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2025年3月30日日曜日

ノート 「ゲド戦記」の世界 (岩波ブックレット NO. 683) 

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書 名  「ゲド戦記」の世界 (岩波ブックレット NO. 683) 
著 者  清水 真砂子
出 版  岩波書店  2006年9月
ブックレット  60ページ
初 読 2025年3月23日
ISBN-10 4000093835
ISBN-13 978-4000093835

簡単なレビューはすでにアップしたのだが、このブックレットにいろいろと思考が触発されたので、ノートを作っておく。

子供はいつ「ノー」ということを覚えるのだろう 
 冒頭、「ノー」と言う言葉については、いろいろと思うところがある、と清水さんは語られている。しかし、最初に子供に覚えてほしい言葉は「ノー」であるとのくだりで、あ、この方は子育てはしたことがないのかな、と思った。 
 自我が育ってきた子供が「いや」と言えることは大切なことであるのは、否定するつもりはない。
 しかし、実際には赤ん坊は言葉を獲得する以前に「いや」と言っているのだ。泣くことによって。
 「いや」という言葉を覚えているかいないか、という以前の話で、赤ん坊が泣く→養育者が赤ん坊の欲求を満たすという反復を繰り返すことで、子供は、自己の存在を無条件に受け入れられているという、世の中と自身に対する基本的な肯定感を育む。この時に構築される養育者との愛着関係がその人の根っこを作る。これが人生のスタートで何よりも大切なことである。子供が最初に覚える言葉が、「いや」ではなく、ママであり、妈妈でり、マンマであることには、それ相応の理由がある。
 講演会の導入部で、聴衆に受けの良いであろう話題を選ばれたのかもしれないけれど、この内容は少々的外れなように感じるし、この導入って、『ゲド戦記』の話に必要なん?と思った。

■ものを読むということは
 ものを読むということは、書かれていることを読むだけではだめで、何が書かれていないか、新聞であれば何が取り上げられていないかがわかって、初めて読んだことになる。
 これはとても大切なことで、肝に銘じたい。

■訳語一つへのこだわり
 言葉には既成のイメージがある。「ひとつの言葉には、その言葉の歴史が全部まとわりついている」(P.13 )。そして、その一つの言葉の歴史は、書く人、読む人のそれまでの生活・人生で経験してきたものでもちがう。 その前提で、著者のイメージを過不足なく正確につたえるために、言葉の一つ一つを吟味する作業を繰りかえす。そういった作業に真摯に取り組まれている清水さんは、素晴らしい翻訳者だと思う。

■テルーが最初に所有したものは (p.18)
 このブックレットでは、清水氏はそれを、テナーが作ったドレスだと言っている。テナーが生地をもらい受け、染め、裁断し、赤いドレス、シュミーズ、エプロンを手で縫って仕上げる。多分それを、テルーはそばでじっと見ている。その時間はテルーにとって特別なものだったに違いない。しかし、最初の所有ということでいえば、「骨の人」とイルカ号の中でもらった「骨のイルカ」じゃあないかな、と思うのだけど、どうだろう?  そうはいっても、自分の物を持つことについての大切さが変わるわけではない。

■老人ホーム視察団のエピソード (p.18)
 これも、もっともらしい話ではあるのだけど、長い冬に閉じ込められる北欧の「室内」に対するこだわり、その室内調度品に向ける情熱を、そのまま日本の老人ホームに当てはめると、ちょっとずれるかも、と思った。この調度品へのこだわりという点で、私が思い出すのはジョン・ウェイン主演の「静かなる男」の1シーン。母から譲り受けた先祖伝来の家具を新婚の家に運びこむときのヒロインのふるまいなのであるが。
 それとは対照的に思い出すのが「柳行李ひとつで嫁に」、という当時の皇太子殿下(現在の太上天皇陛下)のプロポーズ。日本人の家や生活は、基本的にヨーロッパよりははるかに軽量。片や、長い冬を屋内で過ごす国、片や災害が多い国柄、ということも理由の一つかもしれない。ともあれ物に詰め込む想いは、たぶん北欧人の方が、日本人よりも格段に重いんじゃないだろうか。人が何をよすがに過去を思い起こすのか、は多分文化によって違う。壁いっぱいの家族写真なのが西洋人だとしたら、日本人は、季節の移ろいとか年中行事、祭りや行事、折々の花かも知れない。老人ホームでは人々の過去が消されている、というのが「ほんとう」なのかどうかは、もうちょっと考えたほうがよいかもしれないと思う。 

■今更ながらフェミニズムとは (p.19)
 第4巻の『帰還』が訳者の突き付けてきたのは、「あそこにある成熟したフェミニズム」をどのような日本語で表現したらいいか、ということだったと清水氏は言っている。

 私には“あそこにあるフェミニズム”がどんなものか、ちょっとよく分からない。
 広義のフェミニズムが20世紀初頭の婦人参政権運動などを含む、脈々と続いてきた女性の権利獲得運動であることは知っているが、ここで語られる“フェミニズム”は、もっと狭義のものだ。第二波なのか、第三波なのかもよく判らない。自分はもう何十年も仕事をして、自立して生きてきているが、その“フェミニズム”について、真剣に考えたことはたぶんない。だからといって、アンチ・フェミニズムではないし、ポストフェミニズムだと思っているわけでもない。ただ、なんとなく「フェミニズム」という言葉が自分から遠い。
 その点を何故だろうかと考えたとき、私は自分が女だとはっきり自覚しているが、一方で自分の中の男性性とでもいうものも意識しており、フェミニズムという用語では自分のその部分が疎外されていると感じるからではないかと思った。フェミニズムは私を表さない。ようは,“女くさい”のだ。と、いうことは世の中の半分を占める男性もそうなのではないか。そのような言葉に、世界を変える力があるのだろうか?
 ル=グウィンが体現していたフェミニズムとはなにで、フェミニストとはどんな人なんだろう? もっと私には勉強が必要だ。

■テナーの第三の言葉とは
 テナーをゲドから託されたオジオンは、テナーに「男性の「知」の世界」を与えようとする。しかしやがてテナーはそれを拒否し、考え始める。「自分は自分の衣装を着たい、自分の着物を着たい」「普通の女たちが生きる人生を全部、自分で引き受けて生きてみたい」。

 私は、それをテナーがかつて失ったもの(関係性や、生活や、それにまつわる事物)を回復させたいと願ったのだととらえた。だから、テナーが求めたものはフェミニズム的なものとは関係がなく、むしろ封建的ですらあった、と考えたのだが、この点は、清水氏とも(ひいては著者とも)考えが違うのかもしれない、とこのブックレットを読んで思った。
 そこで、清水氏はテナーを、「男性的な理論の世界の言葉を一度は、獲得した女性」と語るが、そこも果たしてそうなのかな?とも思う。むしろ、男性的な理論の言葉を拒絶した女性、なのではないか? 普通の女の生活の言葉を持っているが、生活べったりでないことは異論はない。彼女は生活や世の中に対して、ある種の客観性を持っている。しかしそれは、彼女が“白い女”であり、自身が生活する共同体の中に受け入れられていると同時に、常に他者、よそ者であるからではないのか。また、幼少時に「アルハ」という孤高の存在として養育され、教育されたからではないのか。また、カルカド語という、母語を持っているからではないのか。彼女が第三の言語を獲得しているとして、それをオジオンの教育に由来すると考えるのは、行きすぎだと思う。
 に、してもだ。 テナーの持つ「第三の言語」性を表現するために、苦心して翻訳されている清水氏の努力のおかげで、私達は実に生き生きとして、まさにテナーらしいテナーに出会うことができているのだ。

