2020年8月15日土曜日

0215ー16 神の棘 Ⅰ・Ⅱ

書 名  「神の棘Ⅰ」「神の棘Ⅱ」
著 者 須賀しのぶ
出 版 新潮文庫 平成27年7月

 戦後75年という節目だからであろうか、書店で平積みになっていて、この露骨にナチスな表紙に興味を引かれた。
 最初はこのテーマ、この歴史を日本人が、というか、彼ら自身以外の者が書いてよいのか、と戸惑ったのも事実。キリスト教という信仰、教会の保身と腐敗、第一次大戦後のドイツ社会の混乱、ナチスに身を投じた人間の内情、性的禁忌、ユダヤ人迫害、レジスタンス。勝者が敗者を裁くニュルンベルグ裁判。
 どこにも正義などははなく、通底するのは人間の弱さと、自己保身だ。宗教者ですら例外ではない。人間同士の争いは壮大に皮相で、醜く、救いがない。それにしても、このテーマを、アルベルトとマティアスに託して書き切った須賀しのぶ氏に敬意を表する。そして、だ。SSでありながらレジスタンスとの関わりを疑われ、ゲシュタポに捕らえられて拷問を受ける羽目になったアルベルトの絶叫を聞かされて読者は上巻を置く羽目になり、もはや下巻を手に取らざるを得ない、というストーリーテラーぶりにも敬服する。

 アルベルトの人生の、彼の思想の核となったものは、ザーレムでの幸せな数年間で与えられた教育だったのだろうか。
 ただ常識やルールに従い、自らの思考を放棄することを是とせず、是非を自分で判断し、正しいと思ったことを行動に移す、真に独立した自由意志を持つ自我を確立した近代市民たれ。
 アルベルトの生き方は、ある意味ザーレムが目指したであろうドイツ市民の姿を体現しているのではないか。

 しかしかの時代に生まれた人間の宿命として、その魂と意志は、SSの制服の内に注がれることとなり、愛する女性を守るという一念がその行動を律することになる。どれほど強く高い意志と決意を持っていても、巨大な歴史の流れの中では抗いがたく流されるしかない。それでも、抗うことのできない現実の中で行った自分の一つ一つの選択を、紛れもなく「自分の意思」の結果として、その責任を負おうとするアルベルトの姿に胸が苦しくなる。

 アルベルトとマティアスの違いは、自分自身の力で守るべき者を持ったか持たないかの差であり、それ以上に、「自分自身の力で」と言ったときに、選択や決定の一番奥底の部分を信仰にゆだねる、といういわば逃げ道を持ったものと、持つことを拒否したものの違いだ。
 その逃げ道を、人間の魂に必要なものであるとして、その逃げ道を持つ事が人間の真の幸福であると、ある意味人としての弱さを受け入れているマティアスと、それを受け入れることを拒否し、あくまでも個人の力で屹立することを望んだアルベルトには、根本的な断絶がある。
 アルベルトの拒絶は、人の弱さを存在の基盤とする宗教と、その「許し」を専売特許として世俗化した教会という組織の悪を暴くものであるし、自分の弱さを「自分の問題」として正面から受け止めようとする強さと、「人間の問題」に一般化して、全体に共通するものとして転嫁する弱さの対比でもあるように思える。
 その様な強さを貫いたアルベルトが、マティアスになりたかった、と最後に語ることで、また、世界が転覆する。神に愛される「弱い人間」であることを許されたかったのだ、ということは裏を返せば「親に無条件で愛される子供でありたかった」という、とアルベルトの人生の過酷さの証として私は受け止めたが、それはアルベルトの内心で、どのような意味を持っていたのだろう。人が様々な思いと記憶と自分の内側に閉じ込めたまま、死んでいき、その記憶は決して人に知られることはない。そうやって死んでいった無数の歴史の証人や市井の人々にも思いを馳せざるを得ない。

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