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2025年3月5日水曜日

0550 さいはての島へ ゲド戦記 3

少年文庫版
書 名 「さいはての島へ ゲド戦記 3」
原 題 「The Farthest Shore」1972年
著 者 アーシュラ・K.ル=グウィン
翻訳者 清水 真砂子
出 版 岩波書店
 【岩波少年文庫版】
少年文庫版  368ページ 2009年2月発行
ISBN-10 4001145901
ISBN-13 978-4001145908
読書メーター https://bookmeter.com/reviews/126459454
 【ハードカバー版(初版)】
単行本 319ページ 1977年8月発行
初 読 1982年〜83年頃?
ISBN-10 4001106868

ISBN-13 978-4001106862
単行本初版
 エレス・アクベの二つに割れた腕輪が一つになって、ハブナーに還ってきてから、17、8年。ゲドは5年前に大賢人に選ばれて、いまはロークに腰を落ち着けていた。
 作中のゲドの口調がすっかり、大賢人というよりはむしろハイジのおじいさん調なのでイメージが混乱するが、この時点でゲドは立派な中年もしくは壮年。『こわれた腕輪』では若者よばわりだったので、今は40代半ばだろうか。なにしろ、次の『帰還』では遅すぎた春もくるのだし・・・(っと、それはさておき。)

【ほぼ初読】
 私はこの本は多分、三十年ぶりくらいの再読で、初読の印象はほぼ、ゲドが若者アレンと最果てにいって、力尽きて戻ってきたんだよな、程度の記憶しか残っていなかった。なので、ほぼ初読と同じ感じで楽しめた。

ジブリアニメ化の際に
再販されたバージョン
【ジブリ『ゲド戦記』】

 スタジオジブリ宮崎吾郎監督の『ゲド戦記』(2006年)の原作となったことでこの本を知った人も多いだろうし、それよりずっと以前からこのシリーズを大切にしていた人達も多かったと思う。私も後者ではあるが、ジブリアニメ化の際には盛大に期待を膨らませて公開を待ち、なにか変なものでも喰った気分で映画館を後にした一人でもある。あの『ゲド戦記』は惨憺たる評判だったと記憶している。棒読みとか酷評されていた気もするが、私はテルー役の手島葵さんの声は好きで、映画の役柄にも合っていたと思っている。ちょっと掠れた感じの唄声も好みで、その後、CDを購入したりもした。総じて、歌と音楽は良かった。それに、今改めてこうして原作となったこの本を読んでみると、それなりに原作に忠実にやろうとしていたのだな、とは感じた。この原作であの父親と比較されるんでは、吾郎ちゃんも分が悪いよな、とは当時も思った。原作者のル=グウィンは宮崎駿による映画化を希望していた、なんて情報も、吾朗ちゃんには良い方に働かなかったに違いない。ただ、抽象度の高い死の世界を正面から描かず、あくまでも現実世界の騒乱として描いたことや、テルーの顔の火傷をきちんと取り扱わなかったことはダメだと思った。いきなりのアレンの父王殺しも物語として破綻していたと思う。(作品を超えたメッセージ性は大いにあったけど。)
 なお、右のソフトカバー版の素敵な表紙のバージョンは、映画化に併せて再販されたもの。私はこの装丁のセンスは好きだ。

【そして、物語の感想】
 で、本の物語の方に戻るが、エレス・アクベの腕輪が戻り、アーキペラゴ(多島海)には平和が訪れ、ロークの賢者たちも、ゆるゆるとした時の流れに身を委ねていた。ところが、エンラッドの若き王子アレンが、ロークの賢人団に凶報をもたらす。世界の各地で、魔法が失われている。ゲドはいったんは取り戻せたと思った世界の安定と平和が失われつつあることを察知し、世界の均衡を取り戻すために、アレンを供に〈はてみ丸〉で船出する。これが冒頭。