■ ハリー・ポッター(笑)
 別にハリー・ポッターをテキししているわけではないし、夢中で一気読みした。でも、読み終わった瞬間に「膨大な時間のむだ遣い」と思った。とのこと。(笑) 何にも残らなかった。(笑)(p.27) あ、それ言っちゃうんだ(笑)
 まさに。そういう本もある。子供にとってはそれでも良い場合もある。それで、「本を読むこと」「本を読んでワクワクすること」を覚えて、より深い読書の世界の入り口になるかもしれない。ただただ、楽しむだけの読書だってある。だけど、『ゲド戦記』とは違うよね、ということだ。だって、『ゲド戦記』って実際、読んでいてそんなにワクワクしなくないか? 正直いって重くないか? それでもその深みになにか得体の知れないものがありそうで、読まずには居られない。そんな感じだ。

 誤読する自由 
 清水氏の「私たちには誤読する権利がありますから、読みたいように読んでいる」という一文にはものすごい破壊力がある。作品をどのように読むか、は読者の権利なのだ、というのはものすごい示唆を含んでいないか? いったん世に放たれた作品は、その意味では、読者の物なのだ、とすら言えないか?
 作者には、自分の創作した作品を、いかようにも描く権利がある。ル=グウィンは、アースシーの世界について、誰はばかり無く作品を世に送り出す権利を持っている。一方で、すでに世に送り出された作品は、読者の中で確固たる世界を築いている。 ゲド戦記の第4巻以降の作品が世に巻き起こした葛藤は、まさにこの両者の対立だったのではないだろうか。
 その葛藤の中で、ル=グウィンすら、その意味を語る必要に駆られてしまった。それが、オックスフォード大学での「ゲド戦記」をひっくり返す」という講演だった。

■「意味」を語るという陥穽
 清水氏は、「ゲド戦記」第4巻は、このスピーチよりもずっと豊かで「こんなもんじゃないぞ」と思った。そして、ル=グウィンに「スピーチ原稿を読んだけれど、あなたの作品は、あなたがここに書いているより、はるかに豊かだと思う」と手紙を送ったのだそう。その手紙にル=グウィンがなんと答えたのか、もしくは応えは無かったのか、はこの清水氏の講演では語られていない。
 そのル=グウィンの作品の豊かさ、とは、読者の中に物語を喚起する力であり、喚起される物語はル=グウィンだけの物では無くなっている、ということだったり、清水氏自身の豊かさだったりするのかもしれない。清水氏が語る「こぼれるもの」は、もっともっと沢山あったが、非常に大雑把にいうと、そういうことなんだな、と思った。

 私は、清水氏のこのブックレット(2本の講演録を整理、編集したもの)を読んで、あれこれと細部の文句を言ったりはしているが、清水氏は素晴らしい翻訳家だと思っている。
 一方で、単語の一つ一つを吟味し、著者の思想を過不足なく伝えようと細心の注意をもって奮闘する翻訳者でありながら、読者としては「誤読する自由」がある、と高らかに宣言する。この強さ(獰猛さ?)が、清水氏の素晴らしさだ。

■ さいごに、映画『ゲド戦記』について
 「人が何かにつき動かされて表現に向かうとき、その表現形態が詩であれ、映画であれ、大事なのは出来上がった作品がそのジャンルの作品として自立しているか否かです。作品が作者をして表現へとつき動かしたものをどれだけ忠実になぞっているかは、全く問題ではありません。」「もしも、できあがった作品が不評を買ったとすれば、それはその作品に、読む者を、あるいは観る者をして我を忘れさせるだけの力がなかったということでしょう。」

 いやこれは、バッサリと。
 正にその通りですが、観客にとっての比較の対象が父宮崎駿であり、ル=グウィンの書いた作品出会ったという点では、吾朗ちゃんは不幸だったとは思う。
 私個人としては、テルーを顔に痣(変色)が残っているものの、きれいでかわいくて、歌の上手な女の子として描いてしまうことだけは、すべきでは無かった、と今でも思っている。
 テルーは顔と上半身の半分が焼けただれて、目も喉も焼け、ケロイドに覆われて、手指は癒着してしまっている、見た目も凄惨な障害を負った少女なのだ。それをきれいに描いてしまうことで、見た目が酷い障害は「絵にならない」「画面に出せない」という強いメッセージを世に放ってしまった。結局アニメはルッキズムを超えられないことを、こうまで残酷に表してしまったことが残念でならない。

2025年3月23日日曜日

0553 「ゲド戦記」の世界 (岩波ブックレット NO. 683)

書 名  「ゲド戦記」の世界 (岩波ブックレット NO. 683)
著 者  清水 真砂子
出 版  岩波書店  2006年9月
ブックレット  60ページ
初 読 2025年3月23日
ISBN-10 4000093835
ISBN-13 978-4000093835
読書メーター https://bookmeter.com/reviews/126874474   

 ゲド戦記5と6が入れ替わる前の2006年の、清水真砂子さんの2回の講演会の内容を編集し、再構成したもの。
 清水さんが誠実で堅実な翻訳家であり、研究者であり、また教育者であることが伝わってくる。

 神聖文字も持たず、真のことばたり得ない私達の言語は、非常に不確かなものながら、それでいて、お互いを結び付け、共通のイメージをふくらましたり、ファンタジーの世界を築き上げたりしている。私達の言葉は、それぞれの生活と体験に依拠するがゆえに、同じ言葉が他の人にとっても完全に同じ意味を持つとは限らない。言葉のそのような揺らぎを知っているその上で、著者の言わんとすることを損なわないように細心の注意を払って、言葉の一つ一つの意味を吟味し翻訳する姿勢を尊敬する。
 その一方で、「私達は誤読する権利がありますから、読みたいように読んでいる」という一節は非常に痛快。
 自身の創作を説明するという陥穽にル=グウィンでさえはまってしまったことについての、清水さん気づきは深いというか、さすがというか。読んで自分も大いに反省させられる。
 しかし、それすらも、ル=グウィンに対する深い敬愛が込められている。
 そのル=グウィンの講演録は、ついに5月末刊行の『火明かり』に収録されるとのことなので、それも楽しみではある。 「あなたの作品は、あなたがここに書いているより、はるかにはるかに豊かだと思う」と清水さんに手紙を書き送られたル=グウィンは、どのように応えたのだろうか。
 「フェミニストの旗手」と見做されていたル=グウィンは、しかし決してそれだけではない。フェミニズムとル=グウィンがどのように関わり、付き合ってきたのかも、もう少し知りたい。

