2025年3月30日日曜日

ノート 「ゲド戦記」の世界 (岩波ブックレット NO. 683) 

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書 名  「ゲド戦記」の世界 (岩波ブックレット NO. 683) 
著 者  清水 真砂子
出 版  岩波書店  2006年9月
ブックレット  60ページ
初 読 2025年3月23日
ISBN-10 4000093835
ISBN-13 978-4000093835

簡単なレビューはすでにアップしたのだが、このブックレットにいろいろと思考が触発されたので、ノートを作っておく。

子供はいつ「ノー」ということを覚えるのだろう 
 冒頭、「ノー」と言う言葉については、いろいろと思うところがある、と清水さんは語られている。しかし、最初に子供に覚えてほしい言葉は「ノー」であるとのくだりで、あ、この方は子育てはしたことがないのかな、と思った。 
 自我が育ってきた子供が「いや」と言えることは大切なことであるのは、否定するつもりはない。
 しかし、実際には赤ん坊は言葉を獲得する以前に「いや」と言っているのだ。泣くことによって。
 「いや」という言葉を覚えているかいないか、という以前の話で、赤ん坊が泣く→養育者が赤ん坊の欲求を満たすという反復を繰り返すことで、子供は、自己の存在を無条件に受け入れられているという、世の中と自身に対する基本的な肯定感を育む。この時に構築される養育者との愛着関係がその人の根っこを作る。これが人生のスタートで何よりも大切なことである。子供が最初に覚える言葉が、「いや」ではなく、ママであり、妈妈でり、マンマであることには、それ相応の理由がある。
 講演会の導入部で、聴衆に受けの良いであろう話題を選ばれたのかもしれないけれど、この内容は少々的外れなように感じるし、この導入って、『ゲド戦記』の話に必要なん?と思った。

■ものを読むということは
 ものを読むということは、書かれていることを読むだけではだめで、何が書かれていないか、新聞であれば何が取り上げられていないかがわかって、初めて読んだことになる。
 これはとても大切なことで、肝に銘じたい。

■訳語一つへのこだわり
 言葉には既成のイメージがある。「ひとつの言葉には、その言葉の歴史が全部まとわりついている」(P.13 )。そして、その一つの言葉の歴史は、書く人、読む人のそれまでの生活・人生で経験してきたものでもちがう。 その前提で、著者のイメージを過不足なく正確につたえるために、言葉の一つ一つを吟味する作業を繰りかえす。そういった作業に真摯に取り組まれている清水さんは、素晴らしい翻訳者だと思う。

■テルーが最初に所有したものは (p.18)
 このブックレットでは、清水氏はそれを、テナーが作ったドレスだと言っている。テナーが生地をもらい受け、染め、裁断し、赤いドレス、シュミーズ、エプロンを手で縫って仕上げる。多分それを、テルーはそばでじっと見ている。その時間はテルーにとって特別なものだったに違いない。しかし、最初の所有ということでいえば、「骨の人」とイルカ号の中でもらった「骨のイルカ」じゃあないかな、と思うのだけど、どうだろう?  そうはいっても、自分の物を持つことについての大切さが変わるわけではない。

■老人ホーム視察団のエピソード (p.18)
 これも、もっともらしい話ではあるのだけど、長い冬に閉じ込められる北欧の「室内」に対するこだわり、その室内調度品に向ける情熱を、そのまま日本の老人ホームに当てはめると、ちょっとずれるかも、と思った。この調度品へのこだわりという点で、私が思い出すのはジョン・ウェイン主演の「静かなる男」の1シーン。母から譲り受けた先祖伝来の家具を新婚の家に運びこむときのヒロインのふるまいなのであるが。
 それとは対照的に思い出すのが「柳行李ひとつで嫁に」、という当時の皇太子殿下(現在の太上天皇)のプロポーズ。日本人の家や生活は、基本的にヨーロッパよりははるかに軽量。片や、長い冬を屋内で過ごす国、片や災害が多い国柄、ということも理由の一つかもしれない。ともあれ物に詰め込む想いは、たぶん北欧人の方が、日本人よりも格段に重いんじゃないだろうか。人が何をよるがに過去を思い起こすのか、は多分文化によって違う。壁いっぱいの家族写真なのが西洋人だとしたら、日本人は、季節の移ろいとか年中行事、祭りや行事、折々の花、なのかも知れない。老人ホームでは人々の過去が消されている、というのが「ほんとう」なのかどうかは、もうちょっと考えたほうがよいかもしれないと思う。 

