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2025年6月2日月曜日

発表順に並べ直して再掲 ル=グウィン作品一覧(邦訳のみ)

ル=グウィン 作品一覧(邦訳)年代順


1966 ロカノンの世界  サンリオSF文庫/ハヤカワ文庫(別訳)
1966 辺境の惑星       サンリオSF文庫/ハヤカワ文庫
1967 幻影の都市    サンリオSF文庫
/ハヤカワ文庫
1968 影との戦い A Wizard of Earthsea
1969 闇の左手     ハヤカワ文庫(新版)
1971 こわれた腕環 The Tombs of Atuan
1971 天のろくろ     サンリオSF文庫
/ブッキング(改訂復刊)
1972 さいはての島へ The Farthest Shore
1974 所有せざる人々  ハヤカワ文庫
1975 風の十二方位   ハヤカワ文庫
-主に初期作品集
1976 世界の合言葉は森/ アオサギの眼 (1978)  ハヤカワ文庫
1976 どこからも彼方にある国 あかね書房
1976 オルシニア国物語  ハヤカワ文庫
1979 マラフレナ 上・下    サンリオSF文庫
1979 夜の言葉‐ファンタジー・SF論  岩波同時代ライブラリー
/(改訂)岩波現代文庫
1980 始まりの場所  早川書房「海外SFノヴェルズ」
1982 コンパス・ローズ    サンリオSF文庫/ちくま文庫
1985 オールウェイズ・カミング・ホーム上・下 平凡社
1988 空飛び猫
1989 帰ってきた空飛び猫
1989 世界の果てでダンス   白水社(新装版刊)
1990 帰還 - 最後の書 Tehanu: The Last Book of Earthsea
1992 「ゲド戦記」を‘生きなおす’  (
”Earthsea Revisioned” オックスフォード大学で
   開かれたChildren’s Literature New Englandの大会で講演)
1994 素晴らしいアレキサンダーと空飛び猫たち
1994 内海の漁師    ハヤカワ文庫
1995 赦しへの四つの道 早川書房「新ハヤカワ・SF・シリーズ」
1998 文体の舵をとれ ル=グウィンの小説教室  フィルムアート社
1999 空を駆けるジェーン - 空飛び猫物語
2000 言の葉の樹     ハヤカワ文庫
2001 ゲド戦記外伝(ドラゴンフライ) Tales from Earthsea 
2001 アースシーの風 The Other Wind
2002 世界の誕生日    ハヤカワ文庫(全8篇)
2003 なつかしく謎めいて  河出書房新社(連作短編)
2004 ギフト 
2004 ファンタジーと言葉   岩波書店
2006 ヴォイス
2007 パワー
2008 ラウィーニア 河出書房新社/文庫
2011 いまファンタジーにできること      河出書房新社
2012 現想と幻実 ル=グウィン短篇選集  青土社(全11篇)
2017 暇なんかないわ 大切なことを考えるのに忙しくて  河出書房新社
2022 私と言葉たち  河出書房新社
2025 火明かり ゲド戦記別冊 岩波書店


2025年5月3日土曜日

0554 いまファンタジーにできること 

書 名 「いまファンタジーにできること」
原 題 「CHEEK BY JOWL」2009年
著 者 アーシュラ・K・ル=グウィン   
翻訳者 谷垣 暁美   
出 版 河出書房新社 2011年8月
単行本 210ページ
初 読 2025年4月30日
ISBN-10 4309205712
ISBN-13 978-4309205717
読書メーター 
https://bookmeter.com/reviews/127612072

 私が、諸々の本の感想の中でル=グウィンについて批判的なことを書いたとしても、ル=グウィンの作品が魅力的であり、ル=グウィンその人が非常に知的で、誠実で、勤勉な人であったろうことには疑いの余地はない。ついでに念を押すが、私はル=グウィンの作品のファンである。その点は最初に言っておかねば。
 ル=グウィンは偶像ではない。彼女の時代と場所に生きた素敵な女性である。この本の訳者後書きに、私は全面的に同意している。

 なお、訳者によるあとがきによれば、この本の原題「CHEEK BY JOWL」はちょっと不思議な言葉で、CHEEKもJOWLも頬を表す言葉、ただしCHEEKは人間のみに用いられJOWLは動物にも用いられる言葉なのだとか。チークキス、ただし人間と動物との。そんなイメージだろうか。この語感を日本語に引き写すことは難しい、との判断で、日本語版のタイトルは、原著のサブタイトルから取ったそう。薄めの本だと侮って手にとったが、いやはや中身は濃厚でした。

■ファンタジーについて前提とされているいくつかのこと
*業界人の集まる大規模なブックフェア、ブック・エキスポ・アメリカでの「児童文学を語る朝食会」2004年4月のスピーチ
 ファンタジーの誤った定義(1)登場人物が白人 (2)中世っぽい世界 (3)善と悪の戦い(バトル・ビトゥイーン・グッド・アンド・イーブル=略してBBGE)。その行動は(敵も味方も)みんな同じ!思慮のかけらもない暴力がひっきりなしに続く。そうではなくて、本当のファンタジーに可能なものがある。それを大切にしないと。という話。

■内なる荒野
*ケイト・バーンハイマー編「鏡よ、鏡——女性作家たちがお気に入りのお伽噺の世界を探求する」の第2版(2002)初出したものを修正。『ファンタジーと言葉』(2004)にも収録。
 誰もが知っている『眠れる森の美女』をひっくり返す。全てが眠っている「しんとした場所」それが、王子のたった一度のキスで破壊される。ひとり満ち足りて眠る少女は、王子に起こされ、日常の喧噪の中に引き戻され、当たり前のようにいきなり彼女を目覚めさせた目の前の王子と結婚させられる。(当然のごとくに恋に落ちて。)この鮮やかな逆転。茨に守られた眠れる王国の静けさとの対比がすごい。さらに、ル=グウィンの『密猟者』には「少年」が登場する。しかし、あのお伽噺は、依然としてそこにあり続ける。
 
■ピーターラビット再読 
*「空想上の友だち」のタイトルで、イギリスの週刊誌『ザ・ニュー・ステイツマン』2006年12月18日号に掲載
 “子どもの頃読んで、そのあとの長い人生にときどき帰っていく一冊の本、あるいはひとつのお話"・・・・私にとっては、まさに『ゲド戦記』がそうなのだけど、ル=グウィンがピーターラビットの絵本を挙げるからには、もっと子供のころの本を考えないといけないだろうか? そしてその子供向けに書かれた本は、ファンタジーである可能性が高い。モダニズムが米英文学の中でファンタジー文学に与えた「子供向け」という刻印のひどい影響について、ル=グウィンの舌鋒は鋭い。今一度、ル=グウィンの手ほどきで児童文学について紐解きたくなった。ルイス・キャロル(アリス)、ケネス・グレアム(たのしい川べ)、ミルン(くまのプーさん)その他もろもろ、そしてトールキン。大人の読者も多い。ファンタジーは年齢を超越することができる文学なのだ。
 「ハリー・ポッター」現象は、改めて、大人の意識をこれまで拒絶していたファンタジーに向かわせ、人々はファンタジーを読む歓びを再発見した。(その点だけは、評価してやらなくもない、というル=グウィンの無言の声が聞こえてきそう・・・)

■批評家たち、怪物たち、ファンタジーの紡ぎ手たち 
 そもそも、ル=グウィンに「素晴らしい本がある。絶対読むべきだ!」と言ってハリー・ポッターを薦める連中の、怖れを知らぬこと!
 「初めてその言葉を聞いたときは、白状すると、わたし自身が書いた『影との戦い』を読めといわれているのだと思った。」と書くル=グウィン。ハリー・ポッター現象を否定するわけではない。あの人気は本物で、シリーズをベストセラーにする装置が動き始めたのは、そもそも人気があったからである。
 しかし、批評家連中は、ハリー・ポッターを褒めそやすことで無知をさらけ出した。モダニズムが文学研究からファンタジーを遠ざけたおかげで、「大人の」書評家や批評家はファンタジーを読む素養をまるで失ってしまっていた。だから、実際には、紋切り型で、模倣的でさえあるハリー・ポッターを「独創的」だ、などと評価することができたのだ。・・・延々ハリー・ポッターの評判を聞かされたり、感想を聞かれたりしたであろうル=グウィンの憮然とした表情が想像できそう。ハリー・ポッターを最初に読んだときに、「こんなのファンタジーじゃない!」と叫び、心底『ゲド戦記』を読みやがれ!と思った私は、これを呼んで我が意を得たりとニヤニヤしている。この論説の前半部分は、批評家に対して、もっと勉強しろ! という罵倒を極めて穏便に(?)書き綴っているようにも見えるが、しかし、それだけでは終わらない。後段は、ファンタジーそのものについて懇切丁寧に我々に教えてくれる。もちろん、そちらの方が重要である。
 また、p.53の「訓練を受けていない人がファンタジーを論じようとすると、ファンタジーを合理化することになりがちだ。」以降の一連の文章は、最近、『「ゲド戦記」を‘生き直す’』という彼女自身の講演録を読んで、モヤモヤしていた私にとっては、示唆に富んでいるように感じられた。
 「・・・そういう合理化は、ファンタジーを拒絶するもの、説明することによって消し去るものだ。ファンタジーにふさわしい読み方をすることによってのみ、読者はファンタジー作品の道徳的な立場や社会との関わりがすこしずつわかりはじめるのだ。」


■子どもの本の動物たち 
*2004年「アーバスノット記念講演」の講演者として、全弁図書館協会の集まりで話した原稿を元に加筆されたもの。
 ル=グウィンはこの本の半分以上のページをこの項に割いている。「わたしが提供できるのは分類だけだ。」本人が書いているように、ル=グウィンはこの論説で、なにかを証明したりはしていない。極めて雑にいうと、「私はこう考えるー各論」と「私はこう考えるー総論」だけで構成されていて、各論で総論を上手に説明できているかというと、私にはあまりそうは思えない。しかしそれよりも、古典的な動物物語(動物が主人公のものから、動物が登場するものまで)ひとつひとつの紹介がとても生き生きとしている。これまで私が読んでいない本がほとんどで、子どものころにやり残したことがこんなにあったのか!ととても残念なきもちでいっぱいだ。とくに『バンビ』。私はディズニーが昔からあまり好きではなく、ディズニーアニメ原作というだけで、この本は読む対象から除外していた。なんて残念な!

 しかし、つい面白いと思ってしまったのは、以下の一節。
「・・・この本の長所を味わうために、この言語道断の性差別主義をがまんする努力をしてもいいのかもしれないが、わたしはどうしてもがまんできない。アダムズがいんちきをしているからだ。彼は男性優位主義のファンタジーを書きたかったのだ・・・・というのは、この本が刊行された1972年には、露骨な男性優位主義はだんだん受け入れられなくなってきていたのに、アダムズは動物の行動だということにしたおかげで、咎められずにやりおおせたからだ。・・・・」(p.115)

 なるほど、『影との戦い』から『さいはての島へ』までが書かれたのが1968年から1972年である。この論説は2004年の講演の原稿に加筆されたものであるが、これは、1990年に『帰還』を書き、1992年8月にオックスフォード大学で『ゲド戦記を"生き直す"』の講演を行い、そして2001年には『ドラゴンフライ』と『アースシーの風』を世に出していなかったら、とてもではないがル=グウィンは、「彼は男性優位主義のファンタジーが書きたかったのだ」などという批判はできなかっただろうな、と思うのだ。アダムスがル=グウィンと違うのは、アダムズが書いた『ウォーターシップダウンのウサギたち』が、参考文献にあげた研究書の内容とは真逆のことをしゃあしゃあと、さも事実のように書いているということで、もちろんそれは、読者に対する、そして動物たちに対する重大な裏切り行為である。とはいえ、「男性優位主義がだんだんと受け入れられなくなってきていた」1970年前後、明らかにその世界の価値観が男性優位主義であるとしかいいようのないゲド戦記を書いてしまった女性の、しかもフェミニズムに目覚めた作家としては、その方向性を修正せざるを得なかったに違いない。
 だが、それをあのような形ですべきだったのか、という一点については、わたしは肯定しきれないし、彼女自身も、他の作家の作品に対してはそう言っているのだ。

「ファンタジー作品で、自分がつくった規則を変えたり、破ったりすると、物語の一貫性がなくなり、つまらないものになる。」(p.139)

