2024年6月24日月曜日

0489 償いのフェルメール (ハーパーBOOKS)

書 名 「償いのフェルメール」
原 題 「Collector」2023年
著 者 ダニエル・シルヴァ    
翻訳者 山本 やよい    
出 版 ハーパーコリンズ・ジャパン 2024年6月
文 庫 568ページ
初 読 2024年6月24日
ISBN-10 4596637202
ISBN-13 978-4596637208
読書メーター 
https://bookmeter.com/reviews/121477812

 せっかく、シャムロンが引き留めるのを振り千切り、〈オフィス〉を引退して速攻ヴェネツィアに移住したのに。やっと家族との生活と心の平穏を取り戻し、オリジナルの絵を描く才能さえ取り戻しつつあったというのに!(ほぼ自主的に!)また諜報の世界に引き戻されたガブリエルである。分かってたけどね、こうなるコトは。
 だいたい、いくら少数精鋭とはいえガブリエルの部下は数が少なすぎる。エリ・ラヴォンやミハイルや、ダイナが定位置から動いただけで、もはやロシア側に察知されるのでは? ガブリエルがヴェネチアの修復現場から数日以上姿を消しただけで、影で何らかの動きがあると見做されるのでは? どうしてガブリエルの挙動がロシア側にバレないのか、それが不思議でしょうがない。だけど、そこに引っかかると全てが面白くなくなるので、敢えて気にしないことに。
 内容も、大いなるマンネリの域に達したと言えなくもない。なにしろ今回もまた、有能な女性をスカウトして、対ロシア諜報戦だ。だがしかし。そんなささやかな不満(?)を吹き飛ばす終盤のスリルたるや、大したもの。いやあ、今作も面白かった。

 さて、あらすじである。以下ネタバレ。
 ヴェネツィアで、キアラや子供達と穏やかにすごすガブリエル。聖堂で絵の修復に取り組む彼のもとに、おなじみカラビニエリの美術班を統率するフェラーリ将軍が訪れる。有る場所で見つかった盗難絵画の鑑定を依頼したい、と。なにか裏がありそうだと思いつつ、ガブリエルが伴われた場所は殺人現場。そして美術館から盗まれて行方が知れなかった有名なゴッホ自画像の隣には、空の額縁とキャンバスが剥がされた木枠が残されていた。ガブリエルは、その盗まれた絵を取り戻すよう、フェラーリ将軍から依頼される。

 だが、盗難絵画を追いかけるうち、殺された絵画の所有者がかつて南アフリカで核開発に関係していたこと、そして〈オフィス〉協力者であったことを知る。そして、南アフリカが開発した旧式の核弾頭が、絵画の盗難に隠れて、ロシアの手に渡ったと思われることも判明。

 ウクライナ戦争を決定的な勝利で終わらせるために、ロシアが戦術核を用いるのではないか、と西側(米国)は怖れている。ロシアが秘密裏に入手した旧式の核弾頭が「ウクライナからロシアに対する」先制核攻撃に使われること(もちろんロシア側の偽旗作戦として)を察知したガブリエルは、ふたたび〈オフィス〉に戻り、オフィスの人員・技術と、自分が持つ人脈を集結して、ロシアと対決することを決意。

 と、まあそんな話。

 それにしても、今作は“コマノフスキー”が最高に格好良かったです。後半、ドキドキして、イヤな予感しかしなくて、読み進むのが辛かったわ。

 ガブリエルはもう70歳です。以前も書いたが、ハリー・ボッシュと同じ歳です。ボッシュだって、白血病だの、人口膝関節だの言っているというのに、ガブリエルときたら頑健すぎていささか不気味だ。キアラともまだまだお熱いみたいだし。

 今回、過去の登場人物も沢山でてきて、いったいいつの話なんだか、いささか混乱してきたので、人物リストを作っておく。常連の主要人物は省略で。


イングリッド・ヨハンセン………フリーランスのITスペシャリスト 
アストリッド・ソーレンセン……イングリッドの変名
マルティン・ランデスマン………過去作『報復のカルテット』に登場した、スイスの大富豪で投資会社の経営者。
セルゲイ・モロソフ………………過去作『赤の女』イスラエルに拉致された元SVR工作員。イスラエルの収容所で捕虜生活を継続中。
マウヌス・ラーセン………………〈ダンスクオイル〉のCEO  

グリゴーリー・トポロフ…………ロシア対外情報庁(SVR)の暗殺者  
ニコライ・ペトロフ………………ロシア連邦安全保障会議 書記。ワロージャの側近  
ゲンナージー・ルシコフ…………ロシアのトベリ銀行頭取(過去作に登場していたかは思い出せない)
ワロージャ/ウラジーミル・ウラジーミロヴィチ…………ワロージャはウラジーミルの愛称。言わずとしれた恐ロシアの独裁者。ウラジーミル・ウラジーミロヴィチ・プーチン。

ラース・モーデンセン……………デンマーク国家警察情報局(PET)の長官 
エイドリアン・カーター…………CIA長官。ついに!エイドリアンが長官に昇進!長い道のりだった。
ポール・ウェブスター……………CIAコペンハーゲン支局長
テッポ・ヴァサラ…………………フィンランドの保安情報機関の長官

2024年6月23日日曜日

美術修復師ガブリエル・アロン シリーズ (2024.6.20更新:祝!新刊『償いのフェルメール』2024年6月18日邦訳刊行)

ガブリエル・アロンについての考察はこちら(年表付きです。)

『告解』でガブリエルが手がけている
祭壇画 サン・ザッカリア教会

1【報復という名の芸術】(The Kill Artist 2000年)
1999年。 1,991年1月にガブリエルがウィーンで幼い息子を失ってから9年近くが過ぎていた。シャムロンに逢うのは事件のあとテルアビブで〈オフィス〉の仕事を辞めると伝えた時以来。ガブリエルが隠棲していたのは、イギリス、コーンウォールの海辺のコテージ。かつてはガブリエル専属の支援者(サイアン)だったイシャーウッドとは、本当の画商と絵画修復師の関係となっていた。そんなイシャーウッドからガブリエルの居場所を聞き出して、シャムロンが新たな「復讐」を携えてやってくる。それは、ウィーンでガブリエルの車に爆弾を仕掛け、彼から家族を奪った男への報復だった。
  
