2025年5月26日月曜日

0556 ロカノンの世界(ハヤカワSF文庫版)

書 名 「ロカノンの世界」
原 題 「Rocannon's world 」1966年
著 者 アーシュラ・K・ル=グウィン    
翻訳者 小尾 芙佐     
出 版 早川書房 1989年5月
文 庫 217ページ
初 読 2025年5月18日
ISBN-10 4150108234
ISBN-13 978-4150108236
読書メーター 
https://bookmeter.com/reviews/128057332

 ル=グウィンのデビューSF長編。(なにかの解説に「処女長編」って書いてあったけど、ル=グウィンはそのような表現嫌がりそう(笑))
 ハヤカワ文庫の表紙は萩尾望都で、これがとても美しい。そういえば、SFファンタジーというような作風は、萩尾望都、竹宮惠子などとの同時代性を感じる。実際には大泉組が影響をうけた側だろうと思うが。『銀の三角』とか『マージナル』のような萩尾望都の絵柄で、物語が脳内再生される。神話世界を生きている惑星と、そこに到来した地球(=ハイン)文明、SF的要素が融合した、異世界ファンタジーである。
 第一部は、ある(未開の)惑星の、民俗的伝承から始まる。
 そこで描かれるサファイヤ(たぶん)の首飾りは、初期の探検隊が星から持ち出し、別の惑星にある博物館に収められていた。その首飾りを取り戻すために、神話世界の女王たる美しい女性が、まさに時空を旅してロカノンの元を訪れる。
 一人の異郷の美しい女性に心惹かれた民族学者が、再びその惑星の調査に訪れる。古典SFらしい、光速旅行による時間の遷延が、物語の重要なファクターとしてうまく取り込まれている。また、超光速航法は開発されてはいるが、生物は超光速航法には耐えられず、光速の壁を越えることはできない、というル=グウィンのハイニッシュ・ユニバースの独自設定も面白い。
 一人の成熟した民俗学者である地球人(血統的には純粋なハイン人)のロカノンが、異星民族の調査中に、突然正体不明の敵からの攻撃で仲間と船を失い、母星との連絡手段も失われてしまう。鉄器ー青銅器時代の発展段階の未開な異星にたった一人で取り残された状態から、起死回生のために、現地人の勇者や従者や矮人を連れて、未知の土地に旅に出る。主にロカノンの視点で語られる未開の惑星が、ル=グウィンの手によって色彩も鮮やかに、空気も芳しく描き出される。ロカノンの驚異的な体験や、筆舌に尽くせぬ心象をごく控えめな筆致で描き、ラストでは、この惑星でロカノンがどのように最後の時間を過ごしたのかは読者の想像に委ねられ、読者はその余韻に漂うことになる。
 ロカノンがテレパシー能力を獲得するくだりなんかは、ちょっとご都合主義な感じがしないでもないが、十分に許容範囲。
 読み進めると同時に、萩尾望都を再読したくなった。今時の(?)SFらしいメカニカルなSFとは一線を画する世界観は、ちょっと郷愁めいたものを感じるし、夢中になって萩尾望都を読んでいた、〇十年前を思い出す。

 先に読んだ、『世界の合い言葉は森』は、どこか説教がましい感じがあって、あまりのめり込めなかったが、この作品は十分にセンスオブワンダーを感じる。これが、(初期の)ル=グウィンのSFか。SFと、ファンタジーと、童話を混ぜて練り上げたような、独特の読み応えがとても面白かった。

2025年5月17日土曜日

0555 世界の合言葉は森(ハヤカワSF文庫版)

書 名 「世界の合言葉は森」
原 題 「THE WORD FOR WORLD ID FOREST」1972年
    「HE EYE OF THE HERON 」1978年
著 者 アーシュラ・K・ル=グウィン    
翻訳者 小尾 美佐/小池美佐子     
出 版 早川書房 1990年5月
文 庫 391ページ
初 読 2025年5月11日
ISBN-10 4150108692
ISBN-13 978-4150108694
読書メーター 
https://bookmeter.com/reviews/127873328