 まさにその通りで、ゲド戦記で行われた世界観の「改訂」は、物語のファンタジー性を揺らがせ、その世界に没入していた読者を揺り動かし、現実の世界に引き戻してしまった。『ゲド戦記』はジェンダー的な正しさを手にいれた代わりに、ファンタジー性が大きく損なわれた。少なくとも、私にとってはそうだった。私は女性であるが、本を読んだ10代の初めのとき、男であるゲドに自己を投影することは全く難しいことではなかった。子供は、ウサギにもネズミにも、馬にもなれる。ましてや性別の境など、何ほどでもない。本を読んでいるとき、私はゲドだった。そして、ゲドが作者の手によって損なわれたとき、私の子供時代の何かも損なわれた。それを行うことは、作者の権利ではない、と私は思う。

■YA文学のヤングアダルト 
2004年に、ヤングアダルト向けフィクションの分野でしてきた仕事に対して、全米図書館協会からマーガレット・A・エドワーズ賞を受けた際のスピーチのために書かれた原稿
・・・という小論なのだが、例の私が難解だと思った『「ゲド戦記」を‘生き直す’』の原稿とほぼ同じ内容が、ティーンや一般向けに、ごく噛み砕かれた平易な表現で書かれているようだ、と気づいたので、大変にありがたい読み物だった。なるほど、ル=グウィンはそう考えていたんだな、というのを再確認できた。まあ、このゲド戦記の世界観の改変については、一番正しい形容は、「他人がやれば不倫、自分がやればロマンス」というのがどうしても思い出されてしまうのだけど・・・・ねぇ。

■メッセージについてのメッセージ 
『チルドレンズ・ブック・カウンシル・マガジン』2005年夏号掲載に加筆
 ファンタジーは何かの(道徳的な)メッセージを伝えるためのものではない。ファンタジーが貴方につたえるのは物語だ。というメッセージ。ウィットに富んだタイトルがとても素敵。

■子どもはどうしてファンタジーを読みたがるのか
『タイムアウト・ニューヨーク・キッズ』誌2004年6~9月号「クエストワード・ホー(いざ、冒険へ)」という見出しのコラムに掲載されたもの。
 「ティーンエイジャーたちは、自分の住む世界を理解し、意味を見出し、その中で生き、道徳的な選択をするために猛烈な意識的努力をする。その苦闘は往々にして、ほんとうに死に物狂いのものだ。彼らは助けを必要としている。」p.115)
 その助けになるものがファンタジーである。現実の世界では難しい冒険を、物語は体験させてくれる。その中で、ティーンエイジャーは、自分を自分で導く機会が与えられる。とはいえ、そういうファンタジーの魅力は、商業主義にとっても大いに魅力的で、世の中には複製され矮小化され、単なる闘争に善玉と悪玉の仮面を被せただけの粗製濫造された偽物が溢れている。だが、注意深く探せば、本物を探し出すことができるだろう。

2025年4月30日水曜日

ノート 「ゲド戦記」を“生きなおす” を読んで思うこと

雑誌「へるめす」1993年 No.45 岩波書店
タイトル「ゲド戦記」を“生きなおす”
著 者 U.ル=グウィン    
翻訳者 清水 眞砂子   
国立国会図書館 所蔵


 まず最初に、この文章は講演録であり、1992年8月にオックスフォード大学で開かれたChildren’s Literature New England(子どもの本の作家・研究者の団体。本部ヴァージニア州アーリントン)の大会で行われた講演”Earthsea Revisioned”の文字起こし(の翻訳)であることを押さえて置く必要があるだろうと思った。

 多分、この講演は、ル=グウィンが同業者や研究者に向けて行ったもので、同じコミュニティの人間には通じるウィットに富んだ内容を含んでいるのだろうと考える。そこに表現されたアレコレは、そういう文脈で捉える必要がある。特にこの講演録で特徴的だと私が感じたのは、“読者”の存在がほとんど感じられなかったこと。この文章だけを読むと、ル=グウィンは一体誰のために、なんのために創作しているのか、と疑問にすら思えてしまう。だが、彼女のエッセイ集などの別の書籍を読めば、当たり前すぎることではあるが、彼女がきちんと読者に向き合っていることが判る。

 この講演録は5月末に岩波書店から刊行される『火明かり ゲド戦記7』に収録されるとのこと。
 しかし、この論文は特殊な状況でごく限られた聴衆に対して語られたものであり、そのことを踏まえずに、一般読者に供されれば、読者に誤解を与えるのではないか、と若干、危惧している。
 先に読んだ、清水眞砂子氏の『「ゲド戦記」の世界』(岩波ブックレット No.683)も、清水氏の2回の講演会の内容をまとめたもので、そちらも内容のまとまりの無さや、ちょっと言い過ぎちゃった?って感じの部分もあり、1回限りの(ある意味言いっ放しの)講演と、あとまで延々と残る本では、取り扱われる情報の精度にも差があるであろうことは、書籍化の際には注意が必要だと思った。

 しかし一方で、ル=グウィンがこの講演で語ったことは彼女にとって紛れもない真実である。
 『「ゲド戦記」の世界』の中で、清水眞砂子氏は、この講演録についてこう語っている。

————私はそれを早速読んだのですが、たしかに面白いものの、一方にだんだん不満がでてきまして・・・・・。「「ゲド戦記」の第4巻って、このスピーチよりもずっとずっと豊かなのに」と思ったんです。「こんなもんじゃないぞ」と。(中略)このスピーチの翻訳はいま、ちょっと手にはいりにくいかと思いますが、かつて岩波書店から出ていた『ヘルメス』の45号にのっています。私はここにこっそりのせました。第4巻をこんなにやせ細ったものとして読んでほしくなかったのです。
(『「ゲド戦記」の世界』清水真砂子著 岩波ブックレットNo.683 p.31-32)

————私の手許には、先程ふれた会議の講演録のコピーが届けられてきており、その中味をすぐにもみなさんにお伝えしたい、との思いが強くあります。けれど、それは少し時期を待って、別の場所で、ともうひとつの声が制止します。その声に従うことにいたします。(アーシュラ・K.ル=グウィン著 清水 真砂子訳『帰還 ゲド戦記4』岩波書店 初版あとがきより)

 ル=グウィンに深い尊敬を寄せている訳者をして、このように言わしめ、これまで大々的な刊行を控えていたこの翻訳を、今回世に出すことにしたいきさつやそこに込められた思いは、新刊の中で明らかにされるのだろうか。新刊刊行を目前にして、ついうっかり、『ヘルメス』45号に掲載されたこの講演録を入手してしまったので、ゲド戦記本当に最後の書の刊行を前に、感想やら、読んで考えたことなどをノートにまとめておこうと思う。


■アーシュラ・K・ル=グウィンという人について
 1929年生まれ。父はアメリカの著名な文化人類学者のフレッド・クローバー教授。母は作家で、『イシ——北米最後の野生インティアン——』の著者、シオドーラ・クローバー女史。夫は、フランス人の歴史学者で米ポートランド大学の教授をしているシャルル・A・ル=グウィン。

 私の母が1938年生まれなので、同時代と言えなくもない。なお、翻訳者の清水さんはル=グウィンより10歳年下とのことだったので、私の母と完全に同世代である。母達の世代の女性が自立して生きていこうとしたときの困難に思いを馳せる。ル=グウィンや清水眞砂子氏の「フェミニズム」はそういう時代の女性の経験が反映されたものだということを意識しないといけない。

清水さんは、この講演録の解説の中で、彼女が『帰還』を読んだ時の感動を、以下のように述べられている。
————私はこの作者に心から共感した。こみ上げてくる歓びにじっとしていられなくて、私はよく本を置いて部屋の中を歩き回った。それはまるで私の生きてきた日々を、そして抱くにいたった人生への、人々への、世界への思いをそのまま語ってくれているようだった。(中略) 私もまた“テハヌー”をようやく見つけ出していた。太平洋をはさんで東と西で、言葉もかわしたことのない見ず知らずのもの同士がほぼ同じ時期に同じことを考えていたこと。————

 同時代の女性として、極めて深い共感を持っていることが判る。それと対照的に、私にはル=グウィンの言葉は、実感や体感としては理解できないものも多い。彼女たちがジェンダーについて語るとき、その時代性や育った文化について考慮せずに理解することは不可能だ。

■まず、最初の印象として ――“読者の不在”
 この講演録を読んで、清水眞砂子さんが、「やせ細ったもの」とつい表現してしまったのも判る気がするのだ。なによりも、初読で感じるのは、ル=グウィンが、(男性の理論に基づく)批評家や専門家の評価を強く意識していること、そののちは「フェミニスト」の評価を気にしていること。それに比して、読者の存在感が皆無であること。いったい、ル=グウィンは誰のために、何のために、物語を書いているのだろう、と首をかしげたくなってしまった。しかし、それは冒頭に述べたように、この文章が、ごく限られた聴衆にむかって語られた講演であるからだろうと思う。

「芸術はジェンダーを超えてあるべきものだったのです。この無性性、あるいは両性具有性こそヴァジニア・ウルフの言った偉大なる芸術家達のあるべき心的態度でした。私にとってそれはきついことではあるけれど、まことにもっともな、永遠の理想のひとつといえます。」

 このように語るル=グウィンはしかし、それを評価する批評界を牛耳る力ある者達は男だったし、ジェンダーを定義していたのも男の視点 だった、と指摘する。そして、初期のゲド戦記3部作は、男性の視点で、男性に成り代わって、男性的なヒーローの物語を描いたからこそ、批評家に受け入れられた。また、子供むけの本として書いたからこそ、子供の面倒を見る女の役割を果たしていたからこそ、認められたと語る

 「女であり、芸術家である私もフェミニストを自任する天使たちときちんと向かい合わないままに勇者の物語を書き続けることはできなくなりました。彼女たちから合格点をもらうまでにはずいぶん長くかかりました。」 

 そしてゲド戦記の「改定版」を書いたのだと。
 この論文だけを読んでいると、ル=グウィンの世界にはまるで、批評家の男とフェミニストで活動家の女しかいないかのような気分になってくる。だけど、この物語にとって、本当の主人公は私達読者じゃないのか?とも思うのだ。

■作家が考えた以上に、ファンタジーの世界は豊かであること。
 一旦世に出して、読者に手渡された作品というものは、著者一人の思惑を超えた、複層的な豊かさを持つようになるものではないだろうか。
 清水さんは、「あなたの世界は、あなたが考えるよりはるかに豊かだ」と指摘したのは、私のいうこの意味ではないにしろ、本当にその通りだと思う。
 アースシーの世界は、多くの人に読まれ、共有され、確かに豊かな世界を形成していた。ル=グウィン自身も直観的な作家のように見えるが、彼女の前に立ち現れた世界は、多くの潜在的なものを反映し、ル=グウィンが言語化する以上のものを含んでいて、それが読者と共鳴したからこそ、ここまで世界的なベストセラーとして長く読み継がれてきたはずだ。

■読者の権利は存在するのか? それは著者とどのような関係にあるのか?
 読者は、作品をお金を出して買い、それを読むことに自分の時間を使い、そのイメージを自分の中に構築する。著作権はもちろん著者にあるにしても、読者はそのように作品を共有する権利を持っていると私は思っている。

 「自分が成長したから」「自分がより成長するために」「自分自身を解放するために」もしくは、「自分の発展を世に示すために」、数多の読者の投じた時間や読者がそこに感じている価値を足蹴にしてよいものではないと思うのだ。読者には自分のなかに取り込んだ物語に対して権利がある。この作品世界の改訂が、世の多くの読者に波風を立てたのは、ル=グウィンにとって、比較的、読者の存在が希薄だったからではないか、と感じた。 

 私は『帰還』が日本国内で出版された時に比較的すぐ読み、その作品世界の改訂を受け入れていた。多分、あの頃はまだ若く、柔軟性があったし、その一方で深くは考えず、与えられたものを飲み込んだのだと思う。3巻『さいはての島へ』を読んだのがはるか昔だっために、1巻から3巻までを細部まで覚えていなかったことも幸いした。今回まとめて再読した時の方が、違和感ははるかに強かった。

■片方を持ち上げるために、もう片方を墜としてはいけない
 『帰還』のストーリー全般については、さほど大きな問題は感じないし、良く出来た物語だと思っている。しかし、ゲドをあそこまで「墜とす」必要はなかっただろう、とは思うのだ。
 対立する二項があるとして、一方を持ち上げるために、一方を墜とすのはダメだ。 
 女をもり立てるために、男を貶める必要はない。いかに、物語の中で女が男に貶められていようとも。 
 しかも、前作との矛盾を作り出してまで、そうする必要はまったく無かった。 「さいはての島へ」の中で、ゲドは、こう言っている。 
 ———「だが、ハブナーにもロークにも、わしはもどるまい。もう、力とはおさらばする時だ。古くなったおもちゃは捨てて、先へ行かなければ。故郷へ帰る時が来たのだ。(中略) あそこへ、ひっそりと、ひとり帰っていく時が来たのだ。あそこへ行けば、わしもついには学ぶだろう。どんな行為も術も力もわしに教えてはくれないものを。わしがまったく知らずにきたものを。」(『さいはての島へ』)

