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2024年12月28日土曜日

0528 飛鳥へ、そしてまだ見ぬ子へ (祥伝社黄金文庫)

書 名 「飛鳥へ、そしてまだ見ぬ子へ」
著 者 井村 和清         
出 版 祥伝社 2002年6月
文 庫 236ページ
初 読 1983年頃
ISBN-10 4396312946
ISBN-13 978-4396312947
読書メーター  
https://bookmeter.com/reviews/125026973

 初読は40数年前。学校の図書館本だった。この本の原稿を書かれた医師、井村和清さんが亡くなられたのが1979年。この本の後書きが書かれたのが昭和55年なので、1980年。
 この40年でおそらく医学は進歩し、昔は死の病だった癌や腫瘍も、当時の感覚からすると驚くほど「直る病気」になりつつあるのではないかと感じている。実際、この本が書かれた頃だったら決して直らなかったろう進行癌から生還した知り合いや同僚を何人も見てきている。

 それでも、人が死を免れない以上は、そして、生と死にまつわる哀しみや苦しみが耐えやすくなるものではない以上は、井村医師が書き残した一言ひとことは、決して色褪せることはないだろう。
 一人の医師が、ひたむきに向き合った患者さんの死。そして自分自身の死。その誠実さ、真摯さと残される人々に寄せる思いに、何度読んでも心を打たれる。

 この本は、前途ある若い優秀な医師であった著者が、膝にできた悪性腫瘍のために片足を切断し、必死にリハビリに取り組み職場復帰したのも束の間、ほどなく両肺に転移が見つかり、ごく短い間に亡くなるまでの間書き綴っられた手記である。最初は私家版で友人や親戚に配り、ほどなくして祥伝社から出版され、ベストセラーになった。私が最初に読んだのは、その最初に出版された新書版だった。その後、2002年に祥伝社から文庫で再版されたのが今回再読したこの本。また2005年には、「まだ見ぬ子」だった次女の清子さんの結婚を機に、奥様の手記を加えて単行本化されている。NHKドキュメンタリー、映画、そして2005年にはフジテレビのドラマ(稲垣吾郎主演)にもなっている。
 当時まだ幼かった長女の飛鳥さんと、妻のお腹の中に宿っていた清子さんに、そして妻に、両親に宛てて、一人のまだ若い医師が一心に書き綴った文章に再読した今も心打たれている。ドラマで知っているひとも多いのだろうと思うが、ぜひ、直接この本を読んで、井村医師の言葉に触れてほしいと願う。
   

2021年12月25日土曜日

映画『ユダヤ人の私』 ドキュメンタリー



マルコ・ファインゴルド氏。1913年生まれ、2019年没。

 ハンガリーで生まれ、ウイーンで育つ。4人兄妹の3番目で、2人の兄は収容所で殺害され、妹は戦争終了まで身元を隠して生き延びたにもかかわらず、終戦直後に行方が判らなくなった。彼は一家のたった一人の生き残りである。
 このドキュメンタリー映像は、亡くなる直前の2018年から19年の収録されたものだそうで、106歳とは思えぬしっかりとした語り口で、淡々と「ユダヤ人」としての彼の生が語られる。

 家族で幸せだった子ども時代。奔放な10代から20代前半。仕事が無かったオーストリアを離れて兄とイタリアに行き、商売をして成功したが、パスポートの期限が切れるためにオーストリアに一時帰国したのが、1938年3月、アンシュルス(オーストリア併合)の数日前だった。そして、マルコ氏は、ウイーンに進駐するナチス・ドイツと、それを熱狂的に歓迎するウイーン市民を目の当たりにした。

 戦後、オーストリアはナチスの最初の占領被害国であると主張したが、オーストリア国民は紛れもなくナチス・ドイツを歓喜で迎えいれた。この日、わずかな時間で、ウイーンのユダヤ人の命運が暗転する。マルコ氏はパスポートの更新もできずに、兄とともにチェコスロバキア国境に逃れたが、無効となったパスポートを所持していたためにチェコスロバキア国内でつかまりポーランドに送られる。ポーランドで偽造の身分証明書を入手して市民に紛れ込んだが、今度は兵役忌避者と見做されて捕まってしまう。やがて、ついにゲシュタポに逮捕され、出来て間もないアウシュビッツに送られ、そこから今度は労働力としてダッハウ、ノイエンガンメ、ブーヘンヴァルト強制収容所に移送。途中で兄とも生き別れとなり、後に兄は収容所で殺されたことが判明する。

 106歳の語りは、とりとめもなく、間に挿入されるアーカイブ映像も、当時の世相を見せるものではあるが、氏の体験と直接結びつくものではなく、曖昧模糊とした印象が終始漂う。アーカイブ映像の見せ方には、ドキュメンタリー映画としてやや難があると感じた。

 しかし、その中でもはっきりと際立つのは、オーストリアへの怒りだ。

 ブーヘンヴァルトで終戦を迎えた被収容者は、国籍二十数カ国に及び、各国は迎えを寄越して解放後数週間で帰国していったが、オーストリア出身のユダヤ人は放置された。自分達で交渉し、輸送手段を確保してオーストリアに帰国しようとしたが、オーストリアはユダヤ人の受け入れを拒否した。