①アレンがちょっと辛い
 ゲドとアレンはあの島、この島と航海を重ねていく。その旅は行き当たりばったりだし、正直に白状すれば、感情が移ろいやすく、フラフラしている若造なアレンにはかなりイライラした。やっぱり王子様には賢くあってほしいし、真っ当に頑張って欲しいんだよな、とは、最近ラノベの読みすぎか。いやたぶん、アレンはちゃんと頑張っていた。たぶん年相応以上には。華がなかっただけだ。

②死の世界のイメージが
 これまでのゲド戦記全体が生と死の連環を取り扱っており、この「さいはての島へ」では生の何たるかや死の不可避性が大きなテーマになっている。しかし、こうして今読み返してみると、ここで語られる「生」も「死」も非常に観念的で、イメージが硬直化している。とくに「死」や「死者の国」の描かれ方が絶望的に暗く、なんの救いもないのに驚く。そりゃあ、死後の世界があんなんでは、だれも死にたくなくなるだろう。いったい、この死のイメージはどこから来ているのだろう。ル=グウィンは、死というものに何を思っていたのだろう?
 この作品の中では、誰もが「永遠の生」を求め、不死性を獲得することで「死の恐怖」からのがれようとし、その結果、人々は大切な「生」の意味そのものを失っていくのだが、作品に通底する、生と死を包含する世界観が非常に断片的で、しかも救いがない。死者の国は狭く、奥行きがない。死んだ人がすべてそこに行き着く世界であるなら、どれだけ観念的であったとしても、すくなくとも現世以上の奥行きが必要なのではないのか?と思うのだ。輪廻転生のイメージが、きちんとル=グウィンの中で成熟していないような気がする。

③人はそんなに死にたくないものだろうか
「永遠に生きたいと願わないものがどこにいる?」
 とクモは問うのだが、しかし人は本当に、「永遠に生きたい」とあのように一様に願うものなのだろうか。
 永遠の生に対する渇望や死に対する恐れ、といった、この本の中で登場人物が共通して抱く想念に、いまいちリアリティが感じられない。(ファンタジーにリアリティは必要なのか?とかはひとまず置いておく。)
 「死にたくない」という願望が、貴賤を問わず、魔法使いから市井まで、人々に通底する世界に共通する欲望として描かれているが、あまりにも単純化されていて納得がいかない。市井の無学な人々はともかく、知識を極めたはずのロークの賢人団があれでいいのか?
 死に対する恐怖の克服とは、文字どおり「死」を恐怖の対象としないことであり、「死」をなくすことではないんじゃないかと思うのだ。なぜなら、「死」がなくなったなら、恐怖の対象が目の前にないから恐れずに済むだけで、本当は「死」が恐ろしいままであるから。

 この話の中で、賢者といわれるような人々までが、「永遠に生きること」に取りつかれたようになることへの違和感がぬぐえないし、ましてや、「悪役」クモの動機の浅さは噴飯もので、これで世界が壊れるのでは、あまりにも世界そのものが脆弱ではないか、と思えてしまう。

 たとえば現代医療においては、病気ではない「老衰死」が人間の生の最終到達地点になるだろうし、移植医療は「理不尽な死」を克服しようとする取り組みであって、「死」そのものをなくすためのものではないだろう。「死」において、人が耐え難いと思うのは、「理不尽さ」であって万人に等しく訪れる公平な「死」じゃないんではないだろうか? そしてその先にはさらに、「死の理不尽さも受け入れる」という境地もありそうな気がするが。

④この世界は一神教
 また、自分が日本人であるからか、作品に通底する一神教的な視点に対する違和感もあった。
 クモが放つ、
「だが、おれは人間だ。自然よりもすぐれ、自然を支配する人間だ。」という言葉は、いかにも西洋的である。

 死の国においても、「苦しみの山脈」に通った一本道を通ることは死者には「禁じられている」という。つまり、死者の国も、生者の国も超越して、命じることのできる絶対者がいることが前提なのだ。命じているのは誰なのか。

