2020年9月25日金曜日

父のこと

 父は体が悪く、私がものごごろついたころにはもう仕事はしておらず、いつも家にいた人だった。とはいえ、ベッドや布団に寝込むほどではなく、毎朝きちんと、折り目のついたスラックスにニットシャツ、春秋はその上にニットのカーディガン、冬はカシミアのセーターを着て、ゆったりとリクライニングチェアに横になっている、というのが一番記憶に残っている姿だ。囲碁が趣味で、碁盤の前になら4,5時間座っていることもあった。父の弟も碁を打つので、その叔父が訪ねてきたときも、たいていは二人で碁盤を囲んでいた。

 読書家で、駅前の本屋さんのご主人が御用聞きのように配達に回っていたので、月に一回くらいは定期購読の本とその時々の注文書を届けてくれていたように思う。と、ここまで書くと、なにやら立派な庭付きの日本家屋の縁側に面した書斎兼寝室に佇む病弱な主、的な昭和な情景が私の目にも浮かんでしまうが、実際に住んでいたのは狭い2DKの公団タイプの職員住宅だったし、決して悠々自適だったわけでもない。

 

 そんな父が、少なくとも病を得てから40年以上、日々何を思って暮らしていたのか、私にとってもいまだに謎なのだが、すくなくとも、普通に仕事をすることができないと諦めてからは、「障害があっても、自分にできることは何でもしよう」というような前向きな方向には、諸般の事情から、進まなかったことは間違いないと思う。基本「何もしない」という方向性を極めていた。すっぱり世の中とのかかわりを絶って、必要最低限の数人の親戚付き合いと生涯で2、3人の碁打ちの友達くらいとしか、他人との付き合いもなかった。

 父が自分の役割と自任していたのは、私に関わることだけだったかもしれない。

 車での保育園の送迎やら、小学校の授業参観、宿題の面倒、家事の手ほどきなとは、父の受け持ちだった。だからといって、べたべたとかかわるではなく、私にとっての父は、家の空気とか座敷童にちかい存在感だった。なにしろ、私が生まれたころからそうだったので、それが普通ではないことにはながらく気づかず、中学生の時になって、父のことを何気なく話した同級生にえらく申し訳なさそうに同情されて、はじめて、いわゆる「普通の」家庭ではないらしいことに気づいて不思議な気がした。


 父の日常といえば、天気の良い日の午後4時頃に、1時間くらいの散歩にでかけるのが日課ではあった。幼い頃は、私もよく一緒に行った。手をつないでいたのか、いなかったのか、記憶にない。その日ごとにテーマがあったらしく、行きと帰りに同じ道を歩かない、とか、角をかならず右に曲がる、とか、分かれ道は下り道を選ぶ、とか私を飽きさせない工夫があった。駅前の出入りの本屋さんは定番のコースで、本屋に行って本を物色し、同じ商店街の中にある喫茶店に入って、よくマロンパフェを食べさせてもらった。

 定期的に配達してもらっていた本は、囲碁雑誌のほかは、定期配本になっていた世界文学全集、ドストエフスキー全集、日本の古典全集と、手塚治全集(!)などだった。ジャングル大帝、リボンの騎士、火の鳥、ライオンブックスなどから、きりひと賛歌などの社会派作品まで、手塚治虫はほとんど読み尽くした。本は財産だ、というのが持論で、本は基本買って読み、読み終えた後も手元に置いた。考えてみれば、気軽に図書館にいけるものでもなかったし、そもそも近くに図書館はなかったのだが、読んだ本が父の過ごした時間の証だったのかもしれない。

 

 あれを読め、これを読め、と勧められることはあまりなかったが、読みたいといった本は買ってくれた。小学校に上がって最初に自分の意志で買ってもらった本は、たしかポプラ社かどこかの「おおかみ王ロボ」と「名犬ラッシー」だった。私が「ベルサイユのばら」にはまっていたときに、これを読め、とオルツイの「べにはこべ」を差し出したことはあった。フランス革命を賛美していた娘に差し出す本のセレクトとしてはなかなかセンスが良かったと今でも思う。

 

 父のことは、今にいたってもよくわからないままだ。何を思い、何を考え、何をあきらめて生きていたのか。満足していたのか、していなかったのか。諦観が服を着ていたような人ではあったが。居心地のよい部屋と椅子と、本とクラシック音楽と鉢植え。父の周りにあったものは覚えていても、父の内心は一向にわからない。亡くなってからもう、20年経つ。若いころの闘病でさんざん病院で酷い目にあっていたせいか、病院では死なないと決めていて、私が生まれた頃の最後の入院以降は、ずっと家で過ごした。亡くなる何年か前に、呼吸状態が悪くなって一度緊急入院したが、在宅酸素を携えて断固として退院してきた。私が幼いときと同じように、朝、きちんと身なりを整え、朝食にグレープフルーツを少々食べ、家族の出かけた後の居間で、一人でリクライニングチェアに掛けたまま亡くなった。そういえば父が亡くなるしばらく前、叔父が父の様子伺いに来た時、父はそのころ宮沢賢治を好んで読んでいたのだが、夢見るような様子で「俺は宮沢賢治の世界が分かったよ。あれは“青”なんだ」と語ったそうな。

当時、かなりの低酸素状態で実は朦朧としていたらしい。うつらうつらと夢を見て、母に「木を植えているんだ」と話したこともあったと聞いた。父と面立ちのよく似た、父を尊敬してくれていた叔父も数年前に亡くなった。

父が最後に座っていた椅子は、今、我が家の書斎にあって、大切にしようという私の意に反して我が家の猫達が爪をといでいる。

いつか、父の理解した宮沢賢治の「青」の世界を、究明できる日がくるとよいのだが。

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