この本↑の中身とはさして関係ないものの、タイトルに気持ちを仮託して。
さて、一昨年の2022年5月に、薫サンの没後に発表された『ムーン・リヴァー』を読み、いたく感動したところから始まった、今更ながらの栗本薫追い。若き日に読んだ『翼あるもの』がこのように展開していたとはついぞ知らず、『ムーン・リヴァー』→『翼あるもの』再読→『朝日のあたる家』と深追いし、読み友さんの〈キャバレーを見届けろ〉企画を追走。そして栗本薫、本当の絶筆『トゥオネラの白鳥』を読んでしまい・・・・・・このあたりの衝撃は当ブログ記事「0358 トゥオネラの白鳥(栗本薫・中島梓傑作電子全集28【JUNE Ⅱ】収録)」をご参照いただきたく。
そして、栗本薫よ、なぜそうなった?という今更な嘆きとともに《毒を喰らわば皿まで》企画として、読メで、かつて同人誌として頒布された『矢代俊一シリーズ』を追いかける、という暴挙に出た。
そこら辺の感想についても、関心のある方はこれまでの記事をご覧いただくとして。
この間、栗本薫についてアレコレ考えてはみたが、正直、往年の大ファンであらせられる浜名湖うなぎさんの論評に優るものはない。すべてにおいて浜名湖うなぎさんに禿同なので、あっちを読んでくれ!
浜名湖うなぎさんのブログはこちら
合わせて、年譜2種類も作成
◆栗本薫 年譜+作品一覧(一部省略) ◆栗本薫自作の矢代俊一年譜をベースにした「東京サーガ」年譜
で、この《毒を喰らわば皿まで》企画であるが、12月30日に、矢代俊一シリーズ23巻がKindle版で発行され、残すところあと2冊とはなった。だがしかし。
2023年のラスト一冊を、この本で飾る気には到底ならず、2024年の最初の一冊にもする気にはなれなかった。なんなら、読みたいという気にすらなれなかった。25巻まで読んだところで、完結しないのは判っているし、そのうち気を取り直して読むことができたなら、レビューは書き加えよう。そうしよう。ひとまず、この企画はおしまい! なにしろ、12月はたっぷりととっても素敵で上等なBL(M/M)を堪能したのだ。今更、矢代俊一には戻れない。無理無理。そんなこんなで、尻切れトンボではあるが、この企画については終了宣言する。
残り3冊については、今後読んだらレビューをアップして、リンクはつなげる予定。
さて、肝心の考証については不十分ながら以下に。
考察① 栗本薫よ、なぜにこうなった?
きちんとプロットを立てて、言葉を取捨選択して、前後関係を考証して、書いたら読み直して推敲する。そんなプロとして当たり前な仕事を、なぜ薫サンは出来るようにならなかったのだろう。絶大なファンがいらっしゃるということは承知の上だけど、やっぱり、グインサーガは原因の1つではないかと思う。あれ、100冊書く、じゃなくて100冊で完結させる!ってすれば良かったのに、と今更ながら思う。
長く書くことだけが目的化したグインサーガのせいで、だらだらと書くことが肯定されてしまったんじゃないか?と思う。自分も最初の20巻かそこらは追いかけていたけど、記憶に残ってるのはスカールがノスフェラスに行って、放射能障害で苦しむあたりまで。ある巻で最初から最後まで会話だけ、みたいなのがあって、そこで見捨てた。このシリーズが100冊だか、200冊だか本棚に並んだときに、価値のあるものになるとは思えなくなったから。当時持っていた本は古本屋に売っぱらったので、手元にはない。
考察② 検証:『トゥオネラの白鳥』の展開には合理性があったのか!?
