと思う。

■テルーが最初に所有したものは (p.18)
 このブックレットでは、清水氏はそれを、テナーが作ったドレスだと言っている。テナーが生地をもらい受け、染め、裁断し、赤いドレス、シュミーズ、エプロンを手で縫って仕上げる。多分それを、テルーはそばでじっと見ている。その時間はテルーにとって特別なものだったに違いない。しかし、最初の所有ということでいえば、「骨の人」とイルカ号の中でもらった「骨のイルカ」じゃあないかな、と思うのだけど、どうだろう?  そうはいっても、自分の物を持つことについての大切さが変わるわけではない。

■老人ホーム視察団のエピソード (p.18)
 これも、もっともらしい話ではあるのだけど、長い冬に閉じ込められる北欧の「室内」に対するこだわり、その室内調度品に向ける情熱を、そのまま日本の老人ホームに当てはめると、ちょっとずれるかも、と思った。この調度品へのこだわりという点で、私が思い出すのはジョン・ウェイン主演の「静かなる男」の1シーン。母から譲り受けた先祖伝来の家具を新婚の家に運びこむときのヒロインのふるまいなのであるが。
 それとは対照的に思い出すのが「柳行李ひとつで嫁に」、という当時の皇太子殿下(現在の太上天皇陛下)のプロポーズ。日本人の家や生活は、基本的にヨーロッパよりははるかに軽量。片や、長い冬を屋内で過ごす国、片や災害が多い国柄、ということも理由の一つかもしれない。ともあれ物に詰め込む想いは、たぶん北欧人の方が、日本人よりも格段に重いんじゃないだろうか。人が何をよすがに過去を思い起こすのか、は多分文化によって違う。壁いっぱいの家族写真なのが西洋人だとしたら、日本人は、季節の移ろいとか年中行事、祭りや行事、折々の花かも知れない。老人ホームでは人々の過去が消されている、というのが「ほんとう」なのかどうかは、もうちょっと考えたほうがよいかもしれないと思う。 

■今更ながらフェミニズムとは (p.19)
 第4巻の『帰還』が訳者の突き付けてきたのは、「あそこにある成熟したフェミニズム」をどのような日本語で表現したらいいか、ということだったと清水氏は言っている。

 私には“あそこにあるフェミニズム”がどんなものか、ちょっとよく分からない。
 広義のフェミニズムが20世紀初頭の婦人参政権運動などを含む、脈々と続いてきた女性の権利獲得運動であることは知っているが、ここで語られる“フェミニズム”は、もっと狭義のものだ。第二波なのか、第三波なのかもよく判らない。自分はもう何十年も仕事をして、自立して生きてきているが、その“フェミニズム”について、真剣に考えたことはたぶんない。だからといって、アンチ・フェミニズムではないし、ポストフェミニズムだと思っているわけでもない。ただ、なんとなく「フェミニズム」という言葉が自分から遠い。
 その点を何故だろうかと考えたとき、私は自分が女だとはっきり自覚しているが、一方で自分の中の男性性とでもいうものも意識しており、フェミニズムという用語では自分のその部分が疎外されていると感じるからではないかと思った。フェミニズムは私を表さない。ようは,“女くさい”のだ。と、いうことは世の中の半分を占める男性もそうなのではないか。そのような言葉に、世界を変える力があるのだろうか?
 ル=グウィンが体現していたフェミニズムとはなにで、フェミニストとはどんな人なんだろう? もっと私には勉強が必要だ。

■テナーの第三の言葉とは
 テナーをゲドから託されたオジオンは、テナーに「男性の「知」の世界」を与えようとする。しかしやがてテナーはそれを拒否し、考え始める。「自分は自分の衣装を着たい、自分の着物を着たい」「普通の女たちが生きる人生を全部、自分で引き受けて生きてみたい」。

 私は、それをテナーがかつて失ったもの(関係性や、生活や、それにまつわる事物)を回復させたいと願ったのだととらえた。だから、テナーが求めたものはフェミニズム的なものとは関係がなく、むしろ封建的ですらあった、と考えたのだが、この点は、清水氏とも(ひいては著者とも)考えが違うのかもしれない、とこのブックレットを読んで思った。
 そこで、清水氏はテナーを、「男性的な理論の世界の言葉を一度は、獲得した女性」と語るが、そこも果たしてそうなのかな?とも思う。むしろ、男性的な理論の言葉を拒絶した女性、なのではないか? 普通の女の生活の言葉を持っているが、生活べったりでないことは異論はない。彼女は生活や世の中に対して、ある種の客観性を持っている。しかしそれは、彼女が“白い女”であり、自身が生活する共同体の中に受け入れられていると同時に、常に他者、よそ者であるからではないのか。また、幼少時に「アルハ」という孤高の存在として養育され、教育されたからではないのか。また、カルカド語という、母語を持っているからではないのか。彼女が第三の言語を獲得しているとして、それをオジオンの教育に由来すると考えるのは、行きすぎだと思う。
 に、してもだ。 テナーの持つ「第三の言語」性を表現するために、苦心して翻訳されている清水氏の努力のおかげで、私達は実に生き生きとして、まさにテナーらしいテナーに出会うことができているのだ。

■ ハリー・ポッター(笑)
 別にハリー・ポッターをテキししているわけではないし、夢中で一気読みした。でも、読み終わった瞬間に「膨大な時間のむだ遣い」と思った。とのこと。(笑) 何にも残らなかった。(笑)(p.27) あ、それ言っちゃうんだ(笑)
 まさに。そういう本もある。子供にとってはそれでも良い場合もある。それで、「本を読むこと」「本を読んでワクワクすること」を覚えて、より深い読書の世界の入り口になるかもしれない。ただただ、楽しむだけの読書だってある。だけど、『ゲド戦記』とは違うよね、ということだ。だって、『ゲド戦記』って実際、読んでいてそんなにワクワクしなくないか? 正直いって重くないか? それでもその深みになにか得体の知れないものがありそうで、読まずには居られない。そんな感じだ。

