2025年4月30日水曜日

ノート 「ゲド戦記」を“生きなおす” を読んで思うこと

雑誌「へるめす」1993年 No.45 岩波書店
タイトル「ゲド戦記」を“生きなおす”
著 者 U.ル=グウィン    
翻訳者 清水 眞砂子   
国立国会図書館 所蔵


 まず最初に、この文章は講演録であり、1992年8月にオックスフォード大学で開かれたChildren’s Literature New England(子どもの本の作家・研究者の団体。本部ヴァージニア州アーリントン)の大会で行われた講演”Earthsea Revisioned”の文字起こし(の翻訳)であることを押さえて置く必要があるだろうと思った。

 多分、この講演は、ル=グウィンが同業者や研究者に向けて行ったもので、同じコミュニティの人間には通じるウィットに富んだ内容を含んでいるのだろうと考える。そこに表現されたアレコレは、そういう文脈で捉える必要がある。特にこの講演録で特徴的だと私が感じたのは、“読者”の存在がほとんど感じられなかったこと。この文章だけを読むと、ル=グウィンは一体誰のために、なんのために創作しているのか、と疑問にすら思えてしまう。だが、彼女のエッセイ集などの別の書籍を読めば、当たり前すぎることではあるが、彼女がきちんと読者に向き合っていることが判る。

 この講演録は5月末に岩波書店から刊行される『火明かり ゲド戦記7』に収録されるとのこと。
 しかし、この論文は特殊な状況でごく限られた聴衆に対して語られたものであり、そのことを踏まえずに、一般読者に供されれば、読者に誤解を与えるのではないか、と若干、危惧している。
 先に読んだ、清水眞砂子氏の『「ゲド戦記」の世界』(岩波ブックレット No.683)も、清水氏の2回の講演会の内容をまとめたもので、そちらも内容のまとまりの無さや、ちょっと言い過ぎちゃった?って感じの部分もあり、1回限りの(ある意味言いっ放しの)講演と、あとまで延々と残る本では、取り扱われる情報の精度にも差があるであろうことは、書籍化の際には注意が必要だと思った。

 しかし一方で、ル=グウィンこの講演で語ったことは彼女にとって紛れもない真実である。
 『「ゲド戦記」の世界』の中で、清水眞砂子氏は、この講演録についてこう語っている。

————私はそれを早速読んだのですが、たしかに面白いものの、一方にだんだん不満がでてきまして・・・・・。「「ゲド戦記」の第4巻って、このスピーチよりもずっとずっと豊かなのに」と思ったんです。「こんなもんじゃないぞ」と。(中略)このスピーチの翻訳はいま、ちょっと手にはいりにくいかと思いますが、かつて岩波書店から出ていた『ヘルメス』の45号にのっています。私はここにこっそりのせました。第4巻をこんなにやせ細ったものとして読んでほしくなかったのです。
(『「ゲド戦記」の世界』清水真砂子著 岩波ブックレットNo.683 p.31-32)

————私の手許には、先程ふれた会議の講演録のコピーが届けられてきており、その中味をすぐにもみなさんにお伝えしたい、との思いが強くあります。けれど、それは少し時期を待って、別の場所で、ともうひとつの声が制止します。その声に従うことにいたします。(アーシュラ・K.ル=グウィン著 清水 真砂子訳『帰還 ゲド戦記4』岩波書店 初版あとがきより)

 ル=グウィンに深い尊敬を寄せている訳者をして、このように言わしめ、これまで大々的な刊行を控えていたこの翻訳を、今回世に出すことにしたいきさつやそこに込められた思いは、新刊の中で明らかにされるのだろうか。新刊刊行を目前にして、ついうっかり、『ヘルメス』45号に掲載されたこの講演録を入手してしまったので、ゲド戦記本当に最後の書の刊行を前に、感想やら、読んで考えたことなどをノートにまとめておこうと思う。


■アーシュラ・K・ル=グウィンという人について
 1929年生まれ。父はアメリカの著名な文化人類学者のフレッド・クローバー教授。母は作家で、『イシ——北米最後の野生インティアン——』の著者、シオドーラ・クローバー女史。夫は、フランス人の歴史学者で米ポートランド大学の教授をしているシャルル・A・ル=グウィン。

 私の母が1938年生まれなので、同時代と言えなくもない。なお、翻訳者の清水さんはル=グウィンより10歳年下とのことだったので、私の母と完全に同世代である。母達の世代の女性が自立して生きていこうとしたときの困難に思いを馳せる。ル=グウィンや清水眞砂子氏の「フェミニズム」はそういう時代の女性の経験が反映されたものだということを意識しないといけない。

清水さんは、この講演録の解説の中で、彼女が『帰還』を読んだ時の感動を、以下のように述べられている。
————私はこの作者に心から共感した。こみ上げてくる歓びにじっとしていられなくて、私はよく本を置いて部屋の中を歩き回った。それはまるで私の生きてきた日々を、そして抱くにいたった人生への、人々への、世界への思いをそのまま語ってくれているようだった。(中略) 私もまた“テハヌー”をようやく見つけ出していた。太平洋をはさんで東と西で、言葉もかわしたことのない見ず知らずのもの同士がほぼ同じ時期に同じことを考えていたこと。————

 同時代の女性として、極めて深い共感を持っていることが判る。それと対照的に、私にはル=グウィンの言葉は、実感や体感としては理解できないものも多い。彼女たちがジェンダーについて語るとき、その時代性や育った文化について考慮せずに理解することは不可能だ。

■まず、最初の印象として ――“読者の不在”
 この講演録を読んで、清水眞砂子さんが、「やせ細ったもの」とつい表現してしまったのも判る気がするのだ。なによりも、初読で感じるのは、ル=グウィンが、(男性の理論に基づく)批評家や専門家の評価を強く意識していること、そののちは「フェミニスト」の評価を気にしていること。それに比して、読者の存在感が皆無であること。いったい、ル=グウィンは誰のために、何のために、物語を書いているのだろう、と首をかしげたくなってしまった。しかし、それは冒頭に述べたように、この文章が、ごく限られた聴衆にむかって語られた講演であるからだろうと思う。

「芸術はジェンダーを超えてあるべきものだったのです。この無性性、あるいは両性具有性こそヴァジニア・ウルフの言った偉大なる芸術家達のあるべき心的態度でした。私にとってそれはきついことではあるけれど、まことにもっともな、永遠の理想のひとつといえます。」