2000年頃? この作中で彼は50歳。スイス在住のある資産家が、ガブリエルに接触を図る。その男が秘匿していたのは、かつてナチスがユダヤ人から略奪しした絵画の数々だった。この絵画を巡り、ナチの残党との死闘が始まる。スイスが未だ隠し持つ、かつてのユダヤ人の財産。ヨーロッパ諸国とナチスとの関係は、歴史の暗部となって未だ各国にわだかまっている。ナチスはユダヤ人の財産を奪った、というアロンに対して、ユダヤ人はパレスチナ人から土地を奪った。動産より不動産の方が罪が重い、と論じるスイス人。ユダヤ人とユダヤ人国家にまつわる問題は一筋縄でいくものではないが、だからといってナチスの罪が薄れるわけではない。それに協力した人間の罪も、である。

2001年冬 ガブリエル51歳になったばかり。ベネツィアのサン・ザッカリア教会で祭壇画の修復を手がけていると、シャムロンからの呼び出しが。かつての盟友がドイツで殺害された。調査を始めると、今度はガブリエルが何者かに追跡される。親友だったベンジャミンが追っていたのは、第二次対戦時のナチスとヴァチカンの関係だった。法王庁とローマ・カトリックの権威を至上とするヴァチカンの秘密組織が、ガブリエルと彼が掴んだ証拠を抹殺しようとする。時を同じくして新教皇は、ユダヤ人との和解のための一歩を踏み出そうとしていた。教皇にも危険が迫り、ガブリエルは新教皇を守るために接触を図る。 
 
『さらば死都ウィーン』で
修復を手がけている祭壇画
サン・ジョヴァンニ・クリソストモ教会
ジョバンニ・ベッリーニ作
『聖クリストフォロス,聖ヒエロニムスと
ツールーズの聖ルイス


時期的には2002年か2003年、またしても冬。雪のちらつくウイーンは、ガブリエルにとっては不吉の象徴。親友であり、戦友のエリ・ラヴォンがウイーンで運営していた戦争犯罪調査事務所が爆破される。スタッフは死亡、エリは重体。ガブリエルは追跡調査を開始するが、すぐに命を狙われることになる。エリが追っていたのは、身分を偽装してオーストリアで社会的にも大成功を収めていた元SS将校。その男の成功の原資となったのはユダヤ人から略奪された資産であり、また、その男はガブリエルの母とも因縁があった。ガブリエルは、ヤド・ヴァシェムに残された母の証言書を読み、初めて母の苦難と向き合うことに。

5(Prince of Fire 2005年)未訳
ガブリエルに関する秘密文書が暴露され、ヴェネツィアにいられなくなったガブリエルはキアラを伴いやむを得ずイスラエルに帰国する。キアラとの生活を準備するが、イギリスの病院に入院させていたリーアが誘拐されて・・・・・。紆余曲折ありキアラが1人でヴェネツィアに去る。
 
6(The Messenger 2006年)未訳
ローマ法王パウロ7世がテロの標的に。ガブリエルが法王を守る。法王の計らい(?)でベネツィアにキアラを訪れ、関係復活。『教皇のスパイ』で触れているエピソードがこれ。
 
7(The Secret Servant 2007年)未訳

8(Moscow Rules 2008年)未訳
ガブリエルがモスクワに潜入。 
 
9(The Defector 2009年)未訳

10(The Rembrandt Affair 2010年)未訳

11(Portrait of a Spy 2011年)未訳
サウジアラビアに潜入。サウジ人女性ナディアを救出しようとするが、2人とも砂漠で殺されそうになる。結局ナディアが死に、ガブリエルは重傷。その後サウジ秘密警察に捕らえられ、過酷な尋問を受けて傷を悪化さる。米国CIAの介入で解放されるが、女性の死に責任を感じて深刻なPTSDを患い、イギリス・コーンウォールでキアラとアリに見守られて静養する。このときガブリエルを案じたサラ・バンクロフトの依頼でナディアの肖像画を描き、この絵を契機に精神的に復調するのだが、この絵がMoMA美術館のナディアコレクションの入り口に展示されている。これが、『過去からの密使』の下敷きとなっているエピソード。
12 (The Fallen Angel 2012年)未訳

13 (The English Girl 2013年)未訳

 2014年春〜秋  ガブリエル64歳。キアラは妊娠中。ガブリエルは、カラビニエリの美術班、フェラーリ将軍の依頼により盗難にあったカラヴァッジョの《キリストの降誕》を探すため、盗難絵画のコレクターを釣る餌として、ゴッホの《ひまわり》を盗み出す。しかし、《ひまわり》の盗品売買の相手を追跡するうち、盗難絵画がシリアの独裁者の隠し財産の形成に利用されていることが分かり、事態は一転する。ガブリエル個人の請負仕事が、オフィスの大プロジェクトに展開。標的はシリアの独裁者の財産である。一連の事件終了後、ゴッホ美術館に盗まれた《ひまわり》が戻ってくるが、なぜか手入れをされて盗難前より状態が良くなっていた、ということだ。 

 2014年秋〜冬  亡者のゲームの三日後から。 
 キアラの妊娠後期から出産まで。ガブリエルがロシアの策略で爆弾テロの標的にされる。
 怪我の詳細の記載はないが全身打撲くらいはありそう。 一週間程度で復活している。ロシアが手先に利用したのは、英国人暗殺者との因縁も深い、IRA爆弾テロ犯だった。そしてこの男は、ガブリエルの家族を犠牲にしたウイーンの爆弾テロにも深い関わりが。MI6からの請負仕事だった事件が、復讐の色を濃厚に帯び、事態は逼迫する。今回は絵画修復のシーンはないが、事件終了後、出産間近なキアラが待つエルサレムに帰還し、自宅の子供部屋の壁にダニの顔を模した天使の絵を描いて涙ぐむガブリエルの姿が切ない。

 2015年4月〜12月 ※2015年のISISの戦闘についてと、気候変動抑制に関する協定(パリ協定 2015年12月12日)が結ばれたことについて言及している。 ISISによるユダヤ人の組織を狙った大規模な爆弾テロがパリで起こり、ガブリエルはISISに潜入させる工作員とするため、フランス系ユダヤ人の女医ナタリーをリクルートする。前半はじっくりとスパイを養成するガブリエル。自分の子供時代のことを明かしながら、ナタリーとの信頼関係を築く。
 そして、潜入、テロ計画の始動。標的は、フランス大統領訪米中の合衆国だった。イスラエル、ヨルダン、フランス、イギリス、合衆国それぞれの諜報機関の長たちの協力関係も面白い。 この回でもガブリエルは爆弾テロの現場にいて被害にあう。 