 誤読する自由 
 清水氏の「私たちには誤読する権利がありますから、読みたいように読んでいる」という一文にはものすごい破壊力がある。作品をどのように読むか、は読者の権利なのだ、というのはものすごい示唆を含んでいないか? いったん世に放たれた作品は、その意味では、読者の物なのだ、とすら言えないか?
 作者には、自分の創作した作品を、いかようにも描く権利がある。ル=グウィンは、アースシーの世界について、誰はばかり無く作品を世に送り出す権利を持っている。一方で、すでに世に送り出された作品は、読者の中で確固たる世界を築いている。 ゲド戦記の第4巻以降の作品が世に巻き起こした葛藤は、まさにこの両者の対立だったのではないだろうか。
 その葛藤の中で、ル=グウィンすら、その意味を語る必要に駆られてしまった。それが、オックスフォード大学での「ゲド戦記」をひっくり返す」という講演だった。

■「意味」を語るという陥穽
 清水氏は、「ゲド戦記」第4巻は、このスピーチよりもずっと豊かで「こんなもんじゃないぞ」と思った。そして、ル=グウィンに「スピーチ原稿を読んだけれど、あなたの作品は、あなたがここに書いているより、はるかに豊かだと思う」と手紙を送ったのだそう。その手紙にル=グウィンがなんと答えたのか、もしくは応えは無かったのか、はこの清水氏の講演では語られていない。
 そのル=グウィンの作品の豊かさ、とは、読者の中に物語を喚起する力であり、喚起される物語はル=グウィンだけの物では無くなっている、ということだったり、清水氏自身の豊かさだったりするのかもしれない。清水氏が語る「こぼれるもの」は、もっともっと沢山あったが、非常に大雑把にいうと、そういうことなんだな、と思った。

 私は、清水氏のこのブックレット(2本の講演録を整理、編集したもの)を読んで、あれこれと細部の文句を言ったりはしているが、清水氏は素晴らしい翻訳家だと思っている。
 一方で、単語の一つ一つを吟味し、著者の思想を過不足なく伝えようと細心の注意をもって奮闘する翻訳者でありながら、読者としては「誤読する自由」がある、と高らかに宣言する。この強さ(獰猛さ?)が、清水氏の素晴らしさだ。

■ さいごに、映画『ゲド戦記』について
 「人が何かにつき動かされて表現に向かうとき、その表現形態が詩であれ、映画であれ、大事なのは出来上がった作品がそのジャンルの作品として自立しているか否かです。作品が作者をして表現へとつき動かしたものをどれだけ忠実になぞっているかは、全く問題ではありません。」「もしも、できあがった作品が不評を買ったとすれば、それはその作品に、読む者を、あるいは観る者をして我を忘れさせるだけの力がなかったということでしょう。」

 いやこれは、バッサリと。
 正にその通りですが、観客にとっての比較の対象が父宮崎駿であり、ル=グウィンの書いた作品出会ったという点では、吾朗ちゃんは不幸だったとは思う。
 私個人としては、テルーを顔に痣(変色)が残っているものの、きれいでかわいくて、歌の上手な女の子として描いてしまうことだけは、すべきでは無かった、と今でも思っている。
 テルーは顔と上半身の半分が焼けただれて、目も喉も焼け、ケロイドに覆われて、手指は癒着してしまっている、見た目も凄惨な障害を負った少女なのだ。それをきれいに描いてしまうことで、見た目が酷い障害は「絵にならない」「画面に出せない」という強いメッセージを世に放ってしまった。結局アニメはルッキズムを超えられないことを、こうまで残酷に表してしまったことが残念でならない。

2025年3月23日日曜日

0553 「ゲド戦記」の世界 (岩波ブックレット NO. 683)

書 名  「ゲド戦記」の世界 (岩波ブックレット NO. 683)
著 者  清水 真砂子
出 版  岩波書店  2006年9月
ブックレット  60ページ
初 読 2025年3月23日
ISBN-10 4000093835
ISBN-13 978-4000093835
読書メーター https://bookmeter.com/reviews/126874474   

 ゲド戦記5と6が入れ替わる前の2006年の、清水真砂子さんの2回の講演会の内容を編集し、再構成したもの。
 清水さんが誠実で堅実な翻訳家であり、研究者であり、また教育者であることが伝わってくる。

 神聖文字も持たず、真のことばたり得ない私達の言語は、非常に不確かなものながら、それでいて、お互いを結び付け、共通のイメージをふくらましたり、ファンタジーの世界を築き上げたりしている。私達の言葉は、それぞれの生活と体験に依拠するがゆえに、同じ言葉が他の人にとっても完全に同じ意味を持つとは限らない。言葉のそのような揺らぎを知っているその上で、著者の言わんとすることを損なわないように細心の注意を払って、言葉の一つ一つの意味を吟味し翻訳する姿勢を尊敬する。
 その一方で、「私達は誤読する権利がありますから、読みたいように読んでいる」という一節は非常に痛快。
 自身の創作を説明するという陥穽にル=グウィンでさえはまってしまったことについての、清水さん気づきは深いというか、さすがというか。読んで自分も大いに反省させられる。
 しかし、それすらも、ル=グウィンに対する深い敬愛が込められている。
 そのル=グウィンの講演録は、ついに5月末刊行の『火明かり』に収録されるとのことなので、それも楽しみではある。 「あなたの作品は、あなたがここに書いているより、はるかにはるかに豊かだと思う」と清水さんに手紙を書き送られたル=グウィンは、どのように応えたのだろうか。
 「フェミニストの旗手」と見做されていたル=グウィンは、しかし決してそれだけではない。フェミニズムとル=グウィンがどのように関わり、付き合ってきたのかも、もう少し知りたい。