 ゲド戦記から、評論やエッセイを経由して、ル=グウィンのSFに着手。この本を最初に手にとったのは、ただの偶然。たまたま、Kindle版をスマホにダウンロードしていたから。刊行順に読むより、行きつ戻りつ読んだ方が面白いかと思って。
 この本には、『世界の合い言葉は森』と『アオサギの眼』の中編2本を収録。うち、『世界の〜』はハイニッシュ・ユニバースシリーズの一篇。『アオサギ』の方は多分独立した小説だと思われる。
 ちなみにハイニッシュ・ユニバースとは、ル=グウィンが創作したSF世界。本作中にも登場するハイン人が、過去に宇宙に植民して人類を播種し、それぞれの植民星で人類が個別に進化した、とする世界。詳しくはこちらのwikiを参照のこと→ ハイニッシュ・ユニバース

 ところで、このハヤカワの文庫本裏表紙のあらすじが酷い(笑)。

 「森がどんどん消滅していく———植民惑星ニュー・タヒチでは・・・(中略)。利益優先の乱開発で、惑星の生態系は崩壊寸前。森を追われた原住種族アスシー人は、ついに地球人に牙をむいた! だが、圧倒的な軍事力を誇る地球人に、アスシー人の大集団も歯がたたない。二つの知的種族とその文明の衝突が産む悲劇を、神話的なモチーフをたくみに用いて描き上げる・・・」

 どこがどう酷いのか、説明しがたいほどに酷い。こういう話じゃないよ。ぜんぜん違う。侵略者と被征服民、強者と弱者、正義と悪、そういう二項対立は、ル=グウィンが一番嫌うところだと思う。以下、感想。

◆世界の合言葉は森◆
 植民惑星、原住民、植民軍。“船一隻分の女が新着。繁殖用女性、品質優良のニンゲン212頭。ピチピチはちきれそうなベッド向きのボイン212人”ときたもんだ。なんだかすごいものを読み始めたぞ。と、冒頭うろたえる私(笑)。

 “野蛮人はつねに文明人に道を譲るべきだ。さもなきゃ同化するか。”

 よもやこのデイヴィッドソン大尉が主人公ではあるまいな?とドキドキする。なんだこの植民地主義の男根主義のイカれた男は! アメリカ大陸に押し寄せた侵略者はこんな感じだったんだろうか? 脳内のデイヴィッドソン大尉が、開拓時代の南軍の軍服や、西部劇の騎兵隊の制服で脳内再生されちゃって。インディアン皆殺しだヒャッホー!って感じを地でいく偏見ゴリゴリの勘違い男だが、なまじか頭がよく、信念があり、ありとあらゆる事象を自分に都合良く解釈。でも実際にもこういった人間はいる。ほら、某大統領とか、某県知事とか。現実味があるのが、いっそ恐ろしい。

 「メカ〇〇」とか、「ロボ〇〇」とか、「ロケット船」といった用語も今はなっては古色蒼然、「テレテープ」っていうのは、ビデオテープのようなものだろうか。音声記録はカセットテープ! 2001年宇宙の旅のハルの記憶媒体が磁気テープだった時代だもんな、などと思いながら、でもたとえば、ホーガンの『星を継ぐもの』なんかも1970年代SFだけど、ノートPCに類するガジェットなんかの空想のテクノロジーは、現在でも読むに耐えるものに仕上がってるし、これは、やはり作者の方向性の違い、というかテクノロジーへの関心の高さの違いかも? まあ、ル=グウィンだし、遠未来のテクノロジーを描くことが主題ではないし。なんとか1章を突破して、ようよう2章目から、目前に広がるル=グウィンの世界観!森!森!大森林!
 
