タイトル「ゲド戦記」を“生きなおす”
著 者 U.ル=グウィン
翻訳者 清水 眞砂子
国立国会図書館 所蔵
多分、この講演は、ル=グウィンが同業者や研究者に向けて行ったもので、同じコミュニティの人間には通じるウィットに富んだ内容を含んでいるのだろうと考える。そこに表現されたアレコレは、そういう文脈で捉える必要がある。特にこの講演録で特徴的だと私が感じたのは、“読者”の存在がほとんど感じられなかったこと。この文章だけを読むと、ル=グウィンは一体誰のために、なんのために創作しているのか、と疑問にすら思えてしまう。だが、彼女のエッセイ集などの別の書籍を読めば、当たり前すぎることではあるが、彼女がきちんと読者に向き合っていることが判る。
この講演録は5月末に岩波書店から刊行される『火明かり ゲド戦記7』に収録されるとのこと。
しかし、この論文は特殊な状況でごく限られた聴衆に対して語られたものであり、そのことを踏まえずに、一般読者に供されれば、読者に誤解を与えるのではないか、と若干、危惧している。
■作家が考えた以上に、ファンタジーの世界は豊かであること。
一旦世に出して、読者に手渡された作品というものは、著者一人の思惑を超えた、複層的な豊かさを持つようになるものではないだろうか。
清水さんは、「あなたの世界は、あなたが考えるよりはるかに豊かだ」と指摘したのは、私のいうこの意味ではないにしろ、本当にその通りだと思う。
アースシーの世界は、多くの人に読まれ、共有され、確かに豊かな世界を形成していた。ル=グウィン自身も直観的な作家のように見えるが、彼女の前に立ち現れた世界は、多くの潜在的なものを反映し、ル=グウィンが言語化する以上のものを含んでいて、それが読者と共鳴したからこそ、ここまで世界的なベストセラーとして長く読み継がれてきたはずだ。
■読者の権利は存在するのか? それは著者とどのような関係にあるのか?
読者は、作品をお金を出して買い、それを読むことに自分の時間を使い、そのイメージを自分の中に構築する。著作権はもちろん著者にあるにしても、読者はそのように作品を共有する権利を持っていると私は思っている。
「自分が成長したから」「自分がより成長するために」「自分自身を解放するために」もしくは、「自分の発展を世に示すために」、数多の読者の投じた時間や読者がそこに感じている価値を足蹴にしてよいものではないと思うのだ。読者には自分のなかに取り込んだ物語に対して権利がある。この作品世界の改訂が、世の多くの読者に波風を立てたのは、ル=グウィンにとって、比較的、読者の存在が希薄だったからではないか、と感じた。
私は『帰還』が日本国内で出版された時に比較的すぐ読み、その作品世界の改訂を受け入れていた。多分、あの頃はまだ若く、柔軟性があったし、その一方で深くは考えず、与えられたものを飲み込んだのだと思う。3巻『さいはての島へ』を読んだのがはるか昔だっために、1巻から3巻までを細部まで覚えていなかったことも幸いした。今回まとめて再読した時の方が、違和感ははるかに強かった。
■テナーとテルーの造形
自由な女であるところのテナーについても、いろいろと思うところはある。
■フェミニズムについて
人の数だけフェミニズムがある、とは良くいったもので、フェミニズムは自分の体験を通して理解せざるを得ず、その経験は、本当に人それぞれなのだ。自分と世の中の関係、自分と異性との関係、自分と親との関係、時代、所属する社会、階級そう言ったもので千差万別である。私のフェミニズムは誰かのフェミニズムとは相容れないし、相互理解も難しい。なぜなら、根本的なところで、体験に依拠しているからだ。
では、多くの体験から上澄みを掬って、学問的に純化できるものだろうか。そうすることに意味があるのか?