 2016年2月〜11月 サラディンとの決戦。
 上巻冒頭で、エルサレムをイスラエルの首都と認め、「米国大使館」をテルアビブからエルサレムに移設する、 と発言した新しい米大統領の就任の話題があるが、トランプ就任は2017年1月なので、現実とは1年ずれた格好か。
 訪問していたフランス秘密情報部のビルが自動車爆弾で爆破される。間の悪い時に間の悪い場所に居合わせるのがガブリエルの得意技。このときの怪我は爆風とがれきの下敷きになって、肋骨数カ所を骨折、腰椎2か所にひび、重度の脳震盪で一週間ほどダウン。だが復讐の炎が痛みをおしてガブリエルを突き動かす。そして、サラディンをおびき出す作戦が始動。  
 サラディンの収入源である麻薬取引をヨーロッパ側で仕切る男を攻略し、サラディンに繋がる細い道をこじ開ける。米国からの横やりを排除しつつ、CIA、MI6、フランス治安総局と協働し、作戦を遂行。このあたりのガブリエルの政治力も見物。さりげなく出てくるウージ・ナヴォトもなかなか渋い。そしてサハラでサラディンを追いつめるが、サラディンは欧米のどこかに潜伏しているテロリストに攻撃を命じた後だった。

 2017年1月頃? 前作の爆弾テロの際の負傷の後遺症?で痛む腰をさすりながらのガブリエル登場である。おかげで若作りのガブリエルもだいぶ歳相応に見えてきた。良い記憶のあまりないウィーンでの作戦。例によって陣頭指揮を執っていたが、目の前で亡命させる予定だったロシアのスパイが殺害されてしまう。その上その場にガブリエルが居合わせたことを隠し撮り写真でマスコミにリークされて窮地に立たされる。
 怒り心頭、恨み骨髄のガブリエルはそこから怒濤の諜報戦に突入するが、判明したのは、宿敵を絡め取ろうとするロシアの策謀が二重三重に張り巡らされていたこと、そしてある伝説の二重スパイの存在だった。 

 12歳の少女(サウジ皇太子の娘)が誘拐され、その父である皇太子が、敵であるはずのガブリエルに捜索と奪還を依頼する。中東との融和の糸口になれば、という思いと、ただ、何の罪もない少女を助けたいという思いで、捜索に協力するガブリエルだが、目の前で少女は爆殺されてしまう。少女の殺害とその父の失脚の裏にロシアの影を見たガブリエルは、復讐の反撃に出る。 
 戦いはガブリエルの勝利に終わるが、少女を助けることができなかった悔恨がガブリエルを苦しめる。サウジ皇太子によるカショギ記者謀殺事件をモチーフに、ロシア、イギリスを絡めたシルヴァ風の一流のエスピオナージ 。

2019年11月。長官に就任して以来、腰を負傷して自宅で療養した数日以外は一日も休まず働いていたガブリエルを見かねて、キアラが休暇を手配する。(なんと首相にまで手を回して!)旅行カバンを用意していたキアラに、「出て行くのかい?」と真顔で尋ねるガブリエル! 休暇の行き先はキアラの両親が暮らすヴェネツィア、仕事ひとすじで余暇の過ごし方など知らないガブリエルの為に、修復する絵まで用意する周到ぶり。そこに、ガブリエルの庇護者でもあった教皇パウロ7世崩御のニュースが。この時点で、彼の任期は2年と1ヶ月。 

21【報復のカルテット】(The Cellist 2021年)
 2020年3月〜2021年4月。世界はcovid(新型コロナウイルス)に支配されている。 
 アロン家は人が多く、ロックダウン中のエルサレム市街の自宅から、故郷のイズレエル谷のラマト・ダヴィドに程近いナハラルに仮住まいしてコロナを避けている。双子たちは田舎暮らしで逞しく成長中。ガブリエルは新しく入手したガルフストリームに現金を詰め込み、人工呼吸器や検査薬や、医療用防護衣を世界中で買い付けて、国内の病院に配布。政治家への転身の準備か・・・との世間の噂も。そんな噂は歯牙にもかけず、ガブリエルはオフィスで諜報戦の陣頭指揮も執っている。そんな折、ガブリエルと旧知のイギリス在住のロシア人富豪が毒殺され、ガブリエルはおなじみMI6のケラーと動き出した。

22 【謀略のカンバス】(Portrait of an Unknown Woman 2022年)
 2021年12月〜。ガブリエルはついにオフィス長官を引退し、長年にわたる諜報の世界から身を引いた。カラビニエリのフェラーリ将軍の庇護のある古巣ヴェネツィアに家族と居を構え、キアラはティアボロの美術修復会社の経営に参画し、子ども達は地元の小学校に通っている。キアラの配慮の行き届いた落ち着いた生活で長年の疲労や苦悩が少しづつ薄れ、彼が本来の笑顔やユーモアを取り戻しつつあるころ、旧友のイシャーウッドが、ある絵画売買絡みのトラブルに巻き込まれる。穏やかな日常に少々退屈しつつあったガブリエルは、キアラの赦しをえて調査にのりだす。
 2022年秋〜。ベネツィアで絵画修復に携わり、悠々自適・・・のはずのガブリエルは、またもフェラーリ将軍の訪問を受け、ある名画の鑑定を依頼される。しかし、有名なゴッホの盗難名画の横には、空の額縁とキャンバスを失った木枠があり。そのサイズから、ガブリエルはその絵が、これも盗まれたフェルメールだと直感する。フェラーリからの依頼を受け、絵画の追跡に乗り出すも、ロシアの暗殺者、南アフリカの核開発、そして宿敵ウラジーミル・ウラジーミロヴィッチの手先だった男・・・と、話は転がる雪だるまのよう9膨らんでいく。
 

2024年6月22日土曜日

ガブリエル・アロン来歴《美術修復師ガブリエル・アロンシリーズ》(2023.9.10更新)


《大天使ガブリエル》

 イスラエルの復讐の天使 ガブリエル・アロン
 ダニエル・シルヴァによる、美術修復師にしてイスラエル諜報機関の暗殺工作員(キドン)であり、やがては諜報機関、内部の人間の呼ぶところの〈オフィス〉の長官となるシリーズの主人公、ドイツ系ユダヤ人。
 画家として非凡な才能があったが、ドイツ語を母語とし複数のヨーロッパ言語に堪能だった彼は暗殺工作員として活動することを半ば強いられ、22歳で最初の暗殺を実行する。その後も極限の中で暗殺を重ね、結果として、絵を描く才能は損なわれてしまう。その後、ベネツィアで絵画修復師として修行を積み、独立後はこれを隠れ蓑にヨーロッパで工作員としての活動を継続することになる。