 淡々と、106歳の老人が過去の体験を語る、それだけのドキュメンタリーで、劇的なこと、衝撃的な映像、といったものではない。ところどころ前後関係の脈絡がなかったり、首をかしげる部分もないではない。しかし、アンシュルスの日を境に足元が崩れるように崩壊していったオーストリアのユダヤ人の様子が伝わるし、戦後にナチスドイツの被害者を装ったオーストリアは、実は雪崩をうってナチスに迎合したこと、そのことを告発しつづけたユダヤ人の証言として、大切な証言映像だと思う。また、反ユダヤ主義は、今も脈々と拡大再生産されており、こうやって抵抗し、告発していかなければ、いつまた、生存を脅かされるかもしれない、という危機感も伝わってくる。

 今も、反ユダヤ、ホロコーストの否定はヨーロッパ、全世界に広がっており、オーストリアのユダヤ人協会の会長を長年務め、積極的に講演活動も行っていた氏には、誹謗中傷の手紙やメールが数多く届いている。

 映像中に、それらの「生の文章」が差し込まれる。

 戦後は、ザルツブルグに住まい、パレスチナの地に移住しようとするユダヤ人を支援した。
家も財産も略奪されて帰る場所のない十万人ものユダヤ人が、ヨーロッパの外に移住してくれるのは、ナチのユダヤ人迫害に加担、もしくはこれを黙認した各国にとっても好都合だった。イスラエル国の成立にこのような側面があることも、現在のパレスチナ問題に大きく影響しているのだろう。もっともっと深く考えなければならないと思う。

2021年12月4日土曜日

0310 米海軍で屈指の潜水艦艦長による「最強組織」の作り方

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書 名 「米海軍で屈指の潜水艦艦長による「最強組織」の作り方」 
原 題 「Turn the Ship Around!」2012年
著 者 L・デビッド・マルケ 
翻訳者 花塚 恵 
出 版 東洋経済新報社 2014年6月 
単行本 285ページ 
初 読 2021年12月15日    
ISBN-10 4492045325 
ISBN-13 978-4492045329 
読書メーター   https://bookmeter.com/reviews/102854935
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 自分が仕事ができていると感じているときの充足感、自分がきちんと業務にひいては社会にコミットしている、と思えたときの健全な満足感は、人が仕事をして、それによって長い人生を生きていく上でとても大切で、必要なものだ。

 この本は、組織を構成する一人ひとりがそのような状態になることを、リーダーとしてどうやって意識的に作っていくことができるかを、潜水艦というある意味特殊で閉鎖された環境のなかで実践したことの、記録、というか報告のようなもの。
 潜水艦で、という環境が面白い。
 原子力潜水艦は、一度出航したら何ヶ月も母港に戻らず、浮上すらしないまま長時間の航海が可能で、100名程度の乗員は、狭い艦内で、極めて緊密な関係のなかで缶詰になる。
そのため、組織運営に不確定な要素をもたらす外的な刺激はかなり単純化されていると思える。
・業務は高度に組織化されていて、出来・不出来は一目瞭然。
・ついでにいうと、そのような環境で長時間能力を維持することを求められる乗員は、海軍でも「エリート」に属し、精神的にも安定して強靱で、他者との協調性が高く、意欲的な人物が選抜されているとみてよい。

 そのようなエリート集団であっても、軍組織という上意下達、上官には絶対服従、しかも艦内(艦長の権限は極めて強大)という環境で、専制的でダメなトップのもとでは腐ってしまうのだ。自分の仕事が評価されない。自分が組織の中で役に立っていると思えない。自分が十分に能力を発揮できていない、という思いは、簡単に人間を腐らせ、本来の能力まで奪ってしまう。
 この本は、そのような状態に陥っていた米攻撃型原子力潜水艦〈サンタフェ〉(ロサンゼルス級)の艦長に任じられた著者のマルケ(当時大佐)が、部下に権限を委譲するなかで、部下一人ひとりの責任と判断を尊重し、部下のやる気と充足感を高め、その結果一隻の潜水艦の能力を飛躍的に向上させた実践を簡潔にまとめたものである。
 組織のメンバーが有機的に結びつき、エネルギーが正しく流れるときの無駄のない業務の進行と、それに関わるメンバーの健全な人間関係は、ひとことで言ってしまえばとても“気持ちの良い”ものだ。それを、自分の部下に味あわせることは、いわば組織の上に立つものの責務ではないだろうか。今の自分にそれができているだろうか。という反省も浮かんでくるが、これもまた、健全な反省であるべきだ。
 この本(最強組織の方)を、単に読み物として楽しむもよし、我が身にあてはめて、工夫のヒントとするもよし、何回でも手にとって楽しめそうな、珍しくも有用なハウツー本、ビジネス本だと思う。

 ちょっと脱線するが、H・ポール・ホンジンガーの『栄光の旗のもとに』は、まさに〈サンタフェ〉と同じ状況で新艦長に引き継がれた駆逐艦〈カンバーランド〉を、新任艦長が乗員の自信を回復して最優秀艦に育てる話でもある。この「最強組織」が2012年刊、「栄光の」が2012年に書かれ、2013年に刊行されたのは偶然かな? 真っ黒な円筒型のステルス宇宙艦は、駆逐艦とはいえど、ほぼ潜水艦のようなもの。全長、艦内の構造、乗員数も原潜と似たりよったりだ。リーダーシップを試行して、結果を確認するのに丁度良い規模と環境である、とも言える。