世の中には半数近くの女と半数近くの男と、比較的少数の、それの両方に属する人と、おそらくはもっと少数のどちらにも属さない人で構成されている。
目指すのは、その全ての人が自由である社会である。
内心の問題は取扱いが難しいが、まず、目指すべきは外形的な平等だろう。
とはいえ、絶対に平等にはなり得ない部分が生殖である。そういったことを、現代のフェミニズムでは、どのように取扱い、消化しているのか、私はまったくの勉強不足なので、これから本を読もうと思っている。
先に読んだ、清水眞砂子氏の『「ゲド戦記」の世界』(岩波ブックレット No.683)も、清水氏の2回の講演会の内容をまとめたもので、そちらも内容のまとまりの無さや、ちょっと言い過ぎちゃった?って感じの部分もあり、1回限りの(ある意味言いっ放しの)講演と、あとまで延々と残る本では、取り扱われる情報の精度にも差があるであろうことは、書籍化の際には注意が必要だと思った。
しかし一方で、ル=グウィンこの講演で語ったことは彼女にとって紛れもない真実である。
『「ゲド戦記」の世界』の中で、清水眞砂子氏は、この講演録についてこう語っている。
ル=グウィンに深い尊敬を寄せている訳者をして、このように言わしめ、これまで大々的な刊行を控えていたこの翻訳を、今回世に出すことにしたいきさつやそこに込められた思いは、新刊の中で明らかにされるのだろうか。新刊刊行を目前にして、ついうっかり、『ヘルメス』45号に掲載されたこの講演録を入手してしまったので、ゲド戦記本当に最後の書の刊行を前に、感想やら、読んで考えたことなどをノートにまとめておこうと思う。
■アーシュラ・K・ル=グウィンという人について
1929年生まれ。父はアメリカの著名な文化人類学者のフレッド・クローバー教授。母は作家で、『イシ——北米最後の野生インティアン——』の著者、シオドーラ・クローバー女史。夫は、フランス人の歴史学者で米ポートランド大学の教授をしているシャルル・A・ル=グウィン。
私の母が1938年生まれなので、同時代と言えなくもない。なお、翻訳者の清水さんはル=グウィンより10歳年下とのことだったので、私の母と完全に同世代である。母達の世代の女性が自立して生きていこうとしたときの困難に思いを馳せる。ル=グウィンや清水眞砂子氏の「フェミニズム」はそういう時代の女性の経験が反映されたものだということを意識しないといけない。
清水さんは、この講演録の解説の中で、彼女が『帰還』を読んだ時の感動を、以下のように述べられている。
同時代の女性として、極めて深い共感を持っていることが判る。それと対照的に、私にはル=グウィンの言葉は、実感や体感としては理解できないものも多い。彼女たちがジェンダーについて語るとき、その時代性や育った文化について考慮せずに理解することは不可能だ。
しかし一方で、ル=グウィンこの講演で語ったことは彼女にとって紛れもない真実である。
『「ゲド戦記」の世界』の中で、清水眞砂子氏は、この講演録についてこう語っている。
————私はそれを早速読んだのですが、たしかに面白いものの、一方にだんだん不満がでてきまして・・・・・。「「ゲド戦記」の第4巻って、このスピーチよりもずっとずっと豊かなのに」と思ったんです。「こんなもんじゃないぞ」と。(中略)このスピーチの翻訳はいま、ちょっと手にはいりにくいかと思いますが、かつて岩波書店から出ていた『ヘルメス』の45号にのっています。私はここにこっそりのせました。第4巻をこんなにやせ細ったものとして読んでほしくなかったのです。(『「ゲド戦記」の世界』清水真砂子著 岩波ブックレットNo.683 p.31-32)
————私の手許には、先程ふれた会議の講演録のコピーが届けられてきており、その中味をすぐにもみなさんにお伝えしたい、との思いが強くあります。けれど、それは少し時期を待って、別の場所で、ともうひとつの声が制止します。その声に従うことにいたします。(アーシュラ・K.ル=グウィン著 清水 真砂子訳『帰還 ゲド戦記4』岩波書店 初版あとがきより)