さてここから読み進めるのに登場人物一覧と用語集が必要だ。

デイビッドソン大尉———上記、第1章のイカれ男。マッチョな男根野郎。だが、なまじ頭が
            良く、認知は歪んでいるが、リーダーシップもあり、行動力も十分
            にあるのが最低。
ラジ・リュボフ大尉———植民軍の研究者。人類学者。異星社会学、異星文化人類学って感じか。
ゴス      —————ドン大佐の部下
ベントン    —————ドン大佐の部下
ジョシュ・セレン ———技師
ムハメッド少佐  ———植民開拓地ニュー・ジャバの指揮官
ディン・ドン大佐————植民星ニュー・タヒチ(惑星41号)の植民軍現地司令官
ニュー・タヒチ  ———彼らが植民している惑星の通称。地球から27光年離れている。
            この星は大部分がが海で、いくつかの大きめな島があり、密林で覆わ
            れており、人類は、森林資源(材木)を目当てにこの惑星に植民した。
ユング司令官   ———星間光速宇宙船〈シャックルトン号〉指揮官。
アンシブル    ———星間通信装置。光年間の空間で即時通話を可能とする技術。
            この世界ではジャンプ航法やワープ航法はなく、宇宙船の最高速度
            は光速。通信だけが、即時通信出来る設定。
スペッシュ    ———作品中では定義が判らなかった。他の作品読んだら判るか?
            植民軍の中の技術職を指しているのか?科学者のことかも。
クリーチー    ———元々は基地の底辺労働者の意。ここでは原住民(アスシー人)にた
            いする蔑称にも。
ヒルフ      ———現地人の意か? ハイニッシュユニバースの先行本を読むと判るっ
            ぽい。
ルペノン     ———星間輸送船〈シャックルトン号〉でこの植民惑星〈惑星41号〉に
            やってきたハイン人。肌が白く、背が高い。星間連盟政府に所属。
オル       ———セチア人。毛深い。灰色、小男 ルペノンと同じくシャックルトン
            号に乗船していた。
セルバー     ———アスシー人。アスシー人は身長1m弱、緑色の体毛を持つ、アスシー
            の環境に適応して進化した人類。植民者の人間(アスシー人による
            とジンゲン)のリュボスと友誼を結び、お互いの言語を学び、辞書
            を作るなど、リュボスの研究にも貢献。
「神」(アスシー語)——新しい知識や概念をもたらすもの。指導者。アスシー語の神には通
            訳の意も含む。

 地球人側からすれば、植民惑星の開拓だが、実際のところ、侵略と原住民族の殲滅にほかならない。そもそも、デイヴィッドソンのような男を植民軍の先鋒に加えたのが間違いとしか。
 この男が少しずつ軌道がずれて、さらにおかしくなっていくのが、現実的すぎる。どこでどうやったらこの男を止められるのか。作中ではついに止められないけど。こんなのが現実にいたらどうやって対処しよう?と真面目に考えたくなる。

 人間と異星民族のアスシー人とがお互いに理解しあう、とかハイン人であるルペノンであれば融和の導きは可能かも、などという予定調和にもちこむ気は、ル=グウィンにはさらさらなく、異文明の相互理解の難しさが読者の目前に投げ出される。セルバーは人間から「殺人」を学び、行動に移すことで、アスシー人の『神』となる。アスシー人は人間から「殺人」という行動様式を取り込み、この星の文化はこれからどのような局面に向かっていくのか。彼らは平穏で安定した生活を取り戻しうるのか、殺人を知った人々は、もとの現実界と夢見界を行き来する生活に戻ることができるのか。

 彼らの行動様式を外形的に類推はできても、その基盤にある精神生活を根本的に理解することは、わたしたち「ジンゲン」には不可能だ。理解できない。そして、今我々が「理解している」と思っている、この地球上のアレコレだって、実際に理解できているかは怪しいものだ。西欧人にとって、たとえば日本の文化、イスラム文明、何一つ、本当には彼らには理解できていないのではないか。むろん、逆もしかり。私にとっても。そんな疑問を投げかけられる作品だ。

◆アオサギの眼◆
 地球の植民惑星であるヴィクトリア星。そこは、植民地というよりは、流刑地だった。過去2回の植民船の到着。1回目は100年以上前で、南アメリカ大陸から、犯罪者がおくりこまれたよう。2回目は50年くらい前で、このとき送り込まれたのは非暴力・不服従の平和主義者たち・・・いわば政治犯だった。それぞれの植民者達は、シティとタウンの二つのコロニーを形成。お互いに経済的に依存しているが、タウン(後からの植民者)が食料生産を担い、非暴力平和主義のタウンの人々は、先住者の支配を受け入れ、シティ(先住者)は議会を持ち、支配者層を形成している。ル=グウィンは、そんな舞台を作り、女性の自立や『主義』のぶつかり合いを描く。・・・・てか、ル=グウィンが描きたいものを描くための世界の構築なので、けっこう作り物感があって、あまり、没入感は持てなかったのがすこし残念。