⑤西洋的なものと土着的なもの、その間で定まらない著者?
 このような作品の世界観は、私の(そして多分、多くの日本人の)世界観とは違っている。アーキペラゴの人々はネイティブアメリカンがモデルのようで、白人はカルガド帝国など一部にしかおらず、戦闘的で侵略的な人々として描かれている。しかし、非白人の精神性がきちんと描かれているかというと、そこまでは出来ておらず、たとえば、死後の世界とか輪廻転生的な東洋の発想を取り入れようとする一方で、強烈な一神教的、父権的な価値観から逃れきれていない息苦しさを感じる、というのはうがちすぎか。

【まとめ】
 私がゲド戦記の世界観に感じる硬直感について思うことは、この本はハイ・ファンタジーであるとともに、ある種の思想書、しかもまだ成熟していない思想書だということ。この本についての考察を進めるのであれば、ゲド戦記やル=グウィンの思想を考察した評論なんかも読んでみたほうが良いと思うし、たぶんもっと調べていけば、ここまで書いた感想も、また違ったものになってくるだろうとは思うのだが、そこまで突き詰めるだけの意欲と集中した時間は今はもてないかな。

 しかし、そうはいっても、この本が若年の私に影響を与えた大切な本であることには変わりはない。むしろ、若いころにはこんなことをぐだぐだと考えずに、ゲドとアレンの冒険にのめり込めたと思うので、やっぱり本には読み時というものがあるし、この本はジュブナイル小説なんだろうな、と思う次第。

 やっぱり、これを読んだ十代そこそこの自分に感想を聞いてみたいものだ。

2025年2月20日木曜日

0541 こわれた腕環 ゲド戦記 2

書 名 「こわれた腕輪 ゲド戦記2」
原 題 「The Tombs of Atuan」1970年
著 者 アーシュラ・K.ル=グウィン
翻訳者 清水 真砂子
出 版 岩波書店
 【岩波少年文庫版】
少年文庫版 272ページ 2009年1月発行
再 読 2025年2月20日
ISBN-10 4001145898
ISBN-13 978-4001145892
読書メーター    
 【ハードカバー版(初版)】
単行本 227ページ 1976年12月発行
初 読 1982年〜83年頃?
ISBN-10 400110685X
ISBN-13 978-4001106855
 『影との戦い』から何年か後、5年か10年・・・は過ぎていないくらい。読んでいるとゲドの印象がすっかりおじさんなんだけど、どこか一箇所だけ、「若者」と形容されている。
 一巻でゲドが影を追っていたときに偶然手にした腕輪の半欠けは、世界に平和をもたらす『エレス・アクベ』の腕輪だった。腕輪が割れたときに、平和や統一を表す神聖文字も二つに割れ、それ以来世界は小国が分立し、対立と戦争が絶えない世になっていたのだ。ゲドは腕輪の半分を手に入れて壊れた腕輪を全き姿に戻すことで、世界に平和をもたらそうとしていた。

・・・・そんなゲドが登場するのは、物語も半ばに差し掛かってから。
 この物語は、カルガド帝国のアチュアンにある、暗黒神の墓所に仕える一人の少女の生い立ちから語りはじめられる。墓所の大巫女の生まれ変わりとして5歳で神殿に捧げられ、以来神殿の中で養育され、太古の神に仕えていた少女は、神殿の地下に広がる大迷宮の中でゲドと出会い、ゲドを生かす選択をしたことで、自分も人としての人生を取り戻す。大巫女アルハがゲドによって「テナー」という名前を取り戻し、いかめしい巫女から、だんだん柔らかい少女の心に戻っていく過程が、みずみずしく描かれている。 
 ゲドとテナーが地下迷宮から脱したことで、迷宮と暗黒神殿は崩落し、二人は、平和の腕輪を持ってハブナーに帰還する。

