入院した病院に、常勤の泌尿器科やら腎臓内科の専門医がいなくて、週2回非常勤の先生が来るだけ。とりあえず、抗生剤投与で炎症を抑える治療だけを行う、と言われて入院加療を開始したのだったが。
なぜ、専門医の居ない病院に入院することになったかと言えば、87歳の高齢でおまけに認知症で、専門治療を積極的に選択できるとは思われなかったためか、入院を打診した病院にことごとく断られたから。
そのため、最初に検査を受けた総合病院が入院をひきうけてくれることになったのだ。
まあ、仕方ない、といえば仕方ないことではあるが。治療の可否はともかくとして、腎臓に問題があるのは分かってるんだから、とりあえず引き受けろよ!とは思わなくはない。
で、幸いなことに抗生剤投与が功を奏して、炎症は順調に治まり、体調は回復。炎症の原因は尿路感染症。水腎症になった左腎臓はそのまま温存という名の放置。内科の主治医先生の言葉によれば、左腎臓はもう機能は果たしていない。このまま大きくなることはなく、むしろこれから萎縮していくであろう。尿管閉塞の原因は現在のと頃不明。採取した尿を細胞分析(?)の検査に出しているから、がんであれば、分かるかも。・・・ということで、来週検査結果を聞きにいく予定。それから、GHの主治医と面談させてもらって、今後の対応方針を考えるかなあ・・・・・というのが現在のところ。
現実問題として、今回の入院ではっきりしたのは、点滴も困難であること。
母は元医療職だからか、あらかたもう、忘れちゃってるのに、点滴を上手に抜いちゃうんだよね。なんていうか、よくある認知症のご老人のように、むしり取って抜管、て感じではなく、丁寧に留置針を取って、点滴のルートを丁寧に丸め、床頭台の引出にしまってあった。
もし、母が経口で水分摂取できなくなったとして、点滴で命をつなぐ、ということはできないな、と思った。
もとより、延命処置はしない、ということで意見は一致している。それにしても、どこまでを延命のための医療行為とするか、は微妙に迷うところだな、とこれまで思っていたのだ。
気管挿管はしない。人工呼吸器は使わない。中心静脈栄養や、胃瘻は行わない。といのははっきりしていたが、そうか、点滴もムリだな、とわかってなんだかすっきりしてしまった。
母は入院していた初日、「なんだか、天国が近くにきているような気がするのよネエ」とのんびりと言うので、私も「そうだねえ、もういい年だからねえ、だいぶ近くに来ていると思うよー」とこれまた陽気に返事をした。 母と長閑にそんな話をしたのは、同じ6人部屋に入院していた、もう発語もままならない寝たきりのおばあちゃんの家族が、それはそれは悲壮感溢れる看病をしていたからでもあった。 家族の形や関係性は、それぞれなので、もちろん口出しするようなことではないが、もっと穏やかに見守ってあげりゃあいいのに、と内心思ったりもした。
人は必ず死ぬ。死ぬことを忌避することはできないし、するべきではない。忌避するべきは悲惨な死に方や、苦痛であろうと思う。現代医療が目指すのは「老衰死」だ、と最近の本で読んだ。母を観ていると、それほど遠くない先に、自分の老後もあるのが見える。できれば認知症にはならずに「老衰死」と言えるような最後を迎えられるならば、と思う。思うにまかせないであろうとも思うのだけど。蛇足ながら「尊厳死」は必要ないと思っている。
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