 なお、最近やけに拘りの強い読み方をしていたな、と反省もしきり。そのうち、これまでのレビュ—を書き直すかも。

2025年3月18日火曜日

0552 アースシーの風 ― ゲド戦記Ⅵ(初版時はⅤ)

少年文庫版
書 名 「アースシーの風」
原 題 「THE​ ​OTHER​ ​WIND」2001年
著 者 アーシュラ・K.ル=グウィン
翻訳者 清水 真砂子
出 版 岩波書店
 【岩波少年文庫版】
少年文庫版  384ページ 2009年3月発行
ISBN-10 9784001145939
ISBN-13  978-4001145939
読書メーター 
 【ハードカバー版(初版)】
単行本 349ページ 2003年3月発行
初 読 1993年
ISBN-10 4001155702
ISBN-13 978-4001155709

単行本初版
 出版当初は「最後の書」と銘打たれていた『帰還 ゲド戦記Ⅳ』刊行から10年後に出版された『アースシーの風 ゲド戦記Ⅴ』。このハードカバー版は、このコバルトブルーの表紙のと、黄色い表紙の(『アースシーの風 ゲド戦記Ⅵ』)の二種類が世に出ている。なんとなれば、この本の後に『ゲド戦記 外伝』が出版され、日本国内では、当初刊行順に5、6と番号が振られていたのだが、著者のル=グウィンが、正しい順番は、「外伝」、「アースシーの風」の順番だ!と仰ったかららしい。実際、著者の執筆順はそうだったのだが、『帰還』と直接つながるこの長編の刊行を先にしたのは日本の国内事情のようで、後書きに説明があった。
単行本改定版
 だから、外伝の方もインディゴブルーの表紙の『外伝』とややくすんだ暗いブルーの『ドラゴンフライ ゲド戦記外伝』の2パターンある。
 個人的には、著者に供された発行順でよいのでは?と当初は思っていた。実際自分が持っているのは国内で最初に出た順。後から実は順番がって言われてもな・・・。しかしそれは日本の事情なので、著者からしたら、ちがーう!ってことなのだろう。実際、『ドラゴンフライ』の冒頭の著者前書きを読むと、たしかに順番は、そちらが先なのが判る。そこにこだわりたい気持ちもわかる。ル=グウィンのような意志的な作家の著作を、著者の書いた順番順に発行しない日本の出版事情もなんだかな、と思わないでもない。

 なお、日本語版のタイトルは「アースシーの風」となっているけど、作中で再三使っている、「もうひとつの風」の方が良かったな、と思う。だって、原題が表す風は、西の果てのそのまた西の別の世界の風であって、あきらかにアースシーの風ではない。
 まあ、それはさておき。

 『帰還』からさらに15年後。冒頭、ゲドは70代との記述があるが、だいたい60代半ばくらいじゃないかな? まあ、70代というのは、他人からみたところ、の話なので、単に農夫として暮らしてきたゲドがすっかり老けている、ということなのだろうと勝手に理解する。
ソフトカバー版

 この本は、ゲド戦記3『さいはての島へ』のレビューで私が書いた違和感や未成熟感についての「答え合わせ」になっている。だがしかし。ちょっとモヤる。

 この本単体としては、とても完成度が高いと思うのだ。だけど、著者も認めるように、始めからこのアースシーの世界観の全容を著者が掴んでいたわけではない。「アースシー」の物語は、始めは前3部作で完結していた。
 その後20年近くたって、『帰還』を書いたときにも、作者自身が『最後の書」と銘打つくらいには、これで物語が完結した、と思っていた。そして、10年後の本書である。

 多分、3部作を読んだあと何年かおいて『帰還』を読み、その10年後くらいに、前作の細かいところは忘れたころに、この『アースシーの風』を読んだならば、あまり細部に引っかからずに素直に感動したんじゃないかと思う。だが、残念なことに、『影との戦い』から一気読みしてしまったんだよ。
 思うに、10代の子供向けであれば、十分に納得感のあった当初の3部作であっても、読者も成熟し、著者自身の思索も深まるにしたがって、いろいろと足りないところ、未熟なところを補完する必要に迫られたのだろう。物語世界そのものが成長したのだ。その辺りは『ドラゴンフライ』の前書きなどでも触れられている。

 だが、それでは、ゲドが全存在を賭けて成し遂げたことはなんだったのか、ということになってしまうじゃないか。いっそのこと、最初から書き直しても良かったんじゃないか?と思ってしまう。それくらい、この『アースシーの風』は、解説的な記述が多かったし、つじつま合わせ感も強いと感じた。

 このアースシーでは、地球は丸いと認識されていて、西に西にずんずん進めば、やがて東の端に出会ってしまう。しかし竜たちが目指す「西の果てのそのまた西」の世界は、地上にあるのではなく、いわば西方浄土的な、聖霊や霊魂の世界である。人間と竜が世界を二つに分けたとき、つまりは人間が地上の富を支配することを選び、竜は精霊の世界を翔ぶことを選んだわけだ。
 だけど、人の肉体が死んで霊魂が向かう世界は、この竜たちの西の果てとつながっている。本来はそこで、一人ひとりの魂は大きな地球の生命の中に還り、また次の生に転生するはずだったのだが、死んでも魂を手放したくない人間の欲が、霊魂の道を絶って、壁でこちら側に仕切ってしまった。そのために、人間の霊魂だけが、生の世界のすぐ隣にずっととどまり続けることになって、人間が死後に向かう世界は、まさに動きが死に絶えた、恐るべき暗黒の世界になってしまった。その世界に閉じ込められ、輪廻転生の輪に戻れない死した人々の嘆きが、ついにその壁を壊させるに至った。というのが大筋。