 ◆旧世界の代表、マフィアのドンみたいなイメージのファルコ(父親)
 ◆目覚めた女性ラズ(娘)
 ◆夢想家で情熱家で活動家のレヴ(若者)。非暴力不服従の平和主義者

 レヴが語る「理想」という言葉がどうにも胡散臭い。というよりは青臭い? 理想を語る西欧人をとことん信用できないのは、日本人の性かもしれないけど。
 この、現実の暴力を知らない人間たちが、根なし草のようで頼りなく曖昧模糊としている「平和・非暴力」を大義名分にすることの危うさ。そして、大勢の人間から崇拝を集め、人々を「指導」するという優越感や自己陶酔感の危なさ。

 理想や大義を語ることで、周囲の一般大衆から一段高い場所に立ち、注目や崇拝を集め、他人を指揮することの麻薬的な効果が、暴力による優越感と大差ないことを、一人、異邦人のラズだけが看破している。

 しかし、まあ、総じて面白くはあるのだけど、なんとなく、そこはかとなく、説教臭いんだよなあ。ル=グウィンらしいとも思うけど。ちなみに、『世界の〜』はヒューゴー賞を受賞している。

2025年5月10日土曜日

介護日記的な・・・その15 天気が悪い

 天気が悪い日は、憂鬱だ。
 なぜかというに、母が窓から空を見て、必ず言うのだ。

「なんだかおかしい」
「こんな天気の日は、いままでに無かった」

と、言い募る。

 ・・・・・いや、だたの雨の日ですがな。

「ただの雨の日だよ〜。日本は四季があるからね。雨の日もあれば晴れの日もある。春に雨降らなかったらお米も育たなくて全国のお百姓さんが困るでしょ?」

「いや、それでも、こんな天気はいままでで初めて・・・・」 以下リフレイン。

 リフレインするだけでなく、10分とか30分ごとに、窓の外を見る度に、同じ会話になる。

 イラッとしてはいけない。あくまでも軽く、あ、かるく。ファンシイダンス・・・・

 ああ、ファンシイダンスを読み返したくなったな。そういえば、我が家にファンシイダンスはなかったっけ? ううむ。昔揃えて、一度古本屋に売っぱらい、その後、再入手したようなしてないような。。。。

 母は軽い侵入恐怖や視線恐怖っぽいところもあり、窓の外から覗かれる、と頑なにカーテンを閉めたがる。
 とはいえ、昼日中から暗い室内に閉じこもるのはいろいろと良くない。

 で、私はカーテンを開ける。そうすると、空が見える。で、また繰り返す。

 電気を惜しんで、照明を消したがるのも、地味に困るんだよな・・・・

 カーテン締めて、明かりもあまり点けず、薄暗い家の中に一人でいるのは、どうもよろしくない。まあ、平日はデイサービスに行っているので、そうなるのも日曜日だけとはいえ。

2025年5月4日日曜日

2025年4月の読書メーター

 3月下旬から、講演録『「ゲド戦記」を’生きなおす’』(国立国会図書館からお取り寄せ)に取りかかり、あれよあれよという間に2週間くらにになり、こりゃダメだ。となって、もっとル=グウィンを知るために『いまファンタジーにできること』に着手。
 しかし、あまりの新年度の忙しさに、夜中に家に帰って1行読んでいる間に寝落ちする日々。
なんとか、読了できてよかった。
 しばらく、ル=グウィン月間続きます。

4月の読書メーター
読んだ本の数:5
読んだページ数:1452
ナイス数:391

いまファンタジーにできることいまファンタジーにできること感想
ル=グウィンの講演録『「ゲド戦記」を‘生きなおす’』が結構難しく、読むのに難儀していたのだが、この本に収録されている『YA文学のヤングアダルト』がほとんど同じ内容を平易に語っている、と気付いて大変有り難かった。一番ページを割いているのは、『子どもの本の動物たち』で、沢山の動物文学が紹介されており、全部読みたくなって困った。詳細なレビューは、ブログの方に書いた。感想はひとことでは言い難いが、ル=グウィンの人柄が感じられる、ユーモア溢れる本だった。
読了日:04月30日 著者:アーシュラ・K・ル=グウィン