 ゲドは、全ての力を失うことを受け入れ、ただの人として、故郷にかえり、これまでは知らなかった「ただの人としての生活」を知る時が来ることを、知っていた。望んでさえいた。そのために、竜の背にのって、ゴントに帰還したのだ。 
 「さいはての島へ」の続きのゲドであったなら、自分を卑下することもなく、だからといって自分の功績に縋るでもなく、ただ、淡々と力を失った自分と向き合い、新たに知るべきことを知ることに、喜びさえ見いだしたのではないだろうか。実際、競争社会をリタイアして、世俗的な力を失ったあとも、実質的な力を伴わないが名誉や尊敬をまとって淡々と誇り高く生活している人はこの世にいくらでもいるだろう。なのになぜゲドは、あのように未練がましく、卑屈で小さな男として描かれなければならなかったのか。 
 なぜ、既存の権威を破壊するだけでなく、貶める必要があるのだろう。こういったことは現実の活動の中では随所に見かける。政治活動などなら当たり前ですらある。だが、このファンタジーの中ではまるで必要ではない。 結果としては、ゲドをあのように描いたことで、ゲド戦記はファンタジーとしての力をかなり減じたと思う。

 ジェンダーからの解放を描くために、一方の性を、男を、貶める必要はない。世の中にダメな男はごまんといるだろうが、ちゃんとした男には、ちゃんとした男なりの乗り越え方というものがあるはずだ。ル=グウィンはゲドにそうさせればよかったのに、と思うと、とても残念なのだ。

■テナーとテルーの造形
 テナーについても、いろいろと思うところはある。 
 たとえば、ジェンダーの象徴である女性的な美や処女性を奪われたテルーに対して、テナーは、最初の服として、赤いドレスを仕立てる。別染か生成りのあまり生地でエプロンも仕立てたろう。エプロンとは!まさに女仕事の象徴のような気がするのだけど、穿ち過ぎだろうか。 ともあれ、ジェンダーの軛の外に置かれたはずのテルーに、女性の象徴ともいえるような洋服を仕立てるのがテナーであり、ル=グウィンでもある。テルーは「アースシーの風」では、絹のシフトドレスを纏っている。障害のあるテルーは引っ込み思案で母から離れることができず、遠出の旅に、テナーに一緒にきてくれるように懇願するような女性に成長している。顔の傷を黒髪で隠し、傷ついた側を人目から遠ざけるように行動する。それに対して、竜のアイリアンは男の子のような粗末なズボンと裸足で姿を現す。なぜ、テナーは、テルーをズボンをはいて元気な風のような子に育てることができなかったんだろう? たしかに、テルーが背負った傷は大きすぎる。しかし、ル=グウィンが言うように、テルーがこの世界のいわば「導き手」として配置されたのなら、ジェンダーの外側に置かれたテルーを、もっと自由な存在にすることはできなかったのだろうか。この物語は、そういう話であってもよかったように思う。

 例えば、テナーが 幼いテルーに、「あなたの本質は外形ではない。火傷ではない。本当のうつくしさは、そんなものじゃないの」といって、赤いエプロンドレスの替わりに、柔らかい上等の生地で作ったズボンやチュニックを着せ、ゲドやテルーの持てる知識をすべて与えて育てたらどうなっていたろう。テナーが拒絶したオジオンのあたえようとしたものを、テルーが受け取るストーリーだって可能だろう。
 もし、テルーが、その知識を力をもって、初めてハーバード大学に入学した女子学生のようにローク学院に入学したとしたらどうだろう? 

 ル=グウィン自身の物語の中では、テルーは兄弟の竜たちとともに西の果てのそのまた西に旅立ってしまったが、それは一つの物語であって、アースシーはそれ以外にも無数の物語をはらんでいるではないか。(まあ、ここまでくると、二次創作になってしまうけど)
 なお、ここでは余談になってしまうが、翻訳者の清水さんは前述の『「ゲド戦記」の世界』の中で、テルーが最初に所有したものが、テナーの作ったドレスであったことに着目しているが、私はむしろ、子供時代を奪われたテルーの最初の私物が「骨のイルカ(おもちゃ)」であったことの方がはるかに象徴的なのではないだろうか、と考えている。

■フェミニズムについて
 人の数だけフェミニズムがある、とは良くいったもので、フェミニズムは自分の体験を通して理解せざるを得ず、その経験は、本当に人それぞれなのだ。自分と世の中の関係、自分と異性との関係、自分と親との関係、時代、所属する社会、階級そう言ったもので千差万別である。私のフェミニズムは誰かのフェミニズムとは相容れないし、相互理解も難しい。なぜなら、根本的なところで、個人的な体験に依拠しているからだ。

 では、多くの体験から上澄みを掬って、学問的に純化できるものだろうか。そうすることに意味があるのか?

 世の中には半数近くの女と半数近くの男と、比較的少数の、それの両方に属する人と、おそらくはもっと少数のどちらにも属さない人で構成されている。

 目指すのは、その全ての人が自由である社会である。
 内心の問題は取扱いが難しいが、まず、目指すべきは外形的な平等だろう。

 とはいえ、絶対に平等にはなり得ない部分が生殖である。そういったことを、現代のフェミニズムでは、どのように取扱い、消化しているのか、私はまったくの勉強不足なので、これから本を読もうと思っている。

2025年4月18日金曜日

アーシュラ・K・ル=グウィン  略歴と著作(邦訳・代表作のみ)



アーシュラ・クローバー・ル=グウィン(Ursula Kroeber Le Guin)  1929年10月21日生 2018年1月22日没

・アメリカの小説家でSF・ファンタジー作家。
・1929年10月21日、カリフォルニア州バークレー生まれ。
・父親はドイツ系の文化人類学者のアルフレッド・L・クローバーで、1901年にコロンビア大学でアメリカ合衆国初の人類学の博士号を取得し、カリフォルニア大学バークレー校でアメリカで2番目の人類学科を創設した。
・母親は、夫が研究で係わったアメリカ最後の生粋のインディアン「イシ」の伝記を執筆した作家で文化人類学者のシオドーラ・クラコー・ブラウン。
・ル=グウィンが生まれた日は、カトリックの聖女である聖ウルスラ(Saint Ursula)の祝日で、彼女は聖ウルスラに因んで、アーシュラ(Ursula)と名づけられた。

・子供時代は、バークレーで育つ。大学はラドクリフ・カレッジ(ハーバードと提携関係にあった名門女子大学。のちにハーバードと合併)に進学、フランスとイタリアのルネサンス期文学を専攻し、コロンビア大学で修士号を取得。1953年にフルブライト奨学生としてパリに留学し、フランス人の歴史学者チャールズ・A・ル=グウィン(Charles Le Guin)と結婚。帰国後に夫は州立ポートランド大学の教授となり、自身はマーサー大学、アイダホ大学などでフランス語を教える。1957年長女を出産、その後オレゴン州ポートランドに住む。1959年次女、1964年に長男出産。

・1958年頃から雑誌の書評欄や、現代の架空の国オルシニアを舞台にした短編を書き始め、1961年にその一つ「音楽によせて」(An Die Musik)を『ウェスタン・ヒューマニティズ・レビュー』誌に発表し、初めての商業誌掲載となった。
・1962年に『ファンタスティック』誌9月号に短編「四月は巴里」(April in Paris)が掲載されて本格的に作家デビュー、定期的に作品が雑誌に掲載されるようになる。
・その後『ロカノンの世界』『辺境の惑星』「幻影都市』の3長編を出版したが、注目されなかった。
・1968年に長編『影との戦い』を出版。
・1969年発表の『闇の左手』でヒューゴー賞、ネビュラ賞を同時受賞し、広く知られるようになった。
・2018年1月22日、ポートランドの自宅で死去。

作品一覧(邦訳)
《ハイニッシュ・サイクル》Hainish Cycle
・ロカノンの世界 (1966年)  サンリオSF文庫
             ハヤカワ文庫(別訳)
・辺境の惑星   (1966年)    サンリオSF文庫、ハヤカワ文庫
・幻影の都市  (1967年)        サンリオSF文庫、ハヤカワ文庫
・闇の左手  (1969年)         ハヤカワ文庫(新版)
・所有せざる人々  (1974年)    ハヤカワ文庫
・世界の合言葉は森  (1976年)   ハヤカワ文庫
     アオサギの眼  (1978年) を併録
・言の葉の樹   (2000年)  ハヤカワ文庫

《アースシー》(ゲド戦記) 岩波書店 
・影との戦い A Wizard of Earthsea (1968年)
・こわれた腕環 The Tombs of Atuan (1971年)
・さいはての島へ The Farthest Shore (1972年)
・帰還 - 最後の書 Tehanu: The Last Book of Earthsea (1990年)
・アースシーの風 The Other Wind (2001年)
・ゲド戦記外伝(ドラゴンフライ) Tales from Earthsea (2001年) - 短編集

 ・どこからも彼方にある国(1976年) あかね書房

《オルシニア》  架空の国を舞台にした非SF作品
・オルシニア国物語   (1976年) ハヤカワ文庫
・マラフレナ   (1979年)                サンリオSF文庫(上・下)

《空飛び猫》(絵本)
・空飛び猫  (1988年)
・帰ってきた空飛び猫 (1989年)
・素晴らしいアレキサンダーと空飛び猫たち  (1994年)
・空を駆けるジェーン - 空飛び猫物語  (1999年)

《西のはての年代記》 
・ギフト Gifts (2004年)
・ヴォイス Voices (2006年)
・パワー Powers (2007年) 

・天のろくろ (1971年) - サンリオSF文庫、ブッキング(改訂復刊)
・始まりの場所   (1980年) - 早川書房「海外SFノヴェルズ」
・オールウェイズ・カミング・ホーム   (1985年) - 平凡社(上・下)

《中短編集》
・ラウィーニア  (2008年)    河出書房新社 のち文庫
・風の十二方位   (1975年)  ハヤカワ文庫-主に初期作品集
・コンパス・ローズ   (1982年)  サンリオSF文庫、ちくま文庫 
・内海の漁師   (1994年)     ハヤカワ文庫(一部が《ハイニッシュ・サイクル》)
・赦しへの四つの道   (1995年)  早川書房「新ハヤカワ・SF・シリーズ」
・なつかしく謎めいて  (2003年)  河出書房新社(連作短編)
・世界の誕生日 (2002年)     ハヤカワ文庫(全8篇)
・現想と幻実 ル=グウィン短篇選集   (2012年)    青土社(全11篇)

《エッセイ等》
・夜の言葉‐ファンタジー・SF論   (1979年)  岩波同時代ライブラリー、(改訂)岩波現代文庫
・世界の果てでダンス  (1989年) - 白水社(新装版刊)
・文体の舵をとれ ル=グウィンの小説教室   (1998年)  フィルムアート社
・ファンタジーと言葉   (2004年)   岩波書店
いまファンタジーにできること   (2011年)   河出書房新社、河出文庫
・暇なんかないわ 大切なことを考えるのに忙しくて - 河出書房新社
・私と言葉たち (2022年) - 河出書房新社

2025年4月13日日曜日

0553 ドラゴンフライ アースシーの五つの物語 もしくは ゲド戦記外伝

少年文庫版
書 名 「ドラゴンフライ アースシーの五つの物語 ゲド戦記5」
原 題 「TALES FROM EARTHSEA」2001年
著 者 アーシュラ・K.ル=グウィン    
翻訳者 清水 真砂子    
出 版 岩波書店
初 読 2025年3月22日
初版のハードカバー
読書メーター 
 【岩波少年文庫版】
書 名 「ドラゴンフライ アースシーの五つの物語  ゲド戦記 5 」
少年文庫版  560ページ 2009年3月発行
ISBN-10 4001145928
ISBN-13 978-4001145922


 【ハードカバー版(初版)】
書 名  「ゲド戦記外伝」
単行本 456ページ 2004年5月発行
ISBN-10 4001155729
ISBN-13 978-4001155723

改編後のハードカバー
 【ハードカバー版(改編後)】
書 名  「ドラゴンフライ アースシーの五つの物語  ゲド戦記 Ⅴ」
単行本 464ページ 2011年4月発行
ISBN-10 400115644X
ISBN-13 978-4001156447