 このように語るル=グウィンはしかし、それを評価する批評界を牛耳る力ある者達は男だったし、ジェンダーを定義していたのも男の視点 だった、と指摘する。そして、初期のゲド戦記3部作は、男性の視点で、男性に成り代わって、男性的なヒーローの物語を描いたからこそ、批評家に受け入れられた。また、子供むけの本として書いたからこそ、子供の面倒を見る女の役割を果たしていたからこそ、認められたと語る

 「女であり、芸術家である私もフェミニストを自任する天使たちときちんと向かい合わないままに勇者の物語を書き続けることはできなくなりました。彼女たちから合格点をもらうまでにはずいぶん長くかかりました。」 

 そしてゲド戦記の「改定版」を書いたのだと。
 この論文だけを読んでいると、ル=グウィンの世界にはまるで、批評家の男とフェミニストで活動家の女しかいないかのような気分になってくる。だけど、この物語にとって、本当の主人公は私達読者じゃないのか?とも思うのだ。

■作家が考えた以上に、ファンタジーの世界は豊かであること。
 一旦世に出して、読者に手渡された作品というものは、著者一人の思惑を超えた、複層的な豊かさを持つようになるものではないだろうか。
 清水さんは、「あなたの世界は、あなたが考えるよりはるかに豊かだ」と指摘したのは、私のいうこの意味ではないにしろ、本当にその通りだと思う。
 アースシーの世界は、多くの人に読まれ、共有され、確かに豊かな世界を形成していた。ル=グウィン自身も直観的な作家のように見えるが、彼女の前に立ち現れた世界は、多くの潜在的なものを反映し、ル=グウィンが言語化する以上のものを含んでいて、それが読者と共鳴したからこそ、ここまで世界的なベストセラーとして長く読み継がれてきたはずだ。

■読者の権利は存在するのか? それは著者とどのような関係にあるのか?
 読者は、作品をお金を出して買い、それを読むことに自分の時間を使い、そのイメージを自分の中に構築する。著作権はもちろん著者にあるにしても、読者はそのように作品を共有する権利を持っていると私は思っている。

 「自分が成長したから」「自分がより成長するために」「自分自身を解放するために」もしくは、「自分の発展を世に示すために」、数多の読者の投じた時間や読者がそこに感じている価値を足蹴にしてよいものではないと思うのだ。読者には自分のなかに取り込んだ物語に対して権利がある。この作品世界の改訂が、世の多くの読者に波風を立てたのは、ル=グウィンにとって、比較的、読者の存在が希薄だったからではないか、と感じた。 

 私は『帰還』が日本国内で出版された時に比較的すぐ読み、その作品世界の改訂を受け入れていた。多分、あの頃はまだ若く、柔軟性があったし、その一方で深くは考えず、与えられたものを飲み込んだのだと思う。3巻『さいはての島へ』を読んだのがはるか昔だっために、1巻から3巻までを細部まで覚えていなかったことも幸いした。今回まとめて再読した時の方が、違和感ははるかに強かった。

■片方を持ち上げるために、もう片方を墜としてはいけない
 『帰還』のストーリー全般については、さほど大きな問題は感じないし、良く出来た物語だと思っている。しかし、ゲドをあそこまで「墜とす」必要はなかっただろう、とは思うのだ。
 対立する二項があるとして、一方を持ち上げるために、一方を墜とすのはダメだ。 
 女をもり立てるために、男を貶める必要はない。いかに、物語の中で女が男に貶められていようとも。 
 しかも、前作との矛盾を作り出してまで、そうする必要はまったく無かった。 「さいはての島へ」の中で、ゲドは、こう言っている。 
 ———「だが、ハブナーにもロークにも、わしはもどるまい。もう、力とはおさらばする時だ。古くなったおもちゃは捨てて、先へ行かなければ。故郷へ帰る時が来たのだ。(中略) あそこへ、ひっそりと、ひとり帰っていく時が来たのだ。あそこへ行けば、わしもついには学ぶだろう。どんな行為も術も力もわしに教えてはくれないものを。わしがまったく知らずにきたものを。」(『さいはての島へ』)

 ゲドは、全ての力を失うことを受け入れ、ただの人として、故郷にかえり、これまでは知らなかった「ただの人としての生活」を知る時が来ることを、知っていた。望んでさえいた。そのために、竜の背にのって、ゴントに帰還したのだ。 
 「さいはての島へ」の続きのゲドであったなら、自分を卑下することもなく、だからといって自分の功績に縋るでもなく、ただ、淡々と力を失った自分と向き合い、新たに知るべきことを知ることに、喜びさえ見いだしたのではないだろうか。実際、競争社会をリタイアして、世俗的な力を失ったあとも、実質的な力を伴わないが名誉や尊敬をまとって淡々と誇り高く生活している人はこの世にいくらでもいるだろう。なのになぜゲドは、あのように未練がましく、卑屈で小さな男として描かれなければならなかったのか。 
 なぜ、既存の権威を破壊するだけでなく、貶める必要があるのだろう。こういったことは幻実の活動の中でも随所に見かける。政治活動などなら当たり前ですらある。だが、このファンタジーの中ではまるで必要ではない。 あのように描いたことで、ゲド戦記はファンタジーとしての力をだいぶ減じたと思う。

 ジェンダーからの解放を描くために、一方の性を、男を、貶める必要はない。世の中にダメな男はごまんといるだろうが、ちゃんとした男には、ちゃんとした男なりの乗り越え方というものがあるはずだ。ル=グウィンはゲドにそうさせればよかったのに、ととても残念なのだ。