 なお、最近やけに拘りの強い読み方をしていたな、と反省もしきり。そのうち、これまでのレビュ—を書き直すかも。

2025年3月20日木曜日

番外 論文「アーシュラ・K・ル=グウィン〈アースシー〉“第二の三部作”におけるジェンダー・ポリティクス」を読んだ

アーシュラ・K・ル=グウィン〈アースシー〉“第二の三部作”におけるジェンダー・ポリティクス———ポストフェミニズム、クィア理論、反グローバル資本主義
青木康平(一橋大学院) ジェンダー研究(発行:お茶の水女子大学ジェンダー研究所) 第22号 2019年 
https://www2.igs.ocha.ac.jp/en/wp-content/uploads/2019/09/09aoki.pdf
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ジェンダー研究
Journal of Gender Studies
発行:お茶の水女子大学ジェンダー研究所
ISSN:13450638
第21号(2018)~
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 以下の駄文は、研究者の研究成果に対する批判・批評を行うものではありません。(私は批評が可能なほど、勉強はしていない。)あくまで、感想程度のものであることを、最初にお断り(言い訳)しておきます。

 この論者は、岩波書店発行の清水真砂子氏訳『ゲド戦記』やその仕事がそもそも好きじゃないんだろうな。っていうか、もちろん翻訳を必要とされていないのだとは思うが。『ゲド戦記』というタイトルがどうなの、という話はちょくちょくあって、この論文でも触れられている。岩波書店で付けているタイトル『影との戦い』『こわれた腕輪』『さいはての島へ』『帰還』『アースシーの風』『ドラゴンフライ』という邦訳タイトルを、論文の中で頑なに拒否しているところからしても、好きじゃないんだろうな、と感じる。しかし、論文の各所で引用されている作品の訳出については、岩波書店版/清水真砂子氏翻訳の各作品を下敷きに用いているのではと思えるフシがある。論文末の参考文献リストに岩波書店版『ゲド戦記』を掲載していたなら、誠実に思えただろうな。(英訳版の論文であれば、不要であろうが。)

 まあ、通読した感想を述べるならば、私はこのような近視眼的で喧嘩っ早い『フェミニズム』は好きじゃないんだ、というのを再確認した。
 フェミニズムの流れは歴史の必然であるとしても、『フェミニズム』の文脈で歴史や文学を再定義しようとする姿勢が嫌いだ。
 論文全体としては、物語の記述を、恣意的に歪めて解釈していると思えるところが見受けられたように思う。
 
 たとえば、
 「なぜ、テハヌーは、第4巻の選択を翻したのか。最終巻のタイトルともなっている〈もう一つの風〉とは何か。果たして本当に、作者にその結末を書き直させるに至ったほど〈現在(NOW)は劇的に動いたのか———本稿はこれらの問いを明らかにすることを目的として書かれた。」
 この点について
 第4巻『帰還』(この論文では『テハヌー』)のラスト、古老の竜のカレシンから娘、と呼ばれたテハヌーとカレシンの会話は以下のとおりだ。
 「さあ、もう、行こう。」子どもがうながした。「ほかの風に乗って、ほかの人たちがいるところへ。」 
 「この者たちを残していくのか。」 
 「いいえ。」子どもは答えた。「というと、この人たちは来られないの?」
 「ああ、だめだ。この者たちが生きる場所はここなのだから。」
  「なら、あたしも残る。」

 カレシンは笑う。
 「まあ、いいだろう。そなたにはここでしなければならない仕事があるからな。」
 「わかってる。」
 「そのうち、またそなたを迎えにもどってくる。」

 それからカレシンは、ゲドとテナーに向かい
「わしの子どもをそなたたちにやるぞ。いずれ、そなたたちは自分の子どもをわしにくれるだろうからな。」と言った。 
 「時が来たら。」テナーは応えた。
 (引用 アーシュラ・K.ル=グウィン; 清水 真砂子. 帰還 ゲド戦記 (岩波少年文庫))

 論者は、「なぜ選択を翻したのか」、と問うが、実際には、テハヌーがいずれはカレシンの元に戻ることはこの第4巻の時点で予言されている。それに、まだ6歳か7歳の親を必要とする年頃の子供が親元にとどまる選択をすること、そして、15年後に二十歳を超えた成人女性が、親元を離れる選択をすること、それはどちらも必然であって、なんら周囲が喫驚するようなことではない。この物語の流れをもって、「作者に終末を書き直させる」と言うのは無理があるだろうと思う。

 また、テナーは、自らの意志で暗闇の巫女となることを望んだのではなかったように、そこから解放されることもまた、自ら望んだわけではなかったと論者は言うが、本当にそうだろうか。
 『こわれた腕輪』の中で、テナーは、たとえ限られた選択肢しかなかったとしても、その中から自分で運命を選択していたのではないだろうか。たとえば、ゲドを生かす選択をしたのはテナー自身だった。その最初の選択がその後の全ての行為に影響を与えた。ゲドもまた、テナーに選択を促しこそすれ、決定を強制はしなかった。テナーは自分で選択したと信じているだろうし、そこを否定されたら、たぶん怒るだろう。

 その上で、テナーについて、第4巻(『帰還』)のテナーは、男に頼らず働く自立した女性であり・・・と表現しているのだが。この「男に頼らず働く自立した女性」という表現にはかなりのフェミ臭がする。

 オジオンやゲドがテナーに提示したものは、大巫女ではないにしろ、別の孤高の存在になることであったのに対し、テナーが求めたのは3歳の時に失ったものを完全ではなくても回復させることだったのではないだろうか。それは暖かい炉辺であり、家族であり、耕す畑と平和な生活であったろう。
 テナーが求めたのは、正に家庭の象徴である炉辺と家族であり、それはオジオンが与えられるものではなかった。オジオンがいかに高尚で特別なものを彼女に与えようとしても、そこは断固拒否し、普通の農家の娘のように生活し、「嫁に行く」ことをテナーは選択した。その後の生活においても彼女にとっての回復を実践したテナーは、非常に意志の強い、自分の人生の選択を完遂し、その結果を甘受した女性である。しかしその選択は非常に封建的なものでもあった。それは、ポストフェミニズムとは関係なく、単にそれが、彼女の“失われたもの”だったからだろう。彼女の選択と人生を、フェミニズムの視点で語ることは困難だろうと思う。彼女の働き方は農村の労働力としてのそれであり、「自立し」て見えるのは単に夫が死んで独居になってるからで、寡婦として、いずれは息子に譲られる家を護るテナーを「男に頼らず働く自立した女性」と表現するのもナンカチガウ感が・・・

(ほかにもいくつか気になったけどメンドクサイから中略!結局のところ、この論者さんは『ゲド戦記』をきちんと読んでいないのよ。)

 一介の本読みとして思うことは、作品を透かして、ル=グウィン自身の思想を云々することも、作品を通して現代社会を論証することにも、自分は意義を見いだせないということだった。(もちろん、そういった作業に意義を見いだす人が沢山いることを否定するものではない。私の指向性の問題である。)

