著 者 市川 沙央
出 版 文藝春秋 2023年6月
単行本 96ページ
初 読 2023年9月18日
ISBN-10 4163917128
ISBN-13 978-4163917122
この本に「芥川賞受賞作」という帯がついてなかったら、私はこの本を手に取らなかったと思う。
これまで、芥川賞の受賞作に興味を持ったことがあまりなかったのだが、この本を人の手に取らせるためならば、賞も悪くない、と思った。
受賞インタビューで、著者は、この作品は復讐だ、と語っていたが、この本が受賞することも、市川氏による復讐にコミなんじゃないのか?
それでも、この本が受賞し、多くの人が手に取って読むのは、価値のあることだと思う。
この本を、著者の容貌や姿態を思い浮かべることなく、何の先入観なく読むことは私には難しい。そしてきっと、多くの人にとって、自分が当たり前に享受しているさまざまな物事について問われつつ、自分の狭量さや偏見とも向き合いながらの読書になるだろう。多くの健常者にとって、この本は、その中に入り込んで共感するのではなく、自分が当たり前だと思っていた感覚や思考を横っ面から張り倒されるような本になってしまうだろう。
それが良いとか悪いとか、ではなく、この主人公に自分を投影することができず、自分とは異なる存在であると感じる事実に向き合うことになる。もし、釈華が自分の前にいたとして、私は彼女と理解し合えるだろうか? 自分は偽善者なので、彼女を理解しようと努める一方で、彼女は私にはなんの興味も持たない気がする。
それとも、障害者である釈華との正しい距離感として、障害と健常という彼我の差を間に湛えたまま、お互いの気持ちを犯さない距離を探ることになるだろうか。
・目が見えること
・本が持てること
・ページがめくれること
・読書姿勢が保てること
・書店へ自由に買いに行けること
読書バリアフリーについて、彼女は紙の本が人に要求する身体能力を挙げる。
「5つの健常性を満たすことを要求する読書文化のマチズモを憎んでいた。その特権性に気付かない「本好き」たちの無知な傲慢さを憎んでいた。」
「紙の匂いが好き、とかページをめくる感触が好き、などと宣い電子書籍を貶める健常者は・・・」
煽るなあ、と思う。紙の本が好き、というのは単に紙の本が好きなのであって、電子書籍を貶めることとイコールではないと思うが、敢えて紙の本が好きな人は電子書籍を貶めると言い切る。もう、喧嘩を売られている気しかしない。
これが、「紙の匂いが好き、とかページをめくる感触が好き、などと宣う健常者は暢気でいい」という文章だったなら、私は健常の身を暢気に謳歌して、そうでない人の心情には思い及ばない傲慢な人間であることを反省したりするだろう。しかし、著者が描く「健常者」は障害者を踏みにじる存在であるので、弱者の心情に気付いたり反省したりする役割は求められていないような気もする。
「あの子たちがそれほど良い人生に到達できたとは思わないけど」「あの子たちのレベルでいい。子どもができて、堕ろして、別れて、くっ付いて、できて、産んで、別れて、くっ付いて、産んで・・・・・」
そういう人生の真似事でいい。という釈華は、「そういう人生」がどれほどの悲惨さを内蔵しているかを知らないし、自分に関係のないことだから、知る必要も感じない。知らないのを良いことに、自分勝手に想像している。そして「あの子たちのレベルでいい」という言葉に潜む、蔑視。結局のところ、健常と障害との差異の形をとってそこにあるのは、他者を理解しえない“人間の性(さが)”でしかないように思う。
このように、一行一行、いちいち、読んでいて立ち止まって、考えさせられてしまう。
ラストの一章がさらにメタ構造になっていることも、この章や構成の意味を考えている人が、今、日本中に沢山いるだろう。私は底意地悪いことに、この章は、読者が勝手に、この章の意味をあれこれと捏造し論評するその様を、著者が眺めるためだけに書かれたのではないか?とも、つい考えてしまった。
しかし、この釈花という女子が主人公となるラストの一章が、私は好きだ。
この章があるからこそ、これからは愛の作品を書くと言う著者を信じて、次作を待つ気持ちになれる。私は、著者がこれから書く“愛の作品”を読んで見たい。これだけ力ある作品を書く人だから、自分の外側に対置するように読むのではなく、自分が主人公の中に入り込んで読むことができる、この人の作品を読んでみたい。この人の力強い言葉に横っ面を引っ叩かれるのではなく、抱擁されてみたい。そして自分がどこに連れていかれるか、その境地を確かめてみたい。
