原 題 「CHEEK BY JOWL」2009年
著 者 アーシュラ・K・ル=グウィン
翻訳者 谷垣 暁美
出 版 河出書房新社 2011年8月
単行本 210ページ
初 読 2025年4月30日
ISBN-10 4309205712
ISBN-13 978-4309205717
読書メーター https://bookmeter.com/reviews/127612072
私が、諸々の本の感想の中でル=グウィンについて批判的なことを書いたとしても、ル=グウィンの作品が魅力的であり、ル=グウィンその人が非常に知的で、誠実で、勤勉な人であったろうことには疑いの余地はない。ついでに念を押すが、私はル=グウィンの作品のファンである。その点は最初に言っておかねば。
ル=グウィンは偶像ではない。彼女の時代と場所に生きた素敵な女性である。この本の訳者後書きに、私は全面的に同意している。
なお、訳者によるあとがきによれば、この本の原題「CHEEK BY JOWL」はちょっと不思議な言葉で、CHEEKもJOWLも頬を表す言葉、ただしCHEEKは人間のみに用いられJOWLは動物にも用いられる言葉なのだとか。チークキス、ただし人間と動物との。そんなイメージだろうか。この語感を日本語に引き写すことは難しい、との判断で、日本語版のタイトルは、原著のサブタイトルから取ったそう。薄めの本だと侮って手にとったが、いやはや中身は濃厚でした。
■ファンタジーについて前提とされているいくつかのこと
*業界人の集まる大規模なブックフェア、ブック・エキスポ・アメリカでの「児童文学を語る朝食会」2004年4月のスピーチ
ファンタジーの誤った定義(1)登場人物が白人 (2)中世っぽい世界 (3)善と悪の戦い(バトル・ビトゥイーン・グッド・アンド・イーブル=略してBBGE)。その行動は(敵も味方も)みんな同じ!思慮のかけらもない暴力がひっきりなしに続く。そうではなくて、本当のファンタジーに可能なものがある。それを大切にしないと。という話。
■内なる荒野
*ケイト・バーンハイマー編「鏡よ、鏡——女性作家たちがお気に入りのお伽噺の世界を探求する」の第2版(2002)初出したものを修正。『ファンタジーと言葉』(2004)にも収録。
誰もが知っている『眠れる森の美女』をひっくり返す。全てが眠っている「しんとした場所」それが、王子のたった一度のキスで破壊される。ひとり満ち足りて眠る少女は、王子に起こされ、日常の喧噪の中に引き戻され、当たり前のようにいきなり彼女を目覚めさせた目の前の王子と結婚させられる。(当然のごとくに恋に落ちて。)この鮮やかな逆転。茨に守られた眠れる王国の静けさとの対比がすごい。さらに、ル=グウィンの『密猟者』には「少年」が登場する。しかし、あのお伽噺は、依然としてそこにあり続ける。
■ピーターラビット再読
*「空想上の友だち」のタイトルで、イギリスの週刊誌『ザ・ニュー・ステイツマン』2006年12月18日号に掲載
“子どもの頃読んで、そのあとの長い人生にときどき帰っていく一冊の本、あるいはひとつのお話"・・・・私にとっては、まさに『ゲド戦記』がそうなのだけど、ル=グウィンがピーターラビットの絵本を挙げるからには、もっと子供のころの本を考えないといけないだろうか? そしてその子供向けに書かれた本は、ファンタジーである可能性が高い。モダニズムが米英文学の中でファンタジー文学に与えた「子供向け」という刻印のひどい影響について、ル=グウィンの舌鋒は鋭い。今一度、ル=グウィンの手ほどきで児童文学について紐解きたくなった。ルイス・キャロル(アリス)、ケネス・グレアム(たのしい川べ)、ミルン(くまのプーさん)その他もろもろ、そしてトールキン。大人の読者も多い。ファンタジーは年齢を超越することができる文学なのだ。
「ハリー・ポッター」現象は、改めて、大人の意識をこれまで拒絶していたファンタジーに向かわせ、人々はファンタジーを読む歓びを再発見した。(その点だけは、評価してやらなくもない、というル=グウィンの無言の声が聞こえてきそう・・・)
■批評家たち、怪物たち、ファンタジーの紡ぎ手たち
そもそも、ル=グウィンに「素晴らしい本がある。絶対読むべきだ!」と言ってハリー・ポッターを薦める連中の、怖れを知らぬこと!
