2021年7月22日木曜日

0282 凶手(ハヤカワ・ミステリ文庫) 

書 名 「凶手」 
原 題 「shella」 1993年 
著 者 アンドリュー・ヴァクス 
翻訳者 佐々田 雅子 
出 版 早川書房 1998年4月 
初 読 2021年7月22日 
文 庫 333ページ
ISBN-10 4150796076 
ISBN-13 978-4150796075
 聞かれれば34歳と答えた。だが、本当の年齢は自分でも知らない。ゴースト、と呼ぶ連中がいて、ジョン、と呼ぶ人がいた。孤児院で育ち、教護院に入れられ、刑務所に行った。最後におつとめをしたのは、愛した女を守って変態の下衆を殺したから。
 最初の殺しは15歳のとき。年長の強い少年が、弱かったり年下だったりの少年達を支配している残酷な養護施設の中でのことだった。管理者の大人はなにもしなかった。あるとき、順番が自分に回ってきた。年長のボスの言うことを聞く代わりに寝ているところを殴り殺した。

 やがて、その行為が自分の生計になった。

 情緒や感情に乏しく、言葉数が極端に少ない。単に無口なのではなく、話すべきことを初めから自分の中に持っていない。それがどんなに無惨なことか、彼の言葉で“語られない”ことを通じて、物語全体で、ヴァクスは語っているように思う。
 ふつう、ハードボイルド小説でよく見られる主人公の一人称で感情表現を交えず抑えた筆致で描き出すのは一種の「スタイル」である。読者は、文字に書き起こされない主人公の感情や思考を行間に汲み取り、そうすることで、自分の中にヒーロー像を描きいっそう主人公への感情移入を強める一種の仕掛けとなる。そこに自分を投影し、自分のヒーローを自分の中に創りだし、彼らがじぶんの中を歩き回ることを楽しむことができる。だが、この主人公ジョンはそうではない。この男は、このようにしか考えられないからこのような文章になるし、こんなふうにしか感情が動かないからこのようにしか表現できない。その行間には汲み取るべき言葉は存在しない。そこにあるのは、虚無である。彼はおそらく被虐待児症候群の類型で、例えば、詳細に脳を調べれば前頭葉の情動を司る部位や、言語野にも萎縮が見られるのではないかと思う。善悪の観念も乏しい。獣が生き抜くために獲物を殺すように、必要に迫られれば人間を殺す。人間として生まれながら、人間としての様々な希望や喜びを享受できるようには育つことができなかった。人間を殺すその時に微かに動く、彼の心の残り滓が、彼が全き人間になることができなかったことの悲劇を示す。
 そのような彼が、渾身の努力によって追い求めたのが、彼と行動をともにしていた女性、シェラである。
 ジョンが刑務所に服役している間に行方がしれなくなった彼女を、ジョンは探し続ける。その過程で、彼女を探すことができると見做した男の依頼で、殺しをする。

 「いろんなことをしたんだ」「おまえを捜そうと思って、いろんなことをした」

 シェラを探すため引き受けた様々な成り行きをジョンはそんなふうに表現する。この拙い言葉が、読者にとってはどれほど雄弁なことか。
 ジョンは、自分がなぜシェラを探し続けるのか、自分ではその理由を言葉に置き換えることができない。
 そして、ついにシェラに再会したときに、シェラがその言葉を彼に教える。「愛している」と。
 ラストの「ジャケットをとりに行く。」と言う一文の意味が、彼にとっての希望を示すものであることを願う。



 蛇足ながら、巻末の解説には一言いいたい。「卑しき者どものブルース」???? いやそれは違うだろ、と。それでは、自分はヴァクスを理解しているのか、と問われればそれはおそらくできていないのだろうけど、ことの本質は「ハードボイルド」であるとか、「卑しい街に生きるしかなかった卑しい人間」の物語が持つ可能性、などというものではないだろう、と思うのだよな。ヴァクスが作品を通して取り組んでいる幼児虐待の告発についても、その受け止め方が浅薄でがっかりする。いかにヴァクスが取り組んでいることが理解されるのが難しいかの証左のような解説であるが、まあ、これは娯楽小説だから、人は読みたいように読めば良いのだろう。私も含めて。



0 件のコメント:

コメントを投稿