 これは余談。表紙の写真は、ロサンゼルス級原潜〈サンタフェ〉ではない。S112ってどこの艦だろう?国旗はギリシャに見えるけど。せめて米原潜の写真が使えればよかったのにねえ。
 さらに余談。各見開きページの左上のイラスト表示の潜水艦の艦影が第二次世界大戦の頃の姿だ。現代の潜水艦はもっと丸い。
 このあたりのビジュアルにもっと凝ってくれたらよかったのに。。。。。(ちょっと残念。)

2021年6月10日木曜日

0275 日々翻訳ざんげ エンタメ翻訳この四十年


書 名 「日々翻訳ざんげ エンタメ翻訳この四十年」 
著 者 田口 俊樹
出 版 本の雑誌社 2021年3月 
初 読 2021年6月9日 
単行本(ソフトカバー)216ページ 
ISBN-10 4860114558 
ISBN-13 978-4860114558

 先に読んだ『寝耳にみみず』東江一紀さんのいうところの「マット・スカダー訳者」である田口俊樹さんの翻訳秘話?

 面白い、というより、実に勉強になりました。いや、もちろん面白いのだけど!それよりも、紹介されているあの本、この本、次から次へとAmazonでポチりたくなる。
「残念なことにとっくの昔に絶版になっているけど、アマゾンのマーケットプレースで一円で買える。是非ご一読を!」の一文に切なさを感じつつ。(マーケットプレイスじゃ、ないんだ!と変なところに田口さんのこだわりを感じる。)
 それにしても、田口さん、チャーミングなお人だ。超がつくような大物翻訳家にこんなこと言ったら失礼だろうか?

以下は、レビューというよりは、この本に触発されてあれこれ私が考えたこと。
 私は読んだ翻訳の善し悪しを簡単に口にするが、それってとてつもないことをしているよな、と日々後悔に襲われもする。一方で、読むのは私だ(読者だ)、みたいな不遜な気分もそれなりにあって、私ごときのシロートに何かを言われるような翻訳を世に出さないでよ、という素人の傲慢さ全開で読書ブログを書いている。
 いやだがしかし、私に翻訳文芸を読ませてくれる大切な翻訳家さん達に対してともかくも、やり過ぎないように、中庸に、英語力がちゃんと備わってるわけでもない自分の無知を自覚して、批判ではなくむしろ育てることを意識して、、、、、って、ウチの職場の新人育成じゃあるまいし、プロに対してそれも失礼でしょう?
 世に作品を出すことを、商業ベースでやらねばばらないという難しさももちろん理解できる。
 大抵のことはググれば情報が手に入る時代になったからこそ、機械翻訳が性能を上げてきているからこそ、調べものの手間が減った分で表現を磨いてほしい、とこれからの翻訳家さん達には願う。ああ、何という上から目線なんだろう、恥ずかしい。そして、兎にも角にも、出版社さんには査読を頑張ってほしい。シロートが一発で気付くような間違いを紙面に乗せたまま、作品を世に出してはいけないよ。そういう点では、やはり精度の高さを信頼できるのは、東京創元さんかな。もうここ何年か「初夏のホンまつり」に行けていないが、アン・レッキーとクレイスの続刊を出してくれてありがとう。あの時話相手をしてくれた女性の編集者さんにお礼を言いたい。

 ところで、第5回の、「アクシデンタル・ツーリスト」の和訳タイトルを私も考えてみた。『やむにやまれぬ旅行のために』 これはどうだろうか?

 この本のレビューからかなり遠方まで離れてしまったので戻すが、私の知らない言葉の知識がたくさんあって、凄く勉強になった。以下に勉強と考察のまとめ。

「口径」と「番径」(p.32)・・・これは知ってたけど、ひとえにWikiのお陰だ。
「ダウンタウン」は、市当局、警察の含み。「ちょっと署までご同行願おうか」って感じ? 頭に浮かぶのがくたびれたトレンチコート着た山さんだ。年齢が知れちゃう(笑)
「書き入れどき」(p.35)・・・掻き入れだと思っていた。帳簿に儲けを「書き入れる」から来ていたとは!
「まさに掬すべき滋味がある。」(p.36)・・恥ずかしながら掬すべき、という言葉を知らなかった。「「滋味掬すべき」(じみきくすべき)とは「豊かで深い精神的な味わい[=滋味]を、十分味わう[=掬す]べき」ということ。」
「ひとりごちる」と「ひとりごつ」(p.72)
「みみをすまして」と「みみをすませて」(p.73)・・・あれ?それでは大好きなジブリの名作『耳をすませば』はどうなる?
「ソーホース」(p.105)・・・・田口さんに媚びるわけじゃないが、私は「木挽き台」が一番好きだな。イメージがしっくりくる。
「狎れ」(p.118) 
「思しい」(p.154)

2021年3月6日土曜日

0260 ねみみにみみず(作品社)