 それはそれで良いと思う。だがしかし。

 それでは、クモはいったいどこに穴を開けたのか。
 持てる力の全てを使い尽くしてゲドが塞いだ穴はいったいなんだったのか。
 ゲドが死力を尽くして守ったものはなんだったのか。
 
 この物語のなかで、ゲドの立場も上手に取り繕ってはいるが、全体としては、「後足で砂をかける」って感じがものすごくする。
 ル=グウィンは、どんどん付け足しで物語世界を改変しないで、いっそのこと初めから書き直せばよかったのだ。もしくは、別の新たな物語を書けば良かったのだ。

 ついでながら、『影との戦い』から繰り返して出てくる死者の国との境目の石垣。その石垣を崩すシーンで、デジャブを感じる。そう、あれだ、ベルリンの壁の崩壊。1989年。
 そういう視点を持ってしまうと、物語全体が、現代史の引き写しなんじゃないかという気がする。西と東の対立というモチーフ。その間に築かれた石壁。西を選んだ民(竜)は、束縛を離れ自由を得たが、東を選んだ民(人間)は、手の技とそれが生み出す富を所有する権利を獲得したが太古の知恵は失った。そしてその東(アースシー)の人間はさらに、アーキペラゴの人々と、カルガド帝国の人々に分裂している。
 これは、東側と西側の対立、そして西欧(キリスト教)文明とイスラム文明の対立そのままではないか。(西と東は逆だし、アーキペラゴが有色人種の世界で、カルガドが白人世界なのも、現実世界とは逆ではあるけれど。)

 「そして人間は東へ、竜は西へと移動したのですが、このとき人間は天地創造のことばを手放し、かわりに、あらゆる手の技と、それが生みだすものを所有する権利を獲得しました。竜はそうしたものはすべて失いましたが、そのかわり太古のことばは失わずにいたというわけです。」

 では、壁が崩れたあとはどうなるのだろう。人間の地は人の欲(資本主義)に席巻され、天地創造の言葉(共産主義)は地を離れて、理念の世界に生き延びるのだろうか。

2025年3月10日月曜日

0551 帰還 ゲド戦記 Ⅳ(ゲド戦記 最後の書!?)

少年文庫版
書 名 「帰還」
原 題 「TEHANU」1990年
著 者 アーシュラ・K.ル=グウィン
翻訳者 清水 真砂子
出 版 岩波書店
 【岩波少年文庫版】
少年文庫版  400ページ 2009年2月発行
ISBN-10 400114591X
ISBN-13 978-4001145915
読書メーター 
 【ハードカバー版(初版)】
単行本 344ページ 1993年3月発行
初 読 1993年
ISBN-10 400115529X
ISBN-13 978-4001155297
単行本初版
 完結していたはずのゲド戦記3部作から時が経つこと、18年。1990年に刊行され、1993年に翻訳出版されたのがこの本。赤い表紙のハードカバー。表紙絵は、切り絵風から油彩風になって、中年になったテナーと、焚き火で焼かれた少女テルー、そして背景には巨大な竜が描かれている。奥の暗闇に輝くのは明星テハヌー。実は、背景が竜の頭だと、今回まじまじと見て初めて気がついた(マヌケ)。そして、表紙には「ゲド戦記Ⅳ」ではなくこう書かれていたのだ。「ゲド戦記 最後の書」と。これは、ル=グウィンが、原著にもそう記したもの。本当に彼女はこれで「最後」だと思ったのだ。そう、執筆した当初は。

 『こわれた腕輪』の物語の直後の25年前、突然、ゲドが17歳の女の子をル・アルビに連れてきて、オジオンに託していった。このオジオンの一番弟子ときたら、師匠を信頼しているが故とはいえ、けっこうあんまりだと思うよ。オジオンは困っただろう(笑)。
ソフトカバー版
 とはいえ、オジオンはテナーを養女としてかわいがり、一生懸命育てたようだ。ゲドを育てた時よりはだいぶ甘々だったのでは?
 なにしろ、世捨て人の賢者と少女の組み合わせだ。それだけでラノベなら何冊も物語が書けそうだ。
 しかし結局、テナーはなにか特別な力のある孤高の存在になりたいとは願わず、普通の世間並みの女として世のでやっていくことを望んだ。やがて、オジオンの家を出て村に暮らし、富農の男と結婚。良い女房、良い母親、良い後家、身持ちの良い女として生きてきた。

 これが、ゲドの冒険の裏側、ゴント島の一隅で起こっていたこと。
 そして、『さいはての島へ』で竜のカレシンの背に乗ってロークを去ったゲドは、ゴント島のオジオンの元に還ってきた。全ての力を失った、傷つき、疲れはて、死にかけたただの男として。
 その数日前に、すでに高齢で死期を迎えていたオジオンは旅立っていた。これは単なる妄想だけど、オジオンは遠く離れたゴントから密かに死の世界で戦うゲドに、残った命の全てをかけて力を与えたのではないか。なんてね。

 この物語はそこから。「帰還」してのちの話だ。
 フェミニズム的な視野なんだろうな、とは思うのだけど、女性の扱われかたとか、ゴハの内心の葛藤とかは読んでいるこちらも、それなりにイライラした。
 また、王たるレバンネンに同行してゴントにやって来た風の長が、身に染みついた「女は取るに足らない」という考えが、無意識のうちに言動ににじみ出ているのも腹立たしい(笑)。
 