 容姿の形容は、身長175cmくらいで平均以下、自転車選手のような引き締まった体躯、暗色の髪はこめかみに白髪が交じり、知性を感じさせる広い額、面長の顔、目はアーモンド型で不自然なほど鮮やかな緑の瞳、高い頬骨、木彫りのような鋭い鼻の線、細い顎。ちなみに、私の脳内では、キアヌ・リーブスが近い。目の色以外はぴったりだと思っている。もし映画化されることがあるなら、主演は彼でお願いしたい。(正し、身長差はいかんともしがたいが。)

 犬が嫌い。(キアラに言わせると野生動物全般と相性が最悪らしい。たぶんガブリエルも動物に劣らずワガママだからだろうな。)
 ガブリエルの犬嫌いはスパイ業界では有名な話らしく、部下のミハイルによれば、犬とガブリエルは「ガソリンとライターのように危険な組み合わせ」なんだとか。元々好きではなかったらしいが、『イングリッシュ・アサシン』で逃走中にアルザス犬(=ジャーマン・シェパード)と闘う羽目になり、左腕を噛み砕かれたことがあって、以来、犬族全般に対して極めて険悪な感情を持っていると推察される。

 性格はやや神経質で寡黙で暗い。時間を掛けることも待つことも厭わないが、待たされることはあまり好きではない。待たされてイライラすると物や人に当たりちらすこともあり。情緒に乏しく傲慢で冷酷とは少年期の彼に与えられた評価だが、感情表現があまり豊かでないだけで、内実は愛情深く、恩義に厚い。

「・・・石灰岩の建物と、松の香りと、冬の冷たい風雨を愛している。教会と、巡礼の人々と、安息日に車を運転する彼をどなりつける超正統派ユダヤ教徒を愛している。旧市街の市場でアラブ人の露店の前を通り過ぎるとき、彼らの守護聖人たるテロリストを何人も排除してきたのが彼であることを知っているかのように、みんなが警戒の視線を向けてくるが、そんなアラブ人のことすらガブリエルは愛している。信心深い暮らしを送っているわけではないが、旧市街のユダヤ人地区に入って、嘆きの壁のどっしりした石組みの前に立つのを愛している。パレスチナと広いアラブ世界とのあいだに永続的な平和を確保するため、縄張りをめぐる譲歩を受け入れてはいるが、本音を言うなら、嘆きの壁だけは譲りたくないと思っている。エルサレムの中心部に国境が作られることが二度とあってはならないし、ユダヤ人が自分たちの聖地を訪れる許可を求めねばならないような事態を招くことも、二度とあってはならない。嘆きの壁は現在、イスラエルのものとなっている。この国が存在しなくなる日まで、そうありつづけるだろう。地中海沿岸のこの不安定な一帯で、いくつもの王国や帝国が冬の雨のごとく現れ、消えていった。現代によみがえったイスラエル王国もいずれは消えていくだろう。しかし、自分が生きているかぎり、そうはさせない。」ダニエル・シルヴァ. ブラック・ウィドウ 上  Kindle の位置No.945-957 