書 名 「ねみみにみみず」 
著 者 東江 一紀 (著)、越前 敏弥 (編集) 
出 版 作品社 2018年4月 
初 読 2021年3月7日 
単行本 272ページ 
ISBN-10 4861826977 
ISBN-13 978-4861826979
長らく積んでいてごめんなさい。
そして、リアルタイムで著書を買わなかったばっかりに、いまになって古本で集めていて(→翻訳者の印税の足しにならない。)ごめんなさい。

失われた干支2周分の歳月が恨めしいやら口惜しいやら。
私、本が大好きだったことを長らく忘れていたのだ。
今から取り戻せるかどうか。数周回遅れで、1990年代くらいからの「新刊」を必死で追い求める日々です。翻訳小説って足が速いの。あっというまに絶版になるの。どんどん手にはいらなくなっていく、と思うと、読むスピードが遅い、という事実はとりあえず本棚の上の猫しか上がらない隙間に放り投げて、まずは積むべし!(こちらはもちろん本棚の上ではなく、棚板の上に積むのだ)となる。とにかく手にいれるのだ。読むのはそれからだ!その結果の794冊。えええ?半年くらい前にこのブログを立ち上げた時には600冊強とか書いていなかったか?半年で100冊増えたのか?まさか!? そう、この本を読んでいる数日の間にも10数冊増えた。だって、東江さんが紹介してくれるんだもの。
 翻訳者としての覚悟やら、自覚やら、苦しさやら、そしてなにやら隠微な喜びやら、懇切丁寧に教えていただきました。お弟子さんや同業者とのやりとりも面白おかしく、そして、越前敏弥さんの後書きに泣きました。仕事は人格。人としての品格。
 
 それにしても、2000年から2020年までの20年って、私のなかで完全にエアポケット化していて、記憶が薄い。何をしていたかといえば、仕事と子育て。この間の読書で印象に残っていることといったら、息子の授乳に退屈して、鬼平犯科帳全巻を読み尽くしたことと、娘の添い寝に退屈して、赤毛のアンシリーズを読破したこと?くらいだ。気付いたら今年、上の子が二十歳になっていて、我に返った。そして、1990年代の新刊本が、実は二十数年前の刊行だと、いまだに毎日、性懲りも無く驚いている。この間仕事はどんどん忙しくなってきて、今や一日15時間職場にいる日々。おや、これだけは東江さんと一緒だ。椅子に座っている体力(?)だけなら、自宅懲役状態の東江さんと並ぶかも?

《覚え書き》楡井浩一、菜畑めぶき、川合衿子、梁山泊・・・ではなくて泊山梁、だ。すべて、東江さんの別ペンネーム。

2021年2月11日木曜日

0257 夜と霧(新版)

書 名 「夜と霧」(新版) 
原 題 「EIN PSYCHOLOGE ERLEBT DAS KONZENTRATIONSLAGER 」1977年 
著 者 ヴィクトール・E・フランクル 
翻訳者 池田 香代子
出 版 みすず書房 新版2002年11月 
初 読  2021年2月8日
単行本 184ページ
ISBN-10  4622039702 
ISBN-13  978-4622039709

 あまりに静かで穏やかな文体に、これが史上類を見ない民族虐殺の場で起こったことを語っているということを、うっかりすると忘れてしまいそうだ、と思った。写真や別の記録などを手元に置いて、両方を見ながら読んだ方が良い。


 家畜よりも残忍な扱いを受け、人間性と尊厳を極限までこそぎ取られてなお、大自然の雄大さや夕日の美しさに感嘆する精神がある。ユーモア、ほんの少しの笑いが魂を生き延びさせることを知っている人が側にいて、救われたひとがいることだろう。
 著者が冒頭で語っているとおり、ホロコーストの残虐さ、「壮大な地獄絵図」は描かれない。なぜならそれらを語った証言や証拠はこれまでにいくたびとなく提示されている。この本で著者が描き出そうとしたのは、“一人ひとりの小さな、しかしおびただしい苦しみ”、それが人の精神をどのように切り刻んでいったのか、それでもなお残る人間性はどのようなものだったのか。個々人の力では抗いようのない残酷な命の瀬戸際に立たされた時に見いだされた人間の精神の崇高さを語り出していく。
 これまで知らなかったこともあった。
 かまど(死体焼却炉)のない小規模な収容所に送られることが、幸運であったこと。
 被収容者があちこちの収容所をたらい回しにされていたこと。
 ユダヤ人を根絶することが目的であった収容所でも、「病気療養棟」があり、チブスなどの患者が隔離収容されていた。無きに等しいとしても、微々たる薬の配給があり、囚人の中から医師が配置され、収容所としての体裁を整えるために組織的・計画的に収容所が運営されていた。そして、そこに隔離されることは、夜間や氷点下での土木作業に出なくてもよいことであり、「幸せ」なことであったこと・・・・・(後半の記載から、この薬は、この収容所の所長であったSS将校のポケットマネーで賄われていたものかもしれない。この所長は、公正な人間であったとして、収容所開放後、被収容者が、連合軍側に対して彼の身の安全の保証するのでなければ引き渡さない、としてかばった。そして、本文では書かれていないが、このかばった張本人はおそらくフランクル自身であろう、と後書きより)