ドラゴンフライ: ゲド戦記 5 アースシーの五つの物語 (岩波少年文庫 592 ゲド戦記 5)ドラゴンフライ: ゲド戦記 5 アースシーの五つの物語 (岩波少年文庫 592 ゲド戦記 5)感想
外伝集と著者によるアースシーの解説書。ゲドも少しだけ登場する。連作というほどではないが、すこしづつ話がつながっている。オジオンとその師匠が大地震からゴントを守った話が良い。物語全体を通して、オジオンが一番優れていて大賢人に相応しかったんじゃ、と思うのは私だけじゃ無いはず。対称的にゲドってそんなに立派だったんかい?とも思う。(『帰還』を読む以前にそう思う。)『アースシーの風』にも登場するアイリアンがトリオンを滅ぼす話は、あまりにも瞬殺。ほぼ『帰還』にでてくる田舎者の魔法使いと同じだった。
読了日:04月13日 著者:アーシュラ・K. ル=グウィン

ゲド戦記外伝ゲド戦記外伝感想
ハードカバーとソフトカバーとKindle併用で読了。この利点はどこででも読めること。難点は金がかかること。感想はこちら→ https://bookmeter.com/reviews/127181820 ロングレビューはこちら→ https://koko-yori-mybooks.blogspot.com/2025/04/0553.html
読了日:04月09日 著者:アーシュラ・K・ル=グウィン


心おどる あの人の本棚: NHK趣味どきっ! (NHKシリーズ)心おどる あの人の本棚: NHK趣味どきっ! (NHKシリーズ)感想
放送火曜午後9:30-10:00ってほぼ確実に職場にいるような気がするけど、このテキストだけでも十分。ジブリプロデューサーの鈴木敏夫氏の自宅が素敵。真似できるもんじゃないけど。京極夏彦さんの魔が棲んでそうな書斎は圧巻すぎる。だがしかし,人様の本棚より我が本棚だ。目指せ積読消化。
読了日:04月05日 著者:久住昌之,池澤春菜,角幡唯介


軍人婿さんと大根嫁さん 5 (芳文社コミックス/FUZコミックス)軍人婿さんと大根嫁さん 5 (芳文社コミックス/FUZコミックス)感想
今作は、極めつけに美しいページがありました。胸が締め付けられる。ああ、こんな風に愛されたならば。こんな風に尽くせたならば。麗しい夫婦は切ないおとぎ話のようです。オススメです。
読了日:04月01日 著者:コマkoma

読書メーター

介護日記的な・・・その14 洗濯物の攻防は引き分け。それよりも・・・(第2回戦)

 ご報告である。
 洗濯物については、洗い替えを増量することで、①次週分のセット→②洗濯/干す→③取り込んで畳んで仕舞う  が可能となり、概ね順調。だが、朝洗濯機を回して干して、午前中に買い物に出ていた間に取り込まれてしまった(T-T) (一部、まだ湿っていた。)おまけに、一部をどこかに仕舞われてしまって、家中探した。何のことはない、タンスに仕舞われていたのだけど。まあ、大方想定内と言えなくもない。

 それよりも。

 昨日の夜は、私は遅かったのだ。遅い時間に母宅に到着し、夜の間に、汚れ物をチェックして、翌週用着替えセットを作り、なんなら読書もして・・・・
 それなのに、普段は朝寝坊もするくせに、今日に限って早朝5時に起きだす母。
 仕方ないので、私も起きた。午前中の時間がたっぷりとあるのは良いことだ。
 洗濯もの、朝食、服薬チェックと薬の補充、デイサービスの連絡帳の確認と家での記録を書き、ストック用のご飯を炊いて一食分づつパック詰め、室内の整理、食料品の買い出し、郵便局・・・・全部午前中に終わった。終わったぞ!!