■テナーとテルーの造形
 自由な女であるところのテナーについても、いろいろと思うところはある。 
 たとえば、ジェンダーの象徴である女性的な美や処女性を奪われたテルーに対して、テナーは、最初の服として、赤いドレスを仕立てる。別染か生成りのあまり生地でエプロンも仕立てたろう。エプロンとは!まさに女仕事の象徴のような気がするのだけど、穿ち過ぎだろうか。 ともあれ、ジェンダーの軛の外に置かれたはずのテルーに、女性の象徴ともいえるような洋服を仕立てるのがテナーであり、ル=グウィンでもある。テルーは「アースシーの風」では、絹のシフトドレスを纏っている。障害のあるテルーは引っ込み思案で母から離れることができず、遠出の旅に、テナーに一緒にきてくれるように懇願するような女性に成長している。傷を黒髪で隠し、傷ついた側を人目から遠ざけるように行動する。それに対して、竜のアイリアンは男の子のような粗末なズボンと裸足で姿を現す。なぜ、テナーは、テルーをズボンをはいて元気な風のような子に育つことができなかったんだろう?たしかに、それには、テルーが背負った傷は大きすぎる。しかし、ル=グウィンが言うように、テルーがこの世界のいわば「導き手」として配置されたのなら、ジェンダーの外側に置かれたテルーを、もっと自由な存在にすることはできなかったのだろうか。この物語は、そういう話であってもよかったように思うのだ。

 例えば、テナーが 幼いテルーに、「あなたの本質は外形ではない。火傷ではない。本当のうつくしさは、そんなものじゃないの」といって、赤いエプロンドレスの替わりに、柔らかい上等の生地で作ったズボンやチュニックを着せ、ゲドやテルーの持てる知識をすべて与えて育てたらどうなっていたろう。テナーが拒絶したオジオンのあたえようとしたものを、テルーが受け取るストーリーだって可能だろう。
 もし、テルーが、その知識を力をもって、初めてハーバード大学に入学した女子学生のようにローク学院に入学したとしたらどうだろう?

 ル=グウィン自身の物語の中では、テルーは兄弟の竜たちとともに西の果てのそのまた西に旅立ってしまったが、それは一つの物語であって、アースシーはそれ以外にも無数の物語をはらんでいるではないか。(まあ、ここまでくると、二次創作になってしまうけど)
 なお、ここでは余談になってしまうが、翻訳者の清水さんは前述の『「ゲド戦記」の世界』の中で、テルーが最初に所有したものが、テナーの作ったドレスであったことに着目しているが、むしろ、子供時代を奪われたテルーの最初の私物が「骨のイルカ(おもちゃ)」であったことの方がはるかに象徴的なのではないだろうか、と考えている。

■フェミニズムについて
 人の数だけフェミニズムがある、とは良くいったもので、フェミニズムは自分の体験を通して理解せざるを得ず、その経験は、本当に人それぞれなのだ。自分と世の中の関係、自分と異性との関係、自分と親との関係、時代、所属する社会、階級そう言ったもので千差万別である。私のフェミニズムは誰かのフェミニズムとは相容れないし、相互理解も難しい。なぜなら、根本的なところで、体験に依拠しているからだ。

 では、多くの体験から上澄みを掬って、学問的に純化できるものだろうか。そうすることに意味があるのか?

 世の中には半数近くの女と半数近くの男と、比較的少数の、それの両方に属する人と、おそらくはもっと少数のどちらにも属さない人で構成されている。

 目指すのは、その全ての人が自由である社会である。
 内心の問題は取扱いが難しいが、まず、目指すべきは外形的な平等だろう。

 とはいえ、絶対に平等にはなり得ない部分が生殖である。そういったことを、現代のフェミニズムでは、どのように取扱い、消化しているのか、私はまったくの勉強不足なので、これから本を読もうと思っている。

2025年4月27日日曜日

介護日記的な・・・その13 洗濯物の攻防に負けた。(第1回戦)

 先週から、毎日の衣類交換がフルコースになった。
(ショーツ、ブラ、靴下、ガードル、肌着の5点セット)
 デイからの着用済みの洗濯物が火曜日に1回返ってきたが、これは次からは週1回金曜日に月〜金の5日分をまとめて返してもらえるように変更した。
 なぜ、というに火曜日の夜に洗濯機に入れておいた洗濯物にたまたま母が気付き、洗濯してしまったからだ。(気付かないで溜まっていることの方が多いのだけど。)
 そのこと自体は、ああ、まだ洗濯機使えるんだ〜と、喜ばしくおもわないでもないのだけど。
 難点① ただ、正しく洗剤を使えているかどうかが判らない。(今回は、洗濯洗剤の位置が、普段の場所から移動していたので、ああ、この洗剤を使ったんだな、と判った。)
 難点② 洗濯から、干す→取り込む→畳む→仕舞う、という普段の生活にないサイクルが始まってしまい、生活リズムが崩れてしまう。
 難点③ 畳んだ洗濯物をどこに仕舞うか判らないので、あちこち探して回収しなければならなくなる。
 と、いう事情なので、できるだけ、私がいるときに一連の洗濯→次週用をセットまで、全部済ましてしまいたいのだ。

 さて、そんなで迎えた週末である。

 金曜日の夜に自分が母宅に到着。
 デイの送迎と申し合わせてある着替え受け渡し場所(玄関の天袋収納。母が普段は開けないところ)から、今週後半分の洗濯物入りのバッグを取り出す。
 翌日ができるだけ楽になるように、と夜のうちに洗濯→干すまでやってしまう。
 母がなかなか寝付かず、私が起きているからかえって向こうも興奮して寝ないのか?と思って自分は寝室に撤収→疲労困憊寝落ち。
 明け方4時頃に、なにやら母が陽気に独り言を言っているのに気付いて覚醒。
 びっくりして様子を見に行くと、母がまだ昨日の洋服を着たまま、元気に活動している。
 そして、私がベランダに干しておいた洗濯物を畳んで、どこに仕舞おうかとうろうろしていた。

 今何時だよ!4時だよ! 明日は通院だよ! なにやってんのこの人!!!
 だがしかし、怒ってもしかたない。
 とはいえさすがに声が上ずる。
 
 何やってんの。4時だよ。寝てないの? 明日辛くなっちゃうよ。 早く寝て寝て。とにかく寝て〜〜! と急かして急かしてとにかく寝る気にさせて、寝室に押し込んだのが4時20分頃か?
 寝室に入れてドアを閉めた後は、なにしてんのか判らないけど、多分着替えて寝たはず!
 幸い、寝付きだけは良い人なのだ。