 『帰還』と『アースシーの風』の間を埋める『ドラゴンフライ』または『トンボ』(版によって呼び名が違う。トンボをドラゴンフライに改めるくらいなら、オジオンもいっそのことオギオンに改めれば良かったのでは?!)またロークの学院の起源や、若きオジオンとその敬愛する師匠の物語など。
 なぜ、『アースシーの風』の前にこの本を訳出しなかったのだろう。
刊行順にこちらを出版するのでも良かったとおもうのだけど。
ジブリアニメ公開に併せて
再版されたバージョン

 見ての通り、この本は、ハードカバーの『ゲド戦記外伝』→ソフトカバー版『ゲド戦記外伝』(ジブリアニメ化の際に発行されたもの。)、タイトルを改めたハードカバー本『トラゴンフライ』そして物語コレクション版と、岩波少年文庫版の5種類が発行されている。
 後からシリーズの残りを集めようと思って探した時に、おおいに混乱した。ちなみに私が所有しているのは、函入りハードカバー各初版と、岩波少年文庫版と、ソフトカバー版の3種類。なぜかそうなった。
 今年6月に、ル=グウィンが死去してから発行されたゲド最晩年の作品を含む短編と、ル=グウィンの講演録を翻訳した『ゲド戦記を“生き直す”』などが収録されたシリーズ7冊目(多分今度こそ最終巻)が岩波から発行される。ここで函入りハードカバー版を発行しないのは、50年来の読者への裏切りというものだろう!とこれまた若干腹が立つものの、発行自体はとても楽しみにしている。もちろん。
 さて、この別冊改め『ドラゴンフライ』は、短編5作品と著者によるアースシー解説からなる。『カワウソ』はローク学院のはじまりの物語。『ダークローズとダイヤモンド』と『湿原で』は男女の愛に関する物語。『地の骨』は若いオジオンとその師匠の話。『トンボ』改め『ドラゴンフライ』は、例の!アイリアンのお話です。以下感想。

カワウソ
 通り名をカワウソまたはアジサシと名乗った心優しい魔法使いは、様々な曲折を経て、初代の〈守りの長〉となる。アーキペラゴの暗黒時代に灯を点した、ロークの学院草創期の物語。
 ロークの学院の基礎を作ったのは、実は、〈手〉と呼ばれる草の根抵抗組織の女達だった。(レジスタンス、と書いちゃうと、ちょっと時代的に違う感じがする。) 大きな魔力を持ちながら、正しい教育を受ける機会の無かったまじない師のカワウソは、奴隷に落とされたりしながらも正しい魔法と公平と自由を求めて、古来のそれが残っているという島を探しつづけ、ついにその島に辿り着く。そしてその地で愛を得る。魔法が男だけのものになる前の時代の物語でもある。
 意外なローク学院の始まりについては、ちょっと後付け感も感じないではないけど、カワウソの素朴で正直で控えめな人柄は、『アースシーの風』のハンノキにも共通する温かみがある。女性も魔法使いになり、教師になり、長になれていた初期のロークから、どのようにして女性が疎外されていったのか、そこはとても気になる。
 あと、一つだけ言いたい。「タフなヤツだな。」という台詞は、めちゃくそ浮いてるぞ!

ダークローズとダイヤモンド 
 ダイヤモンドという通り名の青年が、真に自分の魂が求める道に辿り付くまでのお話。ダイヤモンドは“力”のある若者だったが、それが発揮されるのは音楽の道だった。詩がロークの“高尚な”学問に含まれ、歌が含まれなかったのは、学院の始祖たる魔法使いの中に歌を得意とするものがいなかっただけだと『カワウソ』を読んだものなら気づく。それはさておき、ダイヤモンドはロークに行く道を選ばす、愛するものと供にいること、そして歌うことを選んだ。

地 の 骨 
 師匠には「だんまり」と呼ばれた寡黙な少年は、師匠の元で魔法を学び、ゴントで独り立ちした。大地の太古の魔法を知る師匠は、この島に大きな災害が迫っていることを知り、弟子とともに地殻変動に立ち向かう。沈黙のオジオンとその師匠のセレス、さらにその師匠の物語。このシリーズを通じて、オジオンが一番素敵だし、大賢人にふさわしいと思うのは、きっと私だけじゃない。

湿 原 で 
 ある島に現れたまじない師の男は、動物と言葉をかわし、病気を癒やす力を持っていた。疲れはてて一夜の宿を求め、酪農農家の寡婦の家に寄宿することになるが。穏やかで寡黙な男に引かれるおかみさん、男を捜して現れたゲドが語る、男の物語。
 正直、ゲドの語る男のこれまでと、島に現れた男の性格に落差がありすぎて、もうちょっと男の気づきとか改心のいきさつを語ってくれないと、別人のように思える。

ドラゴンフライ(まはたトンボ)
 なんで〈トンボ〉を〈ドラゴンフライ〉に直したかなあ。トンボのままではいけなかったのか。アジサシや、カワウソや、タカも素朴な日本語として意味の通る名前にしたのに、〈トンボ〉をあえて日本人には馴染みのない〈ドラゴンフライ〉にしたのはどうしてだろう。訳者の清水さんにとっては、トンボがどうにも違和感があったらしいのだけど。確かに竜が翔ぶ話なので、ドラゴンフライは本質を突いているんだけど、偉大で巨大な生き物である竜が、人であったときには小さな空飛ぶ昆虫の名前を名乗っている、というギャップも、面白いと思う。
 それはともかく、『アースシーの風』を読むと、突然でてくるアイリアンという女性の名前。そのお話である。最近わたしはKindle版と紙本を併用で読むことが多いのだが、Kindle版は岩波少年文庫版が底本なので「ドラゴンフライ」 紙本(ハードカバー旧版とソフトカバ—版)は「トンボ」。・・・・やっぱりトンボの方が好みだ。
 ゲドの盟友であったトリオンは、ゲドを探しに死者の国に赴いたが、戻ってくることが出来なくなった。しかし、皆がトリオンが死んだと思ったとき、生に対する執着と野心だけが生ける亡者として肉体に戻ってきた。そのトリオンとアイリアンの闘い・・・と思いきや圧倒的物量と熱量の差で、瞬殺。
 にしても、アズバーと守りの長はともかくとして、ロークの賢人団がなかなかのぼんくら揃いに見えてしまうのが残念なところ。

アースシー解説
 ル=グウィンによる、この世界の地理、民族、文化、言語、文字、歴史などの概略解説。
 ル=グウィンはこの世界の言語(真正神聖文字やハード語の文字)を漢字のような表意文字だとしているようだ。解説を読むに、一単語が一字に相当しているよう。
 ネイティブ・アメリカンをモデルにしているという、アーキペラゴの人々に漢字的な表意文字をあて、白人のカルカド人にインカ帝国風の紐を結ぶ伝達の方法をあてるなど、(主には)白人の意識を揺さぶるしくみが仕掛けられてるなあ。
 歌と歌謡は、アーキペラゴの最初の起源を証しているというのに、『ダイヤモンド』で描かれているように、学問大系の中では、歌による伝承の「詩」の部分に重点が置かれて、「歌」の部分はきちんと位置づけられていないんだな。まことの言葉の仕組みとしては、言葉の意味はわからなくても、音律だけで魔法を発動させることも出来そうな気がするんだけど。(そうなると、乾石智子のファンタジー世界っぽいかも。)
 子供は皆教育のようで、6,7歳頃には、『エアの創造』を語り聴かされ、暗唱できるようになる。常識ある大人であれば、だれも『エアの創造』を子供に語ることができる。子供たちは学校でハード語疑似神聖文字(神聖文字に由来し、ハード語を表記するために生まれたた、魔法の力を持たない文字。数百から数千に及ぶ。)を学ぶ。ル=グウィンは、「物語」に丁度良い、閉じて、均質化されていて、文化と富に満ちた世界を創造したようだ。
 ローク学園から女性が排除されたのには、初代大賢人ハルケルの影響が強かったよう。しかし、ロークの設立に女性が深く関わった点については、きちんと知識として継承されればよかったのにね。魔女達のあいだに「魔女の契り」や魔女婚(同性婚)の風習があったのに、魔法使いの間にそれがないのも面白い。

 さて、この巻で既刊の『ゲド戦記』はついに読了。あとは『火明かり』の刊行を待つばかりである。

2025年3月30日日曜日

日々雑感・・・ファンタジーが読みたかっただけなのに


 昨年末から久しぶりにファンタジー作品を読み始めて、原点回帰、とか思って、ん十年ぶりにゲド戦記を読み始めた。私はただ、私のファンタジーの原点・・・指輪物語やゲド戦記に回帰したかっただけなんだよ。あと、ル=グウィンに関しては、まだ完読していない『西の果ての年代記』までは辿り着くことが当初の目的だった。
 だがしかし。
 ゲド戦記の周辺が賑やかすぎて、無視できない。また、作品そのものも、読んだ人間がざわめくのも無理はない程度には、良くも悪くも問題作だった。
 だから、これを読んだ他の人達はどう考えているのだろうか、とかつい気になって、書評のアレコレや、論文や評論にも手をだした。
 結果として,もう手遅れなのだが、純粋にゲド戦記の世界に遊んでいた昔の心持ちに戻れるものなら戻りたい。

 『帰還』も、『アースシーの風』も、絶対に受けつけない人もいるみたいだけど、私はそこまでの拒否感はない。それなりに完成度は高いし、面白い。だけど、そう、なんというか、解釈違いの映画化作品でも見たような気分も無いわけじゃない。ル=グウィンに対しては、彼女のいうところの「今」の作品を書くにしても、なぜゲド戦記の続編でなければならなかったのか、別作品で書いてくれればよかったのに、と、恨めしい気持ちは若干ある。

 『影との戦い』や『さいはての島へ』で出てくる例の石垣については、これまでは、自分なりに、三途の川のようなイメージで読んでいたので、石垣の向こう側があの世だと理解していた。

 だが、『アースシーの風』によって、そのイメージがよく判らなくなった。さらに、外伝(『ドラゴンフライ』)収録の『カワウソ』では死者が石垣のこちら側に居る。根本的な世界観がブレる。『アースシーの風』では死者と生者が力を合わせて石垣を壊す。そして石垣を越えて死者が解放されることが描写されるのだが、それではあの石垣は一体何を仕切っていたのだ?
 生死の世界の分かれ目なのか、西の果てのそのまた西に続く世界のつながりを仕切っていた魔法なのか。死者は石垣のどちら側に居るのか?

 ル=グウィンが十年、二十年の時を経て、アースシーに戻って、その世界を覗き、そこで見たものを作品に紡いだことで、それまでに読者が過去のル=グウィンの言葉をよすがに創り上げていた、日本人にとっては「ゲド戦記」であり、海外の読者にとっては「アースシー」であるところの、ファンタジー世界の土台は壊れてしまった。あの石垣の如くに。

 べつに著者が何十年かけて作品を書いてもそれは良い、が、著者自ら世界を改変するのは、できれば止めて欲しかった。いったんは読者に委ねた作品であれば、過去の作品が未熟なら未熟なまま、読者に預けておいてくれたらよかったのに。

 まず、このゲド戦記6巻(この6月頃には、7巻になる予定。)を読んで思うのはそのことである。
 そして、外野はやっぱり五月蠅すぎる。(私自身も含めてだ!) 作品を楽しむこと以外しなくでもいいじゃないか、と思う。

 だがしかし何よりも、過去の作品世界をいじらないで、と思うその気持ちが、程度の差こそあれ、例の栗本薫に思ったことと根っこのところでは大差無い、というのが、正直一番の_| ̄|○ なのだった。

ノート 「ゲド戦記」の世界 (岩波ブックレット NO. 683) 

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書 名  「ゲド戦記」の世界 (岩波ブックレット NO. 683) 
著 者  清水 真砂子
出 版  岩波書店  2006年9月
ブックレット  60ページ
初 読 2025年3月23日
ISBN-10 4000093835
ISBN-13 978-4000093835