 ジェンダーの考察もクィア理論の考証もどんどん為されるが良い。時代・時間とともに変遷する現代の理想も、どんどん記述されるがいい。

 しかし、小説は小説。物語は物語。
 ファンタジーとは、読者の想像力と好奇心をよりどころに、それを揺り動かし、作者とともに未知の世界を探索し、空想を通してこそ到達できる真理を共有するために、作者が渾身の力と情熱を持って記述した、知の贈り物である。読者としてするべきことは、それをネタに著者を研究することではなく、空想の翼でアースシーの空を駆け、アーキペラゴの海を掻き分け進み、ゲドやテハヌー達と同じ大地を踏むことだと、改めて気付かされた次第だった。

 でも、この論文を読んで、好奇心を刺激されて、『ゲド戦記を“生き直す”』(雑誌 季刊へるめす 45号収録)を読みたくなったので、国立国会図書館に複写をお願いしました。
(追記:「ゲド戦記を“生き直す”」は2025年6月発行予定の『火明かり』(ゲド戦記別冊)に収録されます。)

2024年5月6日月曜日

0485 BLの教科書 有斐閣(その1 第一部)※ まだ未読了

書 名 「BLの教科書」
著 者 堀 あきこ/守 如子 編     
出 版 有斐閣  2020年7月
単行本(ソフトカバー) 306ページ
初 読 2023年1月9日
ISBN-10 4641174547
ISBN-13 978-4641174542

読書メーター https://bookmeter.com/books/15988418   

 2022年ごろから、突然BLを読み始めまして。
 それまで、全く未経験ってわけでもなく、今にしてこの本などを紐解くと、キャプ翼同人からいわゆる「やおい」が派生して、隆盛を極めたころと、自分が一時期コミケという文化に首を突っ込んだのがピンポイントで同時期。もっとも自分は比較的早く冷めてしまって(熱しやすく冷めやすい)、それでもまあ、そういう世界は知っていた。その後、私が“そういう世界”から遠ざかっている数十年の間に、なんとなく退廃的で仄暗く、耽美な匂いも纏っていたJUNEっぽい世界から、やおい文化はBL(ボーイズラブ)としてスクスク育ち、なんとも明るく健康的な商業BLから、現在はなろうやらNoteやら、pixivなどのネット界に広く深く花開いているようだ。
 「攻め」とか「受け」とかリバとか、私が知らなかった用語ができていたり、海外で派生したオメガバースとかDom/Subなんていう世界観が輸入されたり、現況、なんとも不思議で浅くも深くも、めくるめく二次元世界が構築されている。
 同じく、海外ではM/Mというジャンルで花開いているなんていうのも、この1、2年で知った知識。
 いい歳ぶっこいて(!)再びBLなんぞを読み始めた当初は、なんだか小っ恥ずかしくて、なぜ自分がBLを読むのか、とか言い訳っぽく考察していたが、さすがに最近は慣れてきて、楽しければいいじゃん、という気分になってきた。とはいえ、なんでしょうね、自分は恋愛ものは苦手、という意識があるのだが、確かに女×男は、得意ではない。っていうか、男女の恋愛もので、女に感情移入できたためしがない。女性が書いた小説でも、男性が書いた小説でも、そこで描かれる女性性(ジェンダー)にすんなり馴染めなかったりするのだが、その点、男同士っていう設定だと、自己投影をする必要がないので、自分とは無関係に純粋にLoveを楽しめるような気がしているような。その辺りの機微は、いまだに自分でもよくわからないが、それが自分がBLやらM/Mを読む理由かもしれない。
 ただ、いずれにせよ、仕事で追い詰まったり煮詰まったり、過労死直前に追い込まれたりしていると、重めの小説が読めなくなるので、最近はBL系に逃避している時が多いかな、という気はする。
 そんなこんなで、自分とBLの馴れ初めやら付き合いやらを振り返るために、この本を入手。これはこれで、勉強になる。

第1部 BLの歴史と概論
 第1章 少年愛・JUNE/やおい・BL
  • 1970年代「少年愛」の誕生———“花の24年組” 大泉サロンが大きな役割を果たした。
  • 竹宮惠子『サンルームにて』(改題「雪と星と天使と・・・』)→『風と木のうた』
  • 萩尾望都『11月のギムナジウム』→『トーマの心臓』→『ポーの一族』 
  • 1978年「JUNE」創刊。 
  • 木原敏江『茉莉と新吾』、山岸凉子『日出づるところの天子』
  • 小学館「少女コミック」や白泉社「LaLa」「花とゆめ」、新書館「Wings」「サウス」など、一般商業誌での少年愛や男同士の深い友情を取り扱った作品の連載。そーいやあ、『ツーリング・エクスプレス』とかは、何の違和感もなく楽しく読んでいた。
  • 初耳だったのは「やおい」の起源というか、この言葉の初出が波津彬子さんが主宰する同人誌「らっぽり」の「やおい特集号」であったこと。なんと波津彬子さん起源!?意外すぎた。
 その後1980年代後半にコミケ等の同人誌即売会で「キャプ翼」の“やおい”作品が爆発的に人気を博し、おぼろげな私の記憶ではこの時期、地方コミケ全盛期から全国版コミックマーケットに同人活動が大きく移行した。(ただしこれは神奈川の事情、というか当時の同時代的実感。)“やおい”は「山なしオチなし意味なし」という表向きの意味から、男子同士の性表現に対する隠語となった。(「やめて・おねがい・いやー!」の意とかなんとか。)キャプ翼同人から高河ゆんがプロデビューしたのもこの頃。
 こうしてあらためて自分の黒歴史込みで概観してみると、自分がかなり同時代的に関わっていたのだとあらためて気付く。自分がコミケに行ったのは比較的短い期間でで85年〜86年。それ以降は全国コミケ主流となり開催規模が大きくなりすぎて、下手くそ素人が頑張ってやっていくのが面倒になった。リアルの学校生活が忙しくなってしまった。一緒にやっていた仲間が見事に進学先がばらけたことで、 私自身のコミケ熱はあっという間に鎮火した。そもそも常軌を逸した人混みが嫌いだった。並ぶのも嫌いだった。さて、そして1990年代。商業BLジャンル確立。(以下続く)

第2部 さまざまなBLと研究方法

第3部 BLとコンフリクト

2023年2月1日水曜日

0410—13 ゲイ風俗のもちぎさん1〜4(とりあえず1〜2)

