著 者 乾石智子
出 版 東京創元社 文庫版2015年8月
文 庫 300ページ
初 読 2025年1月29日
ISBN-10 4488525040
ISBN-13 978-4488525040
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このたびも、冒頭からぼやきが止まらない弊機です。メンサーを(グレイクリス社から)守る、ということを至上命題とし、防御にかけては隙だらけのプリザベーション連合の治安システムと警備当局に終始イライラいらいら(笑)。俺は妹に日に数度は合っている。オクスフォード・ロードには若い女性がひしめいている。妹と同じ巻き毛と真剣な表情をした娘もいる。二十年以上前、妹のアニーが浮かべていたのと同じ真剣そのものの顔。あのなかの一人が妹だったとしてもおかしくない。だから俺は、彼女たち一人ひとりを愛おしく思う。おしゃれに装っていれば、俺も背筋が伸びる。大事な仕事に向かうところなら、誇らしくなる。幸せそうな様子をしていれば、恋人と並んで街を歩いていれば、うれしくなる。(中略)これまで生きてくるあいだに俺は少なからぬものを失ったが、妹と離ればなれで生きてきたがために、それだけのものを手に入れた。行きずりの人を見て一日に二十回も笑みをうかべる人生。
これが、エイダンという人間だ。
もうひとり、嫌われ者のサティも、だたのイヤな奴ではない。 むろんイヤな奴には違いないのだが、破滅型で回りにとばっちりをまき散らしかねないエイダンをあえて引き受けているような、複雑な奥の深さがある。
幸せでなくても、報われることがなくても、自分が死んだりましてや殺されたりする理由にはならないし、死なない以上、どんなにそれが困難でも生きていかなければならない。あまりにも薄幸だが、内面に火花のような生命力を秘めたエイダンの存在そのものが、この物語である。
翻訳がめちゃくちゃ良い。翻訳者は加賀山卓朗氏。ジョン・ル・カレ、デニス・ルヘイン、クロフツ、グレアム・グリーン、ロバート・B・パーカー、その他を訳出されている方だ。私の積読1000冊(すみません。反省してます。)のなかにずいぶんありそう。これは読まねば。
ジェントリーは負傷し、体の具合が悪く、温め直した死人のようだった。
父の顔に葛藤がよぎる。でも、それは一瞬で消えた。父が立ち上がって胸を張り、咳払いした。「わたしが彼の弁護士です、ヒューズ刑事。ジェローム・ホールと申します。以後お見知りおきを」
「だいじょうぶじゃない。だいじょうぶだったことなんてない」
「きみにはわからない。この国で黒人であるというのがどういうことか、きみにはわからない。だから決して理解できないだろう」「そのとおりです。僕は黒人であるというのがどういうことかわからない。これからも決してわかることはない。でも、人はみんな違うんじゃないですか? そりゃ、共通の体験はたしかにあるだろうけど、でも世の中の見え方はひとりひとり違う。少なくともちょっと違う。誰もが自分なりのフィルターを通して世界を見ている。あなたは黒人としての体験がある。ぼくには決してわからないようなことをたくさん経験しているんでしょうけど、それでも全員の体験を知ることはできないでしょ。だって、もし人がみんな同じだと考えるなら、ぼくたちの体験が取りかえのきくものだと考えるなら、それは……ほとんどビリーの考え方だから。ぼくたちはそれぞれが個人です。人は本物で、人は大事です。ぼくたちひとりひとりが大事なんです。共通する部分以上に、それぞれ違う部分が」
「私はずっと、どうすればそれができるのか考えてきた」「どうすれば我々が集団として、社会として、本当の平等を勝ち取れるのかと。どうすれば過去の罪を償わせることができるのかと」
「多分……許すか、忘れるか」
「きみに言いたいのは、かわいそうにということだ。本当にかわいそうにな、ジャスパー」
で、「大先輩の高橋泰邦さんは、「文芸翻訳は、ひも付きの創作である」と言っておられる。これはつまり、純然たる創作ではもちろんないけれど、一方に技術翻訳とか実務翻訳とあいったものを対置してみると、われわれのやっている作業は、どうやら技術でも実務でもない、なにか隠微な、姑息な、いかがわしい要素を含むものらしいということの、韜晦を交えた表現ですね」p.64 と、東江さんがいう。
さて、このいわずとしれた大翻訳家の高橋泰邦さん、この方、その方面では有名なとある「事件」をやらかしている。ボライソーシリーズ24巻、主人公ボライソー提督が戦死するシーンで、延々何ページにも渡って創作加筆してしまった。20冊以上分厚い本を訳出してきて、主人公への思い入れもひとしおだったに違いない。原著者が実にあっさり、数行で彼を死なせてしまったので、納得がいかなかったのだろうか。翻訳者は創作者でもある、という自負が暴走したのか。