簡単なレビューはすでにアップしたのだが、このブックレットにいろいろと思考が触発されたので、ノートを作っておく。

子供はいつ「ノー」ということを覚えるのだろう 
 冒頭、「ノー」と言う言葉については、いろいろと思うところがある、と清水さんは語られている。しかし、最初に子供に覚えてほしい言葉は「ノー」であるとのくだりで、あ、この方は子育てはしたことがないのかな、と思った。 
 自我が育ってきた子供が「いや」と言えることは大切なことであるのは、否定するつもりはない。
 しかし、実際には赤ん坊は言葉を獲得する以前に「いや」と言っているのだ。泣くことによって。
 「いや」という言葉を覚えているかいないか、という以前の話で、赤ん坊が泣く→養育者が赤ん坊の欲求を満たすという反復を繰り返すことで、子供は、自己の存在を無条件に受け入れられているという、世の中と自身に対する基本的な肯定感を育む。この時に構築される養育者との愛着関係がその人の根っこを作る。これが人生のスタートで何よりも大切なことである。子供が最初に覚える言葉が、「いや」ではなく、ママであり、妈妈でり、マンマであることには、それ相応の理由がある。
 講演会の導入部で、聴衆に受けの良いであろう話題を選ばれたのかもしれないけれど、この内容は少々的外れなように感じるし、この導入って、『ゲド戦記』の話に必要なん?と思った。

■ものを読むということは
 ものを読むということは、書かれていることを読むだけではだめで、何が書かれていないか、新聞であれば何が取り上げられていないかがわかって、初めて読んだことになる。
 これはとても大切なことで、肝に銘じたい。

■訳語一つへのこだわり
 言葉には既成のイメージがある。「ひとつの言葉には、その言葉の歴史が全部まとわりついている」(P.13 )。そして、その一つの言葉の歴史は、書く人、読む人のそれまでの生活・人生で経験してきたものでもちがう。 その前提で、著者のイメージを過不足なく正確につたえるために、言葉の一つ一つを吟味する作業を繰りかえす。そういった作業に真摯に取り組まれている清水さんは、素晴らしい翻訳者だと思う。

■テルーが最初に所有したものは (p.18)
 このブックレットでは、清水氏はそれを、テナーが作ったドレスだと言っている。テナーが生地をもらい受け、染め、裁断し、赤いドレス、シュミーズ、エプロンを手で縫って仕上げる。多分それを、テルーはそばでじっと見ている。その時間はテルーにとって特別なものだったに違いない。しかし、最初の所有ということでいえば、「骨の人」とイルカ号の中でもらった「骨のイルカ」じゃあないかな、と思うのだけど、どうだろう?  そうはいっても、自分の物を持つことについての大切さが変わるわけではない。

■老人ホーム視察団のエピソード (p.18)
 これも、もっともらしい話ではあるのだけど、長い冬に閉じ込められる北欧の「室内」に対するこだわり、その室内調度品に向ける情熱を、そのまま日本の老人ホームに当てはめると、ちょっとずれるかも、と思った。この調度品へのこだわりという点で、私が思い出すのはジョン・ウェイン主演の「静かなる男」の1シーン。母から譲り受けた先祖伝来の家具を新婚の家に運びこむときのヒロインのふるまいなのであるが。
 それとは対照的に思い出すのが「柳行李ひとつで嫁に」、という当時の皇太子殿下(現在の太上天皇陛下)のプロポーズ。日本人の家や生活は、基本的にヨーロッパよりははるかに軽量。片や、長い冬を屋内で過ごす国、片や災害が多い国柄、ということも理由の一つかもしれない。ともあれ物に詰め込む想いは、たぶん北欧人の方が、日本人よりも格段に重いんじゃないだろうか。人が何をよすがに過去を思い起こすのか、は多分文化によって違う。壁いっぱいの家族写真なのが西洋人だとしたら、日本人は、季節の移ろいとか年中行事、祭りや行事、折々の花かも知れない。老人ホームでは人々の過去が消されている、というのが「ほんとう」なのかどうかは、もうちょっと考えたほうがよいかもしれないと思う。 

■今更ながらフェミニズムとは (p.19)
 第4巻の『帰還』が訳者の突き付けてきたのは、「あそこにある成熟したフェミニズム」をどのような日本語で表現したらいいか、ということだったと清水氏は言っている。

 私には“あそこにあるフェミニズム”がどんなものか、ちょっとよく分からない。
 広義のフェミニズムが20世紀初頭の婦人参政権運動などを含む、脈々と続いてきた女性の権利獲得運動であることは知っているが、ここで語られる“フェミニズム”は、もっと狭義のものだ。第二波なのか、第三波なのかもよく判らない。自分はもう何十年も仕事をして、自立して生きてきているが、その“フェミニズム”について、真剣に考えたことはたぶんない。だからといって、アンチ・フェミニズムではないし、ポストフェミニズムだと思っているわけでもない。ただ、なんとなく「フェミニズム」という言葉が自分から遠い。
 その点を何故だろうかと考えたとき、私は自分が女だとはっきり自覚しているが、一方で自分の中の男性性とでもいうものも意識しており、フェミニズムという用語では自分のその部分が疎外されていると感じるからではないかと思った。フェミニズムは私を表さない。ようは,“女くさい”のだ。と、いうことは世の中の半分を占める男性もそうなのではないか。そのような言葉に、世界を変える力があるのだろうか?
 ル=グウィンが体現していたフェミニズムとはなにで、フェミニストとはどんな人なんだろう? もっと私には勉強が必要だ。

■テナーの第三の言葉とは
 テナーをゲドから託されたオジオンは、テナーに「男性の「知」の世界」を与えようとする。しかしやがてテナーはそれを拒否し、考え始める。「自分は自分の衣装を着たい、自分の着物を着たい」「普通の女たちが生きる人生を全部、自分で引き受けて生きてみたい」。

 私は、それをテナーがかつて失ったもの(関係性や、生活や、それにまつわる事物)を回復させたいと願ったのだととらえた。だから、テナーが求めたものはフェミニズム的なものとは関係がなく、むしろ封建的ですらあった、と考えたのだが、この点は、清水氏とも(ひいては著者とも)考えが違うのかもしれない、とこのブックレットを読んで思った。
 そこで、清水氏はテナーを、「男性的な理論の世界の言葉を一度は、獲得した女性」と語るが、そこも果たしてそうなのかな?とも思う。むしろ、男性的な理論の言葉を拒絶した女性、なのではないか? 普通の女の生活の言葉を持っているが、生活べったりでないことは異論はない。彼女は生活や世の中に対して、ある種の客観性を持っている。しかしそれは、彼女が“白い女”であり、自身が生活する共同体の中に受け入れられていると同時に、常に他者、よそ者であるからではないのか。また、幼少時に「アルハ」という孤高の存在として養育され、教育されたからではないのか。また、カルカド語という、母語を持っているからではないのか。彼女が第三の言語を獲得しているとして、それをオジオンの教育に由来すると考えるのは、行きすぎだと思う。
 に、してもだ。 テナーの持つ「第三の言語」性を表現するために、苦心して翻訳されている清水氏の努力のおかげで、私達は実に生き生きとして、まさにテナーらしいテナーに出会うことができているのだ。

■ ハリー・ポッター(笑)
 別にハリー・ポッターをテキししているわけではないし、夢中で一気読みした。でも、読み終わった瞬間に「膨大な時間のむだ遣い」と思った。とのこと。(笑) 何にも残らなかった。(笑)(p.27) あ、それ言っちゃうんだ(笑)
 まさに。そういう本もある。子供にとってはそれでも良い場合もある。それで、「本を読むこと」「本を読んでワクワクすること」を覚えて、より深い読書の世界の入り口になるかもしれない。ただただ、楽しむだけの読書だってある。だけど、『ゲド戦記』とは違うよね、ということだ。だって、『ゲド戦記』って実際、読んでいてそんなにワクワクしなくないか? 正直いって重くないか? それでもその深みになにか得体の知れないものがありそうで、読まずには居られない。そんな感じだ。

 誤読する自由 
 清水氏の「私たちには誤読する権利がありますから、読みたいように読んでいる」という一文にはものすごい破壊力がある。作品をどのように読むか、は読者の権利なのだ、というのはものすごい示唆を含んでいないか? いったん世に放たれた作品は、その意味では、読者の物なのだ、とすら言えないか?
 作者には、自分の創作した作品を、いかようにも描く権利がある。ル=グウィンは、アースシーの世界について、誰はばかり無く作品を世に送り出す権利を持っている。一方で、すでに世に送り出された作品は、読者の中で確固たる世界を築いている。 ゲド戦記の第4巻以降の作品が世に巻き起こした葛藤は、まさにこの両者の対立だったのではないだろうか。
 その葛藤の中で、ル=グウィンすら、その意味を語る必要に駆られてしまった。それが、オックスフォード大学での「ゲド戦記」をひっくり返す」という講演だった。

■「意味」を語るという陥穽
 清水氏は、「ゲド戦記」第4巻は、このスピーチよりもずっと豊かで「こんなもんじゃないぞ」と思った。そして、ル=グウィンに「スピーチ原稿を読んだけれど、あなたの作品は、あなたがここに書いているより、はるかに豊かだと思う」と手紙を送ったのだそう。その手紙にル=グウィンがなんと答えたのか、もしくは応えは無かったのか、はこの清水氏の講演では語られていない。
 そのル=グウィンの作品の豊かさ、とは、読者の中に物語を喚起する力であり、喚起される物語はル=グウィンだけの物では無くなっている、ということだったり、清水氏自身の豊かさだったりするのかもしれない。清水氏が語る「こぼれるもの」は、もっともっと沢山あったが、非常に大雑把にいうと、そういうことなんだな、と思った。

 私は、清水氏のこのブックレット(2本の講演録を整理、編集したもの)を読んで、あれこれと細部の文句を言ったりはしているが、清水氏は素晴らしい翻訳家だと思っている。
 一方で、単語の一つ一つを吟味し、著者の思想を過不足なく伝えようと細心の注意をもって奮闘する翻訳者でありながら、読者としては「誤読する自由」がある、と高らかに宣言する。この強さ(獰猛さ?)が、清水氏の素晴らしさだ。

■ さいごに、映画『ゲド戦記』について
 「人が何かにつき動かされて表現に向かうとき、その表現形態が詩であれ、映画であれ、大事なのは出来上がった作品がそのジャンルの作品として自立しているか否かです。作品が作者をして表現へとつき動かしたものをどれだけ忠実になぞっているかは、全く問題ではありません。」「もしも、できあがった作品が不評を買ったとすれば、それはその作品に、読む者を、あるいは観る者をして我を忘れさせるだけの力がなかったということでしょう。」

 いやこれは、バッサリと。
 正にその通りですが、観客にとっての比較の対象が父宮崎駿であり、ル=グウィンの書いた作品出会ったという点では、吾朗ちゃんは不幸だったとは思う。
 私個人としては、テルーを顔に痣(変色)が残っているものの、きれいでかわいくて、歌の上手な女の子として描いてしまうことだけは、すべきでは無かった、と今でも思っている。
 テルーは顔と上半身の半分が焼けただれて、目も喉も焼け、ケロイドに覆われて、手指は癒着してしまっている、見た目も凄惨な障害を負った少女なのだ。それをきれいに描いてしまうことで、見た目が酷い障害は「絵にならない」「画面に出せない」という強いメッセージを世に放ってしまった。結局アニメはルッキズムを超えられないことを、こうまで残酷に表してしまったことが残念でならない。

2025年3月23日日曜日

0553 「ゲド戦記」の世界 (岩波ブックレット NO. 683)

書 名  「ゲド戦記」の世界 (岩波ブックレット NO. 683)
著 者  清水 真砂子
出 版  岩波書店  2006年9月
ブックレット  60ページ
初 読 2025年3月23日
ISBN-10 4000093835
ISBN-13 978-4000093835
読書メーター https://bookmeter.com/reviews/126874474   

 ゲド戦記5と6が入れ替わる前の2006年の、清水真砂子さんの2回の講演会の内容を編集し、再構成したもの。
 清水さんが誠実で堅実な翻訳家であり、研究者であり、また教育者であることが伝わってくる。

 神聖文字も持たず、真のことばたり得ない私達の言語は、非常に不確かなものながら、それでいて、お互いを結び付け、共通のイメージをふくらましたり、ファンタジーの世界を築き上げたりしている。私達の言葉は、それぞれの生活と体験に依拠するがゆえに、同じ言葉が他の人にとっても完全に同じ意味を持つとは限らない。言葉のそのような揺らぎを知っているその上で、著者の言わんとすることを損なわないように細心の注意を払って、言葉の一つ一つの意味を吟味し翻訳する姿勢を尊敬する。
 その一方で、「私達は誤読する権利がありますから、読みたいように読んでいる」という一節は非常に痛快。
 自身の創作を説明するという陥穽にル=グウィンでさえはまってしまったことについての、清水さん気づきは深いというか、さすがというか。読んで自分も大いに反省させられる。
 しかし、それすらも、ル=グウィンに対する深い敬愛が込められている。
 そのル=グウィンの講演録は、ついに5月末刊行の『火明かり』に収録されるとのことなので、それも楽しみではある。 「あなたの作品は、あなたがここに書いているより、はるかにはるかに豊かだと思う」と清水さんに手紙を書き送られたル=グウィンは、どのように応えたのだろうか。
 「フェミニストの旗手」と見做されていたル=グウィンは、しかし決してそれだけではない。フェミニズムとル=グウィンがどのように関わり、付き合ってきたのかも、もう少し知りたい。

