2021年12月25日土曜日

映画『ユダヤ人の私』 ドキュメンタリー



マルコ・ファインゴルド氏。1913年生まれ、2019年没。

 ハンガリーで生まれ、ウイーンで育つ。4人兄妹の3番目で、2人の兄は収容所で殺害され、妹は戦争終了まで身元を隠して生き延びたにもかかわらず、終戦直後に行方が判らなくなった。彼は一家のたった一人の生き残りである。
 このドキュメンタリー映像は、亡くなる直前の2018年から19年の収録されたものだそうで、106歳とは思えぬしっかりとした語り口で、淡々と「ユダヤ人」としての彼の生が語られる。

 家族で幸せだった子ども時代。奔放な10代から20代前半。仕事が無かったオーストリアを離れて兄とイタリアに行き、商売をして成功したが、パスポートの期限が切れるためにオーストリアに一時帰国したのが、1938年3月、アンシュルス(オーストリア併合)の数日前だった。そして、マルコ氏は、ウイーンに進駐するナチス・ドイツと、それを熱狂的に歓迎するウイーン市民を目の当たりにした。

 戦後、オーストリアはナチスの最初の占領被害国であると主張したが、オーストリア国民は紛れもなくナチス・ドイツを歓喜で迎えいれた。この日、わずかな時間で、ウイーンのユダヤ人の命運が暗転する。マルコ氏はパスポートの更新もできずに、兄とともにチェコスロバキア国境に逃れたが、無効となったパスポートを所持していたためにチェコスロバキア国内でつかまりポーランドに送られる。ポーランドで偽造の身分証明書を入手して市民に紛れ込んだが、今度は兵役忌避者と見做されて捕まってしまう。やがて、ついにゲシュタポに逮捕され、出来て間もないアウシュビッツに送られ、そこから今度は労働力としてダッハウ、ノイエンガンメ、ブーヘンヴァルト強制収容所に移送。途中で兄とも生き別れとなり、後に兄は収容所で殺されたことが判明する。

 106歳の語りは、とりとめもなく、間に挿入されるアーカイブ映像も、当時の世相を見せるものではあるが、氏の体験と直接結びつくものではなく、曖昧模糊とした印象が終始漂う。アーカイブ映像の見せ方には、ドキュメンタリー映画としてやや難があると感じた。

 しかし、その中でもはっきりと際立つのは、オーストリアへの怒りだ。

 ブーヘンヴァルトで終戦を迎えた被収容者は、国籍二十数カ国に及び、各国は迎えを寄越して解放後数週間で帰国していったが、オーストリア出身のユダヤ人は放置された。自分達で交渉し、輸送手段を確保してオーストリアに帰国しようとしたが、オーストリアはユダヤ人の受け入れを拒否した。

 淡々と、106歳の老人が過去の体験を語る、それだけのドキュメンタリーで、劇的なこと、衝撃的な映像、といったものではない。ところどころ前後関係の脈絡がなかったり、首をかしげる部分もないではない。しかし、アンシュルスの日を境に足元が崩れるように崩壊していったオーストリアのユダヤ人の様子が伝わるし、戦後にナチスドイツの被害者を装ったオーストリアは、実は雪崩をうってナチスに迎合したこと、そのことを告発しつづけたユダヤ人の証言として、大切な証言映像だと思う。また、反ユダヤ主義は、今も脈々と拡大再生産されており、こうやって抵抗し、告発していかなければ、いつまた、生存を脅かされるかもしれない、という危機感も伝わってくる。

 今も、反ユダヤ、ホロコーストの否定はヨーロッパ、全世界に広がっており、オーストリアのユダヤ人協会の会長を長年務め、積極的に講演活動も行っていた氏には、誹謗中傷の手紙やメールが数多く届いている。

 映像中に、それらの「生の文章」が差し込まれる。

 戦後は、ザルツブルグに住まい、パレスチナの地に移住しようとするユダヤ人を支援した。
家も財産も略奪されて帰る場所のない十万人ものユダヤ人が、ヨーロッパの外に移住してくれるのは、ナチのユダヤ人迫害に加担、もしくはこれを黙認した各国にとっても好都合だった。イスラエル国の成立にこのような側面があることも、現在のパレスチナ問題に大きく影響しているのだろう。もっともっと深く考えなければならないと思う。

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