ル=グウィンに深い尊敬を寄せている訳者をして、このように言わしめ、これまで大々的な刊行を控えていたこの翻訳を、今回世に出すことにしたいきさつやそこに込められた思いは、新刊の中で明らかにされるのだろうか。新刊刊行を目前にして、ついうっかり、『ヘルメス』45号に掲載されたこの講演録を入手してしまったので、ゲド戦記本当に最後の書の刊行を前に、感想やら、読んで考えたことなどをノートにまとめておこうと思う。
■アーシュラ・K・ル=グウィンという人について
1929年生まれ。父はアメリカの著名な文化人類学者のフレッド・クローバー教授。母は作家で、『イシ——北米最後の野生インティアン——』の著者、シオドーラ・クローバー女史。夫は、フランス人の歴史学者で米ポートランド大学の教授をしているシャルル・A・ル=グウィン。
私の母が1938年生まれなので、同時代と言えなくもない。なお、翻訳者の清水さんはル=グウィンより10歳年下とのことだったので、私の母と完全に同世代である。母達の世代の女性が自立して生きていこうとしたときの困難に思いを馳せる。ル=グウィンや清水眞砂子氏の「フェミニズム」はそういう時代の女性の経験が反映されたものだということを意識しないといけない。
清水さんは、この講演録の解説の中で、彼女が『帰還』を読んだ時の感動を、以下のように述べられている。
————私はこの作者に心から共感した。こみ上げてくる歓びにじっとしていられなくて、私はよく本を置いて部屋の中を歩き回った。それはまるで私の生きてきた日々を、そして抱くにいたった人生への、人々への、世界への思いをそのまま語ってくれているようだった。(中略) 私もまた“テハヌー”をようやく見つけ出していた。太平洋をはさんで東と西で、言葉もかわしたことのない見ず知らずのもの同士がほぼ同じ時期に同じことを考えていたこと。————
同時代の女性として、極めて深い共感を持っていることが判る。それと対照的に、私にはル=グウィンの言葉は、実感や体感としては理解できないものも多い。彼女たちがジェンダーについて語るとき、その時代性や育った文化について考慮せずに理解することは不可能だ。
■まず、最初の印象として ――“読者の不在”
この講演録を読んで、清水眞砂子さんが、「やせ細ったもの」とつい表現してしまったのも判る気がするのだ。なによりも、初読で感じるのは、ル=グウィンが、(男性の理論に基づく)批評家や専門家の評価を強く意識していること、そののちは「フェミニスト」の評価を気にしていること。それに比して、読者の存在感が皆無であること。いったい、ル=グウィンは誰のために、何のために、物語を書いているのだろう、と首をかしげたくなってしまった。しかし、それは冒頭に述べたように、この文章が、ごく限られた聴衆にむかって語られた講演であるからだろうと思う。
この講演録を読んで、清水眞砂子さんが、「やせ細ったもの」とつい表現してしまったのも判る気がするのだ。なによりも、初読で感じるのは、ル=グウィンが、(男性の理論に基づく)批評家や専門家の評価を強く意識していること、そののちは「フェミニスト」の評価を気にしていること。それに比して、読者の存在感が皆無であること。いったい、ル=グウィンは誰のために、何のために、物語を書いているのだろう、と首をかしげたくなってしまった。しかし、それは冒頭に述べたように、この文章が、ごく限られた聴衆にむかって語られた講演であるからだろうと思う。
「芸術はジェンダーを超えてあるべきものだったのです。この無性性、あるいは両性具有性こそヴァジニア・ウルフの言った偉大なる芸術家達のあるべき心的態度でした。私にとってそれはきついことではあるけれど、まことにもっともな、永遠の理想のひとつといえます。」
このように語るル=グウィンはしかし、それを評価する批評界を牛耳る力ある者達は男だったし、ジェンダーを定義していたのも男の視点 だった、と指摘する。そして、初期のゲド戦記3部作は、男性の視点で、男性に成り代わって、男性的なヒーローの物語を描いたからこそ、批評家に受け入れられた。また、子供むけの本として書いたからこそ、子供の面倒を見る女の役割を果たしていたからこそ、認められたと語る。
「女であり、芸術家である私もフェミニストを自任する天使たちときちんと向かい合わないままに勇者の物語を書き続けることはできなくなりました。彼女たちから合格点をもらうまでにはずいぶん長くかかりました。」