§いい人は帰ってこなかった・・・・
「収容所暮らしが何年も続き、あちこちたらい回しにされたあげく一ダースもの収容所で過ごしてきた被収容者はおおむね、生存競争の中で良心を失い、暴力も仲間から物を盗む事も平気になってしまっていた。そういう者だけが命をつなぐことができたのだ。何千もの幸運な偶然によって、あるいはお望みなら神の奇跡によってと言ってもいいが、とにかく生きて返ったわたしたちは、みなそのことを知っている。わたしたちはためらわずに言うことができる。いい人は帰ってこなかった、と。」 

§生きる続ける為に、死と苦しみに与えられた意味—問いと意味の反転—
 生きつづけることが出来なければ、この苦しみには意味がない、という思いは、やがて、自分に与えられたこの苦しみを受け止めることがすなわち、生きつづける意味につながる、と反転した。生の意味は、死やそこに至る苦しみまでも内包するものになる。

「わたしたちにとって生きる意味とは、死もまた含む全体としての生きることの意味であって、「生きること」の意味だけに限定されない、苦しむことと死ぬことの意味にも裏付けされた、総体的な生きることの意味だった。」p.131 

§深まる思索
 「生きること」が自分になにかを「期待している」。自分が未来に何かを期待するのではなく、未来が、自分に果たすべきなにかを求めている。自分からは生きることに何かを期待することはもはや出来なくなってしまっても、逆説的に「何かが」自分を待っている。「生きること」が自分に何かを「期待している」と思うこと、思わせることは可能だった。
 そして、そのような形で未来に存在する何か、を明瞭に思い浮かべる事ができた人々は、生き抜く事ができた。

「生きることは日々、そして時々刻々、問いかけてくる。・・・・ひとえに行動によって、適切な態度によって、正しい答えは出される。生きるとはつまり、生きることの問いに正しく答える義務、生きることが各人に課す課題を果たす義務、時々刻々の要請を満たす義務を引き受けることにほかならない。」p.130 

 「ひとりひとりの人間にそなわっているかけがえのなさは、意識されたとたん、人間が生きるということ、生きつづけるということにたいして担っている責任の重さを、そっくりと、まざまざと気付かせる。自分を待っている仕事や愛する人間にたいする責任を自覚した人間は、生きることから降りられない。まさに、自分が「なぜ」存在するかを知っているので、ほとんどあらゆる「どのように」にも耐えられるのだ。」p.134 

§善悪の境界線は集団の間には引けない
 監視する側、被収容者の側というだけでは、一人の人間についてなにも語ったことにはならない。善悪の境はひとりひとりの人間の中にあり、人間に対して人間らしく振る舞うということは、つねにその人個人のなせるわざ、モラルだった。卑小で残酷で嗜虐的な人間はいずれの側にもいて、そういう人間を(被収容者の中から)選別し、監視者に仕立てることで、収容所のヒエラルキーは成立していた。一方で、公正で人間らしい人物も、たしかにSSの中にすらいた。

「この世にはふたつの人間の種族がいる。いや、ふたつの種族しかいない。まともな人間とまともでない人間と、ということを。このふたつの「種族」はどこにでもいる。」p.145   

§解放されたものの心理
 解放されたからといって、苦痛の全てがおわり、幸福が訪れたわけではない。解放された被収容者には、心理学的にいっても困難な状態が続いたし、自分たちが体験した苦痛に対する、周囲の反応のギャップに苦しんだ。また、自分達の苦痛や苦悩を、他者に転嫁することで満たされようとする心理に陥る者も多くいた。いつか再会することを、微笑んで迎えてくれることを夢に描いていた愛するものや、大切なものごとが全て失われていた。 



 こうした思索すら、最初の「選別」を経て、10人の内のひとりになったからこそ可能だったことを、後年彼の体験を追想しようとしている者は忘れてはならない。
 1100万人のヨーロッパ・ユダヤ人のうち600万人が極めて組織的に、殺害された。
 かれらを個人の倫理観で小さな単位の中で守ろうとした人々は沢山いたが、組織的に対抗しようとした人々、もしくは集団は少なかった。
 家畜用貨車に詰め込まれて何日も掛けてアウシュビッツやそのほかの絶滅収容所に送られた人々のうち、一番弱い人々は、貨車の中で絶命した。そして、貨車から降ろされたときに、選別され、労働力と見なされなかった病人、老人、幼い子どもなどの弱者は、そのままガス室に送られて殺害され、焼却された。または、銃殺され、穴に落とされれ埋められた。
 焼却炉の骨は同胞の囚人の手で砕かれて近くの川に捨てられた。
 収容所に送られた者のうち生き延びたものは数パーセントだった。この本は、そのごく少ないうちの一人によって、思索され、記述されたものである。この本を読む私達は、彼の体験と思索を追体験するとともに、彼にはなれなかった大多数の人にも思いをはせなければならない、と思うと同時に、他人事ではなく、我が身や、自分が所属する集団や民族でもおこりうる、そして被害を受ける側ではなく迫害者となりうることを真剣に考えなければならないと思う。