 この後のテナーの人生については、ゲド戦記三部作の後、十数年をおいて刊行された第四部『帰還』を待たなければならない。
 彼女に、「そして彼女は幸せに暮らしました。」的な素敵で幸せな人生が用意されていたわけではなく、やはり、自分の人生を自分の意志に従って切り開かねばならず、そしてその選択の結果も必ずしも順風満帆とはいかず、だからこそ、自分の意志で選択し、納得して歩んでいかなければならないのだ、と教えられるだろう。

 人が歩んでいく人生とはそういうものなのだ、真理ではあるが、つらいものである。喜びと苦しみと半々、いやむしろ、苦しみの方が多い。だが、日々の生活の中にささやかな光や希望があり、小さな喜びがある。テナーが自分で選んだのはそういう道なのだろう。その『帰還』を読むまえに、まずは『さいはての島へ』を読まねばならん。

 ———自由は、それを担おうとする者にとって、実に重い荷物である。勝手のわからない大きな荷物である。それは、決して気楽なものではない。自由は与えられるものではなくて、選択すべきものであり、しかもその選択は、かならずしも容易なものではないのだ。————

 この本に「自由」と言う言葉が出て来て、前に読んだ『レーエンデ物語』では「自由」というものが語られたときに強い違和感を感じたのを思い出した。
 この本『こわれた腕輪』では自由と言う言葉にさほど違和感はなく、違いは何だろう、と考えた。おそらくこちらの本には、「自由」という言葉を支えるこの世界なりの価値観や倫理観があり、この本の世界の中で意味が完結しているのに対し、『レーエンデ』の方には、現実の近代的な「自由」という概念が持ちこまれてしまっている、つまりハイファンタジーとしては未完成であるからだろうか。

2025年2月16日日曜日

0540 影との戦い ゲド戦記1

少年文庫版
書 名 「影との戦い ゲド戦記1」
原 題 「A Wizard of Earthsea」1968年
著 者 アーシュラ・K.ル=グウィン
翻訳者 清水 真砂子
出 版 岩波書店
 【岩波少年文庫版】
少年文庫版 320ページ 2009年1月発行
再 読 2025年2月16日
ISBN-10 400114588X
ISBN-13 978-4001145885
読書メーター 
https://bookmeter.com/reviews/126083295   
 【ハードカバー版(初版)】
単行本 278ページ 1976年9月発行
初 読 1982年〜83年頃?
ISBN-10 4001106841
ISBN-13 978-4001106848
ハードカバー 初版

 ここしばらく、乾石智子氏の《オーリエラント》のシリーズを読み込んできたので、ちょっと小休止して、原点回帰。
 
 初読は小学生の頃。それ以前にミヒャエルエンデの『果てしない物語』や『モモ』なども読んでいた気がするが、しかし『はてしない物語』の国内初版って1982年だった?なんだか微妙に記憶と合わない気がしてきた。

 まあ、そんなことはともかくとして、とにかくハイ=ファンタジーと呼ばれているジャンルの本を読んだ、最初の一冊だったのだ。それ以来、自分の中でのファンタジーの基準軸になっている作品である。これまでに何回も再読しているけど、ここ20年位は通しでは読んでいないし、シリーズ外伝や『アースシーの風』はまったく読んでいなかったので、改めて手にとる次第。

ジブリアニメ化に併せて
再販されたソフトカバー版
 なお、子供の頃は、ル=グウィンを児童文学作家だと思い込んでいた。むしろ『闇の左手』など大人向け(?)のSFなども書いている作家なんだと、かなり遅くに知った時には大いに驚いた。
 だいたい、日本で『児童文学」として紹介されている海外小説って、実際のところ児童向けに書かれたのかは非常にアヤシイと気付いたのも、大人になってから。
 この『ゲド戦記』は清水真砂子さんの翻訳であまりにも定着しているけど、もう少し大人向けに翻訳されたらどんな本になるのかな、と興味があったりもする。ってか、そういう翻訳があったらぜひ読んで見たい。いや、この本だって十分大人が読むに耐える翻訳だけど、ちょっと台詞回しだけはもうすこし大人っぽくてもいいかな、と思ったりはする。それはむしろ、子供向け、というよりは出版された年代的なものかも?