これは、検証未了。
矢代俊一シリーズ16巻以降で、明らかに森田透が別人化して、人格的に劣化の一途を辿るが、このあたりの透視点のスピンオフが何点かある。しかし、販売価格がカンに触って、私は読んでいない。また、良が出所後、透を捨てて英国に武者修行に行ってしまう、というくだりも結局読めていない。それにしても、透の品格が著しく低下したのは間違いなく、透のファンとしては腹立たしいことこの上ない。薫サンて、自分の創出したキャラクターに対する愛が全然感じられないのよ。どうしてなのか、薫サンの作品からは自己愛しか感じられない。読んでいてなぜ、そう感じてしまうのか、文章に人格が滲み出すって不思議なことだと思う。
これは、検証未了。
矢代俊一シリーズ16巻以降で、明らかに森田透が別人化して、人格的に劣化の一途を辿るが、このあたりの透視点のスピンオフが何点かある。しかし、販売価格がカンに触って、私は読んでいない。また、良が出所後、透を捨てて英国に武者修行に行ってしまう、というくだりも結局読めていない。それにしても、透の品格が著しく低下したのは間違いなく、透のファンとしては腹立たしいことこの上ない。薫サンて、自分の創出したキャラクターに対する愛が全然感じられないのよ。どうしてなのか、薫サンの作品からは自己愛しか感じられない。読んでいてなぜ、そう感じてしまうのか、文章に人格が滲み出すって不思議なことだと思う。
それでも、『矢代俊一シリーズ』については、私個人的には、14巻くらいまでは、それなりに面白かった。冒険活劇の側面があって、そこそこスピーディーに展開したからだ。
だが、「トゥオネラの白鳥」に至る展開に合理性があるのか、ないのか、ということに関しては、結局のところ薫サンが気分の赴くままにかき回しているだけなので、「お前にとっては合理的なんだろうよ、お前にとってはな」としか言いようがない。結論としては、考えるだけ時間の無駄。
考察③ 矢代俊一シリーズの興醒めポイント
ひとまず大前提として、『キャバレー』のつっぱり小僧、矢代俊一君が、病弱・姫キャラ・BL受けになっちまったこと、ハードボイルドを地でいってた『死はやさしく奪う』の金井が、俊一にメロメロな絶倫巨根キャラになっちゃったこと、この二人がデキちゃったこと、は受け入れるとして、だ。(←そもそも、コレがダメな人だって沢山いるだろう。)
① 愛情の喩えが「聖母マリア」やら「殉教者」に終始するあたり、発想も表現も貧困。
② 努力と天才の孤高の人だったはず俊一を、実は国宝級天才ピアニストの実子だった、という事にしてしまった。あの才能は実は高貴なお血筋故、となってしまったがっかり感は半端ではない。虐げられた女の子は実はお姫様でした、っていう、低年齢向け少女漫画レベルの幼稚さ。
② 努力と天才の孤高の人だったはず俊一を、実は国宝級天才ピアニストの実子だった、という事にしてしまった。あの才能は実は高貴なお血筋故、となってしまったがっかり感は半端ではない。虐げられた女の子は実はお姫様でした、っていう、低年齢向け少女漫画レベルの幼稚さ。
③ その父親と俊一が似たもの親子で、べたべたと俊一を溺愛する描写がとにかく気持ち悪い。
④ 『翼あるもの』『朝日のあたる家』『ムーンリヴァー』で、自身の不遇を受け入れることで、透徹した美しさを醸した透が、卑猥でうすら暗い絶倫エロキャラと化した。
④ 『翼あるもの』『朝日のあたる家』『ムーンリヴァー』で、自身の不遇を受け入れることで、透徹した美しさを醸した透が、卑猥でうすら暗い絶倫エロキャラと化した。
⑤ とにかくひどいのは文章の劣化。腐った脳みそがだらだらと溶け出てるんじゃないかっていうような、つまらない思考が延々ループ。それが文字起こしされているだけの冗長な文章。推敲すれば1/10の文字数にすらならないだろう。商業出版どころか、同人だって読むに耐えるかどうか、というレベル。
その他、細かいところでは、黒人キャラの使い方とか、HIV感染についての極めて思慮のない取扱い。だが、書く勢いに思慮が追いつかないのは薫サン、昔からって話もある。
あと、アメリカツアーに和太鼓を持ち込み、黒の振り袖羽織ってステージに上がるとか、あざとすぎて、音楽で勝負したいと思っている人間の所業とはとても思えん。ここ一番でこういうステージを書いてしまう感性が、薫サンなんだな、と思う。聴衆、観客、読者を舐めてる。
さて、いろいろと書いてしまったが結局のところ、イヤなら読まなければよい。それだけの話だ。それでもつい読んでしまう中毒性の強さが、結局のところ「栗本薫」なのだ。ドラッグみたいなものだ。
もとより、私はさほど熱烈なファンでもないし、あの膨大な作品群を読破しているわけでもない。私は『翼あるもの』と、『朝日のあたる家』と、『ムーンリヴァー』に感動して、森田透というキャラクターに入れ込んだだけの、コアな栗本薫ファンからしたらただの“一見さん”だ。(グインサーガの初期と、魔界水滸伝第一部と、ぼくらシリーズとか、レダなんかのSFとか、印南薫くんのとか、伊集院大介もそこそこ読んではいたが。)それでも、この間、こき下ろしレビューを書かずにはいられなかったこの鬱憤は、栗本薫本人とその遺作を管理する御夫君にも責任があると確信している。
デビュー当時の栗本薫が才能ある作家だったのであれば、なぜ、その才能を育てられなかった?育てるなんて大仰なものでなくてもよい。プロの作家としてあたりまえの、読み直して修正する、推敲する、考証する、という習慣を付けさせることは出来なかったのか?
まあ、出来なかったのだろうな。出来たらやってるでしょうしね。
作品を通してさえ、これだけ強烈な個性だ。そばで巻き込まれた人にとっては、それどころではなかったんだろう。
ただ、一言だけは言いたいね。
人にみせたら恥ずかしいものは、きちんと家の中にしまっておけよ。御夫君は、〈矢代俊一シリーズ〉1巻冒頭で述べていた最低限の修正くらい責任もって貫徹しろよ。
さて、2年に渡った栗本薫の今更追っかけレビュー企画については、ひとまずここで終了とする。
未読の何冊かについては、いずれ読んだり、刊行された時点でレビューをアップし、リンクは繋げようと思う。ラストは、浜名湖うなぎさんも推す、栗本薫のハードボイルド処女作とも言うべき『行き止まりの挽歌』で締めることにしよう。さようなら、栗本薫。
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