2020年12月16日水曜日

0237 死闘の駆逐艦

書 名 「死闘の駆逐艦」 
原 題 「DESTROYER CAPTAIN」1975年 
著 者 ロジャー・ヒル 
翻訳者 雨倉 孝之 
出 版 朝日ソノラマ 1991年1月 
初 読 2020年10月
 WWⅡを3隻の駆逐艦で北海から地中海まで駆け回った元英国駆逐艦艦長ロジャー・P・ヒル(英国海軍少佐)、本人による記録。
 極めて優秀かつたたき上げの駆逐艦乗りである。士官候補生時代から、艦長になるまでを大型艦で過ごした時期が多く、巡洋戦艦リナウン、地中海艦隊旗艦レゾリューション、戦艦フットにも乗務。本人はとにかく駆逐艦に乗り組みたくて、大型艦に配属されるのが不満だった。夢は駆逐艦を指揮して戦うこと。念願どおり《レドベリー》、《グレンヴィル》そして《ジャーヴィス》の艦長を歴任。従事した作戦はソ連向けPQ17、マルタ向け輸送船団、ビスケー湾のUボート掃討、カイロ会談にむかうチャーチル一向を載せた巡洋戦艦〈リナウン〉の護衛、そしてノルマンディー上陸作戦の援護など。
 これらの作戦行動を日誌に基づき、分単位で丁寧に書き起こしている。精読の価値ある一冊である。
 そして独の新兵器だった無線誘導滑空爆弾を初対面で飛行の癖を読んで操艦でかわし、海に叩き込んだのがすごいの一言につきる。一方で戦闘への従事が長引くにつれ戦争神経症で精神症状が悪化していく様子も克明に記録されている。冷静に自分をとらえ、部下と艦の安全のために必要だと判断すれば、自分の処遇について上官に上申。なかなかできることではないと思う。 
 歯に衣着せぬ物言いで無能な参謀や上官に作戦行動についてモノ申し、彼を嫌う人間もいたが、理解者となる上官もいた。
 ただし、グレンヴィルに乗っていた後半、着任してきた駆逐隊司令官とは折り合いが悪く、かなり冷遇されたように見える。精神状態の悪化に加え、司令官からのいやがらせのような数々は、さぞかし心身に堪えたことと思う。しかし乗務していたのは奇蹟の幸運艦〈ラッキージャービス〉で艦内と部下達との関係がしごく良好だったのが救いだ。
グレンヴィル時代のヒル艦長。写真は英語版WIKIより
 この駆逐艦ジャーヴィスについては、興味のある方はWikiを読まれたし。数々の作戦に従事し終戦まで戦い抜き、しかもその間一人の戦死者も出さなかった幸運の艦として《ラッキージャーヴィス》と呼ばれた奇跡の艦である。 《ジャーヴィス》が長期修理でドック入りをしたのを機に艦を離任する際、部下達からは素敵な記念品が贈呈された。この本は、この離艦で終わる。
 この後従事した作戦で、ヒル少佐は負傷し、入院中に戦争が終結。終戦の翌年の46年に病院を退院して海軍を退役した。65年にニュージーランドに移住、念願のこの本を記す。
 1910年生まれの彼は、WW2のころはまだ若い。最初の指揮官レドベリーは平均年齢22歳で、当時32歳の艦長は「年寄り」だった。大型駆逐艦のジャーヴィスは乗員220名ほど。これだけの能力と統率力を発揮できる人が平和な今、どれだけいるだろうか。

 以下は、この本の前書きと英語版WIKIより、ロジャー・パーシヴァル・ヒル氏の略歴。

1910年6月22日生誕
1927年英国海軍入隊
〈エレバス〉に1年間乗務
1928年9月〜1039年10月巡洋戦艦〈リナウン〉に少尉候補性として2年半乗務
ダドリー・パウンド提督が座乗。艦長タルボット大佐
この間に、訓練で駆逐艦〈ウォッチマン〉に1か月乗る。駆逐艦に魅せられて、駆逐艦乗務を志すようになる。
1931年7月少尉に任官
1931年8月〜1932年1月ポーツマスで昇任コース受講
〜1933年6月地中海艦隊旗艦 巡洋戦艦〈レゾリューション〉乗務(2年)
司令長官 ウィリアム・フィッシャー卿。艦長マックス・ホートン大佐
1933年12月中尉に昇進
1933年〜1934年巡洋艦〈キャドラック〉乗務 任地は中国揚子江の上流漢口。艦長はスイフレット
1935年〜1937年駆逐艦〈エレクトラ〉乗務。任地アレクサンドリア(3年)。艦長ブラックバーン中佐
1936年〜スペイン内戦にともない、スペイン近海で法人救出任務
1937年8月〜1938年2月戦艦〈フッド〉乗務 任地は地中海、スペイン沖
司令長官 A.B.カニンガム提督、艦長プリングル大佐。
この間に結婚。
1938年 巡洋艦〈ペネロペ〉乗務 任地スペイン沖→ハイファ
艦長ハットン大佐、副長ヘンリー・デンハム中佐
1939年9月1日ヒトラーがポーランド進行を開始
1939年潜水母艦〈アレクト〉乗務
艦長ビル・フェル
1939年〜1940年3月掃海トロール船〈タモーラ〉乗務
1940年春スループ艦〈エンチャントレス〉乗務(先任将校)
アラン・スコット・モンクリーフ艦長。 大西洋航路の護衛任務
戦艦〈バーラム〉に乗務していた弟が21で戦死
1942年1月~9月駆逐艦〈レドベリー〉艦長
PQ15,16の間接護衛任務につく。
1942年6月ソ連向け輸送船団PQ17の直接護衛任務につく。
マルタでの護送任務。戦争神経症の悪化。不眠、震え、情緒不安を覚え、艦を離れる決心をする。
1942年9月〜1943年4月キング・アルフレッドで指導教官を務める。
〈オハイオ〉号の功績でD.S.O(殊功勲章)を授与される。
1943年4月~1944年2月駆逐艦〈グレンビル〉艦長
イギリス海峡における〈トンネル作戦〉、ビスケー湾のUボート掃討、地中海での各種作戦、
カイロ会談に向かうチャーチルを乗せた〈リナウン〉の護衛航海
1944年2月~1944年9月駆逐艦〈ジャービス〉艦長