そしてゲド戦記の「改定版」を書いたのだと。
この論文だけを読んでいると、ル=グウィンの世界にはまるで、批評家の男とフェミニストで活動家の女しかいないかのような気分になってくる。だけど、この物語にとって、本当の主人公は私達読者じゃないのか?とも思うのだ。
■作家が考えた以上に、ファンタジーの世界は豊かであること。
一旦世に出して、読者に手渡された作品というものは、著者一人の思惑を超えた、複層的な豊かさを持つようになるものではないだろうか。
清水さんは、「あなたの世界は、あなたが考えるよりはるかに豊かだ」と指摘したのは、私のいうこの意味ではないにしろ、本当にその通りだと思う。
アースシーの世界は、多くの人に読まれ、共有され、確かに豊かな世界を形成していた。ル=グウィン自身も直観的な作家のように見えるが、彼女の前に立ち現れた世界は、多くの潜在的なものを反映し、ル=グウィンが言語化する以上のものを含んでいて、それが読者と共鳴したからこそ、ここまで世界的なベストセラーとして長く読み継がれてきたはずだ。
■読者の権利は存在するのか? それは著者とどのような関係にあるのか?
読者は、作品をお金を出して買い、それを読むことに自分の時間を使い、そのイメージを自分の中に構築する。著作権はもちろん著者にあるにしても、読者はそのように作品を共有する権利を持っていると私は思っている。
「自分が成長したから」「自分がより成長するために」「自分自身を解放するために」もしくは、「自分の発展を世に示すために」、数多の読者の投じた時間や読者がそこに感じている価値を足蹴にしてよいものではないと思うのだ。読者には自分のなかに取り込んだ物語に対して権利がある。この作品世界の改訂が、世の多くの読者に波風を立てたのは、ル=グウィンにとって、比較的、読者の存在が希薄だったからではないか、と感じた。
私は『帰還』が日本国内で出版された時に比較的すぐ読み、その作品世界の改訂を受け入れていた。多分、あの頃はまだ若く、柔軟性があったし、その一方で深くは考えず、与えられたものを飲み込んだのだと思う。3巻『さいはての島へ』を読んだのがはるか昔だっために、1巻から3巻までを細部まで覚えていなかったことも幸いした。今回まとめて再読した時の方が、違和感ははるかに強かった。
■片方を持ち上げるために、もう片方を墜としてはいけない
『帰還』のストーリー全般については、さほど大きな問題は感じないし、良く出来た物語だと思っている。しかし、ゲドをあそこまで「墜とす」必要はなかっただろう、とは思うのだ。
対立する二項があるとして、一方を持ち上げるために、一方を墜とすのはダメだ。
女をもり立てるために、男を貶める必要はない。いかに、物語の中で女が男に貶められていようとも。
しかも、前作との矛盾を作り出してまで、そうする必要はまったく無かった。 「さいはての島へ」の中で、ゲドは、こう言っている。
対立する二項があるとして、一方を持ち上げるために、一方を墜とすのはダメだ。
女をもり立てるために、男を貶める必要はない。いかに、物語の中で女が男に貶められていようとも。
しかも、前作との矛盾を作り出してまで、そうする必要はまったく無かった。 「さいはての島へ」の中で、ゲドは、こう言っている。
———「だが、ハブナーにもロークにも、わしはもどるまい。もう、力とはおさらばする時だ。古くなったおもちゃは捨てて、先へ行かなければ。故郷へ帰る時が来たのだ。(中略) あそこへ、ひっそりと、ひとり帰っていく時が来たのだ。あそこへ行けば、わしもついには学ぶだろう。どんな行為も術も力もわしに教えてはくれないものを。わしがまったく知らずにきたものを。」(『さいはての島へ』)
ゲドは、全ての力を失うことを受け入れ、ただの人として、故郷にかえり、これまでは知らなかった「ただの人としての生活」を知る時が来ることを、知っていた。望んでさえいた。そのために、竜の背にのって、ゴントに帰還したのだ。