書 名 「ゲイ風俗のもちぎさん」 1巻〜4巻 (書誌情報は1巻のものです)
著 者 もちぎ        
出 版 KADOKAWA  2019年8月
単行本(ソフトカバー) 176ページ
初 読 2023年1月28日
ISBN-10 4047357421
ISBN-13 978-4047357426
読書メーター   
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 職場のひとに紹介されたのが、『ゲイバーのもちぎさん』。すごく勉強になる、と。で、大人買いしたのが上記。これまで引っかかっていたセクシュアリティにまつわるあれこれに、当事者からの率直かつ直球な意見。あぁ〜そうなんだ。と腑に落ちることが多々ある。体の性、心の性、性指向。そして一人ひとりの自分と、他人への向き合い方。いろいろな人がいて、一生懸命だったり、がむしゃらだったり、無防備だったり、計算高かったり、思慮深かったり、浅はかだったりしながらも、生きている。生きて行くってことに関しては平等で対等でありたいし、いろんな在り方に臆さず向き合い、認めたり、認められたりしたいと思う。みんな違ってみんないい、と思いたいし、みんなにそう思ってもらいたい。できることなら、もっといろんなことが平等であればいいと思う。たとえば経済的なこと、親の愛情、一人ひとりの能力や健康、でもそれは絵空事で、不平等なのが本当だから。だけど、何十年か前はおおっぴらに語られることの少なかったLGBTQが、今は普通に語られるようになっている。だから今から何十年後かには、きっと今よりもっと変わって、生きやすくなっているひとが沢山いるだろうし、きっと数年先だってそうであってほしいと思う。

0409 ゲイ風俗のもちぎさん 1
 「人生賛歌」というもちぎさん。すごいな。
 もちぎさんはサバイバーだ。父が精神疾患で自殺して、メンタルを病んだ母に虐待されて育った。働かない母が子供のもちぎさんにお金をせびるから、男相手に買春して稼いで家にお金を入れた。そうしないと、大学進学のお金も、家を出るためのお金も貯められなかった。それなのに母にそのことを責められて高3の卒業前に家を飛び出し東京に来た。きちんと稼げるゲイ風俗(ウリセン)で働いて、いろいろな経験をしながら、大学にも進んだ。言われてみればそりゃそのとーりだよな、と思うセクシャルマイノリティの生態だって、こうやって改めてもちぎさんに教えてもらわなけりゃ、意識に登ってこないことがたくさんある。ウリセンにはウリセンの仁義や矜持があるし、そこでしか生きていく術のない人達が必死で守っている場所でもある。性を鬻ぐことを被害・加害という視点だけで語ることにはできないと思う一方で、そこで身ぐるみ搾取される子がいるのもまた事実だと知っている。むしろ売る方も買う方も同類なゲイ風俗の方が、普通(?)の女の子たちの風俗よりも暖かくて生きやすい場所なのかもな、とも思った。

0410 ゲイ風俗のもちぎさん 2
 ずーっと謎だった、「本物のゲイは、BLをどう見ているんだろう」という疑問に、もちぎさんからかなり明快な答えが。BLを読む本職さんもいるんだ!(少数派ではあるらしいが)アレ気持ち悪いんじゃないかと思ってたよ。だって、男性向けの〈男×女〉のエロコンテンツ(女性がエロエロになるやつ)って、はっきりいって自分からみたら気持ち悪いもの。それにハーレクインみたいな女性向け〈男×女〉のポルノ小説に出てくる男性キャラって、生身の男からみたらありえね〜!ってならない? 所詮ファンタジーだし、ファンタジーだと頭のどこかで思っているから無邪気に楽しめるものでもある。
「ほら ゲイからしたらBLってファンタジーじゃん。ほぐしなしに洗浄なしの挿入行為とか 二丁目以外の街でイチャつくとか、コミュニティに属することもなくノンケ社会で出会いがあるとかさぁ」
・・・・そうか、街でイチャつくのも、そこらで出会いがあるのも、実際にはないのか。そうだよね。たしかに、見ない・・・かも。
 当たり前だと思うけど「嫌だっていうゲイもいる」
それに対してもてぎさんは名言だと思う。
「慣れてないのかもね」「男が性的なコンテンツになって異性に楽しまれることに」
「テレビや雑誌で水着になるのも女性が多いし、エロ本としてコンビニにおかれているのも女性のグラビアだけ」「女性の性欲をまるでなかったことにして男性だけが性的コンテンツを楽しんでると思っちゃってるのかも」
 なるほどねえ、と思ったよ。女性が性的に消費されるコンテンツとして扱われることが嬉しいとはおもわないけど、温泉娘騒動みたいに、そういうコンテンツを駆逐せよ!とは思わない。そう言ってる当人がピンクをイメージカラーにしていて、どうにも牛の前で赤い布振ってるようにしか見えんしな。・・・・・とこれは脱線。男にも女にも性欲はあって、ある程度ファンタジーで補われている部分は必ずある。必要なのは、敬意なんだと思う。
 もてぎさん曰く「性産業に勤める人間を卑下しちゃダメ」「あたいらも含めて人間のカラダの価値の話だから」
 もちろんこの話だけではなく、ゲイ風俗で働くひとりひとりのエピソードは、こんな風にお手軽に感想をかくのも憚られる思いがする。どうか沢山の人に読んでもらって、そこでわいた思いは胸に畳んで、自分とは違う人に対して優しい人になれるように、自分の一部にしてほしいなあと願う。
 でも、一番胸に染みたのは、昔の恩師の先生に会うために地元に行った話だ。この本を読んで「勉強」しようなんて、おこがましいよな。もちぎさんが今、幸せだといいな、と願う。とりあえず“もっと幸せになりますように”と念を送る。















2021年12月12日日曜日

「米海軍で屈指の潜水艦艦長による「最強組織」の作り方」メモ

もっとも幸せな瞬間は、未来にある

リーダーシップとは、人が持つ価値と潜在能力を明確に伝え、本人がその存在に気付いて刺激をうけられるようにすることである。

◆著者マルケ氏の、人間(部下やそれ以外の人々)に対する優しさと公平さ
・会社に貢献する気持ちも、仕事に対する思い入れややりがいも失った社員は、組織の利益をむしばみ同僚のやる気をそぐ。確かに利益の損失も甚大だが、私の感覚としては、彼らが失った喜びや幸福巻の喪失の大きさは、その比ではないように思う。p.9 

・誰もが自分の仕事に満足している世界を思い浮かべてみてほしい。そこは、誰もが自分の知力を存分に発揮し、自分を高めたいという意欲に満ち溢れた世界だ。人間という種に授けられた認知の力を存分に使い、目の前に問題が現れるたびに解決していく姿がそこにはある。p.15

・乗員の稼ぎを増やすためにできることと言えば、昇進のチャンスを最大限に生かせるようにしてやることぐらいしかない。私はそのためにできることを必死でやった。p.228

・もう12月だが、評価表の提出期限は9月15日だった。昇進審議会が開かれても、彼のファイルが不完全であれば、昇進のチャンスはゼロになる。上等兵曹の評価ですらこの扱いなら、かれより立場の低い水兵はどんな扱いを受けているというのだ?p.49
①部下の昇進やキャリア形成に対する上司としての責任。
②人事にもとめられる公平性。
③業務手順を守ることが、組織としての信頼性を高める。
 