「初めてその言葉を聞いたときは、白状すると、わたし自身が書いた『影との戦い』を読めといわれているのだと思った。」と書くル=グウィン。ハリー・ポッター現象を否定するわけではない。あの人気は本物で、シリーズをベストセラーにする装置が動き始めたのは、そもそも人気があったからである。
しかし、批評家連中は、ハリー・ポッターを褒めそやすことで無知をさらけ出した。モダニズムが文学研究からファンタジーを遠ざけたおかげで、「大人の」書評家や批評家はファンタジーを読む素養をまるで失ってしまっていた。だから、実際には、紋切り型で、模倣的でさえあるハリー・ポッターを「独創的」だ、などと評価することができたのだ。・・・延々ハリー・ポッターの評判を聞かされたり、感想を聞かれたりしたであろうル=グウィンの憮然とした表情が想像できそう。ハリー・ポッターを最初に読んだときに、「こんなのファンタジーじゃない!」と叫び、心底『ゲド戦記』を読みやがれ!と思った私は、これを呼んで我が意を得たりとニヤニヤしている。この論説の前半部分は、批評家に対して、もっと勉強しろ! という罵倒を極めて穏便に(?)書き綴っているようにも見えるが、しかし、それだけでは終わらない。後段は、ファンタジーそのものについて懇切丁寧に我々に教えてくれる。もちろん、そちらの方が重要である。
また、p.53の「訓練を受けていない人がファンタジーを論じようとすると、ファンタジーを合理化することになりがちだ。」以降の一連の文章は、最近、『「ゲド戦記」を‘生き直す’』という彼女自身の講演録を読んで、モヤモヤしていた私にとっては、示唆に富んでいるように感じられた。
「・・・そういう合理化は、ファンタジーを拒絶するもの、説明することによって消し去るものだ。ファンタジーにふさわしい読み方をすることによってのみ、読者はファンタジー作品の道徳的な立場や社会との関わりがすこしずつわかりはじめるのだ。」
■子どもの本の動物たち
*2004年「アーバスノット記念講演」の講演者として、全弁図書館協会の集まりで話した原稿を元に加筆されたもの。
ル=グウィンはこの本の半分以上のページをこの項に割いている。「わたしが提供できるのは分類だけだ。」本人が書いているように、ル=グウィンはこの論説で、なにかを証明したりはしていない。極めて雑にいうと、「私はこう考えるー各論」と「私はこう考えるー総論」だけで構成されていて、各論で総論を上手に説明できているかというと、私にはあまりそうは思えない。しかしそれよりも、古典的な動物物語(動物が主人公のものから、動物が登場するものまで)ひとつひとつの紹介がとても生き生きとしている。これまで私が読んでいない本がほとんどで、子どものころにやり残したことがこんなにあったのか!ととても残念なきもちでいっぱいだ。とくに『バンビ』。私はディズニーが昔からあまり好きではなく、ディズニーアニメ原作というだけで、この本は読む対象から除外していた。なんて残念な!