1944年6月6日
グレンビル時代の功績で殊勲十字章を受章
ノルマンディー上陸作戦

1944年9月以降時期不詳頭部負傷により入院
1946年退院。イギリス海軍退役
1965年健康を害し、ニュージーランドに移住。本書を記す。
2001年5月5日死去
【駆逐艦レドベリー】
 念願の駆逐艦艦長になった最初の任務が、ソ連向け輸送船団PQ15〜17の護衛。15と16は、船団についた護衛艦隊の戦艦と、護衛艦向け給油船の護衛、という間接任務だったが、例の悪名高きPQ17では、船団の直接護衛任務だった。
このPQ17は、時刻を追った克明な記録となっている。船団が出発した早い時期から、ドイツの航空艇がずっとひっついており、逐一行動を把握されていたこと。潜水艦と航空機による波状攻撃。面白かったのは、ずっとひっついてくるドイツの偵察機に、艦内のドイツ語に堪能な乗員が電文をつくって「おまえのせいで眠ることもできなくてふらふらだから、どこかへ行ってくれまいか」と信号を送ったところ「O・K」と返事が来て本当にどこかへ行ってしまった、という逸話。書いているヒル艦長も???クエスチョンマークが一杯。
 船団に「散開せよ」という不可解な緊急電文指令を受け首をかしげるが、立て続けに司令部からくる電文に誰もが怖れていたドイツ戦艦〈ティルピッツ〉と重巡〈ヒッパー〉が出てきたに違いない、と考える。ドイツ艦に攻撃を仕掛けるのだ、と思い、艦隊にしたがって船団を離れていくが、どこにも敵はいなかった。数時間後には、無防備な商船船団を危険の中に置き去りにしたのだと気付かざるを得なかった。後においてきた壊滅しつつある船団からの悲痛な電文。反転して救援にいくことも考えたが、それまでに相当な燃料を消費しており、船団に戻ることは叶わなかった。
 帰任後、護衛艦隊の駆逐艦艦長5名が司令長官に呼ばれて、「なぜ護送船団を離れたのか」と皮肉交じりに詰問される。別の艦長が「そのように命令をうけたからだ」と答えたが、艦長達の怒りと虚脱感は計り知れない。ヒル艦長の部下達に寄せる思いはひとしおで、全艦あげて帰還祝賀会を開き、部下達の技術を誉め、今回の行動が海軍本部の不手際によるもので艦の責ではないことを伝えた。船団に参加した6隻の駆逐艦に対する批判は相当なだったようで、これに反論することがこの本の目的の一つだったのかもしれない。ヒル艦長はいつかこの本を書く日のために、克明な航海日誌を手元に置いていた。責任はないかもしれないがそれでも後悔が残る。あのとき、命令に違反してでも戻るべきだった。そうすれば、駆逐艦何隻かは沈められることになっても、あと何隻かは商船を無事にアルハンゲリスクに連れていけた。そうするべきだった、と。
 この作戦以来、陸上で紙の上で作戦を指揮する司令部の参謀という連中を、ほとんど信用しなくなった、と本人がこの本に記している。
 ヒル艦長が徹底的に鍛えて良く統率の取れていたレドベリーの乗組員達も、任務後は気持ちが荒れた。港で連合軍の米艦の連中に英国海軍はすぐ逃げる、と揶揄されて喧嘩沙汰になって処分者が出たり、と心理的にも影響の大きさが判る。

 こののち、レドベリーは、マルタ行き護送船団の護衛任務につく。PQ17での大きな犠牲の後遺症で、艦長以下、この船は「人助け」をせずにはいられないフネになったようだ。海中に墜落した英国軍機の乗員を助ける際には、艦長みずから水中に飛び込んだ。
 当時のマルタは、陸・海を敵に囲まれて孤立している一方で、ドイツのアフリカ派遣軍への補給を阻害する要衝となっており、マルタへの補給は欠かすことができないものだった。特にレドベリーが従事した輸送作戦以前の数ヶ月間にわたり、オイルタンカーを一隻もマルタに持ち込めておらず、燃料不足が深刻化していた。そのような状況の中で護衛船団を送り込むが、度重なる敵の攻撃に晒され、大型タンカー〈オハイオ〉号が舵も動力も失って漂流、ドイツ・イタリアの急降下爆撃と闘いながら、レドベリーを含む駆逐艦3隻で曳航・護送し、マルタに持ち込むことに成功した。
 マルタの後、ヒル艦長は不眠や震えや強い恐怖感、情緒不安、しつこい胃痛などの神経症の症状が悪化する。艦をイギリスに連れ帰り、修理のためドックに入れたあとで、艦長はレドベリーを去ることになった。当面は休息も兼ねて、キング・アルフレッドの士官養成所の指導教官をつとめ、その間にマルタの功績でDSO(殊功勲章)を授けられている。