 普段はかなり無口で、几帳面で感情の起伏を表に出さないタイプだから、こんな想いを語られるとけっこう胸熱だ。  

以下作中から読み解く彼の来歴
 ※『ブラックウィドウ』を読んで、ガブリエルの生年を上方修正。1950年生まれだ。

◆ ガブリエル・アロンの家族の出身はドイツ、母方はベルリン。父方はミュンヘン。
 母方は一家全員がアウシュビッツに送られ、母のみ生還。母方祖父はヴィクトール・フランケルという名のドイツ印象派の高名な画家であったがアウシュビッツに到着した日に殺害されている。母も才能ある画家で、戦後イスラエルに逃れ、現代イスラエルを代表する抽象画家となったが、心を病み生涯アウシュビッツの記憶に苦しめられた。 父も腕に番号の入れ墨のあるアウシュビッツの生還者だ〔報復という名の芸術〕が、ハーパーブックス以降の巻では、ミュンヘン出身でユダヤ人虐殺が始まるまえにパレスチナに移住した、とされている。作品初期から設定が変わっているのか?それとも戦前のパレスチナへの移住者だが、捕らわれてアウシュビッツに送られるような経緯があったのか? いずれにせよ、ガブリエルは母から芸術家としての才能と、両親からアウシュビッツを生き抜いた強靱で不屈な精神を受け継いだ。
◆ ガブリエルは1950年(の多分冬。11月か12月頃)に、イスラエルのイズレル渓谷にあるラマト・ダヴィドという農業を中心とする入植地で生まれた。〔ブラック・ウィドウ〕
◆    1967年 父が第三次中東戦争(六日間戦争)で死亡。〔ブラック・ウィドウ〕
◆ 1968年 父の死の1年後、母が癌で死亡。〔イングリッシュ・アサシン〕
◆ 兵役(イスラエルのユダヤ教徒は男女とも皆兵。男子は18歳から36ヶ月の兵役を務める。 )ののち、ベツァレル美術学校(ベツァレル美術デザイン学院)に入学。イスラエルの学生は兵役があるため、普通大学に入学した時点で21歳くらいのはずだが、アロンは1972年に暗殺者となったとき20歳、との記載。〔英国のスパイ〕 若干計算が合わない気がしたが、『ブラック・ウィドウ』では「ミュンヘンオリンピックの後、22歳で復讐の天使になった」とのエリ・ラヴォンの言葉があり。そうであれば、1950年生まれで、ハリー・ボッシュと同じ歳(笑)である。これだと、計算があう。というわけで、ざっと年齢を修正。
◆ 在学中に最初の妻、リーアと結婚。
◆ パリに1年留学していた、との記載あり。〔報復という名の芸術〕
 留学、とはいうものの留学生の身分を偽装に利用して暗殺工作を展開するためだった可能性もある。
◆ 1972年のミュンヘンオリンピック事件(ブラックセプテンバー事件)直後の9月、ガブリエルの語学力、兵役時の銃器を扱う才能、偽装に使える画才等を見込んだシャムロンが彼を強引にスカウトし、シャムロン麾下の暗殺工作員(キドン)となる。〔イングリッシュ・アサシン〕 この時22歳。〔ブラック・ウィドウ〕その後3年間にわたって、ブラックセプテンバー事件への報復作戦である「神の怒り作戦」に従事。
◆ ブラックセプテンバー事件の実行犯・関係者12名を暗殺(銃殺もしくは爆殺)して「神の怒り作戦」におけるガブリエルの任務は終了する。ガブリエルはそのうち6名を直接殺害した、とされている。その際、ブラックセプテンバー事件の犠牲になったイスラエル選手団11名の報復として、可能な限り一人につき11発の銃弾を撃ち込んだ。これは、この後もガブリエルの暗殺のスタイルとなっている。
◆暗殺した6人の内のひとりが、マハムンド・アル=ホウラニだった。この男の弟のタリク・アル=ホウラニが、兄を殺された復讐のため後にガブリエルの妻子を爆殺する。〔報復という名の芸術〕
◆ ガブリエルは、3年間作戦に従事したのちイスラエルに帰還し、改めて画家としての活動を再開しようとしたが、キャンバスに向かうと自分が殺した相手の顔がちらついて、絵を描くことができなくなっていた。そこで、シャムロンの了解のもと、ベネツィアの美術修復士のもとに弟子入りし、絵画修復の道に入る。
◆ 1975年〜1977年頃までの3年間、ベネツィアで修行。
  絵画修復師として独り立ちした後は、この身分を隠れみのに、工作員としての活動を継続。
◆    1976年頃には、チューリッヒ在住のパレスチナ人劇作家、アリ・アブデル・ハミディを殺害。〔イングリッシュ・アサシン〕
◆ 1977年頃  シャムロンが修復師修行を終えたガブリエルをイシャーウッドに引き会わせる。
◆ 1988年頃 息子のダニエル・アロン誕生。(ガブリエルはこのとき38歳)
◆ 1988年4月のPLO幹部暗殺事件では、作戦に加わり、暗殺を実行している。
◆ 1991年1月 ウイーンでガブリエルの自動車に仕掛けられた爆弾により息子のダニ(当時2歳半)が死亡、妻リーアは全身大やけどを負い、精神に異常をきたす。〔報復という名の芸術〕
◆ 事件の後、ガブリエルは〈オフィス〉を辞め、イギリスのコーンウォール最南端のガンヴァロー海岸にあるコテージに隠棲。このコテージとアトリエは、こののち長い間彼の心の休息地となるが、『英国のスパイ』では殺戮の舞台となる。
◆ 1998〜1999年頃、イギリス・コーンウォールのヘルフォード川河口、ポート・ナヴァスの近くにあるコテージに移り住む。このコテージの隣家にピール少年が住んでおり、ガブリエルは亡くなった息子ダニエルと同じ歳のピールと交流する。〔報復という名の芸術〕
◆ 1998年頃は「この世界(諜報と暗殺)から遠ざかっていた」と本人の弁。〔英国のスパイ〕この頃はイシャーウッドからの絵画修復の依頼で生計を立て、精神病院に入院していたリーアの治療費を稼いでいた。
◆    1999年頃 シャムロンの要請で〈オフィス〉の現場に復帰。ニューヨークでパレスチナ人テロリスト(タリク・アル=ホウラニ)の銃撃を胸にうけて重傷。〔報復という名の芸術〕
◆ 2001年頃 ナチスによって奪われたユダヤ人が所有していた絵画を巡り、スイスの秘密組織に潜入するも捕らえられて拷問される。なお、この作戦の際、パリで爆弾テロの標的とされ、腕に大怪我もしている。(爆弾テロ1回目)〔イングリッシュアサシン〕
◆ 2001年〜2002年冬 サン・ザッカリア教会の祭壇画(ベッリーニ)の修復。
  盟友ベニがミュンヘンで謀殺される。
  ローマ教皇暗殺犯(ベニを殺した男)をバイクで追跡中転倒し重傷を負う。〔告解〕
◆ 2003年  聖クリストソモ教会の祭壇画(ベッリーニ)の修復。キアラとは恋仲になっている。SS将校であったラデックを捕らえてイスラエルに連行する。〔さらば死都ウィーン〕
【5作目から13作目 未読 ガブリエルがキアラと別れたりくっついたり、ローマ教皇を助けたり、ロシアに潜入して大怪我したり、サウジに潜入して捕まったり、イギリスの首相を助けたりしている。ああ、翻訳読みたい(泣)】
◆    2014年秋  サン・セバスティアーノ教会の祭壇画(ヴェロネーゼ)の修復。
◆ 2014年秋〜12月 英国人の殺し屋ケラーとともに元IRA爆弾テロリストとロシアのスパイを追う。ロンドンで爆弾テロの標的にされて負傷するが、この事件を逆手にとって死亡を装ってテロリストを追撃。
◆    2014年12月 妻キアラとの間に双子誕生。
  女の子をアイリーン(ガブリエルの母の名)、男の子をラファエル(ルネサンスの大画家より)と名付ける。〔ブラック・ウィドウ〕
  カラヴァッジョの祭壇画《キリストの降誕》の修復〔ブラック・ウィドウ〕
◆ 2015年4月〜ISISの爆弾テロ指導者〈サラディン〉を追う。この間、ワシントンで爆弾テロに巻き込まれる。〔ブラック・ウィドウ〕
◆ 2015年の末に 〈オフィス〉長官に就任(65歳)。双子1歳の誕生日。サラディンの追跡を継続。パリのヴォクソール・クロスでまた爆弾テロにあう。〔ブラックウィドウー死線のサハラ〕

◆ 2019年11月 ローマ教皇パウロ7世逝去。双子は4歳で、もうすぐ5歳。ガブリエルは69歳になったところ。ガブリエルの旧友でもあるドナーティが、新教皇に選出される。〔教皇のスパイ〕

◆ 2020年3月 新型コロナの流行。アロン家はナハラルのバンガローに仮住まい。ガブリエルの旧友であるロンドン在住のロシア人富豪が毒殺される。
◆ 2021年1月6日 米国でトランプ支持者による議会議事堂襲撃。 1月20日 大統領就任式の直後にQアノン支持者によるガブリエル暗殺未遂。生死を分ける一週間、さらに2週間の集中治療ののち、ガブリエルはイスラエルに帰国。その後、復帰までにはさらに数ヶ月の静養を要した。〔報復のカルテット〕