しかし、つい面白いと思ってしまったのは、以下の一節。
「・・・この本の長所を味わうために、この言語道断の性差別主義をがまんする努力をしてもいいのかもしれないが、わたしはどうしてもがまんできない。アダムズがいんちきをしているからだ。彼は男性優位主義のファンタジーを書きたかったのだ・・・・というのは、この本が刊行された1972年には、露骨な男性優位主義はだんだん受け入れられなくなってきていたのに、アダムズは動物の行動だということにしたおかげで、咎められずにやりおおせたからだ。・・・・」(p.115)
なるほど、『影との戦い』から『さいはての島へ』までが書かれたのが1968年から1972年である。この論説は2004年の講演の原稿に加筆されたものであるが、これは、1990年に『帰還』を書き、1992年8月にオックスフォード大学で『ゲド戦記を"生き直す"』の講演を行い、そして2001年には『ドラゴンフライ』と『アースシーの風』を世に出していなかったら、とてもではないがル=グウィンは、「彼は男性優位主義のファンタジーが書きたかったのだ」などという批判はできなかっただろうな、と思うのだ。アダムスがル=グウィンと違うのは、アダムズが書いた『ウォーターシップダウンのウサギたち』が、参考文献にあげた研究書の内容とは真逆のことをしゃあしゃあと、さも事実のように書いているということで、もちろんそれは、読者に対する、そして動物たちに対する重大な裏切り行為である。とはいえ、「男性優位主義がだんだんと受け入れられなくなってきていた」1970年前後、明らかにその世界の価値観が男性優位主義であるとしかいいようのないゲド戦記を書いてしまった女性の、しかもフェミニズムに目覚めた作家としては、その方向性を修正せざるを得なかったに違いない。
だが、それをあのような形ですべきだったのか、という一点については、わたしは肯定しきれないし、彼女自身も、他の作家の作品に対してはそう言っているのだ。
「ファンタジー作品で、自分がつくった規則を変えたり、破ったりすると、物語の一貫性がなくなり、つまらないものになる。」(p.139)
まさにその通りで、ゲド戦記で行われた世界観の「改訂」は、物語のファンタジー性を揺らがせ、その世界に没入していた読者を揺り動かし、現実の世界に引き戻してしまった。『ゲド戦記』はジェンダー的な正しさを手にいれた代わりに、ファンタジー性が大きく損なわれた。少なくとも、私にとってはそうだった。私は女性であるが、本を読んだ10代の初めのとき、男であるゲドに自己を投影することは全く難しいことではなかった。子供は、ウサギにもネズミにも、馬にもなれる。ましてや性別の境など、何ほどでもない。本を読んでいるとき、私はゲドだった。そして、ゲドが作者の手によって損なわれたとき、私の子供時代の何かも損なわれた。それを行うことは、作者の権利ではない、と私は思う。
■YA文学のヤングアダルト
*2004年に、ヤングアダルト向けフィクションの分野でしてきた仕事に対して、全米図書館協会からマーガレット・A・エドワーズ賞を受けた際のスピーチのために書かれた原稿・・・という小論なのだが、例の私が難解だと思った『「ゲド戦記」を‘生き直す’』の原稿とほぼ同じ内容が、ティーンや一般向けに、ごく噛み砕かれた平易な表現で書かれているようだ、と気づいたので、大変にありがたい読み物だった。なるほど、ル=グウィンはそう考えていたんだな、というのを再確認できた。まあ、このゲド戦記の世界観の改変については、一番正しい形容は、「他人がやれば不倫、自分がやればロマンス」というのがどうしても思い出されてしまうのだけど・・・・ねぇ。
■メッセージについてのメッセージ
*『チルドレンズ・ブック・カウンシル・マガジン』2005年夏号掲載に加筆 ファンタジーは何かの(道徳的な)メッセージを伝えるためのものではない。ファンタジーが貴方につたえるのは物語だ。というメッセージ。ウィットに富んだタイトルがとても素敵。
■子どもはどうしてファンタジーを読みたがるのか
*『タイムアウト・ニューヨーク・キッズ』誌2004年6~9月号「クエストワード・ホー(いざ、冒険へ)」という見出しのコラムに掲載されたもの。
「ティーンエイジャーたちは、自分の住む世界を理解し、意味を見出し、その中で生き、道徳的な選択をするために猛烈な意識的努力をする。その苦闘は往々にして、ほんとうに死に物狂いのものだ。彼らは助けを必要としている。」(p.115)
その助けになるものがファンタジーである。現実の世界では難しい冒険を、物語は体験させてくれる。その中で、ティーンエイジャーは、自分を自分で導く機会が与えられる。とはいえ、そういうファンタジーの魅力は、商業主義にとっても大いに魅力的で、世の中には複製され矮小化され、単なる闘争に善玉と悪玉の仮面を被せただけの粗製濫造された偽物が溢れている。だが、注意深く探せば、本物を探し出すことができるだろう。
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