2021年2月21日日曜日

「誤訳も芸のうち」と翻訳者は言った。山本光伸 論創社『報復という名の芸術』

書 名 「報復という名の芸術―美術修復師ガブリエル・アロンシリーズ」 
原 題 「The Kill Artist」2000年 
著 者 ダニエル・シルヴァ 
翻訳者 山本 光伸 
出 版 論創社 2005年8月 

 なんだかさ。大したことではないのだけど(→読んでいるうちに、大問題になった)、翻訳がちょっと実にクソだ。

p.75 
“ピールは約束の場所に歩いて行き、牡蠣養殖場の横に立って・・・・”
【原文】 Peel walked to the point and made a base camp next to the oyster farm,

p.76 
“減速しながらケッチを約束の場所で回転させ、入り江の静寂の中へ進んだ。”
【原文】 He reduced speed as the ketch rounded the point and entered the quiet of the creek.

 「約束の場所」ってなんだよ。そこは、いつもの場所、とかお定まりの位置、とか軽く訳すところではないのかなあ。ユダヤ人問題を扱っているのが判っているのに「約束の地」を連想する訳語を使うセンスが壮絶にいまいちだ。ひとつ目のは、単に見張りの定位置に立っただけだし、ふたつ目のはヨットを入り江の桟橋に付けるために、入り江の所定の位置で船を反転させただけだ。


p.82 
“あの爆発の後シャムロンはベニスに来て、混乱に終止符を打ち・・・・”

いーや、違う。それは Vienna だ。ウィーン。こんなことを確認するために、Kindleで原著をダウンロードしてしまう自分の執念深さがイヤだ。
 でも気になる。見開きで、p.14(右)コーンウォール、p.15(左)コーンウェル。・・・・ここはコーンウォールだろうよ。 p.422(右)ジェズリール谷、P.423 (左)イズレエル谷 同じ地名の訳違いが。どうしてこんなことになるのだろう? 複数の人間が下訳して、しかも仕上がりをチェックしていないのだろうか?


p.134
“ユセフ・アルタウフィーク。パートタイムのパレスチナ国粋主義の詩人。ユニバーシティ・カレッジ・オブ・ロンドンのパートタイムの学生であり、エッジウェア・ロードにあるケバブ・ファクトリーという名のレバノン・レストランのパートタイムのウェイターで、そして、タリクの秘密部隊でフルタイムの活動工作員でもある。”

 【原文】 Yusef al-Tawfiki, part-time Palestinian nationalist poet, part-time student at University College London, part-time waiter at a Lebanese restaurant called the Kebab Factory on the Edgware Road, full-time action agent for Tariq’s secret army.


 直訳ご馳走さま。ありがとう!でも、ここは誤訳を怖れずにがんばったほうが良かったのではないだろうか?
 「あるときはパレスチナの民族主義詩人。あるときはロンドン大学の聴講生。またあるときはケバブ・ファクトリーという名前のレバノン料理店のアルバイト店員。しかしてその実体は、タリクの秘密組織の活動家であった!」と訳せとは言わんが。
 パレスチナ“国粋主義”がどのようなものを指すのかは知らないけど個人的には民族主義と訳すほうが良いような気がするし、“ユニバーシティ・カレッジ・オブ・ロンドン”は茶を噴くレベルだ。パートタイムの学生っていうのも日本語としては不自然だよね?聴講生っていうのは厳密には単位取得ができないので、単位履修生、とか、単科履修生とかが正確かもしれないが、ここでは文の流れ優先をするかなあ?


p.149
“コンピュータがケーブルを通して信号を送る監視装置と一緒に通信をする。それらの信号には周波数があるので、それにぴったり合わせた受信機で捉えられる”

意味が分かったら天才↑ 訳した本人も判っていないだろうな、と思う。

【原文】The computer communicates with the monitor by transmitting signals over the cable. Those signals have frequency and can be captured by a properly tuned receiver.

コンピュータがモニタにケーブルで信号を送るので、その信号を受信することによって画面をキャプチャできると言っている。monitorを監視装置と訳してしまったのが敗因だろうか。


p.156
“タリクはマドリッドのイスラエル大使館員の隠れ蓑を使い、〈オフィス〉の工作員と称していた。その士官はPLO内部の人間数人を・・・・・”  

 これは、完全に誤訳ね。

 【原文】He had identified an Office agent working with diplomatic cover from the Israeli embassy in Madrid. The officer had managed to recruit several spies within the PLO,・・・

タリクが、マドリッドのイスラエル大使館職員として勤務している〈オフィス〉の工作員を発見して、罠にかけるくだり。タリクがイスラエル大使館に勤務しているわけがなかろーが?日本語の文としてもこの後の文章と意味が繋がらない。


【原文her Bianchi racing bike leaned against the wall.  
 
彼女のレース仕様のビアンキを「競輪用」と訳すセンスが堪らない。p.159


p.170
“〈オフィス〉がパリに住むイラク人核兵器科学者を雇い入れて、イラクにいるフランス人供給業者の下で働くように仕向けようとしていた。”

【原文】・・・The Office was trying to recruit an Iraqi nuclear weapons scientist who lived in Paris and worked with Iraq’s French suppliers.