 しかし、壮大な空中戦みたいだった前作までと違って、ついに地に足が付いた感じの今作。テナーとゲドが夫婦になり、オジオンの家にこれから住まう。やっと落ち着くべきところに落ち着いた二人。

 ゲドが全ての特別な力を失った無力な男として、喪失に向き合い、再生すること。
 テナーが、一度は望んで受け入れた「女」という理不尽で不自由な在り方に向き合い、ゴハという社会的な女から、テナーという個人に再生すること。
 暴力と性的な虐待を受け、肉体的に大きく損なわれた少女が、内なる本来の全き姿を取り戻すこと。三者それぞれの喪失と再生の物語だ。全体の生と死という極めて抽象的な物語から、個人の物語への回帰でもあったと思う。
 もっと、深い読み方もできるんだろうけど、ひとまずはここまで。次巻からは、本当の初読なので楽しみ。

2025年3月5日水曜日

0550 さいはての島へ ゲド戦記 3

少年文庫版
書 名 「さいはての島へ ゲド戦記 3」
原 題 「The Farthest Shore」1972年
著 者 アーシュラ・K.ル=グウィン
翻訳者 清水 真砂子
出 版 岩波書店
 【岩波少年文庫版】
少年文庫版  368ページ 2009年2月発行
ISBN-10 4001145901
ISBN-13 978-4001145908
読書メーター https://bookmeter.com/reviews/126459454
 【ハードカバー版(初版)】
単行本 319ページ 1977年8月発行
初 読 1982年〜83年頃?
ISBN-10 4001106868

ISBN-13 978-4001106862
単行本初版
 エレス・アクベの二つに割れた腕輪が一つになって、ハブナーに還ってきてから、17、8年。ゲドは5年前に大賢人に選ばれて、いまはロークに腰を落ち着けていた。
 作中のゲドの口調がすっかり、大賢人というよりはむしろハイジのおじいさん調なのでイメージが混乱するが、この時点でゲドは立派な中年もしくは壮年。『こわれた腕輪』では若者よばわりだったので、今は40代半ばだろうか。なにしろ、次の『帰還』では遅すぎた春もくるのだし・・・(っと、それはさておき。)

【ほぼ初読】
 私はこの本は多分、三十年ぶりくらいの再読で、初読の印象はほぼ、ゲドが若者アレンと最果てにいって、力尽きて戻ってきたんだよな、程度の記憶しか残っていなかった。なので、ほぼ初読と同じ感じで楽しめた。

ジブリアニメ化の際に
再販されたバージョン
【ジブリ『ゲド戦記』】

 スタジオジブリ宮崎吾郎監督の『ゲド戦記』(2006年)の原作となったことでこの本を知った人も多いだろうし、それよりずっと以前からこのシリーズを大切にしていた人達も多かったと思う。私も後者ではあるが、ジブリアニメ化の際には盛大に期待を膨らませて公開を待ち、なにか変なものでも喰った気分で映画館を後にした一人でもある。あの『ゲド戦記』は惨憺たる評判だったと記憶している。棒読みとか酷評されていた気もするが、私はテルー役の手島葵さんの声は好きで、映画の役柄にも合っていたと思っている。ちょっと掠れた感じの唄声も好みで、その後、CDを購入したりもした。総じて、歌と音楽は良かった。それに、今改めてこうして原作となったこの本を読んでみると、それなりに原作に忠実にやろうとしていたのだな、とは感じた。この原作であの父親と比較されるんでは、吾郎ちゃんも分が悪いよな、とは当時も思った。原作者のル=グウィンは宮崎駿による映画化を希望していた、なんて情報も、吾朗ちゃんには良い方に働かなかったに違いない。ただ、抽象度の高い死の世界を正面から描かず、あくまでも現実世界の騒乱として描いたことや、テルーの顔の火傷をきちんと取り扱わなかったことはダメだと思った。いきなりのアレンの父王殺しも物語として破綻していたと思う。(作品を超えたメッセージ性は大いにあったけど。)
 なお、右のソフトカバー版の素敵な表紙のバージョンは、映画化に併せて再販されたもの。私はこの装丁のセンスは好きだ。

【そして、物語の感想】
 で、本の物語の方に戻るが、エレス・アクベの腕輪が戻り、アーキペラゴ(多島海)には平和が訪れ、ロークの賢者たちも、ゆるゆるとした時の流れに身を委ねていた。ところが、エンラッドの若き王子アレンが、ロークの賢人団に凶報をもたらす。世界の各地で、魔法が失われている。ゲドはいったんは取り戻せたと思った世界の安定と平和が失われつつあることを察知し、世界の均衡を取り戻すために、アレンを供に〈はてみ丸〉で船出する。これが冒頭。

①アレンがちょっと辛い
 ゲドとアレンはあの島、この島と航海を重ねていく。その旅は行き当たりばったりだし、正直に白状すれば、感情が移ろいやすく、フラフラしている若造なアレンにはかなりイライラした。やっぱり王子様には賢くあってほしいし、真っ当に頑張って欲しいんだよな、とは、最近ラノベの読みすぎか。いやたぶん、アレンはちゃんと頑張っていた。たぶん年相応以上には。華がなかっただけだ。

②死の世界のイメージが
 これまでのゲド戦記全体が生と死の連環を取り扱っており、この「さいはての島へ」では生の何たるかや死の不可避性が大きなテーマになっている。しかし、こうして今読み返してみると、ここで語られる「生」も「死」も非常に観念的で、イメージが硬直化している。とくに「死」や「死者の国」の描かれ方が絶望的に暗く、なんの救いもないのに驚く。そりゃあ、死後の世界があんなんでは、だれも死にたくなくなるだろう。いったい、この死のイメージはどこから来ているのだろう。ル=グウィンは、死というものに何を思っていたのだろう?
 この作品の中では、誰もが「永遠の生」を求め、不死性を獲得することで「死の恐怖」からのがれようとし、その結果、人々は大切な「生」の意味そのものを失っていくのだが、作品に通底する、生と死を包含する世界観が非常に断片的で、しかも救いがない。死者の国は狭く、奥行きがない。死んだ人がすべてそこに行き着く世界であるなら、どれだけ観念的であったとしても、すくなくとも現世以上の奥行きが必要なのではないのか?と思うのだ。輪廻転生のイメージが、きちんとル=グウィンの中で成熟していないような気がする。