 いや。ビックリしたね。
 後から、監視・・・もとい見守りカメラの録画画像で確認したが(寝室の中は判らないけど、リビングの寝室のドアが写る位置に設置してある。)、母は昨夜、いったんは普段の居場所のリビングを片付けて、電気を消して、寝る態勢で寝室に入ったのだ。それが深夜1時前頃。(それでも遅いがな!)
 しかし、ほどなく部屋から出て来てしまい、ベランダの洗濯物を取り込んできていた。
 母の寝室は、いつもカーテンが締めっぱなしなのだが、おそらく寝る前にカーテンをめくって外を見て、洗濯物が干してあることを発見してしまったのだろう。
 
 あら、洗濯物を忘れてるわ。からの 取り込み→畳みサイクルが始まってしまった。
 洗濯物は3時間強しか干されていないが、幸いあらかた乾いていたようだ。母は洗濯物1枚1枚を検分し、畳みかたを考え考え(これまでの知識や経験の蓄積は、すでに役に立たなくなっている。この洗濯物はこうたたむ、という自分ルールは失われているので、その都度、一枚ずつ悩む。)、それでも全部四角く畳み、しかし「ちがう」と思ったのかまた、広げて畳み直し。積み上げてどこかに移動し、また移動し、また畳みなおし。 この人が小銭を数えているときもそうなんだが、積み上げて横に置くと判らなくなって、やり直すので、賽の河原状態になる。
 明け方までこの人いったいなにしてたんだ!と最初思ったが、画像を確認したら何のことはない。1時から4時までず〜〜〜〜〜〜〜〜〜っと、洗濯物をたたんでいたよ。

 これは、私が悪い。
 私が悪うございました。
 あの空かずのカーテンを開けて外を見てるとは存知ませんでしたよ。

 夜のうちに洗濯して干すのはナシだ。

 かくして作戦は変更された。

 とりあえず、着替え2サイクル分は数を用意する。(母が着替えたくなったときに困らないように、普段使い用に家においておく分も必要なので、ブラやらガードルやら肌着は枚数が足りない。)足りない分をいくらか買い足しする。

 翌週分のセットを、金曜夜のうちに出来るようにして、洗濯は土曜日の日中にする。これでいこう。そうしよう。

 第2回戦は、次週開催予定。乞うご期待。
 

2025年4月20日日曜日

介護日記的な・・・その12 久しぶりの投稿である。

 さて、このネタでの前回の投稿が去年の8月なので、久しぶりの投稿になる。
 この間、母は超低空飛行ながらまだ滑空を続けており、胴体着陸には至っていない。
昨年11月からこっち、住居のマンションの外壁塗装工事があり、足場が組まれたり、シートがかけられたり、窓の外(高層階)を職人さんが歩いていたり、といろいろあったが、幸いにして足場を組んでの外壁補修も三回目なので、なんとなく馴染みがあるのか、大事には至らず、すごすことができた。これに関しては、本当に、無事に乗り切れてよかった。

 母は、だんだんやらないことが増えてきた。
 近所に買い物に出なくなったのは、昨年夏。 
 掃除機をかけなくなった。
 洗濯機を回さなくなった。

 たまに、台所のビニール床の拭き掃除はしている・・・かもしれない。
 幸い、歯磨きとか洗顔はちゃんとしている。

 衣類は、以前は手洗いしているのかな?と思った時もあったが、今はまず、洗濯していない。とはいえ、代謝も落ちているのか、汗もあまりかかないようで、衣類が汚れることもあまりなく、不潔になることはないようだ。
 当初は、毎日とはいわずとも、下着類を洗濯している気配があったのだが、この前、洗濯機の前で、洗剤が判らなくなっているところに遭遇。実はこれまでの洗濯も、洗剤は入れて無かったのかも? ここ最近は週末に私が洗濯機を回していた。しかし、洗濯機の中の下着が明らかに少ない。

 だいたい、寝間着に着替えるときに脱いでも、翌日に同じものを着ているのだろう。

 本人に認知の自覚はまるでない上に、ADLは完全に自立しているので、着替えを手伝うこともできず、下着類のチェックがしづらい。

 そこで、先週から、デイサービスの入浴の際に、下着を新しいものにすり替えてもらう作戦に出た。

 先週はとりあえず、ショーツと肌着に挑戦。
 問題なく衣類交換ができたので、今週からは、靴下やブラなども追加した。

 で、問題になるのが、週末の洗濯である。

 もちろん、一週間分、私が洗濯するのだが、まず、洗濯ものハンガーが足りない。ピンチも足りない。(昔は潤沢にあったものも、だんだんに数を減らし、本人が一人暮らしになってからは、ほとんどピンチハンガー(しかもぼろ)一個だけでこと足りていた。だが、一週間分まとめてとなるとそうはいかない。とりあえず、ダイソーとAmazonで洗濯用品を調達。
 そして、着替えが足りない。新しい下着を買っても、本人に多分「自分のもの」だと認知してもらえないので、家の中のストック(昔の人なので、古いものも全部取ってある。)から、状態の良いものを探し、数を揃えて名前付けをした。

 洗濯に関しては、干したそばから取り込まれる、というのを数回。本人に任せるとどこかにしまわれてしまうので、母の目を掠めて取り込みして、デイサービス用にパッキングして、母の目に付かないところに隠し、デイのお迎えの際にさりげなく送迎のスタッフにもって行ってもらうことにした。

 なにしろ、本人は、今だに自分がデイサービスに通っていることも、そこで毎日お風呂に入れてもらってることも覚えていないのだ。下着の入った袋など、見つけようものなら、「あらこれ何かしら」と、タンスにしまわれてしまうか、押し入れのどこかに押し込まれるか。

 それにしても、ここのところ落ち着いていた週末の往来が、俄に大変になってしまった。
 来週は加えて、通院もある。頑張らねばならぬ。

2025年4月18日金曜日

アーシュラ・K・ル=グウィン  略歴と著作(邦訳・代表作のみ)



アーシュラ・クローバー・ル=グウィン(Ursula Kroeber Le Guin)  1929年10月21日生 2018年1月22日没

・アメリカの小説家でSF・ファンタジー作家。
・1929年10月21日、カリフォルニア州バークレー生まれ。
・父親はドイツ系の文化人類学者のアルフレッド・L・クローバーで、1901年にコロンビア大学でアメリカ合衆国初の人類学の博士号を取得し、カリフォルニア大学バークレー校でアメリカで2番目の人類学科を創設した。
・母親は、夫が研究で係わったアメリカ最後の生粋のインディアン「イシ」の伝記を執筆した作家で文化人類学者のシオドーラ・クラコー・ブラウン。
・ル=グウィンが生まれた日は、カトリックの聖女である聖ウルスラ(Saint Ursula)の祝日で、彼女は聖ウルスラに因んで、アーシュラ(Ursula)と名づけられた。