 そして、午後にダウンした。

 いったいなんであの人、あんなにエネルギーあるんでしょうね? 認知症高齢者あるある、らしいですけどね。

2025年5月3日土曜日

0554 いまファンタジーにできること 

書 名 「いまファンタジーにできること」
原 題 「CHEEK BY JOWL」2009年
著 者 アーシュラ・K・ル=グウィン   
翻訳者 谷垣 暁美   
出 版 河出書房新社 2011年8月
単行本 210ページ
初 読 2025年4月30日
ISBN-10 4309205712
ISBN-13 978-4309205717
読書メーター 
https://bookmeter.com/reviews/127612072

 私が、諸々の本の感想の中でル=グウィンについて批判的なことを書いたとしても、ル=グウィンの作品が魅力的であり、ル=グウィンその人が非常に知的で、誠実で、勤勉な人であったろうことには疑いの余地はない。ついでに念を押すが、私はル=グウィンの作品のファンである。その点は最初に言っておかねば。
 ル=グウィンは偶像ではない。彼女の時代と場所に生きた素敵な女性である。この本の訳者後書きに、私は全面的に同意している。

 なお、訳者によるあとがきによれば、この本の原題「CHEEK BY JOWL」はちょっと不思議な言葉で、CHEEKもJOWLも頬を表す言葉、ただしCHEEKは人間のみに用いられJOWLは動物にも用いられる言葉なのだとか。チークキス、ただし人間と動物との。そんなイメージだろうか。この語感を日本語に引き写すことは難しい、との判断で、日本語版のタイトルは、原著のサブタイトルから取ったそう。薄めの本だと侮って手にとったが、いやはや中身は濃厚でした。

■ファンタジーについて前提とされているいくつかのこと
*業界人の集まる大規模なブックフェア、ブック・エキスポ・アメリカでの「児童文学を語る朝食会」2004年4月のスピーチ
 ファンタジーの誤った定義(1)登場人物が白人 (2)中世っぽい世界 (3)善と悪の戦い(バトル・ビトゥイーン・グッド・アンド・イーブル=略してBBGE)。その行動は(敵も味方も)みんな同じ!思慮のかけらもない暴力がひっきりなしに続く。そうではなくて、本当のファンタジーに可能なものがある。それを大切にしないと。という話。

■内なる荒野
*ケイト・バーンハイマー編「鏡よ、鏡——女性作家たちがお気に入りのお伽噺の世界を探求する」の第2版(2002)初出したものを修正。『ファンタジーと言葉』(2004)にも収録。
 誰もが知っている『眠れる森の美女』をひっくり返す。全てが眠っている「しんとした場所」それが、王子のたった一度のキスで破壊される。ひとり満ち足りて眠る少女は、王子に起こされ、日常の喧噪の中に引き戻され、当たり前のようにいきなり彼女を目覚めさせた目の前の王子と結婚させられる。(当然のごとくに恋に落ちて。)この鮮やかな逆転。茨に守られた眠れる王国の静けさとの対比がすごい。さらに、ル=グウィンの『密猟者』には「少年」が登場する。しかし、あのお伽噺は、依然としてそこにあり続ける。
 
■ピーターラビット再読 
*「空想上の友だち」のタイトルで、イギリスの週刊誌『ザ・ニュー・ステイツマン』2006年12月18日号に掲載
 “子どもの頃読んで、そのあとの長い人生にときどき帰っていく一冊の本、あるいはひとつのお話"・・・・私にとっては、まさに『ゲド戦記』がそうなのだけど、ル=グウィンがピーターラビットの絵本を挙げるからには、もっと子供のころの本を考えないといけないだろうか? そしてその子供向けに書かれた本は、ファンタジーである可能性が高い。モダニズムが米英文学の中でファンタジー文学に与えた「子供向け」という刻印のひどい影響について、ル=グウィンの舌鋒は鋭い。今一度、ル=グウィンの手ほどきで児童文学について紐解きたくなった。ルイス・キャロル(アリス)、ケネス・グレアム(たのしい川べ)、ミルン(くまのプーさん)その他もろもろ、そしてトールキン。大人の読者も多い。ファンタジーは年齢を超越することができる文学なのだ。
 「ハリー・ポッター」現象は、改めて、大人の意識をこれまで拒絶していたファンタジーに向かわせ、人々はファンタジーを読む歓びを再発見した。(その点だけは、評価してやらなくもない、というル=グウィンの無言の声が聞こえてきそう・・・)

