2021年3月14日日曜日

誤訳にもの思う(翻訳という仕事への敬意 改題)

 私は翻訳小説を読むのが好きだ。
 実は日本の小説を読むのは苦手。
 どうしてだろう、と考えるに自分の中に、言葉と語感に対するはっきりとしたイメージがあって、それが日本語で執筆されている作家さんの語感と微妙にズレることがあるのだ。そのズレが収まりが悪くて、どうも上手くストーリーに乗れないことが多い。日本人作家さんは、当然のことながら作品で自己表現をされている訳で、やはり当然のことながら言葉の選択には強いこだわりがあろう。私が文句いう筋合いではないので、そっと本を閉じる。
 その点、翻訳小説だと、自己表現とは別の次元で日本語の表現に取り組んでいる文章表現の専門家が間に挟まるので、本当に素直に物語を読むことができるのだ。翻訳小説は創作者とそれを日本語表現に置き換える翻訳家の共同作業の末できあがる別個の作品であって、これだけの労力が払われているのなら、価格が高くても納得がいく。本当に、翻訳小説が好きだ。

でも、中には、ダメな翻訳、というのがあるのである。
 ←これは、『報復という名の芸術』から始まる論創社刊のシリーズ4冊を翻訳した人の著書。
 この山本光伸氏は、翻訳界で長く活躍され、翻訳学校を主催され、現在は出版社も経営されている。
 上記の本は、おそらくだが、生徒さんに下訳させたのを何の事情でか、そのまま使ったのじゃないかな?と思っている。 と、いうか、正直言って、この人がこんなお粗末な翻訳をしたとは信じ難いので。(仮にそうだとしても、翻訳者として自分の名前を出している以上、それ相応の責任はあると思うが。)
 ストーリーを理解していれば、少なくとも直前までの流れを理解していれば、絶対にしないような誤訳が見受けられる。
“Vienna”をベニスと訳したり(そもそもViennaはベニスではないが、事件がウィーンで起こったことを理解していれば絶対に「ベニス」とは訳さない。)、見開きで、同じ地名を別音で表記(英語発音と、現地語発音)していたりしているところから考えるに、ストーリーの全体像を把握していない複数の人間が小パートづつばらばらに訳して、ろくにチェックせずに貼り合わせたらこういう出来になるのでは?という翻訳に仕上がっている。

訳語の選択にもセンスが感じられないし、一般常識的な知識が足りていない。

『イングリッシュ・アサシン』では、A million pounds を一万ポンドと訳したり、twenty-five years を20年と訳したり、『さらば死都ウィーン』ではthirty years を13年と訳すというような、中学生レベルの致命的な数詞の誤りがある。

誤訳以前に、原文にない文章の書き足しがある。それが作品のクオリティを上げているならともかく、明らかに落としている。

 具体的な指摘については、こちらへ 

 これほどのキャリアと実力を持つ人が、なぜこんな翻訳を世に出してしまったのか。おそらくそれ相応の事情があるに違いない。(と思いたい。)

 そんなわけで、山本光伸氏の翻訳についての考えを伺ってみるつもりで、この本を読んでみた。
 面白いのは、山本氏と私の翻訳もしくは誤訳に関する考え方がほぼ一致していることだ。
以下に『誤訳も芸のうち』p.45-46から引用する。

 『もう一つ、誤訳にまつわる例を挙げよう。ドイツ語で書かれた原文を英訳した小説の中に、次のような一節があった。
 “The E.coli bacteria colonized his body at great speed.They had been in the water he'd drunk at a petrol station two days ago"

 そしてこの英文は次のように日本語で訳されていた。“だが大腸菌はまたたくまに全身に広がった。ふたりは二日前、ガソリンスタンドで酒を飲む前に、海水浴をしていた。”
 私はこの訳文を読んだ瞬間、おかしいと思った。・・・・』
『私が最初に感じたのはたんなる違和感だった。』

そして、こう仰る。

『この翻訳者の実力からすれば、ケアレスミスにすぎないし、たとえ誤訳であっても、日本語できちんと組み伏せてあればそれで構わない。
 私に取って唯一問題なのは、その訳文が日本語の表現として破綻をきたしていないかどうか、もう一歩踏み込めば、ストーリー展開として自然であるかどうかなのである。その点で、上記の例は誤訳と言わざるを得ないのだ。』

 もう、面白いくらい、私が上記の『報復と言う名の芸術』から『さらば死都ウイーン』の誤訳に関して言っていることと一致している。そもそも、やっていることが一緒だ。これは自分自身に失笑する。山本先生、気が合いますね。同士です。
 ではなぜ、山本光伸名義であんな酷い誤訳本が世に出たのか、ということが更に気になるわけだが、きっと諸般の事情があったのだろう、と思うしかない。誰に説明されたわけでもないが、この本の8ページ冒頭にヒントがあるような気もする。山本氏が翻訳出版を行う出版社を立ち上げた時期と重なっていて、多忙を極めていた、とか、翻訳学校で育てた翻訳家の卵に下訳の仕事を与えなければならないという事情があったとか、査読の手配に行き違いがあったとか? 悪条件が重なってチェックの甘い原稿が流出したのではないか、と勝手に推測している。
 とはいえ、そのような事情が(もしかしたらあったのかもしれないが、)そんなことは、末端の購読者にはなんの関係もないことだ。訳者のほうでも、それくらいのことは承知しておいてもらいたい。(←と、山本先生風に書いてみる。)

 『誤訳も芸のうち』で山本氏が言わんとしていることは、ただ、正確に訳すだけならコンピューターにでもやらせておけ、翻訳者は表現者たれ。ということであり、翻訳者が翻訳した作品は、日本語で表現された文芸作品として確立していなければならない。ということであり、そのためには、原著を深く理解し、その精神を日本語に写し取るために、言葉と格闘しなければならぬ、ということで、その翻訳者としての立ち姿と心意気は、実に立派なのである。

 そう、心意気は大変立派だった。若干自意識が鼻につくところはあるが、そんなのは個性のうち、場合によっては人としての魅力の一つだ。

 ゆえに、なぜあのような誤訳本が世に出たのか、という私の疑問は、解決を見ないまでもまあ、そういう事故的なこともあるよね、と納得せざるを得ない。

 ところで、もう一つ、おそらくこの先も解決をみないであろう、疑問がある。

 今、インターネットで、「山本光伸」「誤訳」などというキーワードで検索をかけると、GoogleでもYahoo!でも、数ページにわたってこの本『誤訳も芸のうち』のブックレビューや通販サイトの記事が延々表示されて、実際の誤訳を指摘した記事や投稿が一切浮かんでこない。
 ひょっとして、ネット上の誤訳批判封じのために、この本を上梓したんじゃね?という底意地の悪い意見が私の頭にこびりついて・・・・

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