・子供時代は、バークレーで育つ。大学はラドクリフ・カレッジ(ハーバードと提携関係にあった名門女子大学。のちにハーバードと合併)に進学、フランスとイタリアのルネサンス期文学を専攻し、コロンビア大学で修士号を取得。1953年にフルブライト奨学生としてパリに留学し、フランス人の歴史学者チャールズ・A・ル=グウィン(Charles Le Guin)と結婚。帰国後に夫は州立ポートランド大学の教授となり、自身はマーサー大学、アイダホ大学などでフランス語を教える。1957年長女を出産、その後オレゴン州ポートランドに住む。1959年次女、1964年に長男出産。

・1958年頃から雑誌の書評欄や、現代の架空の国オルシニアを舞台にした短編を書き始め、1961年にその一つ「音楽によせて」(An Die Musik)を『ウェスタン・ヒューマニティズ・レビュー』誌に発表し、初めての商業誌掲載となった。
・1962年に『ファンタスティック』誌9月号に短編「四月は巴里」(April in Paris)が掲載されて本格的に作家デビュー、定期的に作品が雑誌に掲載されるようになる。
・その後『ロカノンの世界』『辺境の惑星』「幻影都市』の3長編を出版したが、注目されなかった。
・1968年に長編『影との戦い』を出版。
・1969年発表の『闇の左手』でヒューゴー賞、ネビュラ賞を同時受賞し、広く知られるようになった。
・2018年1月22日、ポートランドの自宅で死去。

作品一覧(邦訳)
《ハイニッシュ・サイクル》Hainish Cycle
・ロカノンの世界 (1966年)  サンリオSF文庫
             ハヤカワ文庫(別訳)
・辺境の惑星   (1966年)    サンリオSF文庫、ハヤカワ文庫
・幻影の都市  (1967年)        サンリオSF文庫、ハヤカワ文庫
・闇の左手  (1969年)         ハヤカワ文庫(新版)
・所有せざる人々  (1974年)    ハヤカワ文庫
・世界の合言葉は森  (1976年)   ハヤカワ文庫
     アオサギの眼  (1978年) を併録
・言の葉の樹   (2000年)  ハヤカワ文庫

《アースシー》(ゲド戦記) 岩波書店 
・影との戦い A Wizard of Earthsea (1968年)
・こわれた腕環 The Tombs of Atuan (1971年)
・さいはての島へ The Farthest Shore (1972年)
・帰還 - 最後の書 Tehanu: The Last Book of Earthsea (1990年)
・アースシーの風 The Other Wind (2001年)
・ゲド戦記外伝(ドラゴンフライ) Tales from Earthsea (2001年) - 短編集

 ・どこからも彼方にある国(1976年) あかね書房

《オルシニア》  架空の国を舞台にした非SF作品
・オルシニア国物語   (1976年) ハヤカワ文庫
・マラフレナ   (1979年)                サンリオSF文庫(上・下)

《空飛び猫》(絵本)
・空飛び猫  (1988年)
・帰ってきた空飛び猫 (1989年)
・素晴らしいアレキサンダーと空飛び猫たち  (1994年)
・空を駆けるジェーン - 空飛び猫物語  (1999年)

《西のはての年代記》 
・ギフト Gifts (2004年)
・ヴォイス Voices (2006年)
・パワー Powers (2007年) 

・天のろくろ (1971年) - サンリオSF文庫、ブッキング(改訂復刊)
・始まりの場所   (1980年) - 早川書房「海外SFノヴェルズ」
・オールウェイズ・カミング・ホーム   (1985年) - 平凡社(上・下)

《中短編集》
・ラウィーニア  (2008年)    河出書房新社 のち文庫
・風の十二方位   (1975年)  ハヤカワ文庫-主に初期作品集
・コンパス・ローズ   (1982年)  サンリオSF文庫、ちくま文庫 
・内海の漁師   (1994年)     ハヤカワ文庫(一部が《ハイニッシュ・サイクル》)
・赦しへの四つの道   (1995年)  早川書房「新ハヤカワ・SF・シリーズ」
・なつかしく謎めいて  (2003年)  河出書房新社(連作短編)
・世界の誕生日 (2002年)     ハヤカワ文庫(全8篇)
・現想と幻実 ル=グウィン短篇選集   (2012年)    青土社(全11篇)

《エッセイ等》
・夜の言葉‐ファンタジー・SF論   (1979年)  岩波同時代ライブラリー、(改訂)岩波現代文庫
・世界の果てでダンス  (1989年) - 白水社(新装版刊)
・文体の舵をとれ ル=グウィンの小説教室   (1998年)  フィルムアート社
・ファンタジーと言葉   (2004年)   岩波書店
いまファンタジーにできること   (2011年)   河出書房新社、河出文庫
・暇なんかないわ 大切なことを考えるのに忙しくて - 河出書房新社
・私と言葉たち (2022年) - 河出書房新社

2025年4月13日日曜日

0553 ドラゴンフライ アースシーの五つの物語 もしくは ゲド戦記外伝

少年文庫版
書 名 「ドラゴンフライ アースシーの五つの物語 ゲド戦記5」
原 題 「TALES FROM EARTHSEA」2001年
著 者 アーシュラ・K.ル=グウィン    
翻訳者 清水 真砂子    
出 版 岩波書店
初 読 2025年3月22日
初版のハードカバー
読書メーター 
 【岩波少年文庫版】
書 名 「ドラゴンフライ アースシーの五つの物語  ゲド戦記 5 」
少年文庫版  560ページ 2009年3月発行
ISBN-10 4001145928
ISBN-13 978-4001145922


 【ハードカバー版(初版)】
書 名  「ゲド戦記外伝」
単行本 456ページ 2004年5月発行
ISBN-10 4001155729
ISBN-13 978-4001155723

改編後のハードカバー
 【ハードカバー版(改編後)】
書 名  「ドラゴンフライ アースシーの五つの物語  ゲド戦記 Ⅴ」
単行本 464ページ 2011年4月発行
ISBN-10 400115644X
ISBN-13 978-4001156447