■批評家たち、怪物たち、ファンタジーの紡ぎ手たち 
 そもそも、ル=グウィンに「素晴らしい本がある。絶対読むべきだ!」と言ってハリー・ポッターを薦める連中の、怖れを知らぬこと!
 「初めてその言葉を聞いたときは、白状すると、わたし自身が書いた『影との戦い』を読めといわれているのだと思った。」と書くル=グウィン。ハリー・ポッター現象を否定するわけではない。あの人気は本物で、シリーズをベストセラーにする装置が動き始めたのは、そもそも人気があったからである。
 しかし、批評家連中は、ハリー・ポッターを褒めそやすことで無知をさらけ出した。モダニズムが文学研究からファンタジーを遠ざけたおかげで、「大人の」書評家や批評家はファンタジーを読む素養をまるで失ってしまっていた。だから、実際には、紋切り型で、模倣的でさえあるハリー・ポッターを「独創的」だ、などと評価することができたのだ。・・・延々ハリー・ポッターの評判を聞かされたり、感想を聞かれたりしたであろうル=グウィンの憮然とした表情が想像できそう。ハリー・ポッターを最初に読んだときに、「こんなのファンタジーじゃない!」と叫び、心底『ゲド戦記』を読みやがれ!と思った私は、これを呼んで我が意を得たりとニヤニヤしている。この論説の前半部分は、批評家に対して、もっと勉強しろ! という罵倒を極めて穏便に(?)書き綴っているようにも見えるが、しかし、それだけでは終わらない。後段は、ファンタジーそのものについて懇切丁寧に我々に教えてくれる。もちろん、そちらの方が重要である。
 また、p.53の「訓練を受けていない人がファンタジーを論じようとすると、ファンタジーを合理化することになりがちだ。」以降の一連の文章は、最近、『「ゲド戦記」を‘生き直す’』という彼女自身の講演録を読んで、モヤモヤしていた私にとっては、示唆に富んでいるように感じられた。
 「・・・そういう合理化は、ファンタジーを拒絶するもの、説明することによって消し去るものだ。ファンタジーにふさわしい読み方をすることによってのみ、読者はファンタジー作品の道徳的な立場や社会との関わりがすこしずつわかりはじめるのだ。」


■子どもの本の動物たち 
*2004年「アーバスノット記念講演」の講演者として、全弁図書館協会の集まりで話した原稿を元に加筆されたもの。
 ル=グウィンはこの本の半分以上のページをこの項に割いている。「わたしが提供できるのは分類だけだ。」本人が書いているように、ル=グウィンはこの論説で、なにかを証明したりはしていない。極めて雑にいうと、「私はこう考えるー各論」と「私はこう考えるー総論」だけで構成されていて、各論で総論を上手に説明できているかというと、私にはあまりそうは思えない。しかしそれよりも、古典的な動物物語(動物が主人公のものから、動物が登場するものまで)ひとつひとつの紹介がとても生き生きとしている。これまで私が読んでいない本がほとんどで、子どものころにやり残したことがこんなにあったのか!ととても残念なきもちでいっぱいだ。とくに『バンビ』。私はディズニーが昔からあまり好きではなく、ディズニーアニメ原作というだけで、この本は読む対象から除外していた。なんて残念な!

 しかし、つい面白いと思ってしまったのは、以下の一節。
「・・・この本の長所を味わうために、この言語道断の性差別主義をがまんする努力をしてもいいのかもしれないが、わたしはどうしてもがまんできない。アダムズがいんちきをしているからだ。彼は男性優位主義のファンタジーを書きたかったのだ・・・・というのは、この本が刊行された1972年には、露骨な男性優位主義はだんだん受け入れられなくなってきていたのに、アダムズは動物の行動だということにしたおかげで、咎められずにやりおおせたからだ。・・・・」(p.115)