 ゲドと師匠のオジオンとの関係がすごく好きだ。
 今回再読して、ゲドのイチイの木の杖はオジオンが手作りしたものだったのか、と改めて知る。
 影についての考察は、すでにいろいろな識者がされているので、私がアレコレいうのもなんだけど、形而上ではあるものの、本来は個人と強固に結びついていなければならないはずの無意識下の意識が、個人から切り離されて世間を彷徨うようになってしまったら、あのような存在になるのだろうか。そしてそれは、神や聖霊のように光り輝く高次のものではなくて、やはり暗黒に近い存在なのだろうか。

 人の生は死によって完成する。むしろ、人の生は、長い長い死の瞬間なのかもしれない。その死を恐怖の対象とし、生を否定するものとしてとらえることは、人の生そのものを否定することに他ならない。そのような生は、どうしてもいびつになってしまうだろう。

 影から逃げるのを止めて影に向き合いはじめたとき、影にも変化が現れて、形のない黒いもやもやだったものが、ゲドの姿を取り始める。向き合うことで、だんだん恐怖の対象だったものが理解の対象になってくることの現れだろうか。

 影と向き合おうとしているゲドは19歳。その若さに慄く。18歳や19歳というのは、現実社会においても、まだ世間を知らず、己を知らず、未熟な上に未熟なのにもかかわらず、一人で世間に出ていかなければならない年頃であり、その運次第で、良きものにも悪いものにも出会う年齢なのだ。
 自分がこの本を最初に読んだの10代初めに、自分が何をこの本から受け止めたのかは、もはや記憶の彼方だけれど、この本がその時から生涯の愛読書になったことは事実だ。

「生を全うするためにのみ己の生を生き、破滅や苦しみ、憎しみや暗黒なるものに、もはやその生を差し出すことはないだろう。」

 でも、初読の時も今回も、一番好きなシーンは、エスタリオルとゲドの再会のシーンと、
 そして、エスタリオルの妹、ノコギリソウと彼女の小さな竜と、竈でパンを焼きながらの語らいのシーン。
 ハレキ(竜)がパンを一個盗み、ゲドもかまどから熱々のパンをつまみ食い。それにノコギリソウもご相伴。

「ーーーさてと、じゃあ、わたしも兄の分を一つ減らしておきましょうかね。兄もひもじさにおつきあいできるように。」「均衡とは、こうして保たれるんだな。」

2024年9月15日日曜日

0503 青い鷹 〜私を創った本2〜

書 名 「青い鷹」
原 題 「The Blue Hawk」1976年
著 者 ピーター・ディキンソン    
翻訳者 小野 章    
出 版 偕成社  1982年12月
単行本 353ページ
初 読 1980年代のどこか
ISBN-10 4037262207
ISBN-13 978-4037262204
読書メーター https://bookmeter.com/reviews/61065539


 中学校の図書館にあった本。
 古代エジプトの王と神官と神の化身である鷹の物語として記憶に残っていたが、実際は、古代エジプトに着想した、架空の神権国家で王政改革を試みる若い王と、鷹の神に捧げられた鷹(王の命の憑代?)を逃がしたことによって、王(若い王の父・先王)の復活を阻んだ神官見習いの少年の友情の物語。実はあまり詳細を覚えていないので、そのうち再読したら、記録を更新したい。
 中学にいるうちに、何回か再読し、ずっと心に残っていて、いつか読み直したいと思っていた。
 インターネットで古書の検索が容易にできるようになって、やっと入手することが叶った。
実は書籍にしては相当な大金をはたいた。それだけの価値はある一冊。

0502 べにはこべ 〜私を創った本1〜

書 名 「べにはこべ」
原 題 「The Scarlet Pimpernel」1905年
著 者 バロネス・オルツイ    
翻訳者 村岡 花子

※以下の書誌情報は文庫本のもの   
出 版 河出書房新社 2014年9月
文 庫 442ページ
ISBN-10  4309464017
ISBN-13 978-4309464015
読書メーター https://bookmeter.com/reviews/60233713  