③人はそんなに死にたくないものだろうか
「永遠に生きたいと願わないものがどこにいる?」
 とクモは問うのだが、しかし人は本当に、「永遠に生きたい」とあのように一様に願うものなのだろうか。
 永遠の生に対する渇望や死に対する恐れ、といった、この本の中で登場人物が共通して抱く想念に、いまいちリアリティが感じられない。(ファンタジーにリアリティは必要なのか?とかはひとまず置いておく。)
 「死にたくない」という願望が、貴賤を問わず、魔法使いから市井まで、人々に通底する世界に共通する欲望として描かれているが、あまりにも単純化されていて納得がいかない。市井の無学な人々はともかく、知識を極めたはずのロークの賢人団があれでいいのか?
 死に対する恐怖の克服とは、文字どおり「死」を恐怖の対象としないことであり、「死」をなくすことではないんじゃないかと思うのだ。なぜなら、「死」がなくなったなら、恐怖の対象が目の前にないから恐れずに済むだけで、本当は「死」が恐ろしいままであるから。

 この話の中で、賢者といわれるような人々までが、「永遠に生きること」に取りつかれたようになることへの違和感がぬぐえないし、ましてや、「悪役」クモの動機の浅さは噴飯もので、これで世界が壊れるのでは、あまりにも世界そのものが脆弱ではないか、と思えてしまう。

 たとえば現代医療においては、病気ではない「老衰死」が人間の生の最終到達地点になるだろうし、移植医療は「理不尽な死」を克服しようとする取り組みであって、「死」そのものをなくすためのものではないだろう。「死」において、人が耐え難いと思うのは、「理不尽さ」であって万人に等しく訪れる公平な「死」じゃないんではないだろうか? そしてその先にはさらに、「死の理不尽さも受け入れる」という境地もありそうな気がするが。

④この世界は一神教
 また、自分が日本人であるからか、作品に通底する一神教的な視点に対する違和感もあった。
 クモが放つ、
「だが、おれは人間だ。自然よりもすぐれ、自然を支配する人間だ。」という言葉は、いかにも西洋的である。

 死の国においても、「苦しみの山脈」に通った一本道を通ることは死者には「禁じられている」という。つまり、死者の国も、生者の国も超越して、命じることのできる絶対者がいることが前提なのだ。命じているのは誰なのか。

⑤西洋的なものと土着的なもの、その間で定まらない著者?
 このような作品の世界観は、私の(そして多分、多くの日本人の)世界観とは違っている。アーキペラゴの人々はネイティブアメリカンがモデルのようで、白人はカルガド帝国など一部にしかおらず、戦闘的で侵略的な人々として描かれている。しかし、非白人の精神性がきちんと描かれているかというと、そこまでは出来ておらず、たとえば、死後の世界とか輪廻転生的な東洋の発想を取り入れようとする一方で、強烈な一神教的、父権的な価値観から逃れきれていない息苦しさを感じる、というのはうがちすぎか。

【まとめ】
 私がゲド戦記の世界観に感じる硬直感について思うことは、この本はハイ・ファンタジーであるとともに、ある種の思想書、しかもまだ成熟していない思想書だということ。この本についての考察を進めるのであれば、ゲド戦記やル=グウィンの思想を考察した評論なんかも読んでみたほうが良いと思うし、たぶんもっと調べていけば、ここまで書いた感想も、また違ったものになってくるだろうとは思うのだが、そこまで突き詰めるだけの意欲と集中した時間は今はもてないかな。

 しかし、そうはいっても、この本が若年の私に影響を与えた大切な本であることには変わりはない。むしろ、若いころにはこんなことをぐだぐだと考えずに、ゲドとアレンの冒険にのめり込めたと思うので、やっぱり本には読み時というものがあるし、この本はジュブナイル小説なんだろうな、と思う次第。

 やっぱり、これを読んだ十代そこそこの自分に感想を聞いてみたいものだ。

2025年2月20日木曜日

0541 こわれた腕環 ゲド戦記 2

書 名 「こわれた腕輪 ゲド戦記2」
原 題 「The Tombs of Atuan」1970年
著 者 アーシュラ・K.ル=グウィン
翻訳者 清水 真砂子
出 版 岩波書店
 【岩波少年文庫版】
少年文庫版 272ページ 2009年1月発行
再 読 2025年2月20日
ISBN-10 4001145898
ISBN-13 978-4001145892
読書メーター    
 【ハードカバー版(初版)】
単行本 227ページ 1976年12月発行
初 読 1982年〜83年頃?
ISBN-10 400110685X
ISBN-13 978-4001106855
 『影との戦い』から何年か後、5年か10年・・・は過ぎていないくらい。読んでいるとゲドの印象がすっかりおじさんなんだけど、どこか一箇所だけ、「若者」と形容されている。
 一巻でゲドが影を追っていたときに偶然手にした腕輪の半欠けは、世界に平和をもたらす『エレス・アクベ』の腕輪だった。腕輪が割れたときに、平和や統一を表す神聖文字も二つに割れ、それ以来世界は小国が分立し、対立と戦争が絶えない世になっていたのだ。ゲドは腕輪の半分を手に入れて壊れた腕輪を全き姿に戻すことで、世界に平和をもたらそうとしていた。