 なるほど、『影との戦い』から『さいはての島へ』までが書かれたのが1968年から1972年である。この論説は2004年の講演の原稿に加筆されたものであるが、これは、1990年に『帰還』を書き、1992年8月にオックスフォード大学で『ゲド戦記を"生き直す"』の講演を行い、そして2001年には『ドラゴンフライ』と『アースシーの風』を世に出していなかったら、とてもではないがル=グウィンは、「彼は男性優位主義のファンタジーが書きたかったのだ」などという批判はできなかっただろうな、と思うのだ。アダムスがル=グウィンと違うのは、アダムズが書いた『ウォーターシップダウンのウサギたち』が、参考文献にあげた研究書の内容とは真逆のことをしゃあしゃあと、さも事実のように書いているということで、もちろんそれは、読者に対する、そして動物たちに対する重大な裏切り行為である。とはいえ、「男性優位主義がだんだんと受け入れられなくなってきていた」1970年前後、明らかにその世界の価値観が男性優位主義であるとしかいいようのないゲド戦記を書いてしまった女性の、しかもフェミニズムに目覚めた作家としては、その方向性を修正せざるを得なかったに違いない。
 だが、それをあのような形ですべきだったのか、という一点については、わたしは肯定しきれないし、彼女自身も、他の作家の作品に対してはそう言っているのだ。

「ファンタジー作品で、自分がつくった規則を変えたり、破ったりすると、物語の一貫性がなくなり、つまらないものになる。」(p.139)

 まさにその通りで、ゲド戦記で行われた世界観の「改訂」は、物語のファンタジー性を揺らがせ、その世界に没入していた読者を揺り動かし、現実の世界に引き戻してしまった。『ゲド戦記』はジェンダー的な正しさを手にいれた代わりに、ファンタジー性が大きく損なわれた。少なくとも、私にとってはそうだった。私は女性であるが、本を読んだ10代の初めのとき、男であるゲドに自己を投影することは全く難しいことではなかった。子供は、ウサギにもネズミにも、馬にもなれる。ましてや性別の境など、何ほどでもない。本を読んでいるとき、私はゲドだった。そして、ゲドが作者の手によって損なわれたとき、私の子供時代の何かも損なわれた。それを行うことは、作者の権利ではない、と私は思う。

■YA文学のヤングアダルト 
2004年に、ヤングアダルト向けフィクションの分野でしてきた仕事に対して、全米図書館協会からマーガレット・A・エドワーズ賞を受けた際のスピーチのために書かれた原稿
・・・という小論なのだが、例の私が難解だと思った『「ゲド戦記」を‘生き直す’』の原稿とほぼ同じ内容が、ティーンや一般向けに、ごく噛み砕かれた平易な表現で書かれているようだ、と気づいたので、大変にありがたい読み物だった。なるほど、ル=グウィンはそう考えていたんだな、というのを再確認できた。まあ、このゲド戦記の世界観の改変については、一番正しい形容は、「他人がやれば不倫、自分がやればロマンス」というのがどうしても思い出されてしまうのだけど・・・・ねぇ。

■メッセージについてのメッセージ 
『チルドレンズ・ブック・カウンシル・マガジン』2005年夏号掲載に加筆
 ファンタジーは何かの(道徳的な)メッセージを伝えるためのものではない。ファンタジーが貴方につたえるのは物語だ。というメッセージ。ウィットに富んだタイトルがとても素敵。

■子どもはどうしてファンタジーを読みたがるのか
『タイムアウト・ニューヨーク・キッズ』誌2004年6~9月号「クエストワード・ホー(いざ、冒険へ)」という見出しのコラムに掲載されたもの。
 「ティーンエイジャーたちは、自分の住む世界を理解し、意味を見出し、その中で生き、道徳的な選択をするために猛烈な意識的努力をする。その苦闘は往々にして、ほんとうに死に物狂いのものだ。彼らは助けを必要としている。」p.115)
 その助けになるものがファンタジーである。現実の世界では難しい冒険を、物語は体験させてくれる。その中で、ティーンエイジャーは、自分を自分で導く機会が与えられる。とはいえ、そういうファンタジーの魅力は、商業主義にとっても大いに魅力的で、世の中には複製され矮小化され、単なる闘争に善玉と悪玉の仮面を被せただけの粗製濫造された偽物が溢れている。だが、注意深く探せば、本物を探し出すことができるだろう。