 『帰還』と『アースシーの風』の間を埋める『ドラゴンフライ』または『トンボ』(版によって呼び名が違う。トンボをドラゴンフライに改めるくらいなら、オジオンもいっそのことオギオンに改めれば良かったのでは?!)またロークの学院の起源や、若きオジオンとその敬愛する師匠の物語など。
 なぜ、『アースシーの風』の前にこの本を訳出しなかったのだろう。
刊行順にこちらを出版するのでも良かったとおもうのだけど。
ジブリアニメ公開に併せて
再版されたバージョン

 見ての通り、この本は、ハードカバーの『ゲド戦記外伝』→ソフトカバー版『ゲド戦記外伝』(ジブリアニメ化の際に発行されたもの。)、タイトルを改めたハードカバー本『トラゴンフライ』そして物語コレクション版と、岩波少年文庫版の5種類が発行されている。
 後からシリーズの残りを集めようと思って探した時に、おおいに混乱した。ちなみに私が所有しているのは、函入りハードカバー各初版と、岩波少年文庫版と、ソフトカバー版の3種類。なぜかそうなった。
 今年6月に、ル=グウィンが死去してから発行されたゲド最晩年の作品を含む短編と、ル=グウィンの講演録を翻訳した『ゲド戦記を“生き直す”』などが収録されたシリーズ7冊目(多分今度こそ最終巻)が岩波から発行される。ここで函入りハードカバー版を発行しないのは、50年来の読者への裏切りというものだろう!とこれまた若干腹が立つものの、発行自体はとても楽しみにしている。もちろん。
 さて、この別冊改め『ドラゴンフライ』は、短編5作品と著者によるアースシー解説からなる。『カワウソ』はローク学院のはじまりの物語。『ダークローズとダイヤモンド』と『湿原で』は男女の愛に関する物語。『地の骨』は若いオジオンとその師匠の話。『トンボ』改め『ドラゴンフライ』は、例の!アイリアンのお話です。以下感想。

カワウソ
 通り名をカワウソまたはアジサシと名乗った心優しい魔法使いは、様々な曲折を経て、初代の〈守りの長〉となる。アーキペラゴの暗黒時代に灯を点した、ロークの学院草創期の物語。
 ロークの学院の基礎を作ったのは、実は、〈手〉と呼ばれる草の根抵抗組織の女達だった。(レジスタンス、と書いちゃうと、ちょっと時代的に違う感じがする。) 大きな魔力を持ちながら、正しい教育を受ける機会の無かったまじない師のカワウソは、奴隷に落とされたりしながらも正しい魔法と公平と自由を求めて、古来のそれが残っているという島を探しつづけ、ついにその島に辿り着く。そしてその地で愛を得る。魔法が男だけのものになる前の時代の物語でもある。
 意外なローク学院の始まりについては、ちょっと後付け感も感じないではないけど、カワウソの素朴で正直で控えめな人柄は、『アースシーの風』のハンノキにも共通する温かみがある。女性も魔法使いになり、教師になり、長になれていた初期のロークから、どのようにして女性が疎外されていったのか、そこはとても気になる。
 あと、一つだけ言いたい。「タフなヤツだな。」という台詞は、めちゃくそ浮いてるぞ!

ダークローズとダイヤモンド 
 ダイヤモンドという通り名の青年が、真に自分の魂が求める道に辿り付くまでのお話。ダイヤモンドは“力”のある若者だったが、それが発揮されるのは音楽の道だった。詩がロークの“高尚な”学問に含まれ、歌が含まれなかったのは、学院の始祖たる魔法使いの中に歌を得意とするものがいなかっただけだと『カワウソ』を読んだものなら気づく。それはさておき、ダイヤモンドはロークに行く道を選ばす、愛するものと供にいること、そして歌うことを選んだ。

地 の 骨 
 師匠には「だんまり」と呼ばれた寡黙な少年は、師匠の元で魔法を学び、ゴントで独り立ちした。大地の太古の魔法を知る師匠は、この島に大きな災害が迫っていることを知り、弟子とともに地殻変動に立ち向かう。沈黙のオジオンとその師匠のセレス、さらにその師匠の物語。このシリーズを通じて、オジオンが一番素敵だし、大賢人にふさわしいと思うのは、きっと私だけじゃない。

湿 原 で 
 ある島に現れたまじない師の男は、動物と言葉をかわし、病気を癒やす力を持っていた。疲れはてて一夜の宿を求め、酪農農家の寡婦の家に寄宿することになるが。穏やかで寡黙な男に引かれるおかみさん、男を捜して現れたゲドが語る、男の物語。
 正直、ゲドの語る男のこれまでと、島に現れた男の性格に落差がありすぎて、もうちょっと男の気づきとか改心のいきさつを語ってくれないと、別人のように思える。

ドラゴンフライ(まはたトンボ)
 なんで〈トンボ〉を〈ドラゴンフライ〉に直したかなあ。トンボのままではいけなかったのか。アジサシや、カワウソや、タカも素朴な日本語として意味の通る名前にしたのに、〈トンボ〉をあえて日本人には馴染みのない〈ドラゴンフライ〉にしたのはどうしてだろう。訳者の清水さんにとっては、トンボがどうにも違和感があったらしいのだけど。確かに竜が翔ぶ話なので、ドラゴンフライは本質を突いているんだけど、偉大で巨大な生き物である竜が、人であったときには小さな空飛ぶ昆虫の名前を名乗っている、というギャップも、面白いと思う。
 それはともかく、『アースシーの風』を読むと、突然でてくるアイリアンという女性の名前。そのお話である。最近わたしはKindle版と紙本を併用で読むことが多いのだが、Kindle版は岩波少年文庫版が底本なので「ドラゴンフライ」 紙本(ハードカバー旧版とソフトカバ—版)は「トンボ」。・・・・やっぱりトンボの方が好みだ。
 ゲドの盟友であったトリオンは、ゲドを探しに死者の国に赴いたが、戻ってくることが出来なくなった。しかし、皆がトリオンが死んだと思ったとき、生に対する執着と野心だけが生ける亡者として肉体に戻ってきた。そのトリオンとアイリアンの闘い・・・と思いきや圧倒的物量と熱量の差で、瞬殺。
 にしても、アズバーと守りの長はともかくとして、ロークの賢人団がなかなかのぼんくら揃いに見えてしまうのが残念なところ。