 なお、最近やけに拘りの強い読み方をしていたな、と反省もしきり。そのうち、これまでのレビュ—を書き直すかも。

2025年3月20日木曜日

番外 論文「アーシュラ・K・ル=グウィン〈アースシー〉“第二の三部作”におけるジェンダー・ポリティクス」を読んだ

アーシュラ・K・ル=グウィン〈アースシー〉“第二の三部作”におけるジェンダー・ポリティクス———ポストフェミニズム、クィア理論、反グローバル資本主義
青木康平(一橋大学院) ジェンダー研究(発行:お茶の水女子大学ジェンダー研究所) 第22号 2019年 
https://www2.igs.ocha.ac.jp/en/wp-content/uploads/2019/09/09aoki.pdf
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ジェンダー研究
Journal of Gender Studies
発行:お茶の水女子大学ジェンダー研究所
ISSN:13450638
第21号(2018)~
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 以下の駄文は、研究者の研究成果に対する批判・批評を行うものではありません。(私は批評が可能なほど、勉強はしていない。)あくまで、感想程度のものであることを、最初にお断り(言い訳)しておきます。

 この論者は、岩波書店発行の清水真砂子氏訳『ゲド戦記』やその仕事がそもそも好きじゃないんだろうな。っていうか、もちろん翻訳を必要とされていないのだとは思うが。『ゲド戦記』というタイトルがどうなの、という話はちょくちょくあって、この論文でも触れられている。岩波書店で付けているタイトル『影との戦い』『こわれた腕輪』『さいはての島へ』『帰還』『アースシーの風』『ドラゴンフライ』という邦訳タイトルを、論文の中で頑なに拒否しているところからしても、好きじゃないんだろうな、と感じる。しかし、論文の各所で引用されている作品の訳出については、岩波書店版/清水真砂子氏翻訳の各作品を下敷きに用いているのではと思えるフシがある。論文末の参考文献リストに岩波書店版『ゲド戦記』を掲載していたなら、誠実に思えただろうな。(英訳版の論文であれば、不要であろうが。)

 まあ、通読した感想を述べるならば、私はこのような近視眼的で喧嘩っ早い『フェミニズム』は好きじゃないんだ、というのを再確認した。
 フェミニズムの流れは歴史の必然であるとしても、『フェミニズム』の文脈で歴史や文学を再定義しようとする姿勢が嫌いだ。
 論文全体としては、物語の記述を、恣意的に歪めて解釈していると思えるところが見受けられたように思う。
 
 たとえば、
 「なぜ、テハヌーは、第4巻の選択を翻したのか。最終巻のタイトルともなっている〈もう一つの風〉とは何か。果たして本当に、作者にその結末を書き直させるに至ったほど〈現在(NOW)は劇的に動いたのか———本稿はこれらの問いを明らかにすることを目的として書かれた。」
 この点について
 第4巻『帰還』(この論文では『テハヌー』)のラスト、古老の竜のカレシンから娘、と呼ばれたテハヌーとカレシンの会話は以下のとおりだ。
 「さあ、もう、行こう。」子どもがうながした。「ほかの風に乗って、ほかの人たちがいるところへ。」 
 「この者たちを残していくのか。」 
 「いいえ。」子どもは答えた。「というと、この人たちは来られないの?」
 「ああ、だめだ。この者たちが生きる場所はここなのだから。」
  「なら、あたしも残る。」

 カレシンは笑う。
 「まあ、いいだろう。そなたにはここでしなければならない仕事があるからな。」
 「わかってる。」
 「そのうち、またそなたを迎えにもどってくる。」

 それからカレシンは、ゲドとテナーに向かい
「わしの子どもをそなたたちにやるぞ。いずれ、そなたたちは自分の子どもをわしにくれるだろうからな。」と言った。 
 「時が来たら。」テナーは応えた。
 (引用 アーシュラ・K.ル=グウィン; 清水 真砂子. 帰還 ゲド戦記 (岩波少年文庫))

 論者は、「なぜ選択を翻したのか」、と問うが、実際には、テハヌーがいずれはカレシンの元に戻ることはこの第4巻の時点で予言されている。それに、まだ6歳か7歳の親を必要とする年頃の子供が親元にとどまる選択をすること、そして、15年後に二十歳を超えた成人女性が、親元を離れる選択をすること、それはどちらも必然であって、なんら周囲が喫驚するようなことではない。この物語の流れをもって、「作者に終末を書き直させる」と言うのは無理があるだろうと思う。

 また、テナーは、自らの意志で暗闇の巫女となることを望んだのではなかったように、そこから解放されることもまた、自ら望んだわけではなかったと論者は言うが、本当にそうだろうか。
 『こわれた腕輪』の中で、テナーは、たとえ限られた選択肢しかなかったとしても、その中から自分で運命を選択していたのではないだろうか。たとえば、ゲドを生かす選択をしたのはテナー自身だった。その最初の選択がその後の全ての行為に影響を与えた。ゲドもまた、テナーに選択を促しこそすれ、決定を強制はしなかった。テナーは自分で選択したと信じているだろうし、そこを否定されたら、たぶん怒るだろう。

 その上で、テナーについて、第4巻(『帰還』)のテナーは、男に頼らず働く自立した女性であり・・・と表現しているのだが。この「男に頼らず働く自立した女性」という表現にはかなりのフェミ臭がする。

 オジオンやゲドがテナーに提示したものは、大巫女ではないにしろ、別の孤高の存在になることであったのに対し、テナーが求めたのは3歳の時に失ったものを完全ではなくても回復させることだったのではないだろうか。それは暖かい炉辺であり、家族であり、耕す畑と平和な生活であったろう。
 テナーが求めたのは、正に家庭の象徴である炉辺と家族であり、それはオジオンが与えられるものではなかった。オジオンがいかに高尚で特別なものを彼女に与えようとしても、そこは断固拒否し、普通の農家の娘のように生活し、「嫁に行く」ことをテナーは選択した。その後の生活においても彼女にとっての回復を実践したテナーは、非常に意志の強い、自分の人生の選択を完遂し、その結果を甘受した女性である。しかしその選択は非常に封建的なものでもあった。それは、ポストフェミニズムとは関係なく、単にそれが、彼女の“失われたもの”だったからだろう。彼女の選択と人生を、フェミニズムの視点で語ることは困難だろうと思う。彼女の働き方は農村の労働力としてのそれであり、「自立し」て見えるのは単に夫が死んで独居になってるからで、寡婦として、いずれは息子に譲られる家を護るテナーを「男に頼らず働く自立した女性」と表現するのもナンカチガウ感が・・・

(ほかにもいくつか気になったけどメンドクサイから中略!結局のところ、この論者さんは『ゲド戦記』をきちんと読んでいないのよ。)

 一介の本読みとして思うことは、作品を透かして、ル=グウィン自身の思想を云々することも、作品を通して現代社会を論証することにも、自分は意義を見いだせないということだった。(もちろん、そういった作業に意義を見いだす人が沢山いることを否定するものではない。私の指向性の問題である。)

 ジェンダーの考察もクィア理論の考証もどんどん為されるが良い。時代・時間とともに変遷する現代の理想も、どんどん記述されるがいい。

 しかし、小説は小説。物語は物語。
 ファンタジーとは、読者の想像力と好奇心をよりどころに、それを揺り動かし、作者とともに未知の世界を探索し、空想を通してこそ到達できる真理を共有するために、作者が渾身の力と情熱を持って記述した、知の贈り物である。読者としてするべきことは、それをネタに著者を研究することではなく、空想の翼でアースシーの空を駆け、アーキペラゴの海を掻き分け進み、ゲドやテハヌー達と同じ大地を踏むことだと、改めて気付かされた次第だった。

 でも、この論文を読んで、好奇心を刺激されて、『ゲド戦記を“生き直す”』(雑誌 季刊へるめす 45号収録)を読みたくなったので、国立国会図書館に複写をお願いしました。
(追記:「ゲド戦記を“生き直す”」は2025年6月発行予定の『火明かり』(ゲド戦記別冊)に収録されます。)

2025年3月18日火曜日

0552 アースシーの風 ― ゲド戦記Ⅵ(初版時はⅤ)

少年文庫版
書 名 「アースシーの風」
原 題 「THE​ ​OTHER​ ​WIND」2001年
著 者 アーシュラ・K.ル=グウィン
翻訳者 清水 真砂子
出 版 岩波書店
 【岩波少年文庫版】
少年文庫版  384ページ 2009年3月発行
ISBN-10 9784001145939
ISBN-13  978-4001145939
読書メーター 
 【ハードカバー版(初版)】
単行本 349ページ 2003年3月発行
初 読 1993年
ISBN-10 4001155702
ISBN-13 978-4001155709

単行本初版
 出版当初は「最後の書」と銘打たれていた『帰還 ゲド戦記Ⅳ』刊行から10年後に出版された『アースシーの風 ゲド戦記Ⅴ』。このハードカバー版は、このコバルトブルーの表紙のと、黄色い表紙の(『アースシーの風 ゲド戦記Ⅵ』)の二種類が世に出ている。なんとなれば、この本の後に『ゲド戦記 外伝』が出版され、日本国内では、当初刊行順に5、6と番号が振られていたのだが、著者のル=グウィンが、正しい順番は、「外伝」、「アースシーの風」の順番だ!と仰ったかららしい。実際、著者の執筆順はそうだったのだが、『帰還』と直接つながるこの長編の刊行を先にしたのは日本の国内事情のようで、後書きに説明があった。
単行本改定版
 だから、外伝の方もインディゴブルーの表紙の『外伝』とややくすんだ暗いブルーの『ドラゴンフライ ゲド戦記外伝』の2パターンある。
 個人的には、著者に供された発行順でよいのでは?と当初は思っていた。実際自分が持っているのは国内で最初に出た順。後から実は順番がって言われてもな・・・。しかしそれは日本の事情なので、著者からしたら、ちがーう!ってことなのだろう。実際、『ドラゴンフライ』の冒頭の著者前書きを読むと、たしかに順番は、そちらが先なのが判る。そこにこだわりたい気持ちもわかる。ル=グウィンのような意志的な作家の著作を、著者の書いた順番順に発行しない日本の出版事情もなんだかな、と思わないでもない。

 なお、日本語版のタイトルは「アースシーの風」となっているけど、作中で再三使っている、「もうひとつの風」の方が良かったな、と思う。だって、原題が表す風は、西の果てのそのまた西の別の世界の風であって、あきらかにアースシーの風ではない。
 まあ、それはさておき。

 『帰還』からさらに15年後。冒頭、ゲドは70代との記述があるが、だいたい60代半ばくらいじゃないかな? まあ、70代というのは、他人からみたところ、の話なので、単に農夫として暮らしてきたゲドがすっかり老けている、ということなのだろうと勝手に理解する。
ソフトカバー版

 この本は、ゲド戦記3『さいはての島へ』のレビューで私が書いた違和感や未成熟感についての「答え合わせ」になっている。だがしかし。ちょっとモヤる。

 この本単体としては、とても完成度が高いと思うのだ。だけど、著者も認めるように、始めからこのアースシーの世界観の全容を著者が掴んでいたわけではない。「アースシー」の物語は、始めは前3部作で完結していた。
 その後20年近くたって、『帰還』を書いたときにも、作者自身が『最後の書」と銘打つくらいには、これで物語が完結した、と思っていた。そして、10年後の本書である。

 多分、3部作を読んだあと何年かおいて『帰還』を読み、その10年後くらいに、前作の細かいところは忘れたころに、この『アースシーの風』を読んだならば、あまり細部に引っかからずに素直に感動したんじゃないかと思う。だが、残念なことに、『影との戦い』から一気読みしてしまったんだよ。
 思うに、10代の子供向けであれば、十分に納得感のあった当初の3部作であっても、読者も成熟し、著者自身の思索も深まるにしたがって、いろいろと足りないところ、未熟なところを補完する必要に迫られたのだろう。物語世界そのものが成長したのだ。その辺りは『ドラゴンフライ』の前書きなどでも触れられている。

 だが、それでは、ゲドが全存在を賭けて成し遂げたことはなんだったのか、ということになってしまうじゃないか。いっそのこと、最初から書き直しても良かったんじゃないか?と思ってしまう。それくらい、この『アースシーの風』は、解説的な記述が多かったし、つじつま合わせ感も強いと感じた。