私は、といえば、まだこのシリーズ積読中なので、事細かに論評する資格はない。なぜにこの件を知っているかといえば、先達のブログやネット掲示板などで豊富に情報を拾えるから。
すでに絶版になっているため、Amazonマケプレでこのシリーズを入手した際、版までは確認できず、正直なところ、加筆部分削除修正済みの第2版以降が入手できたならば、このことは知らなかったことにしよう、と思っていたのだ。だがしかし、たまたま手元に届いたのが、加筆部分がばっちり載った初版であった。そこで、第2版以降を探して入手する必要に迫られ、その結果として新旧版を左右見比べる環境が出来上がってしまった。(ある意味、残念。)
やはり、一読者としては、誰かの二次創作ではなく、出来も不出来も原著に忠実な物語世界に遊びたい、と思う。
原著の宇宙にいると思っていたのに、いつの間にか二次創作のパラレルワールドに拉致されていた、というのは、やはり読者への裏切りだろう。読者だって延々24冊、主人公と付き合ってきたのだ。果たして今まで、自分は何を読まされてきたのだろう?と疑惑も頭を擡げただろう。これも騒ぎのもとは、翻訳を読んでいて文体に違和感が募り、原著と読み比べた人が出てきたから。
さて、そんなことを思い出しつつ、東江さんのエッセイにもどると、こんなことを言っている。
“芸人は「正しいけれど野暮」より、断然「まちがっていても粋」の方を取ってほしい”という中野翠さんの『ひょんな人びと』(文春文庫)からの一文を引きつつ、
「そう、そのとおりだと思いますね。強く、強く思う。で、そういう視線で文芸翻訳ってものを眺めたとき、われわれはやっぱり芸人じゃないという気がするんです。
原著者は、そりゃ、“まちがっても粋”の路線でだいじょうぶだろうけど、翻訳者のほうは、野暮でもなんでも、とにかく正しく訳さなくちゃ、商売になんないんだもの。
というより、原著者の“まちがっても”の部分を、そのとおりのまちがいかたで正しく写し取るという、野暮の骨頂みたいなことをわれわれは嬉々として、じゃなくても口元に微苦笑をうかべつつ、日常的にやっているわけです。」p.65
そう!そうなのよ、それでこそ名翻訳者!と、私が膝を打つそばからこんなことも書いてる。
翻訳家どうしは仲が良い。ぶつかり合わない、冷めている、引いている、抑えている。で、ひたすら和やか、なんだそうな。
「要するに、同業者が敵じゃないんでしょう。むしろ、原著者、編集者、書評家、読者などの外部の諸団体に対して、結束しているような感がある。・・・・・」p.66
翻訳業界の微温湯的同族感。
そうかあ、それじゃあ、お前あんなくそな翻訳世に出すんじゃねーよ!翻訳者の名折れだろうーが。業界全体がめーわくすんだよ!みたいな喧嘩は期待できないのだな。まあ、それが当然だよねえ。小さな業界なんだもの。それに私だって、それじゃ職場のウマが合わない同僚と、口角泡飛ばして喧嘩できるかっていわれたら出来ないもの。
そういえば、この本を読みつつあちこちネット上をうろうろしていて、一般社団法人日本翻訳協会という団体さんを見つけました。ここの団体の倫理綱領がちょっと面白かった。
→翻訳者の倫理綱領 4の同業者との関係、とか・・・・・・とっても微温湯的。個人的ににやにやしたのは、「汚い手段」とか「悪しざま」とかの言葉の使い方、文芸翻訳家っぽくて面白い。あと、4(2)の条文だけ、主語の書き方が違うのはなぜだ。
さて、私が、なぜにこんなに誤訳本に粘着しているのかと問われれば、人間の性で、そこでその時「何が起こったのか」を理解したいのだな。なんで、あんな翻訳がされて、編集のチェックも受けずに(いや、受けたのか?まさか?)、印刷されて、世に出てしまったのか。 自分で納得して、さもありなん、と思えないと気持ちが悪いのだ、きっと。でもこれもある意味傲慢な感覚ではある。理解できないものを批判する、という行為は、いじめ、とか、蔑視、とか、排斥、とか、暴力、とか、民族差別、とか、宗教差別、とか、ジェノサイド、につながる階段の最初の一段目かもしれんぞ。
と、風呂敷が収集つかないレベルまで大きくなったところで、我に返って最初に戻って修正。
つまり、
・不良品を、他人に売りつけてはなりません。
・自分の仕事は、誠実に行うべきです。
・なぜなら、あなたの仕事を待っている人がいるからです。
ほっ。小学生の道徳レベルまで引き戻せた。ダメなものはダメなのです。
それにしても、微温湯のなかをふわふわと漂うような文章ながら、羽毛枕に鈍器を仕込んだようなやわらかさで某氏のことを批判していると読めるのは、気のせいじゃないよねえ? でも、ここで気付いた。某ライソーシリーズ24巻目よりも、このエッセイの方が先に世に出ている。やっぱり私の気のせいだろうか。。。。