・・・・そんなゲドが登場するのは、物語も半ばに差し掛かってから。
 この物語は、カルガド帝国のアチュアンにある、暗黒神の墓所に仕える一人の少女の生い立ちから語りはじめられる。墓所の大巫女の生まれ変わりとして5歳で神殿に捧げられ、以来神殿の中で養育され、太古の神に仕えていた少女は、神殿の地下に広がる大迷宮の中でゲドと出会い、ゲドを生かす選択をしたことで、自分も人としての人生を取り戻す。大巫女アルハがゲドによって「テナー」という名前を取り戻し、いかめしい巫女から、だんだん柔らかい少女の心に戻っていく過程が、みずみずしく描かれている。 
 ゲドとテナーが地下迷宮から脱したことで、迷宮と暗黒神殿は崩落し、二人は、平和の腕輪を持ってハブナーに帰還する。

 この後のテナーの人生については、ゲド戦記三部作の後、十数年をおいて刊行された第四部『帰還』を待たなければならない。
 彼女に、「そして彼女は幸せに暮らしました。」的な素敵で幸せな人生が用意されていたわけではなく、やはり、自分の人生を自分の意志に従って切り開かねばならず、そしてその選択の結果も必ずしも順風満帆とはいかず、だからこそ、自分の意志で選択し、納得して歩んでいかなければならないのだ、と教えられるだろう。

 人が歩んでいく人生とはそういうものなのだ、真理ではあるが、つらいものである。喜びと苦しみと半々、いやむしろ、苦しみの方が多い。だが、日々の生活の中にささやかな光や希望があり、小さな喜びがある。テナーが自分で選んだのはそういう道なのだろう。その『帰還』を読むまえに、まずは『さいはての島へ』を読まねばならん。

 ———自由は、それを担おうとする者にとって、実に重い荷物である。勝手のわからない大きな荷物である。それは、決して気楽なものではない。自由は与えられるものではなくて、選択すべきものであり、しかもその選択は、かならずしも容易なものではないのだ。————

 この本に「自由」と言う言葉が出て来て、前に読んだ『レーエンデ物語』では「自由」というものが語られたときに強い違和感を感じたのを思い出した。
 この本『こわれた腕輪』では自由と言う言葉にさほど違和感はなく、違いは何だろう、と考えた。おそらくこちらの本には、「自由」という言葉を支えるこの世界なりの価値観や倫理観があり、この本の世界の中で意味が完結しているのに対し、『レーエンデ』の方には、現実の近代的な「自由」という概念が持ちこまれてしまっている、つまりハイファンタジーとしては未完成であるからだろうか。

2025年2月16日日曜日

0540 影との戦い ゲド戦記1

少年文庫版
書 名 「影との戦い ゲド戦記1」
原 題 「A Wizard of Earthsea」1968年
著 者 アーシュラ・K.ル=グウィン
翻訳者 清水 真砂子
出 版 岩波書店
 【岩波少年文庫版】
少年文庫版 320ページ 2009年1月発行
再 読 2025年2月16日
ISBN-10 400114588X
ISBN-13 978-4001145885
読書メーター 
https://bookmeter.com/reviews/126083295   
 【ハードカバー版(初版)】
単行本 278ページ 1976年9月発行
初 読 1982年〜83年頃?
ISBN-10 4001106841
ISBN-13 978-4001106848
ハードカバー 初版

 ここしばらく、乾石智子氏の《オーリエラント》のシリーズを読み込んできたので、ちょっと小休止して、原点回帰。
 
 初読は小学生の頃。それ以前にミヒャエルエンデの『果てしない物語』や『モモ』なども読んでいた気がするが、しかし『はてしない物語』の国内初版って1982年だった?なんだか微妙に記憶と合わない気がしてきた。

 まあ、そんなことはともかくとして、とにかくハイ=ファンタジーと呼ばれているジャンルの本を読んだ、最初の一冊だったのだ。それ以来、自分の中でのファンタジーの基準軸になっている作品である。これまでに何回も再読しているけど、ここ20年位は通しでは読んでいないし、シリーズ外伝や『アースシーの風』はまったく読んでいなかったので、改めて手にとる次第。

ジブリアニメ化に併せて
再販されたソフトカバー版
 なお、子供の頃は、ル=グウィンを児童文学作家だと思い込んでいた。むしろ『闇の左手』など大人向け(?)のSFなども書いている作家なんだと、かなり遅くに知った時には大いに驚いた。
 だいたい、日本で『児童文学」として紹介されている海外小説って、実際のところ児童向けに書かれたのかは非常にアヤシイと気付いたのも、大人になってから。
 この『ゲド戦記』は清水真砂子さんの翻訳であまりにも定着しているけど、もう少し大人向けに翻訳されたらどんな本になるのかな、と興味があったりもする。ってか、そういう翻訳があったらぜひ読んで見たい。いや、この本だって十分大人が読むに耐える翻訳だけど、ちょっと台詞回しだけはもうすこし大人っぽくてもいいかな、と思ったりはする。それはむしろ、子供向け、というよりは出版された年代的なものかも?