アースシー解説
 ル=グウィンによる、この世界の地理、民族、文化、言語、文字、歴史などの概略解説。
 ル=グウィンはこの世界の言語(真正神聖文字やハード語の文字)を漢字のような表意文字だとしているようだ。解説を読むに、一単語が一字に相当しているよう。
 ネイティブ・アメリカンをモデルにしているという、アーキペラゴの人々に漢字的な表意文字をあて、白人のカルカド人にインカ帝国風の紐を結ぶ伝達の方法をあてるなど、(主には)白人の意識を揺さぶるしくみが仕掛けられてるなあ。
 歌と歌謡は、アーキペラゴの最初の起源を証しているというのに、『ダイヤモンド』で描かれているように、学問大系の中では、歌による伝承の「詩」の部分に重点が置かれて、「歌」の部分はきちんと位置づけられていないんだな。まことの言葉の仕組みとしては、言葉の意味はわからなくても、音律だけで魔法を発動させることも出来そうな気がするんだけど。(そうなると、乾石智子のファンタジー世界っぽいかも。)
 子供は皆教育のようで、6,7歳頃には、『エアの創造』を語り聴かされ、暗唱できるようになる。常識ある大人であれば、だれも『エアの創造』を子供に語ることができる。子供たちは学校でハード語疑似神聖文字(神聖文字に由来し、ハード語を表記するために生まれたた、魔法の力を持たない文字。数百から数千に及ぶ。)を学ぶ。ル=グウィンは、「物語」に丁度良い、閉じて、均質化されていて、文化と富に満ちた世界を創造したようだ。
 ローク学園から女性が排除されたのには、初代大賢人ハルケルの影響が強かったよう。しかし、ロークの設立に女性が深く関わった点については、きちんと知識として継承されればよかったのにね。魔女達のあいだに「魔女の契り」や魔女婚(同性婚)の風習があったのに、魔法使いの間にそれがないのも面白い。

 さて、この巻で既刊の『ゲド戦記』はついに読了。あとは『火明かり』の刊行を待つばかりである。

2025年4月2日水曜日

2025年3月の読書メーター

 昨年末からファンタジー祭りに突入し、乾石智子を読んでいる途中で原点を確認したくなり、ゲド戦記を読み始めた。初期の三部作は子供の頃に、『帰還』は発行後すぐに読んでいたが、その後の2冊は未読。それに、『西の果ての年代記』は一冊目の『ギフト』しか読んでいない。けっこうワクワクと読み始めたのだが。
 なにしろ、ゲド戦記の周辺が五月蠅すぎる。
 つい、論文やら評論やらも読んでしまって、いっそう心乱れる。これ、もう、ル=グウィンのエッセイやら自伝やらまで読まないと収まらない流れ。それと、フェミニズムについても、自分の理解が極めて曖昧なので、簡単に押さえて置く必要がある。やれやれである。

3月の読書メーター
読んだ本の数:15
読んだページ数:3324
ナイス数:759

「ゲド戦記」の世界 (岩波ブックレット NO. 683)「ゲド戦記」の世界 (岩波ブックレット NO. 683)感想
ゲド戦記5と6が入れ替わる前の、清水真砂子さんの講演録を編集したもの。清水さんが誠実で堅実な翻訳家であり、研究者であり、また教育者であることが伝わってくる。真のことばたり得ない私達の言葉は、それぞれの生活と体験に依拠するがゆえに、同じ言葉が同じ意味を持つとは限らない。その上で、言葉の一つ一つの意味を吟味し、著者の言わんとすることを損なわないように細心の注意を払って翻訳する姿勢に尊敬を覚える。その一方で、「私達は誤読する権利がありますから、読みたいように読んでいる」という一節が痛快。自身の創作を説明するという陥穽にル=グウィンでさえはまってしまったことについての、清水さん気づきは深いというかさすがというか。読んで自分も大いに反省させられる。そのル=グウィンの講演録は、ついに5月末刊行の『火明かり』に収録されるとのことなので、それも楽しみではある。 「あなたの作品は、あなたがここに書いているより、はるかにはるかに豊かだと思う」と書き送られたル=グウィンが、どのように応えたのか、ちょっと興味を覚える。
読了日:03月23日 著者:清水 真砂子









アースシーの風: ゲド戦記 6 (岩波少年文庫 593 ゲド戦記 6)アースシーの風: ゲド戦記 6 (岩波少年文庫 593 ゲド戦記 6)感想
最初の三部作の18年後に『帰還』その10年後に本作。三部作で十分に描かれなかった死後の世界についての再構築を試みている。前作から時間をおいてこの本だけ読めば納得感を得られたかもしれないが、1冊目から通読するといろいろと無理だった。なによりも、解説的な記述が多い。セセラクとレバンネンが少しづつ距離を縮めたりするところはなかなか良いし、ハンノキも素敵な人物なのだけど。なによりテハヌーの旅立ちには涙するのではあるけど。石垣を壊す描写は、ベルリンの壁崩壊を思い出させられた。物語全体が、現代史の引き写しともとれる。
読了日:03月17日 著者:アーシュラ・K. ル=グウィン

署長シンドローム (講談社文庫 こ 25-55)署長シンドローム (講談社文庫 こ 25-55)感想
Kindle版とAudibleで読了済み。やっと文庫本化したので入手しました。感想はこっちに書いてあります。https://bookmeter.com/reviews/119214165
読了日:03月15日 著者:今野 敏






帰還: ゲド戦記 4 (岩波少年文庫 591 ゲド戦記 4)帰還: ゲド戦記 4 (岩波少年文庫 591 ゲド戦記 4)感想
壮大で抽象的だった前作までと違って、ついに地に足が付いた感じ。やっと物語が落ち着くべきところに落ち着いた。ゲドが特別な力を失った無力な男として、喪失に向き合い、再生すること。テナーが、一度は望んで受け入れた「女」という理不尽で不自由な在り方に向き合い、ゴハという社会的な女から、テナーという個人に再生すること。暴力と性的な虐待を受け、肉体的に大きく損なわれた少女が、本来の内なる全き姿を取り戻すこと。三者それぞれの喪失と再生の物語だった。全体の生と死という極めて抽象的な物語から、個人の物語への回帰でもあった。
読了日:03月09日 著者:アーシュラ・K. ル=グウィン