※以下は初読時の単行本の情報
書 名「若い人たちのための世界名作への招待3 べにはこべ」
出版社 ‏ 三笠書房  1967年9月
初 読 1970年代某日

 読んだのは多分小3〜4の頃。
 当時『ベルサイユのばら』に傾倒していた私に、父がそっと差し出した一冊。子供なりにフランス革命辺りの読み物とか、フランス関連の本をあさってたのだが、父がモノには両面がある、といって、フランス革命を裏から観る(おちょくる)この本を貸してくれた。その時点で、カバーは無く、左の書影の状態だった。
 多視点で物事を見ることの大事さを教えてもった。以来の愛読書。色々な方の翻訳が出ているが、上の河出書房新社の文庫は、村岡花子氏の訳で、同じ本です。パーシー、マルグリット、アンドリュー、ショーブランといった人名表記がバーシイ、マーガリート、アンドリュウ、ショウブランだったりと古くさく、セリフ回しも今風の翻訳ではないが、やはり、村岡花子氏の翻訳は味わい深い。

《あらすじ》
 時は1792年。英国。対岸のフランスではフランス革命の真っ最中。フランスはロベスピエールの独裁状態で、ただ貴族であったり王党派であったりするだけで、革命裁判にかけられギロチン送りにされ、フランス各地で血の雨が降っていた。
 そんな中、ある英国人の義賊が見事な変装と鮮やかな手口でフランス貴族を救出し、英国へ亡命させていた。彼らが残していった小さな小花の紋章から、彼らは「紅はこべ」と呼ばれるようになっていた。
 元フランス人女優であったマルグリットは、最初こそ革命を支持していたが、その成り行きが血生臭くなるにつれ革命が疎ましくなり、女優を引退してイギリス貴族と結婚し、イギリス社交界の花形となっていた。彼女の夫であるパーシー・ブレイクニー卿は、愚鈍ではあるがイギリス社交界のファッションを牽引する洒落者の大富豪で、イギリス王太子の親友でもあるという貴族であり、フランス人であったマルグリットと大恋愛の末結婚したのだ。
 しかし、結婚初夜、マルグリットはかつて、とあるフランス貴族を告発しギロチン台に送ったことを夫となったパーシー卿に告白したことにより夫に嫌悪されるようになり、冷え切った失意の結婚生活を送っていた。
 
 イギリス社交界の華の表の姿とは裏腹に空虚な結婚生活を送っていたマルグリットに、在英フランス大使であるショーブランが近づく。ショーブランは「紅はこべ」を追っており、マルグリットの最愛の兄であるアルマン・サンジュストの命と引き換えに「紅はこべ」の正体を突き止め、ショーブランに密告するよう脅迫した。
 
 マルグリットはやむなく、紅はこべ団のメンバーであると目されたアンドリュー卿のメモを盗み見て、首領との接触の場所をショーブランに密告した。しかし、マルグリットは紅はこべの首領を危機に陥れたこと、それと兄アルマン・サンジュストが危機に瀕していることに苦悩して、自分の苦境をパーシーに打ち明ける。
 パーシーはアルマンの救出をマルグリットに約束し、翌日、突然屋敷を出立した。後に残ったマルグリットは、ふとした好奇心から夫の書斎に忍び込み、自分の夫が、かの紅はこべであることを確信したのだった。

 以下、フランスに密航した紅はこべことバーシー卿を救うため、マルグリットはアンドリュー卿を従えてフランスに渡り・・・・という冒険活劇が繰り広げられます。

なお、NHKBSで放映した英BBSのドラマシリーズ(1999年作成)も最高です。リチャード・E・グラントのパーシー・ブレイクニーが最高。
また、同じく英国で1982年に制作されたドラマシリーズも素晴らしい出来だそうです。むしろ、英国ではそちらのドラマのほうが有名とか。見てみたいです。