【試訳】 〈オフィス〉は、パリ在住のイラク人核兵器科学者で、イラクへのフランス側の供給事業者と仕事をしていた男の勧誘を試みていた。

and以下のworkedlivedと並列でwhoに掛かると思えなかったのね。ついでにいうと、Iraq’s French suppliersをイラクに「いる」と訳すのもかえって難易度が高いんじゃないだろうか。


p.217
“タクシーが彼の住む、丸太を組んで造ったアパートメントの前に到着した。魅力のかけらもないところだった。戦前に流行った、正面がフラットないかにも没個性的な建物だ。彼女がタクシーを降りるのに手を貸し・・・・”

【原文】The taxi arrived in front of his building. It was a charmless place, a flat-fronted postwar block house with an air of institutional decay. He helped her out of the taxi, paid off the driver, led her up a short flight of steps to the front entrance.

 ええと、どこに「丸太を組んで造った」という文があるのだろう。まさか、翻訳したときの版にはあって、そのあと原著の方が改稿された、という可能性もあるのか?(と、誠心誠意考えてみる。)とはいえ、ヴィクトリア王朝様式やジョージ王朝様式のファサードの建物が並ぶ目抜き通りにいくらなんでも丸太作りの外観の建物はねえべよ。 それと、“戦前”ではなく、戦後だ。


p.326 “米国首相” 【原文】U.S. PRESIDENT

 各国首脳の呼称を知らないような人間がなぜ、エスピオナージを翻訳しているのだろう?大統領制を敷いているアメリカに「首相」はいない。これを合衆国大統領と訳せないなら翻訳なぞ止めたほうがよい。ちなみに銃器をきちんと訳せない人間はAA(アクション&アドベンチャー)を翻訳すべきではない。以下

p.344
“彼はガブリエルにステンレス製の戦闘用ケースを手渡した。中に入っていたのは22口径ベレッタの射撃用ピストルだった。”

【原文】He handed Gabriel a stainless steel combat case. Inside was a .22 Beretta target pistol.

 誤訳ではないかもしれない。だがしかし。「射撃用ピストル」という文を読んで思わず膝から力が抜けた。射撃用でないピストルがあるのか?旗でも出るのか?と。しかもここは、ガブリエルが8年ぶりか9年ぶりに、暗殺用の銃器を手渡される、ファンであればドキっとするシーンだ。ここは精密射撃用とするか、競技用とするか、単にベレッタ22口径とするか。ただし、「射撃用ピストル」ではない。


p.333
“室内に入ると、黒い目をしたレヴの受付士官ふたりが・・・・”

【原文】As he entered the room a pair of Lev’s black-eyed desk officers stared at him contemptuously over their computer terminals.

 “desk officers” を士官と訳すべきだろうか?誤訳というのは言い過ぎかもしれないが、適切な訳だろうか。〈オフィス〉は軍組織ではない。どちらかというと役所に近いだろう。事務員とか、受付職員とかのほうが適切ではないか


 最後に、軽く違和感を感じた箇所を。

p.421
“死ぬまでいろいろな物だの人だのを修理し続けて、自分だけはそのままでいるつもりか。キミは絵画やおんぼろヨットを修復した。〈オフィス〉もだ。・・・(中略)・・・人生を楽しめ。ある朝、目が覚めて、自分がおいぼれになっちまっていることに気づく前に。わたしのようにな」
「監視人たちはどうなるのですか?」
「きみのためにつけているのだ」

【原文】“You’ve spent the last years of your life fixing everything and everyone but yourself. You restore paintings and old sailboats. You restored the Office. You restored Jacqueline and Julian Isherwood. You even managed to restore Tariq in a strange way—you made certain we buried him in the Upper Galilee. But now it’s time to restore yourself. Get out of that flat. Live life, before you wake up one day and discover you’re an old man. Like me.”
“What about your watchers?”
“I put them there for your own good.”

 自分を恢復させて人生を楽しめというシャムロン(全部、ガブリエルのためを思ってやっていることだ。と主張している。)に対して、ガブリエルが、自分の為だというのなら、監視の目的はなんなのか、と問いただすシーン。なので「監視人たちはどうなるのですか」、ではなく「監視人たちはどうなのですか?」(あれも自分(ガブリエル)の為だというのか?の含意)、と訳した方がよいだろう。たった一文字「る」が入るか入らないかで、会話全体の意図と明瞭さに違いがでる。かくも翻訳とは微妙な仕事だ。


 本当は、もっともっとあるのだろうが、翻訳を読んで曲がりなりにも不自然でない場合は、あえてチェックはしていない。
 日本語を読む、あれ、文章の繋がりとか、意味とかおかしくない?→念のため原文も見ておこう。→誤訳じゃね? という流れで確認しているだけだ。

 敢えて書いておけば、私は翻訳の正確性を求めている訳ではない。読者として、物語にきちんと入り込みたいだけだ。ストーリーの前後関係とか、文化的素地とか、歴史とか、地理とか、そういったものに違和感を感じさせるような翻訳をしてもらいたくないだけだ。私は英語は全然得意ではないので、原著で読みたいとは思っていない。文芸作品として確立された翻訳作品を読みたい。そのためには、やはり「翻訳家」というプロフェッショナルの仕事が必要なのだ。

 そんなわけで、プロフェッショナルの仕事には、心からの賛辞を送りつつ、我ながら本当に心が狭くて申し訳なくも嘆かわしいが、この本は残念ながら、翻訳が正しいのかどうかが気になってストーリーに没入できない。

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