さいはての島へ: ゲド戦記 3 (岩波少年文庫 590 ゲド戦記 3)さいはての島へ: ゲド戦記 3 (岩波少年文庫 590 ゲド戦記 3)感想
3巻目。壮年に至りロークの大賢人となっているゲドのもとに、エンラッドの若き王子アレンが凶報をもたらす。世界の各地で魔法が失われている。ゲドは原因を探り、世界に均衡を取り戻すためにアレンを供に船出する。ジブリアニメ・宮崎吾郎監督の『ゲド戦記』の原作としてこの本を知った人も多いのでは。私も盛大に期待を膨らませて公開を待ち、なにか変なものでも喰った気分で映画館を後にした一人ではある。しかし、こうしてあらためてこの本を読んでみると、それなりに原作に忠実にやろうとはしていたのかな、とは思った。
読了日:03月04日 著者:アーシュラ・K. ル=グウィン

空を駆けるジェーン: 空飛び猫物語空を駆けるジェーン: 空飛び猫物語感想
前作で、アレキサンダーとカップルになると思い込んでいたジェーンですが、彼女は自立したい女だったようで。平和で退屈な田舎と、退屈な?アレキサンダーの元を去って、都会に飛び出します。悪い男に騙され、危険な目にもあい、訪れたのは、彼女を都会から逃がした生みの母。都会の生活が性に合っていたジェーンは、母と同居しながら、田舎の兄姉や彼氏とも程良い距離を保って自由な女として生きて行くことを選択したよう。なんと空飛び猫は、女性の自立の話だった。それにしても、黒い翼の生えた黒猫なんて、悪魔狩りに遭わなくて良かったと・・・
読了日:03月02日 著者:アーシュラ・K. ル=グウィン

素晴らしいアレキサンダーと、空飛び猫たち素晴らしいアレキサンダーと、空飛び猫たち感想
アレキサンダーは、羽は生えてない普通の猫。お母さんは明るい茶色の長毛種(ペルシャのハーフ)で、アレキサンダーもふさふさのしっぽを受け継いでいる。お父さんはいつも寝ている(笑)。エネルギー過多でつい家族の家を飛び出してしまったアレキサンダーの大冒険。道路でトラックに挽かれかけ、犬に追いかけられて逃げ、木の梢に登って降りられなくなり!定番コースです。そこに助けにきてくれたのが黒猫ジェーン。子猫のときのトラウマで失語症状態だったジェーンの回復を助け、いずれはラブラブなカップルになる未来を感じさせる。
読了日:03月02日 著者:アーシュラ・K. ル=グウィン

帰ってきた空飛び猫帰ってきた空飛び猫感想
書影がイマイチだな。Amazonか読メのどちらかに書影登録機能が欲しい。さて、空飛び猫続刊。田舎の農場で暮らしはじめた4匹の空飛び猫の兄妹たちですが、だんだんお母さん猫のことが気になり始めて。ジェームズとハリエットの2匹が生まれ故郷の都会の「ゴミ捨て場」にジェーン・タビーお母さんを探しに戻ったところ、なんと黒い空飛び猫(しかも子猫!)を発見。もちろん、彼らの弟(もしくは妹)でした。お母さんとも無事再会、妹もつれて、田舎の農場に戻ったのでした。羽を痛めたジェームズが大旅行が出来るまでに回復して良かった。
読了日:03月02日 著者:アーシュラ・K. ル・グウィン

軍人婿さんと大根嫁さん 2 (芳文社コミックス/FUZコミックス)軍人婿さんと大根嫁さん 2 (芳文社コミックス/FUZコミックス)感想
やっと紙本を入手したので、再読しました。誉さんが素敵ですねえ。もうすぐ、5巻が発売です。
読了日:03月20日 著者:コマkoma
軍人婿さんと大根嫁さん 1 (芳文社コミックス/FUZコミックス)軍人婿さんと大根嫁さん 1 (芳文社コミックス/FUZコミックス)感想
紙本を入手したので、再読しました。やっぱりいいのう。
読了日:03月20日 著者:コマkoma
読書メーター



獅子帝の宦官長II 遥かなる故郷【イラスト付き】【単行本書き下ろしSS付き】 (エクレアノベルス)獅子帝の宦官長II 遥かなる故郷【イラスト付き】【単行本書き下ろしSS付き】 (エクレアノベルス)感想
2024年に分冊版で読了済みながら、電子本(単行本)が出たので書き下ろしSS目当てでDLしました。かなーり嗜虐的な要素のある濃厚エロな作品ですが、イルハリムの清純さと一途さは何にも勝ります。また、皇帝陛下が男らしいったら。八方丸く収まったラストが本当に幸福です。それにしてもオマケのSSはっっ! もう、陛下のおのろけで胸がいっぱい。はじめから最後までノロケ。あーあ、幸せでようござんしたねっっ(笑) 二人の幸せのお裾分けを戴きました。ごちそうさまです。
読了日:03月04日 著者:ごいち

ある手芸中毒者の告白: ひそかな愉しみと不安 縫い欲にまみれたその日常
ある手芸中毒者の告白: ひそかな愉しみと不安 縫い欲にまみれたその日常感想
私も告白するけど、本を買いたい中毒でした。中身も確認しないで衝動買いしちゃった。いろいろと共感出来る部分はある。だけど、決定的に趣味が違った(笑)。わたしもいつかジャンパースカート作ろうと思って解いてあるウールの着物地とか、いつか編もうとおもっている毛糸とか、刺しかけの刺繍のテーブルクロスとか、パターンだけ溜まってるパッチワークとか・・・・。あああ。。。
読了日:03月16日 著者:グレゴリ青山

家が好きな人 (リュエルコミックス)家が好きな人 (リュエルコミックス)感想
温かで優しい筆致で、女性の一人暮らしのワンルームと、その空間でほっこりする時間。家が好きな人、というよりは「こういう家が好きな人」。とても温かだけど、絵にするとどこか非現実的で。だけどこういう本に癒やされるひとも沢山いるだろうなあ。うん。優しい色と線と丸い角で描かれた家の中を、現実のリアルな物に置き換えてみたときに、ここが素敵、と思えるかどうかはワカランです。デリカシーのない感想でゴメンよ。
読了日:03月16日 著者:井田 千秋