◆ 2021年末 オフィス長官辞任。ヴェネティアでついに引退生活に入る。
◆ 2022年春 旧友のイシャーウッドが贋作絵画売買の詐欺に巻き込まれる。1枚の絵の所有者が殺害され、イシャーウッドも狙われるに及んで、ガブリエルが調査に乗り出す。結果、全世界を股に掛けた巨大絵画投資詐欺グループを壊滅に追い込む。〔謀略のカンバス〕
◆ 2022年秋 〈オフィス〉長官引退後、ヴェネティアで絵画修復に励むガブリエルにフェラーリ将軍が巨匠絵画の盗難事件を持ち込む。ガブリエルは調査を請け負うが、それがウクライナ戦争での核使用を目論むロシアの陰謀に繋がり、ガブリエルは再び〈オフィス〉のメンバーを集め諜報戦を指揮することに。〔償いのフェルメール〕

2024年6月15日土曜日

0488 レーエンデ国物語

書 名 「レーエンデ国物語」
著 者 多崎 礼 
出 版 講談社 2023年6月
文 庫 496ページ
初 読 2024年6月14日
ISBN-10 4065319463
ISBN-13 978-4065319468
読書メーター 
https://bookmeter.com/reviews/121302449

  「革命の話をしよう」

 という序章で、この物語は始まる。
 「レーエンデ国物語」、と言いながら、この巻ではレーエンデという地方は登場しても「国」は存在しない。
 そのことからも、後世に登場する「レーエンデ国」の伝説若しくは年代記として、この本は語られるのだろうか、と予想する。
 序章によれば、この物語は「革命」の話であり、レーエンデの歩んだ苦難の道のりであり、物語の起点となる“レーエンデの聖女”と呼ばれたある女性の物語であると。
 そして終章、この巻の主人公の一人、宿痾に冒された弓兵トリスタンの、その銀呪に侵された死にゆく目に、壮大なレーエンデの未来が映る。そして、ここが終わりではなく、始まりなのだ、とトリスタンは知る。

 レーエンデの誇りのために戦う女がいた。(第二部 月と太陽)
 弾圧と粛清の渦中で希望を歌う男がいた。(第三部 喝采か沈黙か)
 夜明け前の暗闇に立ち向かう兄と妹がいた。(第四部 夜明け前)
 飛び交う銃弾の中、自由を求めて駆け抜ける若者達がいた。(第五部 未刊)

 これらの物語が、この後に続く巻で、語られていく。

 とても壮大で緻密な物語世界を構築している。まさに、ハイ・ファンタジー。
 そのことに疑いはないのだけど、物語の舞台には、冒頭からどことなく既視感を感じる。なんとなく『もののけ姫』の世界観との共通性を感じるからだろうか。時代的にも中世→近世といったところ。周囲はだんだん文明化しつつある。よそ者の侵入を嫌う異形の古代樹の森とか、宿痾を背負った青年(トリスタン/アシタカ)とか。作中に登場する泡虫は『もののけ姫』の「こだま」と同じような役回りを果たす。
 また、残念なことに、『指輪物語』のような大叙事詩的なスケールの大きさを感じさせる世界なのに、全体的に台詞回しが軽い。テンポの良い会話は面白くはあるのだけど、軽いノリや語彙が非常に現代っぽく、中世的な情景に相応する情感とは雰囲気が添わない。そのせいで登場人物の情緒もいまいちチグハグな印象を受ける。
 また、もう一つ違和感が拭えなかったのは、「革命」「自由」といった言葉がどうも上滑りしていること。(もっとも、後世に書かれた、という体裁であるから、描かれた時代(この巻の年代)にはない概念が「作品」に持ち込まれているのだ、と考えられなくもない。)
 「自由に生きる」「個人の幸福」「自分の人生を自分で選択する」といったテーマはとても近代的なものなので、太古の森で、ドレスを纏ったお姫様が、「自由意志による選択」について苦しむ、ということに時代的なミスマッチを感じてしまう。自我の獲得ともいうべきとても近/現代的なテーマは、あたかもとってつけたように感じられ、違和感があるのだ。16歳のユリアが、自分の父より高齢で好色な領主の後添えに嫁ぐことを伯父に強要される。そのことにユリアが嫌悪を示すのは良いし、苦悩するのも当然なのだが、その葛藤を「自由に生きる」という言葉に置き換えてしまうと、とたんに「なにか違う」ものになってしまう。

 また、「悪魔」という言葉は、どうしてもキリスト教的意味合いを強く感じるので、別の言葉を当ててくれるとよかったのにな、と思う。ローマ・カトリック教会に近い雰囲気を醸し出している「クラリエ教」の教義や伝承の中にこの言葉が出てくるのであればたぶんすんなりと馴染むが、クラリエ教に圧迫される側の少数民族の古くからの伝承の中に「悪魔」とか出てくると、違和感が強い。

 さらにどうしても気になってしまったのが、「木炭高炉に石炭が必須」というセリフ。
 木炭高炉で製鉄するなら、必要なのは木炭であって石炭ではないのでは?石炭で製鉄するにはさらに時代が下がってコークスの登場を待たねばならないし、そうなったらそれはすでに「木炭高炉」ではないのでは?

 いやほんと、お前は本を楽しむ気があるのか!と叱られそうなレビューで申し訳ないとは思いつつ、一応気になった点は記録しておく。しかし文句は多いが、十分に楽しんで読んだ。一巻目で感じた違和感のうちのいくつかは、後続の巻を読めば解消しそうな気もする。

 なにしろ、トリスタンが最後に悟ったように、これは「終わりではなく始まり」
 レーエンデは揺籠
 エールデは胚子
 誕生したまま、ついに登場しなかったエールデは、今後、物語の中でどのような役割を果たすのか。
 トリスタンが言ったように、トリスタンは霊魂となってエールデのそばに留まるのか。
 やはりユリアが言ったように、ユリアはリリスと、時代を経てなんらかの再会を果たすのか。
 始原の海とはなんなのか
 銀呪病の正体はなんなのか・・・・

これらの謎が明らかにされることを大いに期待して、続刊に臨みたい。

2024年6月7日金曜日

番外 異国日記(4)〜(11)


(4)朝ちゃん「なんでこんなこともできないの」って禁句だからね、と思った。できない人はできないんだよ。「ふつうのこと」は、言われても傷ついちゃいけない、ってのも強者の、もしくは多数者の傲慢だよな〜。そういう傲慢は、幼かったり、若かったりすることで、周囲から許されるもの。愛されてきたであろう朝の無自覚な傲慢は、ところどころで棘のように痛い。
 そして笠町くん。頑張った。