■今更ながらフェミニズムとは (p.19)
 第4巻の『帰還』が訳者の突き付けてきたのは、「あそこにある成熟したフェミニズム」をどのような日本語で表現したらいいか、ということだったと清水氏は言っている。

 私には“あそこにあるフェミニズム”がどんなものか、ちょっとよく分からない。
 広義のフェミニズムが20世紀初頭の婦人参政権運動などを含む、脈々と続いてきた女性の権利獲得運動であることは知っているが、ここで語られる“フェミニズム”は、もっと狭義のものだ。第二波なのか、第三波なのかもよく判らない。自分はもう何十年も仕事をして、自立して生きてきているが、その“フェミニズム”について、真剣に考えたことはたぶんない。だからといって、アンチ・フェミニズムではないし、ポストフェミニズムだと思っているわけでもない。ただ、なんとなく「フェミニズム」という言葉が自分から遠い。
 その点を何故だろうかと考えたとき、私は自分が女だどはっきり自覚しているが、一方で自分の中の男性性とでもいうものも意識しており、フェミニズムという用語では自分のその部分が疎外されていると感じるからではないかと思った。フェミニズムは私を表さない。ようは,“女くさい”のだ。と、いうことは世の中の半分を占める男性もそうなのではないか。そのような言葉に、世界を変える力があるのだろうか?
 ル=グウィンが体現していたフェミニズムとはなにで、フェミニストとはどんな人なんだろう? もっと私には勉強が必要だ。

■テナーの第三の言葉とは
 テナーをゲドから託されたオジオンは、テナーに「男性の「知」の世界」を与えようとする。しかしやがてテナーはそれを拒否し、考え始める。「自分は自分の衣装を着たい、自分の着物を着たい」「普通の女たちが生きる人生を全部、自分で引き受けて生きてみたい」。

 私は、それをテナーがかつて失ったもの(関係性や、生活や、それにまつわる事物)を回復させたいと願ったのだととらえた。だから、テナーが求めたものはフェミニズム的なものとは関係がなく、むしろ封建的ですらあった、と考えたのだが、この点は、清水氏とも(ひいては著者とも)考えが違うのかもしれない、とこのブックレットを読んで思った。
 そこで、清水氏はテナーを、「男性的な理論の世界の言葉を一度は、獲得した女性」と語るが、そこも果たしてそうなのかな?とも思う。むしろ、男性的な理論の言葉を拒絶した女性、なのではないか? 普通の女の生活の言葉を持っているが、生活べったりでないことは異論はない。彼女は生活や世の中に対して、ある種の客観性を持っている。しかしそれは、彼女が“白い女”であり、自身が生活する共同体の中に受け入れられていると同時に、常に他者、よそ者であるからではないのか。また、幼少時に「アルハ」という孤高の存在として養育され、教育されたからではないのか。また、カルカド語という、母語を持っているからではないのか。彼女が第三の言語を獲得しているとして、それをオジオンの教育に由来すると考えるのは、行きすぎだと思う。
 に、してもだ。 テナーの持つ「第三の言語」性を表現するために、苦心して翻訳されている清水氏の努力のおかげで、私達は実に生き生きとして、まさにテナーらしいテナーに出会うことができているのだ。