【駆逐艦グレンビル】
 6ヶ月間のキング・アルフレッドでの陸上勤務ののち、新造艦グレンビルの艦長の任命を受ける。この艦もヒル艦長の手で鍛えあげ、ビスケー湾における対Uボート掃討に従事。Uボートキラーとして勇名を馳せたウォーカー大佐とも作戦を共にした。面白いのが、ヒル艦長はレドベリー時代から雑種の小型犬を連れており(というか世話をしていたのはもっぱら従兵と水兵達)、この犬が幸運の使い手として艦で崇められていたこと。上の艦長の写真で小脇に抱えているのがそれ。犬が港で迷子になると水兵が探し回って出航もままならなかった。幸運の担い手を迷子にしたまま危険な任務に出航したい乗組員はいなかっただろう。
 また、このビスケー湾で、ヒル艦長のグレンビルはドイツの新兵器、ロケット推進の無線誘導弾に遭遇している。他のフネがこれにやられて大破、中破するなかロケットのクセを読んで巧みに操艦し、艦についてきた爆弾を海に落として対抗した。
 イギリス海峡での任務のあとは、ジブラルタルで地中海艦隊に加わり、カイロ会談に向かうチャーチル一行をのせた〈リナウン)の護衛も務めた。この頃からまた精神状態が悪化し、不眠、幻聴、死臭を感じる、悪夢に悩まされるようになる。ジブラルタルで休養して回復し、グレンビルに復帰。その後、イタリア、アドリア海での任務ののち、駆逐隊司令が指揮していた〈ジャービス〉が損傷したため、司令と艦を交換するかたちで《ジャービス》に異動する。

【駆逐艦ジャービス】
 不本意な形でジャーヴィスの艦長となったが、《ラッキー・ジャーヴィス》は強運と乗組員の強い連帯に恵まれた素晴らしい艦だった。この艦で、ヒル艦長はノルマンディー上陸作戦を闘うことになる。ジャーヴィスは、幸運・強運を遺憾なく発揮し、数々の戦闘で砲弾の雨の中を闘い、あるときは6個の音響機雷を誘爆させるもほとんど無傷だった。精神状態への不安は相変わらずで、この時期は司令からの嫌がらせがあったりといささか気の毒であるが、部下との関係は良好だったようだ。

ロジャー・パーシヴァル・ヒル艦長の駆逐艦(リンクは全てウィキペディア。引用も)

英国駆逐艦《レドベリー》←こいつは英語版Wikiページ。
建造所 ソーニクロフト
級名 ハント級駆逐艦  ←こっちは日本語版Wiki
進水 1941年9月27日
就役 1942年2月11日
退役 1946年3月退役、1958年7月解体。


左の写真は、タンカー《オハイオ号》にひっついているレドベリー。左右どちらの艦かまでは判らないが、マストの感じだと左側?。この一件で、ヒル艦長は殊功勲章を与えられている。“お気の毒にも陛下は、自ら数百人の人の胸に勲章を付け、握手を賜る労働に励まれるのだった。”












英国駆逐艦《グレンビル》
写真は、IWMのコレクションからお借りしました。
建造所 スワン・ハンター
級名  U級駆逐艦(嚮導艦)
就役  1943年 
改修  1953年 
再就役 1954年 3月19日 
退役  1974年






英国駆逐艦《ジャーヴィス》※このジャーヴィスの艦歴は一読の価値あり!
ジャーヴィスは第二次世界大戦において、軽巡洋艦オライオン及び駆逐艦ヌビアンと共に戦艦ウォースパイトの14個に次ぐ13個の戦闘名誉章 (Battle honour) を受章した武勲めでたい艦として知られる
。戦争期間中主要な戦いの多くに参加したにもかかわらず、一人も戦死者を出さなかった幸運と活躍から「ラッキー・ジャーヴィス」(Lucky Jervis)の渾名で呼ばれた。

級名 J級駆逐艦(嚮導艦)
愛称 ラッキー・ジャーヴィス(Lucky Jervis)
進水 1938年9月9日
就役 1939年5月9日
退役 1946年5月

2020年8月16日日曜日

0217 AIとカラー化した写真でよみがえる戦前・戦争 (光文社新書)

書 名 「AIとカラー化した写真でよみがえる戦前・戦争」 
出 版 光文社新書 2020年7月 
初 読 2020/08/16
 読むというよりは見る。
 戦前のモノクロ写真をデジタルと関係者の証言でフルカラー化。とても綺麗、というだけでなく、今まで“歴史の彼方”にあるかに思えていた戦争が、にわかに地続きになる。臨場感を持って甦った戦前ー戦中の写真。写真のそこここにいるのは、正に私達だ。
 モノクロだと歴史の彼方に隔絶された感じがする戦争が、にわかに身に迫ってきた。圧巻だったのは真珠湾で爆発する駆逐艦。胸につまったのは子供と女性たちの笑顔。
 戦争など遠い昔だとつい感じている人に是非見てほしい。