◆行動を変える/意識を変える
・問題解決の責任を各自に負わせることで、自分は欠かせない存在だと各自が意識するようになる。(ただし、責任転嫁ではなく、最終責任は上司が負う覚悟が必要だとは思う。)
・優れた成果をあげることよりもミスを犯さないことにエネルギーを注いでいないか?
・ミスについて深く理解することが優れた仕事につながる。ミスが起きた場合には、なぜ起きたのか原因を深く追求し、ミスを排除するために必要な措置を理解する。これは責任追及のために行うのではなく、これから先同様のミスを起こさないようにするために行う。
・決断を下す者が情報のある場所へ降りていく。
・これまでとは違う行動をとらせることから始める。そうすれば新しい考え方は後からついてくる。
・立場が下の者は、最初から「完璧」なものを上の者に見せようとする。そういう思いはそれまでの努力を無駄にしてしまいかねず、効率を悪くする。早めに見せて、目指すものとのズレが無いか確認をする。上の者の意志や、助言は早い段階で確認することで早めに小刻みに軌道修正をはかったほうが効率が良い。
・(上の者が)「早めに短く言葉を交わす」というのは、部下に命令するという意味ではなく、一足早く進み具合を報告をする機会を作っているのだ。そうすることで、引き続き部下の責任で問題解決にあたってもらえる。それに、そういう機会を通じて、成し遂げたいことを部下にはっきりと理解させることもできる。それで何時間もの時間を無駄にせずにすむ。

権限を委譲する/委ねるリーダーシップ
・権限の委譲の背後にはトップダウン構造が潜んでいる。その行為の中核には、部下に権限を「譲ってやる」という考え方があり、リーダーには部下に権限を委譲できる権力や能力があると暗示している。

●「視認責任」の導入
 現場で行われる活動の一つ一つを中間職のリーダーがその場に立ち会って自分の目で確認し
上官への説明責任を果たすしくみを作る。
●具体的な決定権限を下ろす。(休暇に関する稟議の決定権者を下ろすことによって、関連する諸々の服務関連の把握を現場の長がおこなうように変更)
●計画書に現場の責任者の記名欄を設け、全ての活動に現場で権限と責任を持つものを表示。

自発性を高める言葉の力
・「これから〜をします」という言い方の導入。指示待ちにせず、自分の責任において為すべきことを考え、進言し、上司の承認を取る。
 【上司に従うだけの言い方】      【権限が自分にある言い方】
   ●〜の許可をお願いしたいのですが    ●これから〜をします
   ●〜できればと考えています       ●私の計画では〜
   ●何をすべきか教えてください      ●〜をするつもりです
   ●どうすべきだとお考えですか      ●〜をしましょう
   ●何ができるでしょうか 

・部下の当事者意識や責任者意識を損なわせるメッセージを無意識に発していないか。

委ねるために(委ねられるために)技能(技術)を高める
・権限を下に委譲するにつれ、あらゆるレベルの乗員に技術的な知識があることが重要になる
・物事を判断する力を高めたいなら、判断の基となる確かな技術的知識が必要になる。p.177
常に学ぶ
・私は、「いつどこでも学ぶ者でいる」と意識するようになったことで、精神的に安定し、ものの見方が広がった。p.185

繰り返し伝える
・大事なメッセージは、しつこいほど繰り返し伝える必要がある
・すぐに受け入れられる人もいれば、受け入れに時間がかかる人もいる

目標設定/目標を正しく共有/信頼
・目標を定めるときには、成果が測れるかどうかを意識するとよい。p.243
・将来のビジョンを同僚や部下とともに描くときには、具体的で成果が数値でわかる目標を定めることが重要。
・部下の目標について話し合うときは、相手が抱える問題に親身になって相談にのる必要がある。個人的に支援する姿勢を示せば、部下のことを考えて行動し、彼らが達成したいことをつねに頭に描いているのだと分かってもらえる。

行動指針/判断の基準
・たとえば、査定をするときや報告を書くときは、行動指針にある言葉を積極的に使わせた。「M軍曹は、勇気と積極性を持って報告し・・・」p.236
・行動指針を判断の基準とすることは、組織の正しい理解につながる。p.237

委ねる(委ねられる)ために必要なもの。知識と技術。そして学び続ける。
・本当に必要なのは、命令系統からの解放、すなわち自由である。自由というのは、人が生まれ持った才能やエネルギー、創造性を認め、それを存分に発揮させることを意味する。
・自ら判断して行動出来る環境が整い、高い技能と正しい理解が備わったとき、自由が生まれる。自由な状態で仕事をしているとわかれば、権限を委譲する必要はなくなる。というよりも、上の立場の人間の力を頼りにしなくなったのだから、権限を委譲するということ自体ができなくなるのだ。p.275 

・決断を下すうえで、彼らに何が必要になるかを理解する。何かと接するときは、的確な専門的知識、組織の目標に対する深い理解、決断を下す権限、状況に応じた決断を下す責任が必要になる、と覚えておくとよい。p.266

・私は組織にはそれぞれ個性があり、一つとして同じものはないのだと知った。組織で働く人の育った環境も、権限を許容するレベルも、自由に対する感じ方も、人によって異なる。p.279

・結局のところ、誰よりも支配しないといけない相手は自分自身である。p.280 

委ねるリーダーシップ
 【部下に命じる構造の打開策の成功例】
●作業を細かく見るのではなく、作業をする人を細かく観察した。
●報告の数や確認する箇所は増やさず、むしろ減らした。
●リーダーシップを振りかざして命令に従うだけの「フォロワーシップ」を助長させず、自分が一歩下がることであらゆるレベルでリーダーシップを発揮させた。 p.262 

2021年12月4日土曜日

0310 米海軍で屈指の潜水艦艦長による「最強組織」の作り方

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書 名 「米海軍で屈指の潜水艦艦長による「最強組織」の作り方」 
原 題 「Turn the Ship Around!」2012年
著 者 L・デビッド・マルケ 
翻訳者 花塚 恵 
出 版 東洋経済新報社 2014年6月 
単行本 285ページ 
初 読 2021年12月15日    
ISBN-10 4492045325 
ISBN-13 978-4492045329 
読書メーター   https://bookmeter.com/reviews/102854935
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 自分が仕事ができていると感じているときの充足感、自分がきちんと業務にひいては社会にコミットしている、と思えたときの健全な満足感は、人が仕事をして、それによって長い人生を生きていく上でとても大切で、必要なものだ。

 この本は、組織を構成する一人ひとりがそのような状態になることを、リーダーとしてどうやって意識的に作っていくことができるかを、潜水艦というある意味特殊で閉鎖された環境のなかで実践したことの、記録、というか報告のようなもの。
 潜水艦で、という環境が面白い。
 原子力潜水艦は、一度出航したら何ヶ月も母港に戻らず、浮上すらしないまま長時間の航海が可能で、100名程度の乗員は、狭い艦内で、極めて緊密な関係のなかで缶詰になる。
そのため、組織運営に不確定な要素をもたらす外的な刺激はかなり単純化されていると思える。
・業務は高度に組織化されていて、出来・不出来は一目瞭然。
・ついでにいうと、そのような環境で長時間能力を維持することを求められる乗員は、海軍でも「エリート」に属し、精神的にも安定して強靱で、他者との協調性が高く、意欲的な人物が選抜されているとみてよい。