「さいはての島へ」の続きのゲドであったなら、自分を卑下することもなく、だからといって自分の功績に縋るでもなく、ただ、淡々と力を失った自分と向き合い、新たに知るべきことを知ることに、喜びさえ見いだしたのではないだろうか。実際、競争社会をリタイアして、世俗的な力を失ったあとも、実質的な力を伴わないが名誉や尊敬をまとって淡々と誇り高く生活している人はこの世にいくらでもいるだろう。なのになぜゲドは、あのように未練がましく、卑屈で小さな男として描かれなければならなかったのか。
なぜ、既存の権威を破壊するだけでなく、貶める必要があるのだろう。こういったことは幻実の活動の中でも随所に見かける。政治活動などなら当たり前ですらある。だが、このファンタジーの中ではまるで必要ではない。 あのように描いたことで、ゲド戦記はファンタジーとしての力をだいぶ減じたと思う。
ジェンダーからの解放を描くために、一方の性を、男を、貶める必要はない。世の中にダメな男はごまんといるだろうが、ちゃんとした男には、ちゃんとした男なりの乗り越え方というものがあるはずだ。ル=グウィンはゲドにそうさせればよかったのに、ととても残念なのだ。
「さいはての島へ」の続きのゲドであったなら、自分を卑下することもなく、だからといって自分の功績に縋るでもなく、ただ、淡々と力を失った自分と向き合い、新たに知るべきことを知ることに、喜びさえ見いだしたのではないだろうか。実際、競争社会をリタイアして、世俗的な力を失ったあとも、実質的な力を伴わないが名誉や尊敬をまとって淡々と誇り高く生活している人はこの世にいくらでもいるだろう。なのになぜゲドは、あのように未練がましく、卑屈で小さな男として描かれなければならなかったのか。
なぜ、既存の権威を破壊するだけでなく、貶める必要があるのだろう。こういったことは幻実の活動の中でも随所に見かける。政治活動などなら当たり前ですらある。だが、このファンタジーの中ではまるで必要ではない。 あのように描いたことで、ゲド戦記はファンタジーとしての力をだいぶ減じたと思う。
ジェンダーからの解放を描くために、一方の性を、男を、貶める必要はない。世の中にダメな男はごまんといるだろうが、ちゃんとした男には、ちゃんとした男なりの乗り越え方というものがあるはずだ。ル=グウィンはゲドにそうさせればよかったのに、ととても残念なのだ。
■テナーとテルーの造形
自由な女であるところのテナーについても、いろいろと思うところはある。
たとえば、ジェンダーの象徴である女性的な美や処女性を奪われたテルーに対して、テナーは、最初の服として、赤いドレスを仕立てる。別染か生成りのあまり生地でエプロンも仕立てたろう。エプロンとは!まさに女仕事の象徴のような気がするのだけど、穿ち過ぎだろうか。 ともあれ、ジェンダーの軛の外に置かれたはずのテルーに、女性の象徴ともいえるような洋服を仕立てるのがテナーであり、ル=グウィンでもある。テルーは「アースシーの風」では、絹のシフトドレスを纏っている。障害のあるテルーは引っ込み思案で母から離れることができず、遠出の旅に、テナーに一緒にきてくれるように懇願するような女性に成長している。傷を黒髪で隠し、傷ついた側を人目から遠ざけるように行動する。それに対して、竜のアイリアンは男の子のような粗末なズボンと裸足で姿を現す。なぜ、テナーは、テルーをズボンをはいて元気な風のような子に育つことができなかったんだろう?たしかに、それには、テルーが背負った傷は大きすぎる。しかし、ル=グウィンが言うように、テルーがこの世界のいわば「導き手」として配置されたのなら、ジェンダーの外側に置かれたテルーを、もっと自由な存在にすることはできなかったのだろうか。この物語は、そういう話であってもよかったように思うのだ。
例えば、テナーが 幼いテルーに、「あなたの本質は外形ではない。火傷ではない。本当のうつくしさは、そんなものじゃないの」といって、赤いエプロンドレスの替わりに、柔らかい上等の生地で作ったズボンやチュニックを着せ、ゲドやテルーの持てる知識をすべて与えて育てたらどうなっていたろう。テナーが拒絶したオジオンのあたえようとしたものを、テルーが受け取るストーリーだって可能だろう。
もし、テルーが、その知識を力をもって、初めてハーバード大学に入学した女子学生のようにローク学院に入学したとしたらどうだろう?