 このアースシーでは、地球は丸いと認識されていて、西に西にずんずん進めば、やがて東の端に出会ってしまう。しかし竜たちが目指す「西の果てのそのまた西」の世界は、地上にあるのではなく、いわば西方浄土的な、聖霊や霊魂の世界である。人間と竜が世界を二つに分けたとき、つまりは人間が地上の富を支配することを選び、竜は精霊の世界を翔ぶことを選んだわけだ。
 だけど、人の肉体が死んで霊魂が向かう世界は、この竜たちの西の果てとつながっている。本来はそこで、一人ひとりの魂は大きな地球の生命の中に還り、また次の生に転生するはずだったのだが、死んでも魂を手放したくない人間の欲が、霊魂の道を絶って、壁でこちら側に仕切ってしまった。そのために、人間の霊魂だけが、生の世界のすぐ隣にずっととどまり続けることになって、人間が死後に向かう世界は、まさに動きが死に絶えた、恐るべき暗黒の世界になってしまった。その世界に閉じ込められ、輪廻転生の輪に戻れない死した人々の嘆きが、ついにその壁を壊させるに至った。というのが大筋。

 それはそれで良いと思う。だがしかし。

 それでは、クモはいったいどこに穴を開けたのか。
 持てる力の全てを使い尽くしてゲドが塞いだ穴はいったいなんだったのか。
 ゲドが死力を尽くして守ったものはなんだったのか。
 
 この物語のなかで、ゲドの立場も上手に取り繕ってはいるが、全体としては、「後足で砂をかける」って感じがものすごくする。
 ル=グウィンは、どんどん付け足しで物語世界を改変しないで、いっそのこと初めから書き直せばよかったのだ。もしくは、別の新たな物語を書けば良かったのだ。

 ついでながら、『影との戦い』から繰り返して出てくる死者の国との境目の石垣。その石垣を崩すシーンで、デジャブを感じる。そう、あれだ、ベルリンの壁の崩壊。1989年。
 そういう視点を持ってしまうと、物語全体が、現代史の引き写しなんじゃないかという気がする。西と東の対立というモチーフ。その間に築かれた石壁。西を選んだ民(竜)は、束縛を離れ自由を得たが、東を選んだ民(人間)は、手の技とそれが生み出す富を所有する権利を獲得したが太古の知恵は失った。そしてその東(アースシー)の人間はさらに、アーキペラゴの人々と、カルガド帝国の人々に分裂している。
 これは、東側と西側の対立、そして西欧(キリスト教)文明とイスラム文明の対立そのままではないか。(西と東は逆だし、アーキペラゴが有色人種の世界で、カルガドが白人世界なのも、現実世界とは逆ではあるけれど。)

 「そして人間は東へ、竜は西へと移動したのですが、このとき人間は天地創造のことばを手放し、かわりに、あらゆる手の技と、それが生みだすものを所有する権利を獲得しました。竜はそうしたものはすべて失いましたが、そのかわり太古のことばは失わずにいたというわけです。」

 では、壁が崩れたあとはどうなるのだろう。人間の地は人の欲(資本主義)に席巻され、天地創造の言葉(共産主義)は地を離れて、理念の世界に生き延びるのだろうか。

2025年3月10日月曜日

0551 帰還 ゲド戦記 Ⅳ(ゲド戦記 最後の書!?)

少年文庫版
書 名 「帰還」
原 題 「TEHANU」1990年
著 者 アーシュラ・K.ル=グウィン
翻訳者 清水 真砂子
出 版 岩波書店
 【岩波少年文庫版】
少年文庫版  400ページ 2009年2月発行
ISBN-10 400114591X
ISBN-13 978-4001145915
読書メーター 
 【ハードカバー版(初版)】
単行本 344ページ 1993年3月発行
初 読 1993年
ISBN-10 400115529X
ISBN-13 978-4001155297
単行本初版
 完結していたはずのゲド戦記3部作から時が経つこと、18年。1990年に刊行され、1993年に翻訳出版されたのがこの本。赤い表紙のハードカバー。表紙絵は、切り絵風から油彩風になって、中年になったテナーと、焚き火で焼かれた少女テルー、そして背景には巨大な竜が描かれている。奥の暗闇に輝くのは明星テハヌー。実は、背景が竜の頭だと、今回まじまじと見て初めて気がついた(マヌケ)。そして、表紙には「ゲド戦記Ⅳ」ではなくこう書かれていたのだ。「ゲド戦記 最後の書」と。これは、ル=グウィンが、原著にもそう記したもの。本当に彼女はこれで「最後」だと思ったのだ。そう、執筆した当初は。

 『こわれた腕輪』の物語の直後の25年前、突然、ゲドが17歳の女の子をル・アルビに連れてきて、オジオンに託していった。このオジオンの一番弟子ときたら、師匠を信頼しているが故とはいえ、けっこうあんまりだと思うよ。オジオンは困っただろう(笑)。
ソフトカバー版
 とはいえ、オジオンはテナーを養女としてかわいがり、一生懸命育てたようだ。ゲドを育てた時よりはだいぶ甘々だったのでは?
 なにしろ、世捨て人の賢者と少女の組み合わせだ。それだけでラノベなら何冊も物語が書けそうだ。
 しかし結局、テナーはなにか特別な力のある孤高の存在になりたいとは願わず、普通の世間並みの女として世のでやっていくことを望んだ。やがて、オジオンの家を出て村に暮らし、富農の男と結婚。良い女房、良い母親、良い後家、身持ちの良い女として生きてきた。

 これが、ゲドの冒険の裏側、ゴント島の一隅で起こっていたこと。
 そして、『さいはての島へ』で竜のカレシンの背に乗ってロークを去ったゲドは、ゴント島のオジオンの元に還ってきた。全ての力を失った、傷つき、疲れはて、死にかけたただの男として。
 その数日前に、すでに高齢で死期を迎えていたオジオンは旅立っていた。これは単なる妄想だけど、オジオンは遠く離れたゴントから密かに死の世界で戦うゲドに、残った命の全てをかけて力を与えたのではないか。なんてね。

 この物語はそこから。「帰還」してのちの話だ。
 フェミニズム的な視野なんだろうな、とは思うのだけど、女性の扱われかたとか、ゴハの内心の葛藤とかは読んでいるこちらも、それなりにイライラした。
 また、王たるレバンネンに同行してゴントにやって来た風の長が、身に染みついた「女は取るに足らない」という考えが、無意識のうちに言動ににじみ出ているのも腹立たしい(笑)。
 
 しかし、壮大な空中戦みたいだった前作までと違って、ついに地に足が付いた感じの今作。テナーとゲドが夫婦になり、オジオンの家にこれから住まう。やっと落ち着くべきところに落ち着いた二人。

 ゲドが全ての特別な力を失った無力な男として、喪失に向き合い、再生すること。
 テナーが、一度は望んで受け入れた「女」という理不尽で不自由な在り方に向き合い、ゴハという社会的な女から、テナーという個人に再生すること。
 暴力と性的な虐待を受け、肉体的に大きく損なわれた少女が、内なる本来の全き姿を取り戻すこと。三者それぞれの喪失と再生の物語だ。全体の生と死という極めて抽象的な物語から、個人の物語への回帰でもあったと思う。
 もっと、深い読み方もできるんだろうけど、ひとまずはここまで。次巻からは、本当の初読なので楽しみ。

2025年3月5日水曜日

0550 さいはての島へ ゲド戦記 3

少年文庫版
書 名 「さいはての島へ ゲド戦記 3」
原 題 「The Farthest Shore」1972年
著 者 アーシュラ・K.ル=グウィン
翻訳者 清水 真砂子
出 版 岩波書店
 【岩波少年文庫版】
少年文庫版  368ページ 2009年2月発行
ISBN-10 4001145901
ISBN-13 978-4001145908
読書メーター https://bookmeter.com/reviews/126459454
 【ハードカバー版(初版)】
単行本 319ページ 1977年8月発行
初 読 1982年〜83年頃?
ISBN-10 4001106868

ISBN-13 978-4001106862
単行本初版
 エレス・アクベの二つに割れた腕輪が一つになって、ハブナーに還ってきてから、17、8年。ゲドは5年前に大賢人に選ばれて、いまはロークに腰を落ち着けていた。
 作中のゲドの口調がすっかり、大賢人というよりはむしろハイジのおじいさん調なのでイメージが混乱するが、この時点でゲドは立派な中年もしくは壮年。『こわれた腕輪』では若者よばわりだったので、今は40代半ばだろうか。なにしろ、次の『帰還』では遅すぎた春もくるのだし・・・(っと、それはさておき。)

【ほぼ初読】
 私はこの本は多分、三十年ぶりくらいの再読で、初読の印象はほぼ、ゲドが若者アレンと最果てにいって、力尽きて戻ってきたんだよな、程度の記憶しか残っていなかった。なので、ほぼ初読と同じ感じで楽しめた。

ジブリアニメ化の際に
再販されたバージョン
【ジブリ『ゲド戦記』】

 スタジオジブリ宮崎吾郎監督の『ゲド戦記』(2006年)の原作となったことでこの本を知った人も多いだろうし、それよりずっと以前からこのシリーズを大切にしていた人達も多かったと思う。私も後者ではあるが、ジブリアニメ化の際には盛大に期待を膨らませて公開を待ち、なにか変なものでも喰った気分で映画館を後にした一人でもある。あの『ゲド戦記』は惨憺たる評判だったと記憶している。棒読みとか酷評されていた気もするが、私はテルー役の手島葵さんの声は好きで、映画の役柄にも合っていたと思っている。ちょっと掠れた感じの唄声も好みで、その後、CDを購入したりもした。総じて、歌と音楽は良かった。それに、今改めてこうして原作となったこの本を読んでみると、それなりに原作に忠実にやろうとしていたのだな、とは感じた。この原作であの父親と比較されるんでは、吾郎ちゃんも分が悪いよな、とは当時も思った。原作者のル=グウィンは宮崎駿による映画化を希望していた、なんて情報も、吾朗ちゃんには良い方に働かなかったに違いない。ただ、抽象度の高い死の世界を正面から描かず、あくまでも現実世界の騒乱として描いたことや、テルーの顔の火傷をきちんと取り扱わなかったことはダメだと思った。いきなりのアレンの父王殺しも物語として破綻していたと思う。(作品を超えたメッセージ性は大いにあったけど。)
 なお、右のソフトカバー版の素敵な表紙のバージョンは、映画化に併せて再販されたもの。私はこの装丁のセンスは好きだ。

【そして、物語の感想】
 で、本の物語の方に戻るが、エレス・アクベの腕輪が戻り、アーキペラゴ(多島海)には平和が訪れ、ロークの賢者たちも、ゆるゆるとした時の流れに身を委ねていた。ところが、エンラッドの若き王子アレンが、ロークの賢人団に凶報をもたらす。世界の各地で、魔法が失われている。ゲドはいったんは取り戻せたと思った世界の安定と平和が失われつつあることを察知し、世界の均衡を取り戻すために、アレンを供に〈はてみ丸〉で船出する。これが冒頭。

①アレンがちょっと辛い
 ゲドとアレンはあの島、この島と航海を重ねていく。その旅は行き当たりばったりだし、正直に白状すれば、感情が移ろいやすく、フラフラしている若造なアレンにはかなりイライラした。やっぱり王子様には賢くあってほしいし、真っ当に頑張って欲しいんだよな、とは、最近ラノベの読みすぎか。いやたぶん、アレンはちゃんと頑張っていた。たぶん年相応以上には。華がなかっただけだ。

②死の世界のイメージが
 これまでのゲド戦記全体が生と死の連環を取り扱っており、この「さいはての島へ」では生の何たるかや死の不可避性が大きなテーマになっている。しかし、こうして今読み返してみると、ここで語られる「生」も「死」も非常に観念的で、イメージが硬直化している。とくに「死」や「死者の国」の描かれ方が絶望的に暗く、なんの救いもないのに驚く。そりゃあ、死後の世界があんなんでは、だれも死にたくなくなるだろう。いったい、この死のイメージはどこから来ているのだろう。ル=グウィンは、死というものに何を思っていたのだろう?
 この作品の中では、誰もが「永遠の生」を求め、不死性を獲得することで「死の恐怖」からのがれようとし、その結果、人々は大切な「生」の意味そのものを失っていくのだが、作品に通底する、生と死を包含する世界観が非常に断片的で、しかも救いがない。死者の国は狭く、奥行きがない。死んだ人がすべてそこに行き着く世界であるなら、どれだけ観念的であったとしても、すくなくとも現世以上の奥行きが必要なのではないのか?と思うのだ。輪廻転生のイメージが、きちんとル=グウィンの中で成熟していないような気がする。