 そのようなエリート集団であっても、軍組織という上意下達、上官には絶対服従、しかも艦内(艦長の権限は極めて強大)という環境で、専制的でダメなトップのもとでは腐ってしまうのだ。自分の仕事が評価されない。自分が組織の中で役に立っていると思えない。自分が十分に能力を発揮できていない、という思いは、簡単に人間を腐らせ、本来の能力まで奪ってしまう。
 この本は、そのような状態に陥っていた米攻撃型原子力潜水艦〈サンタフェ〉(ロサンゼルス級)の艦長に任じられた著者のマルケ(当時大佐)が、部下に権限を委譲するなかで、部下一人ひとりの責任と判断を尊重し、部下のやる気と充足感を高め、その結果一隻の潜水艦の能力を飛躍的に向上させた実践を簡潔にまとめたものである。
 組織のメンバーが有機的に結びつき、エネルギーが正しく流れるときの無駄のない業務の進行と、それに関わるメンバーの健全な人間関係は、ひとことで言ってしまえばとても“気持ちの良い”ものだ。それを、自分の部下に味あわせることは、いわば組織の上に立つものの責務ではないだろうか。今の自分にそれができているだろうか。という反省も浮かんでくるが、これもまた、健全な反省であるべきだ。
 この本(最強組織の方)を、単に読み物として楽しむもよし、我が身にあてはめて、工夫のヒントとするもよし、何回でも手にとって楽しめそうな、珍しくも有用なハウツー本、ビジネス本だと思う。

 ちょっと脱線するが、H・ポール・ホンジンガーの『栄光の旗のもとに』は、まさに〈サンタフェ〉と同じ状況で新艦長に引き継がれた駆逐艦〈カンバーランド〉を、新任艦長が乗員の自信を回復して最優秀艦に育てる話でもある。この「最強組織」が2012年刊、「栄光の」が2012年に書かれ、2013年に刊行されたのは偶然かな? 真っ黒な円筒型のステルス宇宙艦は、駆逐艦とはいえど、ほぼ潜水艦のようなもの。全長、艦内の構造、乗員数も原潜と似たりよったりだ。リーダーシップを試行して、結果を確認するのに丁度良い規模と環境である、とも言える。


 これは余談。表紙の写真は、ロサンゼルス級原潜〈サンタフェ〉ではない。S112ってどこの艦だろう?国旗はギリシャに見えるけど。せめて米原潜の写真が使えればよかったのにねえ。
 さらに余談。各見開きページの左上のイラスト表示の潜水艦の艦影が第二次世界大戦の頃の姿だ。現代の潜水艦はもっと丸い。
 このあたりのビジュアルにもっと凝ってくれたらよかったのに。。。。。(ちょっと残念。)

2021年9月14日火曜日

0294 コロナの時代のわれら(単行本) 

書 名 「コロナの時代のわれら」 
原 題 NEL CONTAGIO」2020年
著 者 パオロ・ジョルダーノ 
翻訳者 飯田 亮介 
出 版 早川書房 2020年4月 
単行本 128ページ 
初 読 2021年5月15日 
読書メーター    
ISBN-10 4152099453 
ISBN-13 978-4152099457

 以前、前任者からBCP(事業継続計画)の策定ができていない、と課題として引き継いだ。東日本大震災の教訓として、早急に定める必要があったが、多忙を極める職場で、代々問題意識だけを後任に渡してきていた。私も結局BCPの策定には手が出せなかったのだが、関連資料を集めながら、地震などの自然災害だけでなく、いずれ流行する可能性の高い高病原性新型インフルエンザの対策も必要であることを意識した。とにかく災害備蓄食料を見直して整備するところまではなんとかこぎつけた。というのが前々職場で5年位前の話。
 その頃、自分の自宅は、これも東日本大震災の教訓として、すでに災害対策の諸々の備蓄をしていたが、これに加えて最低一ヶ月は自宅に籠城できる食料備蓄(コメやミソ、保存のきく粉もの類や缶詰など)、飲料水、ポカリスエットの素、ビタミン剤、総合ミネラル剤などに加えて、一家4人×一日1枚×2ヶ月分のサージカルマスクも少しずつ買い足しながら備蓄に加えた。マスクは花粉症持ちが家にいるので、常時需要はあった。(トイレットペーパーはもともとネットで大箱買いしていたので、2ヶ月分位の備蓄がだいたいいつもあった。)
 中国で新型肺炎が流行している、とマスコミで話題になり始めたとき、これは始まるな、と予感がして、まだ店頭に溢れていた不織布マスクをさらに買い足した。翌週にはマスクが街から消えたが、トイレットペーパーまで無くなるのはちょっと予想外だった。家には買い置きが沢山あったが、質の高いマスクがいつ、再度店頭で手に入るようになるかわからない不安から、半年ほどは、不織布マスクを洗濯して再利用もしていた。(ちなみに我が家で備蓄していたのは3Mのサージカルマスクだった。これは未だにネットでも手に入らない。)
 そんな感じだったので、マスクが手にはいらなくて困っている友人に、数箱づつ分けたりする余裕があったのはよかった。

 この本が2020年4月に世にでてから、ちょうど1年と半年が経過したが、いまだこの本の中身は過去のものではない。ウイルスという新たな脅威に直面したとき、人々はどのように困惑し、拒否し、見当違いのものに縋り付き、時間を無駄にし、その結果死者を増やすのか。
 日本の国内でも、多くの人が淡々とワクチン接種を遂行し、うがい手洗いマスクを励行し、他人との接触を避け、自分も他人も害さないように注意深く辛抱強く日常を送っている一方で、いまだにワクチン懐疑派や、イベルメクチン信奉者、NOマスク活動家、コロナは陰謀派などの魑魅魍魎がうごめいている。もともとナチュラルでスピリチュアルなワクチン拒否派は一定数いたので、それが核になっているようにも、取り込まれているようにも見える。

 新型感染症の流行自体は予測可能なもので、問題はそれがどれだけ人間に悪さをするかということだろう。たとえば、2009年には豚由来のインフルエンザウイルスA(H1N1)pdm09世界的に流行したが、同年秋までには当初怖れていたほどの致死性はないことが判明し、季節性インフルエンザと同様の扱いとなった。今、最も怖れられている高病原性インフルエンザの致死率は20%程度と見込まれていて、もしこれが流行したら、犠牲者はいまの新型コロナの比ではない。ただし希望もある。昨冬、コロナ対策による三密防止を徹底していた日本では、インフルエンザの流行はほぼゼロだった。つまり、コロナ対策はインフルエンザにも通用するということだろう。私が当初から新型コロナにあまりパニクっていないのは、もともと強毒性新型インフルの出現を怖れていたからだ。
 昨日の統計で、日本のワクチン接種率はアメリカに並んだ。しかし当初80%の人が免疫を持てば社会免疫を獲得する、と言われてきたのに、伝播性の強いデルタ株の登場のおかげで、80%では流行を抑制できないらしい。接種率90%以上が望ましいが、それは難しいので85%を目指し、生活様式による予防と組みあわせる、というのが東京の方針のようだ。東京は第5波をついにやり過ごしたところだが、冬場に訪れるであろう第6波に向けて、さらにワクチン接種を進める必要がある。でも、急激な第5波の収束を目の当たりにして、もしかしたら来春には、コロナは『ただの風邪』の仲間入りができるのではないか?という期待も持ちつつある。変異株との戦いはまだまだ続くが、これが新しい、コロナと共存する時代につながっていく。それまでは、自分が感染しないように気をつけながら、新しい生活様式を受け入れて生きていくことを一人でも多くの人と共有したいと思う。