追伸
朝日新聞に8月5日に掲載された書評を発見。
https://book.asahi.com/article/14974015
これはまた、おそろしく綺麗事な書評で、たいへん驚く。
“主人公には選択肢すらない中絶への願望は、出生前診断により生まれなかった命に対する哀惜の歪(ゆが)んだかたちであり、障害者の生と性を否定する社会への捨て身の抗議に思える。”
本当にそう思えるのか? そして、そう考えるからこその次の文章である。
“両親の遺産を継いだ釈華は「お金があって健康がないと、とても清い人生になります」というが、同じ条件の邪悪な人生だってあるだろう。釈華は所与の条件に依(よ)らず、清い人なのだ。彼女の真の願いや願望は、その語りを裏切りつづける。”
私はこの書評を読んで、なんともうそざむい、気味の悪いものを見てしまったような気分になった。
結局、障害者は清く正しく美しくなければ、健常者に受け入れられないのか? 著者が渾身の力で世に放った毒を、このように「清く正しい」ものにしてしまわなければ、この人は、“ハンチバック”の障害者たる彼女を受け入れないのだろうか。
この書評が著者に投影していることって、24時間テレビのいわゆる「障害者ポルノ」とどれだけ違うんだろう?
私はこの書評の書き手が幻想した「清さ」や、この書き手にとって望ましい障害者の「願望」よりは、釈華のあけすけな性の欲求や、時に醜悪ですらある言辞の方が真実だと思えるし、敢えて著者が世に送り出したそのような”せむしの怪物”すら、清く美しいものにしてしまおうという精神こそ健常者の傲慢で、とても恥ずかしいと感じた。
(用語集)
★コルバン「身体の歴史」———Amazon参照のこと。お値段高!
★マチズモmachismo———「男性優位主義」を指し、男性としての優位性、男性としての魅力、特徴を誇示する、という意味合いがある。
なぜ、「健常者優位主義」にマチズモというルビを振ったのか。健常者イコール男性であり、社会の中でいまだ弱者である女性は、健常者たり得ないから? それとも「読書」にもともと付きまとっている静的で脆弱なイメージではなく、彼女にとっての紙の本の読書が、マッチョで男性的で、弱者をなぎ倒すようなイメージを付与したかったからだろうか。
★インセル———インセル(incel)とは、インターネットカルチャーの一つで、自らを「異性との交際が長期間なく、経済的理由などで結婚を諦めた、結果としての独身」と定義する男性のグループのこと。"involuntary celibate"の2語を組合せた混成語。
日本語では不本意の禁欲主義者、非自発的独身者などと訳され、「非モテ」や「弱者男性」などの言葉に重なる面が大きい。
★ADAーーーAmericans with disability act - 障害を持つアメリカ人法(ADA法)の略。
★ADAーーーAmericans with disability act - 障害を持つアメリカ人法(ADA法)の略。
★ナーロッパ———なろう系小説で、主人公が転生する異世界として描かれる中世ヨーロッパ風の世界のこと。あくまで中世ヨーロッパ「風」なので、本来はその時代にないような物でも存在する。トマトとかジャガイモの料理なんかも出て来そう。
★プチプラ———「プチ(小さい)プライス(価格)」の略。値段が安いことを示す俗語。ほとんどの場合、女性用のファッションアイテム・化粧品・香水・雑貨などのジャンルで、「安くてかわいい」「手に入りやすい」といった意味で使われる。
★セペ———膣内やデリケートゾーンを洗浄するやつ
★リプロダクティブ・ヘルス &ライツ———性と生殖に関する健康と権利
★ハプバ(ハプニングバー)———その日店に居合わせた人達がハプニング=SEXを楽しむための店。あくまでもその日限り。
★裏を返す———何回も客が同じキャストを指名すること←→一見
★即即———風俗業界用語。ソープだけど体を洗う行為ナシで、すぐに性行為に入ること。
★NN———風俗業界用語。生で中だし。(コンドームを用いない挿入と射精を可とすること。)
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