③人はそんなに死にたくないものだろうか
「永遠に生きたいと願わないものがどこにいる?」
 とクモは問うのだが、しかし人は本当に、「永遠に生きたい」とあのように一様に願うものなのだろうか。
 永遠の生に対する渇望や死に対する恐れ、といった、この本の中で登場人物が共通して抱く想念に、いまいちリアリティが感じられない。(ファンタジーにリアリティは必要なのか?とかはひとまず置いておく。)
 「死にたくない」という願望が、貴賤を問わず、魔法使いから市井まで、人々に通底する世界に共通する欲望として描かれているが、あまりにも単純化されていて納得がいかない。市井の無学な人々はともかく、知識を極めたはずのロークの賢人団があれでいいのか?
 死に対する恐怖の克服とは、文字どおり「死」を恐怖の対象としないことであり、「死」をなくすことではないんじゃないかと思うのだ。なぜなら、「死」がなくなったなら、恐怖の対象が目の前にないから恐れずに済むだけで、本当は「死」が恐ろしいままであるから。

 この話の中で、賢者といわれるような人々までが、「永遠に生きること」に取りつかれたようになることへの違和感がぬぐえないし、ましてや、「悪役」クモの動機の浅さは噴飯もので、これで世界が壊れるのでは、あまりにも世界そのものが脆弱ではないか、と思えてしまう。

 たとえば現代医療においては、病気ではない「老衰死」が人間の生の最終到達地点になるだろうし、移植医療は「理不尽な死」を克服しようとする取り組みであって、「死」そのものをなくすためのものではないだろう。「死」において、人が耐え難いと思うのは、「理不尽さ」であって万人に等しく訪れる公平な「死」じゃないんではないだろうか? そしてその先にはさらに、「死の理不尽さも受け入れる」という境地もありそうな気がするが。

④この世界は一神教
 また、自分が日本人であるからか、作品に通底する一神教的な視点に対する違和感もあった。
 クモが放つ、
「だが、おれは人間だ。自然よりもすぐれ、自然を支配する人間だ。」という言葉は、いかにも西洋的である。

 死の国においても、「苦しみの山脈」に通った一本道を通ることは死者には「禁じられている」という。つまり、死者の国も、生者の国も超越して、命じることのできる絶対者がいることが前提なのだ。命じているのは誰なのか。

⑤西洋的なものと土着的なもの、その間で定まらない著者?
 このような作品の世界観は、私の(そして多分、多くの日本人の)世界観とは違っている。アーキペラゴの人々はネイティブアメリカンがモデルのようで、白人はカルガド帝国など一部にしかおらず、戦闘的で侵略的な人々として描かれている。しかし、非白人の精神性がきちんと描かれているかというと、そこまでは出来ておらず、たとえば、死後の世界とか輪廻転生的な東洋の発想を取り入れようとする一方で、強烈な一神教的、父権的な価値観から逃れきれていない息苦しさを感じる、というのはうがちすぎか。

【まとめ】
 私がゲド戦記の世界観に感じる硬直感について思うことは、この本はハイ・ファンタジーであるとともに、ある種の思想書、しかもまだ成熟していない思想書だということ。この本についての考察を進めるのであれば、ゲド戦記やル=グウィンの思想を考察した評論なんかも読んでみたほうが良いと思うし、たぶんもっと調べていけば、ここまで書いた感想も、また違ったものになってくるだろうとは思うのだが、そこまで突き詰めるだけの意欲と集中した時間は今はもてないかな。

 しかし、そうはいっても、この本が若年の私に影響を与えた大切な本であることには変わりはない。むしろ、若いころにはこんなことをぐだぐだと考えずに、ゲドとアレンの冒険にのめり込めたと思うので、やっぱり本には読み時というものがあるし、この本はジュブナイル小説なんだろうな、と思う次第。

 やっぱり、これを読んだ十代そこそこの自分に感想を聞いてみたいものだ。

2025年2月20日木曜日

0541 こわれた腕環 ゲド戦記 2

書 名 「こわれた腕輪 ゲド戦記2」
原 題 「The Tombs of Atuan」1970年
著 者 アーシュラ・K.ル=グウィン
翻訳者 清水 真砂子
出 版 岩波書店
 【岩波少年文庫版】
少年文庫版 272ページ 2009年1月発行
再 読 2025年2月20日
ISBN-10 4001145898
ISBN-13 978-4001145892
読書メーター    
 【ハードカバー版(初版)】
単行本 227ページ 1976年12月発行
初 読 1982年〜83年頃?
ISBN-10 400110685X
ISBN-13 978-4001106855
 『影との戦い』から何年か後、5年か10年・・・は過ぎていないくらい。読んでいるとゲドの印象がすっかりおじさんなんだけど、どこか一箇所だけ、「若者」と形容されている。
 一巻でゲドが影を追っていたときに偶然手にした腕輪の半欠けは、世界に平和をもたらす『エレス・アクベ』の腕輪だった。腕輪が割れたときに、平和や統一を表す神聖文字も二つに割れ、それ以来世界は小国が分立し、対立と戦争が絶えない世になっていたのだ。ゲドは腕輪の半分を手に入れて壊れた腕輪を全き姿に戻すことで、世界に平和をもたらそうとしていた。

・・・・そんなゲドが登場するのは、物語も半ばに差し掛かってから。
 この物語は、カルガド帝国のアチュアンにある、暗黒神の墓所に仕える一人の少女の生い立ちから語りはじめられる。墓所の大巫女の生まれ変わりとして5歳で神殿に捧げられ、以来神殿の中で養育され、太古の神に仕えていた少女は、神殿の地下に広がる大迷宮の中でゲドと出会い、ゲドを生かす選択をしたことで、自分も人としての人生を取り戻す。大巫女アルハがゲドによって「テナー」という名前を取り戻し、いかめしい巫女から、だんだん柔らかい少女の心に戻っていく過程が、みずみずしく描かれている。 
 ゲドとテナーが地下迷宮から脱したことで、迷宮と暗黒神殿は崩落し、二人は、平和の腕輪を持ってハブナーに帰還する。

 この後のテナーの人生については、ゲド戦記三部作の後、十数年をおいて刊行された第四部『帰還』を待たなければならない。
 彼女に、「そして彼女は幸せに暮らしました。」的な素敵で幸せな人生が用意されていたわけではなく、やはり、自分の人生を自分の意志に従って切り開かねばならず、そしてその選択の結果も必ずしも順風満帆とはいかず、だからこそ、自分の意志で選択し、納得して歩んでいかなければならないのだ、と教えられるだろう。

 人が歩んでいく人生とはそういうものなのだ、真理ではあるが、つらいものである。喜びと苦しみと半々、いやむしろ、苦しみの方が多い。だが、日々の生活の中にささやかな光や希望があり、小さな喜びがある。テナーが自分で選んだのはそういう道なのだろう。その『帰還』を読むまえに、まずは『さいはての島へ』を読まねばならん。

 ———自由は、それを担おうとする者にとって、実に重い荷物である。勝手のわからない大きな荷物である。それは、決して気楽なものではない。自由は与えられるものではなくて、選択すべきものであり、しかもその選択は、かならずしも容易なものではないのだ。————

 この本に「自由」と言う言葉が出て来て、前に読んだ『レーエンデ物語』では「自由」というものが語られたときに強い違和感を感じたのを思い出した。
 この本『こわれた腕輪』では自由と言う言葉にさほど違和感はなく、違いは何だろう、と考えた。おそらくこちらの本には、「自由」という言葉を支えるこの世界なりの価値観や倫理観があり、この本の世界の中で意味が完結しているのに対し、『レーエンデ』の方には、現実の近代的な「自由」という概念が持ちこまれてしまっている、つまりハイファンタジーとしては未完成であるからだろうか。

2025年2月16日日曜日

0540 影との戦い ゲド戦記1

少年文庫版
書 名 「影との戦い ゲド戦記1」
原 題 「A Wizard of Earthsea」1968年
著 者 アーシュラ・K.ル=グウィン
翻訳者 清水 真砂子
出 版 岩波書店
 【岩波少年文庫版】
少年文庫版 320ページ 2009年1月発行
再 読 2025年2月16日
ISBN-10 400114588X
ISBN-13 978-4001145885
読書メーター 
https://bookmeter.com/reviews/126083295   
 【ハードカバー版(初版)】
単行本 278ページ 1976年9月発行
初 読 1982年〜83年頃?
ISBN-10 4001106841
ISBN-13 978-4001106848
ハードカバー 初版

 ここしばらく、乾石智子氏の《オーリエラント》のシリーズを読み込んできたので、ちょっと小休止して、原点回帰。
 
 初読は小学生の頃。それ以前にミヒャエルエンデの『果てしない物語』や『モモ』なども読んでいた気がするが、しかし『はてしない物語』の国内初版って1982年だった?なんだか微妙に記憶と合わない気がしてきた。

 まあ、そんなことはともかくとして、とにかくハイ=ファンタジーと呼ばれているジャンルの本を読んだ、最初の一冊だったのだ。それ以来、自分の中でのファンタジーの基準軸になっている作品である。これまでに何回も再読しているけど、ここ20年位は通しでは読んでいないし、シリーズ外伝や『アースシーの風』はまったく読んでいなかったので、改めて手にとる次第。

ジブリアニメ化に併せて
再販されたソフトカバー版
 なお、子供の頃は、ル=グウィンを児童文学作家だと思い込んでいた。むしろ『闇の左手』など大人向け(?)のSFなども書いている作家なんだと、かなり遅くに知った時には大いに驚いた。
 だいたい、日本で『児童文学」として紹介されている海外小説って、実際のところ児童向けに書かれたのかは非常にアヤシイと気付いたのも、大人になってから。
 この『ゲド戦記』は清水真砂子さんの翻訳であまりにも定着しているけど、もう少し大人向けに翻訳されたらどんな本になるのかな、と興味があったりもする。ってか、そういう翻訳があったらぜひ読んで見たい。いや、この本だって十分大人が読むに耐える翻訳だけど、ちょっと台詞回しだけはもうすこし大人っぽくてもいいかな、と思ったりはする。それはむしろ、子供向け、というよりは出版された年代的なものかも?

 ゲドと師匠のオジオンとの関係がすごく好きだ。
 今回再読して、ゲドのイチイの木の杖はオジオンが手作りしたものだったのか、と改めて知る。
 影についての考察は、すでにいろいろな識者がされているので、私がアレコレいうのもなんだけど、形而上ではあるものの、本来は個人と強固に結びついていなければならないはずの無意識下の意識が、個人から切り離されて世間を彷徨うようになってしまったら、あのような存在になるのだろうか。そしてそれは、神や聖霊のように光り輝く高次のものではなくて、やはり暗黒に近い存在なのだろうか。

 人の生は死によって完成する。むしろ、人の生は、長い長い死の瞬間なのかもしれない。その死を恐怖の対象とし、生を否定するものとしてとらえることは、人の生そのものを否定することに他ならない。そのような生は、どうしてもいびつになってしまうだろう。

 影から逃げるのを止めて影に向き合いはじめたとき、影にも変化が現れて、形のない黒いもやもやだったものが、ゲドの姿を取り始める。向き合うことで、だんだん恐怖の対象だったものが理解の対象になってくることの現れだろうか。

 影と向き合おうとしているゲドは19歳。その若さに慄く。18歳や19歳というのは、現実社会においても、まだ世間を知らず、己を知らず、未熟な上に未熟なのにもかかわらず、一人で世間に出ていかなければならない年頃であり、その運次第で、良きものにも悪いものにも出会う年齢なのだ。
 自分がこの本を最初に読んだの10代初めに、自分が何をこの本から受け止めたのかは、もはや記憶の彼方だけれど、この本がその時から生涯の愛読書になったことは事実だ。

「生を全うするためにのみ己の生を生き、破滅や苦しみ、憎しみや暗黒なるものに、もはやその生を差し出すことはないだろう。」

 でも、初読の時も今回も、一番好きなシーンは、エスタリオルとゲドの再会のシーンと、
 そして、エスタリオルの妹、ノコギリソウと彼女の小さな竜と、竈でパンを焼きながらの語らいのシーン。
 ハレキ(竜)がパンを一個盗み、ゲドもかまどから熱々のパンをつまみ食い。それにノコギリソウもご相伴。

「ーーーさてと、じゃあ、わたしも兄の分を一つ減らしておきましょうかね。兄もひもじさにおつきあいできるように。」「均衡とは、こうして保たれるんだな。」