原 題 「Blossom(Burke Series Book 5)」 1990年
著 者 アンドリュー・ヴァクス
翻訳者 佐々田 雅子
出 版 早川書房 1996年1月
初 読 2021年7月11日
文 庫 439ページ
ISBN-10 415079605X
ISBN-13 978-4150796051
おれは悲しい生まれだ————思い出すのはそればかりだ。だが、悲しみがおれの友だちだったことはない。必要なときでさえ、あの恐怖の電気ショックのように内部に食い込んでくるということはなかった。そいつはいつも存在しているだけだった。おれの魂に低く垂れ込めた霧のようなものだった。おれはよく自分の奥深くにもぐり込んだ。生きていく場所の中で、そこはおれが知っている唯一安全な場所だった。誰にも見えないところまで深くもぐり込んだ。だが、悲しみはやわらかすぎてちぎれない灰色の蔓を伸ばし、割れ目の間を進んできた。・・・・・・・
おれには小さな男の子が見えた。目には涙をいっぱいにため、ビンタを食った顔を赤く腫らして、自分のベッドからじりじり後ずさりしていく男の子が。3人の体のでかい少年がそちらに詰めよっていく。げらげら笑いながら、ゆっくり時間をかけて。
——————翼が折れたカモメをとり囲んでなぶる、3台の車。バークの記憶が揺すぶられる。
おれはチキンとダンプリングを食い、ジンジャーエールを飲みながら、一家の愛情あふれる会話に耳を傾けた。ふっと不思議な気がした・・・・・ここにいる自分の存在が。
刑務所の「兄弟」ヴァージルの家に迎えられ、一家の団らんを眺めながら。
バークとヴァージルはムショの仲間だが、子供の頃から犯罪を犯さずには生きることができなかったたたき上げの犯罪者であるバークとは違い、ヴァージルは愛する女を守るために殺人罪を犯し(引き受け?)、守ったその女はヴァージルを待ち続け、出所後には定職も家も所帯も持って2人の子供を育てている市民だ。そんなヴァージルの家で、居心地が悪いわけではないが、ふと、そこに自分が紛れ込んでいることに不思議な気分になるバーク。異世界を垣間見るような心もちだろうか。
インディアナ州で起きた連続アベック銃撃事件。バークのムショ仲間だったヴァージルの義理の従兄弟の少年に容疑がかかる。兄弟のために真犯人探しに乗り出すバークは、犯人像として幼少時の被虐体験が原因で人格が歪み、殺人行為(射殺すること)が性欲の引き金となる孤独な青年像を想起する。かつての被害者が今は連続殺人鬼となっている。しかしバークはそんな犯人に治療と更生の道を用意してやるわけではない。とうの昔に一線を超えてしまった人間には、それなりのケリの付け方しかない。バークにそれを出来るのは、バークが同じ側のサバイバーだからである。だがしかし、ケリをつけたのはバーク自身ではなかったのだが。
バークは殺伐としたニューヨークを離れ、インディアナのヴァージルの住む街で身分を偽装しつつ慎重に行動する。そのためか、これまでの作と比べ、人間関係もバークの行動も落ち着いて見える。ヒロインのブロッサムもこれまでの女性キャラの中では一番の高学歴(医学部出たての小児科医の卵)で、ある意味で育ちが良くて物怖じしない女性。かといってバークとまったく価値観がかすりもしないほどの良家の子女ではない。実は売春宿の娘なのだが、しっかりした母と、姉妹や店の女達に可愛がられて真っ直ぐ育っている。)
努力が実ったり、苦労が報われたりする当たり前の表の社会と地続きではあるが、その遥か下層に、子供が虐待され、食いものにされる世界があるのだとバークがブロッサムに教える。無論、妹が殺された彼女もそのことは知っているし、小児科医としてこれから生きていけば、いやでもそういった世界に関わっていくことになるはずだ。
ブロッサムが小児科医という身分を生かして、地域の児童保護の仕組みを調べてくる。
「いい、こういう仕組みになっているのよ、バーク。まず、800と言う番号が決められているの。これは州全体に共通の番号。みんながこの番号に電話するようになっているわけ。ソーシャルワーカー、救急センターの看護婦、学校の先生、隣近所の人、みんながね。電話はインディアナポリスに通じているの。そこの登録センターに。それから、また地元の出先に折り返し電話が行くの。それを受けた出先では人を出して調査させ、その調査員は報告書を作るの。事実か、そうでないのか。いずれにしても、その報告はインディアナポリスに送られて、すべてのコンピューターに入力されるっていうわけよ」—————1990年代のインディアナ州の虐待通報の仕組み。ちなみに日本でこのシステムに近いものが導入されたのは、2010年代。5、6年前からです。番号は「189」(イチハヤク)全国共通。覚えておいてください。
「あまりにも多すぎるんだ………あまりにも多すぎる。(中略)報告書がひどい目にあわされた赤ん坊でいっぱいだ。焼かれたり、打ちのめされたり、不具にされたり。性的虐待も受けている。しかも、このファイルの一件一件すべてが、子供を家に返してケリをつけてるんだ。元どおり万事オーケイってわけだ。」
バークのセリフが苦渋に満ちている。子供を守ろうとする試みはいつも後手で、ほとんど救いがない。壊れた卵は元には戻らないのに、壊されてからでないと何が起こったのかはわからない。そして打てる手は少ない。いつまでも子供を隔離し続けることはできないから、まだマシな親や親族がいる場合にはそこに返して再構築を試みることになる。子供を返す側も上手くいくはずがないと知っている場合もあるだろう。
ブロッサムが持っていた薬を正確に言い当てるバーク。ソラジン。もちろん日本で市販されているアセトアミノフェン主成分の鎮痛剤ではない。クロルプロマジンという抗精神薬で、日本で販売されているコントミンと同じもの。メジャートランキライザーである。知っている理由として「俺は教護院にいたんだ」と説明するバーク。落ち着かなかったり、他害傾向が強かったり、反抗的な子供に対して投与されてたんだろう。孤児院、里親、精神病院、教護院、少年院、刑務所。バークの居場所だったところである。そうなった理由は、まともな境遇に生まれることができなかったからである。「州に育てられた」というバークの過去はどこまでも悲しい。
バークが助けたカモメは、折れた翼も癒えて海に帰っていく。
バークもまた、自分が生きる場所に帰る。どんなに過酷な場所であろうともファミリーがいてホームグラウンドと呼べる場所がある。
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