『このように感染症の流行は、集団のメンバーとしての自覚を持てと僕たちに促す。平時の僕らが不慣れなタイプの想像力を働かせろと命じ、自分と人々のあいだにはほどくにほどけぬ結びつきがあることを理解し、個人的な選択をする際にもみんなの存在を計算にいれろと命ずる。感染症の流行に際して、僕たちは単一の生物であり、ひとつの共同体に戻るのだ。』p.42


 

2021年9月2日木曜日

忘備メモ

翻訳の基本から実践まで

金原瑞人〔著〕
翻訳エクササイズ

四六判 並製 180頁/予価1,870円(本体1,700円+税10%)
ISBN 978-4-327-45302-2 C1082

2021年10月26日発売予定


2018年11月18日日曜日

0149 働く女子の運命

書 名 「働く女子の運命」 
著 者 濱口 桂一郎 
出 版 文藝春秋 (2015/12/18) 
初 読 2018/11/18 

 この著者の本を3冊続けて読んだが、同じジョブ型、メンバーシップ型雇用を取り扱いながら、若者、中高年、女性と切り口を変え、それぞれ新しい発見があった。3冊分のまとめとしてかなり長いが考えをまとめておく。

① 世界標準の職務給ではない家族給・生活給という給与形態を日本の産業界と労働運動が手を携えて成立させてきた過程と、日本の雇用の姿(その中で女性の労働がどのように変遷してきたか)を確認。こうして戦前から現在に至る雇用の形や法制を見ると5年10年単位で世の中の意識が結構ダイナミックに変わっていくものなのだと知った。

② 生活給としての年功序列賃金が戦前の国家社会主義の勤労報国の形を雛形としているとか、日本のマルクス主義経済学と生活給の怪しい関係とか、日本の労働運動がむしろ女子差別と表裏の関係にある年功賃金を助長する働きをしてきたとか。社会主義ならぬ会社主義とかバッカジャネーノ?また70年代以降の知的熟練論についてはその論客である小池氏の理論があまりにも馬鹿っぽいが、原文に当たらずに批判をするのは他人のふんどしで相撲取るようなものなので控えておく。それにしても気持ち悪い歴史が盛りだくさんだ!

③ 80年代以降は自分の記憶にも残っている。90年代、平成不況到来で非正規化する男性労働者が増大して非正規雇用の問題が拡大する一方で、これまでの「一般職(=職場の花)」は募集そのものが無くなり、その業務は安価な派遣社員に移行。少子化ショックが育児休業充実の原動力となるが、なし崩し的に問題が少子化や非正規雇用問題に遷移する一方で、働きつづける女性の出産年齢の上昇も課題。

 最後に著者からの問いかけ、「マタニティという生物学的な要素にツケを回すような解が本当に正しい解なのか」に対する、私の回答は以下のとおり。 

 ジョブ型への移行は、社会保障のあり方と表裏一体であること。
 同一労働同一賃金を実現するためには、給料から生活給の部分をそぎ落とし、職務給として純化していく必要があるが、その為には次世代育成すなわち中長期的な社会の維持発展に要する費用を給料から切り離す必要がある。これらの費用は公的に負担され、その社会のメンバー(もちろん会社も含む)が税金という形で公平に分担することになる。(著者が引き合いに出すEUなどでは、むろん、子育て手当や教育無償化は充実している。) 
 健全な次世代の育成は社会が維持発展するために必須であり、その負担は社会全体で賄う必要がある。この点を明確に要求して実現させるのとセットにしない限り、今の日本の社会システムの中では、ジョブ型や職務給導入の議論は意味不明なものになりかねないだけでなく、単純な低賃金化や労働強化に繋がりかねない。
 ごく単純に考えて、子育てと教育に要する負担が社会化されれば、あとは自分の再生産費だけを稼ぎ出せば良いので、同一労働だろうが同一労働力だろうが、同一賃金を導入できるし、そのときには、女性はもっと働きやすくなるだろう。

2018年11月3日土曜日

0147 若者と労働 「入社」の仕組みから解きほぐす

書 名 「若者と労働 「入社」の仕組みから解きほぐす」 
著 者 濱口 桂一郎 
出 版 中央公論新社 (2013/8/10) 
初 読 2018/11/03 

 
 欧米型労働類型であるジョブ型労働社会と、日本型労働社会類型であるメンバーシップ型労働社会の対比とその異質性に関して詳細に述べられている。
 メンバーシップ型(言い換えれば終身雇用・年功序列賃金体系)は、仕事に最適な能力を持つ人を採用してその仕事に貼り付けるジョブ型に対し、まず人を確保してからその人に社内で仕事を貼り付ける。一方が職から職に人材が移行する、横流れの構造であるのに対し、一方は「入社」から「定年」まで縦に流れる構造。不況時に、ジョブ型では若年者失業者が社会問題となるのに対し、かつての日本では中高年の失業者対策が、労働施策の中心となっていた。
 それが変化してきたのは1990年代の不況に労働市場が急激に縮小し、企業に収納されきれない新卒者が出現してきたから。それでもフリーターと呼ばれた彼らは「(会社という)束縛を嫌う自由で気ままな若者」というレッテルのもと問題が矮小化されて、実際に社会問題=労働問題として意識されるようになったのは、彼ら就職氷河期に出現したフリーターが不安定な身分のまま年長となり、その後の景気回復によって新卒就職できるようになった後から来た新卒との格差が無視できなくなってきた2000年代。
 一方、労働法制は、戦後米国ベースで制定された流れもあり、基本ジョブ型類型を踏襲。法体制と労働実態の乖離があるなか、実効的な労働施策も施さねばならず、その処方箋として、著者が提唱するのは、正規雇用であるメンバーシップ型雇用と、拡大する非正規雇用の間に、ジョブ型正社員を置くこと。

 うーん、まとめきれないが、日本の労働市場が特異だということは良く分かった。その中にどっぷり浸かっているのは一方で安穏だが、無制限の(会社への)奉仕を要求される過酷さも、また実感として良く分かる。
 個人的事情としては、長年、ワークシェアリングが制度化されて、業務量の分散と人間的生活の回復を図ることを願って来たにもかかわらず、不況と聞こえの良い労働力流動化政策によって低賃金の非正規雇用が急速に広まり、短時間労働者である非正規職員との賃金格差が拡大する一方、正規職員の労働強化という波に巻き込まれて過労死寸前。この日本、いやこの会社、どうしたものだか。多分筆者の提案が実現すりゃあいいんだけど。