ル=グウィン自身の物語の中では、テルーは兄弟の竜たちとともに西の果てのそのまた西に旅立ってしまったが、それは一つの物語であって、アースシーはそれ以外にも無数の物語をはらんでいるではないか。(まあ、ここまでくると、二次創作になってしまうけど)
なお、ここでは余談になってしまうが、翻訳者の清水さんは前述の『「ゲド戦記」の世界』の中で、テルーが最初に所有したものが、テナーの作ったドレスであったことに着目しているが、むしろ、子供時代を奪われたテルーの最初の私物が「骨のイルカ(おもちゃ)」であったことの方がはるかに象徴的なのではないだろうか、と考えている。
例えば、テナーが 幼いテルーに、「あなたの本質は外形ではない。火傷ではない。本当のうつくしさは、そんなものじゃないの」といって、赤いエプロンドレスの替わりに、柔らかい上等の生地で作ったズボンやチュニックを着せ、ゲドやテルーの持てる知識をすべて与えて育てたらどうなっていたろう。テナーが拒絶したオジオンのあたえようとしたものを、テルーが受け取るストーリーだって可能だろう。
もし、テルーが、その知識を力をもって、初めてハーバード大学に入学した女子学生のようにローク学院に入学したとしたらどうだろう?
ル=グウィン自身の物語の中では、テルーは兄弟の竜たちとともに西の果てのそのまた西に旅立ってしまったが、それは一つの物語であって、アースシーはそれ以外にも無数の物語をはらんでいるではないか。(まあ、ここまでくると、二次創作になってしまうけど)
なお、ここでは余談になってしまうが、翻訳者の清水さんは前述の『「ゲド戦記」の世界』の中で、テルーが最初に所有したものが、テナーの作ったドレスであったことに着目しているが、むしろ、子供時代を奪われたテルーの最初の私物が「骨のイルカ(おもちゃ)」であったことの方がはるかに象徴的なのではないだろうか、と考えている。
■フェミニズムについて
人の数だけフェミニズムがある、とは良くいったもので、フェミニズムは自分の体験を通して理解せざるを得ず、その経験は、本当に人それぞれなのだ。自分と世の中の関係、自分と異性との関係、自分と親との関係、時代、所属する社会、階級そう言ったもので千差万別である。私のフェミニズムは誰かのフェミニズムとは相容れないし、相互理解も難しい。なぜなら、根本的なところで、体験に依拠しているからだ。
では、多くの体験から上澄みを掬って、学問的に純化できるものだろうか。そうすることに意味があるのか?
世の中には半数近くの女と半数近くの男と、比較的少数の、それの両方に属する人と、おそらくはもっと少数のどちらにも属さない人で構成されている。
目指すのは、その全ての人が自由である社会である。
内心の問題は取扱いが難しいが、まず、目指すべきは外形的な平等だろう。
とはいえ、絶対に平等にはなり得ない部分が生殖である。そういったことを、現代のフェミニズムでは、どのように取扱い、消化しているのか、私はまったくの勉強不足なので、これから本を読もうと思っている。
0 件のコメント:
コメントを投稿