 ゲドと師匠のオジオンとの関係がすごく好きだ。
 今回再読して、ゲドのイチイの木の杖はオジオンが手作りしたものだったのか、と改めて知る。
 影についての考察は、すでにいろいろな識者がされているので、私がアレコレいうのもなんだけど、形而上ではあるものの、本来は個人と強固に結びついていなければならないはずの無意識下の意識が、個人から切り離されて世間を彷徨うようになってしまったら、あのような存在になるのだろうか。そしてそれは、神や聖霊のように光り輝く高次のものではなくて、やはり暗黒に近い存在なのだろうか。

 人の生は死によって完成する。むしろ、人の生は、長い長い死の瞬間なのかもしれない。その死を恐怖の対象とし、生を否定するものとしてとらえることは、人の生そのものを否定することに他ならない。そのような生は、どうしてもいびつになってしまうだろう。

 影から逃げるのを止めて影に向き合いはじめたとき、影にも変化が現れて、形のない黒いもやもやだったものが、ゲドの姿を取り始める。向き合うことで、だんだん恐怖の対象だったものが理解の対象になってくることの現れだろうか。

 影と向き合おうとしているゲドは19歳。その若さに慄く。18歳や19歳というのは、現実社会においても、まだ世間を知らず、己を知らず、未熟な上に未熟なのにもかかわらず、一人で世間に出ていかなければならない年頃であり、その運次第で、良きものにも悪いものにも出会う年齢なのだ。
 自分がこの本を最初に読んだの10代初めに、自分が何をこの本から受け止めたのかは、もはや記憶の彼方だけれど、この本がその時から生涯の愛読書になったことは事実だ。

「生を全うするためにのみ己の生を生き、破滅や苦しみ、憎しみや暗黒なるものに、もはやその生を差し出すことはないだろう。」

 でも、初読の時も今回も、一番好きなシーンは、エスタリオルとゲドの再会のシーンと、
 そして、エスタリオルの妹、ノコギリソウと彼女の小さな竜と、竈でパンを焼きながらの語らいのシーン。
 ハレキ(竜)がパンを一個盗み、ゲドもかまどから熱々のパンをつまみ食い。それにノコギリソウもご相伴。

「ーーーさてと、じゃあ、わたしも兄の分を一つ減らしておきましょうかね。兄もひもじさにおつきあいできるように。」「均衡とは、こうして保たれるんだな。」

2021年9月12日日曜日

0293 ファニー 13歳の指揮官 (児童書)

書 名 「ファニー  13歳の指揮官」 
原 題 「LA VOYAGE DE FANNY」2016年 ※フランス語版
     ※ 初版は1986年スラエル 
著 者 ファニー・ベン=アミ
翻訳者 伏見 操 
出 版 岩波書店 2107年8月 
ソフトカバー 184ページ 
初 読 2021年9月12日   
ISBN-10 4001160102 
ISBN-13 978-4001160109 

 ナチスの迫害を逃れてドイツからフランスに逃げてきていた家族のささやかで平穏な生活が、ある日突然破られる。父がフランス秘密警察に連行されて行方が解らなくなり、母は子どもたちを非難させることに。
 5歳と9歳の妹のいるファニーは、母代わりとして幼い妹達の面倒をみながら、やがて同じく親元を離れて保護されている子どもたちのリーダーになる。そして、強い責任感と意志で、子ども達グループをまとめてスイスへの逃避行を敢行する。

 映画『少女ファニーと運命の旅』の原作本。
 実話です。
 ファニー・ベン=アミさんは、戦後しばらくしてからイスラエルに移住して、現在は娘さんやお孫さんに囲まれ、二人の妹さんも同じくイスラエルで健在、それぞれがホロコーストの記憶を次世代に繋ぐ活動をされている、とのこと。(2017年の映画公開時の情報です。ご存命ならたぶん91歳になられているはず。)
 ファニーさんは、子ども達だけで、フランスからスイスに逃げ、戦争終了までスイスで保護を受け、戦後はスイスで教育を受け続けることが認められずフランスに帰国、といってもそこでもフランスに帰化申請をしなければならなかったのですが。
 ご両親のうち、父は、ルブリン強制収容所で銃殺され、母は1944年にフランスでゲシュタポに捕らえられ、アウシュビッツに送られて殺されたことが、戦後通知されたそうです。彼女が待ち望んだ両親との再会は、ついにかなえられませんでした。

 児童書の体裁とはいえ、大人の読書にも十分耐える読み応えのある内容なので、多くの人に読んで欲しいと思います。

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 今、イスラエルとパレスチナの紛争、とくにガザ地区の惨状を見て、自分達だってあれほど残虐な目にあったのに、なぜパレスチナ人に対して同じように残虐な行為をするのか、という意見をよく目にしますが、事はそう単純ではないと思います。

 ♪人は悲しみが多いほど〜、人には優しくできるものだから〜♪と武田鉄矢が歌った『贈る言葉』は名曲ではありますが、それがきれい事に過ぎないと気付かざるをえないことは、誰もが経験していることでは?

 『人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって、平和を愛する諸国民の公正と信義を信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。』と謳う日本国憲法を、私は崇高なもので、決して失ってはならないものであり、これこそが日本のあるべき姿だと理解していますが、ユダヤ民族は、ヨーロッパ全土で暮らしていた1100万人のユダヤ人のうち、600万人が極めて組織的に効率よく虐殺される、という空前絶後の体験を通して、自分の身の安全を他国や他民族に委ねることは絶対にできない、自分の身は自分でまもらなければならないもの、と骨身に染みているのでしょう。そして、自分の身を守るためには、やられたら確実にやり返すことこそ必要で、そしてこの現代の主権国家の時代において自分自身の身を守るために、国家の主権を維持しつづける、と堅く決意したのでしょう。イスラエル国家は国家の形をとったユダヤ民族の生存権そのものに見えます。
 これは、イスラエルが行っている数々の攻撃を正当化しようと主張するものではありません。ただ、今起きていることを単純化し、遠い地域からきれい事で非難したところで、なんの解決も見ないだろう、と感じます。
 日本人とユダヤ人を引き比べることが公正だとは思っていませんが、それぞれの国民が戦後取った道が正反対であることは、よくよく考えてみたいと近頃考えているテーマです。