(5)自分の中の当たり前や常識が砂上の楼閣のように崩れて、残ったのはお腹の中の命だけだったとき、実里さんにはその命を愛することは当然のことだったのか。実里さんは何を日記に書き残そうとしたのかな。
 高校生の頃、学校サボってぶらぶらするのは当たり前だったな。あの当時の形容しがたいやり切れなさは、学校という集団の中ではやり過ごすことができなかったので。幸いだったのは、そういういい加減さが許される学校だったこと。多分生徒たちを、馬鹿なことはしても、愚かなことはしない、と信頼してくれていたんだろうと思う。
 それにしても槙生さんの小説を読んでみたい。俺の竜のエイマールが死んでしまった、なんて、そこだけでも物語が怒涛のように押し寄せてきて泣けそうだ。

(6)「死ぬ気で、殺す気で、書く」「死ぬ気で、打ち、鍛え、研いで、命をかけて殺す」という作業。文章を書く極意を言語化するも、朝には「わかんない」。若いし、未熟だし、未熟だってことは恥ずかしいこと。まさに黒歴史。私はどうにも朝に共感しきれなくて。幼くて、知識も経験も足りないことにある意味あぐらをかく、というか、だから自分は許される、とどこかで思っているところが・・・・・多感なのに鈍感で、言葉を選ばないし、平気で人を傷つけるし。そんな未熟な朝を、きちんと愛する槙生さんがすごいと思うよ。もっとも槙生さんは絶対に「愛する」とは言わないのだが。
 笠町くんと、ジュノさんと、エミリのそれぞれの来訪が、同時並行で描かれていて、きっと槙生さんの頭の中はこんな感じにごちゃごちゃしているんだと思った次第。

(7)朝ちゃんが、すこし大人にちかくなって、世界と噛み合うようになってきたかな。世界と噛み合うとは、朝ちゃんの力が世界に及ぶということ。たとえば十年後の誰かの思い出のように!?
 そういえば、「自分のなりたいものになりなさい」って教育は本当にクソだと思う。自分が何者かもわからん子供に、自分がなりたいものになることが尊いのだ、と教育して、何%が成功して何%が挫折するのか、エビデンスがあるのか? それよりも、自分でメシが喰える人になりなさい。と教えてほしいよ。(と、大いに脱線。)

(8)えみりのカミングアウト。朝の「父親さがし」。数々のインタビューの中で、一番心に残ったのが、笠町くんの「年上の男性はいまだに苦手」。男の人でもそうなるのか、とこれまた男性差別的な視線で恐縮だが、そう思ってしまった。女の子だろうが男の子だろうが、高圧的な父親だったらそうなるよね。思春期の反抗期ごろに親子の関係性を転覆できなければ、そうなる。そして、親に愛されていなくても自分が価値のない人間ではない、という笠町くんの言葉。これは、真実だけど、自分の中で真実になるまでに何回も何回も反芻され、言い聞かされ、それでも頼りなく、自分を支えるものはそれしかないとしても、細く弱く頼りない。あなたはここにあるだけで価値がある、と槙生さんなら怒りながら言ってくれると思うが。

(9)7巻くらいから?判然としないけど、だんだん、構成が朝がもっと大人になってから記憶を辿って書いている日記の体裁になってきた。
そして、「やめる人とやめない人」。同じ文脈で「努力できるひとと努力できない人」という言い方をする人もいる。努力し続けることが才能だ。と。それもまた、一つの真理だけど。私にとっては、「努力し続ける」ことができる能力は、才能というよりは、恩寵、かな。自らに内在するもの、というよりは、自分の意思には無関係に与えられたり、与えられなかったりするもの。私の絵を描く友人はかつて「描き続けることを選択してきた」と。人生のさまざまな選択の場面で、「描くこと」につながる方を常に選択し続けることもまた、力であり才能。

(10)「父親探し」も一区切りついたか、気持ちも生活も受験が多くを占めるようになる高2の後半〜。姉の急死と姪の朝を引き取ることがなければ、きっと変化すこともなく、ただ硬化していっただろう姉との関係も、朝を通じて、槙生の中で変化していくのか。子育てって、自分の思い通りにはならない他者が自分の生活の中にいる、ってことだけでも、人間を成長させると思うなあ。なんとかそういう生活に適応する努力をしている槙生さんもえらいが、「努力」できている時点で、槙生さんの「生きにくさ」とはなんなんだろうなあ、とは思う。仲の良い友人がいて、仕事仲間もいて、子育て仲間もいて、ちゃんとコミュニケートできている。槙生ちゃん、ちゃんとできてるよ。

(11)了。様式美的ではあるが。予定調和的ではあるが。ほんと、こうだい槙生の作品を読みたくなる。

 総じて、自分の学生時代のこと、自分と親のこと、自分の子育てのこと、自分自身のこと、いろいろと思い出し、身につまされた。そういう意味では疲れる読書だった。

2024年6月2日日曜日

番外 違国日記(1)〜(3)



 私の内面の、苦さ(くるしさ、とは書きたくないので、「にがさ」で。)とか、生きにくさ/やりにくさ、とか、人との関係の取り方の難しさとか、などは、決して外側からは見えないし、そんなものが存在することすら傍目には理解できないし、私がそのようなものを抱えながら毎日を生きているなどとは想像もつかないことだろうと思う。

 はばかりながら50年以上を生きてきて、人との付き合い方も、職場での振る舞いかたも、そこそこ身についている。ただ、自分の主観として、楽ではないだけだ。

 おそらくは、そこはかとなくアタッチメントに問題があるのだろうと思う。
 病的なほどではない。ただ、「傾向」として、ややそういうところがあるだけだ。

 致し方ない事情で、0歳児の頃に3〜4回、養育者が変わっている。基本的な愛着関係や言語を習得する時期なので、それなりにダメージがあったと我ことながら想像する。
 その後は、ずっと保育園で集団生活の中で育ったので、集団の中で身を処す方法は身についたが、それが自分の「気持ち」ときちんとリンクしているわけではない。

 自分の周囲で、自分以外の人が仲良く話をしているときなどに、なんの脈絡もなく、疎外感を感じる。この疎外感と自己同一化するといろいろと駄目になるので、自分の意識をちょっと遠くにおき、周囲の状況と、その環境下で自分の中に醸される感情を俯瞰することが習慣づいている。
 自分の感情と、自分のマインドを切り離して冷静に自分を観察するのは、例えば瞑想などとも関連する方法だが、四六時中そういうことをしているのはメンタル的に疲れるし、本来なら仕事などに回せる自分の脳内のリソースを余計なことに使っている。