■ ハリー・ポッター(笑)
 別にハリー・ポッターをテキししているわけではないし、夢中で一気読みした。でも、読み終わった瞬間に「膨大な時間のむだ遣い」と思った。とのこと。(笑) 何にも残らなかった。(笑)(p.27) あ、それ言っちゃうんだ(笑)
 まさに。そういう本もある。子供にとってはそれでも良い場合もある。それで、「本を読むこと」「本を読んでワクワクすること」を覚えて、より深い読書の世界の入り口になるかもしれない。ただただ、楽しむだけの読書だってある。だけど、『ゲド戦記』とは違うよね、ということだ。だって、『ゲド戦記』って実際、読んでいてそんなにワクワクしなくないか? 正直いって重くないか? それでもその深みになにか得体の知れないものがありそうで、読まずには居られない。そんな感じだ。

 誤読する自由 
 清水氏の「私たちには誤読する権利がありますから、読みたいように読んでいる」という一文にはものすごい破壊力がある。作品をどのように読むか、は読者の権利なのだ、というのはものすごい示唆を含んでいないか? いったん世に放たれた作品は、その意味では、読者の物なのだ、とすら言えないか?
 作者には、自分の創作した作品を、いかようにも描く権利がある。ル=グウィンは、アースシーの世界について、誰はばかり無く作品を世に送り出す権利を持っている。一方で、すでに世に送り出された作品は、読者の中で確固たる世界を築いている。 ゲド戦記の第4巻以降の作品が世に巻き起こした葛藤は、まさにこの両者の対立だったのではないだろうか。
 その葛藤の中で、ル=グウィンすら、その意味を語る必要に駆られてしまった。それが、オックスフォード大学での「ゲド戦記」をひっくり返す」という講演だった。

■「意味」を語るという陥穽
 清水氏は、「ゲド戦記」第4巻は、このスピーチよりもずっと豊かで「こんなもんじゃないぞ」と思った。そして、ル=グウィンに「スピーチ原稿を読んだけれど、あなたの作品は、あなたがここに書いているより、はるかに豊かだと思う」と手紙を送ったのだそう。その手紙にル=グウィンがなんと答えたのか、もしくは応えは無かったのか、はこの清水氏の講演では語られていない。
 そのル=グウィンの作品の豊かさ、とは、読者の中に物語を喚起する力であり、喚起される物語はル=グウィンだけの物では無くなっている、ということだったり、清水氏自身の豊かさだったりするのかもしれない。清水氏が語る「こぼれるもの」は、もっともっと沢山あったが、非常に大雑把にいうと、そういうことなんだな、と思った。

 私は、清水氏のこのブックレット(2本の講演録を整理、編集したもの)を読んで、あれこれと細部の文句を言ったりはしているが、清水氏は素晴らしい翻訳家だと思っている。
 一方で、単語の一つ一つを吟味し、著者の思想を過不足なく伝えようと細心の注意をもって奮闘する翻訳者でありながら、読者としては「誤読する自由」がある、と高らかに宣言する。この強さ(獰猛さ?)が、清水氏の素晴らしさだ。

■ さいごに、映画『ゲド戦記』について
 「人が何かにつき動かされて表現に向かうとき、その表現形態が詩であれ、映画であれ、大事なのは出来上がった作品がそのジャンルの作品として自立しているか否かです。作品が作者をして表現へとつき動かしたものをどれだけ忠実になぞっているかは、全く問題ではありません。」「もしも、できあがった作品が不評を買ったとすれば、それはその作品に、読む者を、あるいは観る者をして我を忘れさせるだけの力がなかったということでしょう。」

 いやこれは、バッサリと。
 正にその通りですが、観客にとっての比較の対象が父宮崎駿であり、ル=グウィンの書いた作品出会ったという点では、吾朗ちゃんは不幸だったとは思う。
 私個人としては、テルーを顔に痣(変色)が残っているものの、きれいでかわいくて、歌の上手な女の子として描いてしまうことだけは、すべきでは無かった、と今でも思っている。
 テルーは顔と上半身の半分が焼けただれて、目も喉も焼け、ケロイドに覆われて、手指は癒着してしまっている、見た目も凄惨な障害を負った少女なのだ。それをきれいに描いてしまうことで、見た目が酷い障害は「絵にならない」「画面に出せない」という強いメッセージを世に放ってしまった。結局アニメはルッキズムを超えられないことを、こうまで残酷に表してしまったことが残念でならない。

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