今年、イスラエル国家について、パレスチナ問題について、ユダヤ人問題について、フィクションではなく、ノンフィクションの方面で本を読むための、とっかかりというか、動機づけの強化というか。
2005年12月公開。
ミュンヘン・オリンピック事件と、その報復である『神の怒り作戦』、その担い手に選ばれたモサドの構成員だった若いユダヤ人(作中ではアフナー)とその仲間の行動と、作戦終了後の葛藤を描く。原作は『標的(ターゲット)は11人―モサド暗殺チームの記録 (新潮文庫)』。
まだ若い未熟な青年が仲間とともに暗殺を実行し、やがてそれに慣れ、そのうち一人ひとりが精神を病んでいき、さらに、報復によって仲間も殺されていく。
悪夢と不眠症に苛まれ、自分の実行した殺人が、(法的にも倫理的にも)肯定されうるものだという証拠を国に対して求めるものの、イスラエル国からそれを得ることはできなかった。結局はアフナーは不信からイスラエルを離れてアメリカに移住し、祖国も失うことになるが、暗殺行動以降、イスラエル当局から圧力をかけられるところも含めリアルに描かれている。(もちろん、リアルだからといって真実だとはかぎらないわけだが。)
作戦に従事している中、国外から電話をかけ、幼い娘の喃語を聴いて泣くアフナーの姿が一番胸に響いた。
(ガブリエル・アロンとは頭を切り離して観ていたつもりだけど、暗殺を嫌悪しながらも、自分の手で暗殺を実行することにこだわるアフナーがガブリエルとオーバーラップするのを100%排除はできなかった。それにしても、こうしてリアル寄りの映画を観ると、やはりガブリエルはきれい事寄りだよなあ、とは思う。この「リアル」にガブリエルという「フィクション」を対置したダニエル・シルヴァの意図はどういうものだったのだろう、ということも気になる。)
パレスチナ側だけでなく、イスラエルに対しても批判的な表現があるこの作品は、アラブ側からもイスラエル側からも批判され、スピルバーグの作品のなかでも一番の問題作だと言われているとのこと。また、公開時、モサドや、元モサドの要員などからも事実と違う、との批判が寄せられたそうだ。(Wikipediaより)
しかし、モサドが「真実と違う」と言ったからといって、だれがそれを信じる?とは思うよね。
作中で、国を失ったパレスチナ人は100年かかっても国を取り戻すと言い、ユダヤ人は「自分の力で国を取り戻した」と信じる。この救いの無さをほんの一瞬でも観た人に直視させることができるのなら、この映画は成功しているといえるだろう、と思う。ではどうしたらよい?と考えると、救いのない暗澹とした気分に陥る。
また、イスラエルを知れば知るほど、第二次大戦後『戦争放棄』の道を歩もうとした日本と、あくまでも強固な意志と手段を選ばぬ武力によって『決して侮られない』戦いの道を選択したイスラエル国という二つの国の対照的な姿を思う。そして、結局は『戦争』は放棄しても『武力』は放棄できなかった日本の戦後の姿についても、考えざるを得ない。
また、2020東京オリンピック開会式で、ミュンヘン・オリンピック事件の犠牲者に対する黙祷が行われたことの意味合いも、合わせて考えてみなくては。
ところで話は変わるが、主人公アフナーの同志であるスティーブを演じているのがダニエル・クレイグ。
好演しているのだが、あの薄い色の瞳の効果か、サイコパスに見えてくるんだよね。友情に篤い良いキャラクターなんだけど、どうしても「殺しのライセンス」に見えて、異様な存在感を放っていて主役を喰っていたのはご愛敬(笑)。
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