 自分がどんな環境が一番好きかというと、たとえば、人の気配のする家の中でひとりでシンとしているのが好きだ。家族が寝静まった深夜の家の中などは、かなり好きだ。

 職場にいる時や、何かの会合に出ているときの自分はかなりテンションが高いが、周囲からはおそらくエネルギーのある元気者だと思われている。

 しかし、家に帰ると、スイッチが切り替わるので、一気にエネルギーは枯渇する。

 とても、疲れる。

 私もきっと「違国」の住人なのだと思う。

 だけど、きっと私一人がそうなのではない。皆、一人一人が、何かしらの難しさや生きにくさを抱えながら、「社会」や「世の中」に自分を合わせて、沿わせて生きている。そもそも、人は一人一人の能力にも差があり、なんとか円満に育ったとしても、この世は決して生きやすくないのだ。

 そんなことをつい、考えさせられた、「違国日記」。

(1)槙生さん、勢いと道義心の発露で、若犬(朝、15歳、女の子、姉の子)を引き取る。
 しかし、槙生さんは、人間関係全般がNGで、孤独を友とする人だった。親を失ったばかりの多感な15歳の存在に怯えつつも、なんとか関係を構築しようと模索する。あなたの感情はあなた自身のものであって、他人がそれをとやかくいえるものではない。当たり前のことだが、人は自分とは違う「他人の感じ方/考え方」を否定しがちだ。それこそ、「えー、うそー?(笑)」みたいな簡単な言葉で。「15歳の子供は、もっと美しいものを受けるに値する」「私はけっしてあなたを踏みにじらない」、日記の書き方のすすめが良し。

(2)主人を失った家の片付け。当然に続いていたはずのものが、突然断ち切られることを受け止めるのは難しい。自分にとっては敵も同然だった姉の生活をのぞく。いなくなった母のことなのに、現在形で話してしまう朝ちゃん。英文法の時制の話になぞらえて、受け止め方/考え方を教える槙生さんはとても知的で、優しい。自分と朝の「おかーさん」の話は、「過去完了形」。
 笠町くんはいい男だ。こういう男って、漫画の中にしか存在しないよな、とちと思った。
 なんで槙生の姉さんは、あんなに言葉で妹を切り刻んだんだろうな。姉というのは、それが許されると誤解していた? ただ、この場合姉の言葉は槙生の主観/記憶であって、実際はもうちょっとそうでなかった可能性もある。だが、そうだとしても、槙生の感じ方もまた、真実。
 いちいち槙生ちゃんと自分と引き比べてしまう。少なくとも、私は自分の生に疑問を持ったことはなかった。親に愛されていないと感じたことだけはなかった。それは間違いなく親に感謝できることだ。ついでに、自分の子育てをつい、振り返ってしまう。私は自分の娘にどう関わってきたか(かなり放任した自覚もあるが)。なんか、身につまされることが多すぎる。

(3)朝ちゃん、高校の入学式。一人で出席する朝に、親友えみりの母が怪訝な顔。ここにも社会常識という善意の塊。
 槙生が最初に借りたアパートは近くに学校があって、チャイムの音やプールの声が離れて聞こえてくる。緩やかに干渉はされずに、人の気配がして繋がっている感じ。これは理解できる。わたしにとっての夜中の家の中、と同じ感覚だ。
 無条件に子供を受け入れる、そうありたいと思っていたけど、実際のところ子供から見た私は「無条件」だったろうか。もしかしたら「無関心」だったのでは?
 そういえば、娘がこっちが返答に困るようなことを言ってきたときに、ひとまずそれを飲み込んで、どんな返事がいいか、と考えるんだけど、私の沈黙が長すぎて、娘は無視されている、と思っていた。べつに無視しようと思ったわけじゃないんだけどね。返答が難しかっただけだよ。もう、何を聞かれたかも忘れてしまったけど。

弁護士の塔野さん、いい味出してる。本人に自覚があるかどうかはともかくこの人も「違国」の住人か。でもこのかたはきちんと現実社会に着地していそう。
ライバル登場だ。頑張れ笠町くん。

2024年5月の読書メーター

 5月もあまり読書は進まず、読了冊数の寂しさについ、コミックで水増しした。
 オノ・ナツメさんのバードンが9巻で完結。どこまでも、スペクタクルにもアクションにもならず、渋ーい大人の物語でした。 公安Jの「オリエンタル・ゲリラ」は70年代安保闘争から新左翼が国際ゲリラ化した流れを辿る。ほんと、日本の暗部やら恥部やらをえぐるのが上手な作家さんだ。で、読みたい本が多すぎるだけでなく、読もうと思った本が本棚で行方不明になること多発。いずれ読もうと思っていた70年代関連書籍が見つからない。散々探して、よーく、よーーーく考えると、さすがにもう読まないだろうと思って古本屋に売っぱらったようなおぼろげな記憶があるような、ないような。こういう風に、突然読みたくなるんだから、やはり、本は手放してはいけない、と反省した。

5月の読書メーター
読んだ本の数:6
読んだページ数:1392
ナイス数:536

BADON(9)(完) (ビッグガンガンコミックス)感想
完結。一巻から追いかけてきたんだよなあ、とちょっと感無量。大人の話だ〜。それなりに大きな事件があり、関係者がそれぞれに揺られるけど、狼狽えない。たじろがない。力を合わせて乗り越える。煙草は吸わないけど、つい嗜んでみたくなってしまう。でも私にはハチクマのシガレットチョコの方が合うな、きっと。
読了日:05月31日 著者:オノ・ナツメ

警視庁公安J オリエンタル・ゲリラ (徳間文庫)警視庁公安J オリエンタル・ゲリラ (徳間文庫)感想
えらく時間をかけて読了。純也の心情に入り込めないのが、ストーリーにのめり込めない原因か。女性の造形はチープだと思う。なんだよ美魔女って(笑)。この男性作家さんも女性を魅力的にかけないタイプか? どうにも女性キャラが男の幻想の魔物の域から出てこない。70年代の社会運動の記録は、歴史的・日本の精神史的な側面からぜひ一度取り組みたいテーマなので、この本に触発されて、数冊の本を読みたくなった。なお、例の合言葉の意味は早い段階で気づいたが、ローの正体は流石に意外だった。氏家さんがどんどん良い人になってきたな
読了日:05月29日 著者:鈴峯 紅也

海賊王子と初恋花嫁 (Ruby collection)海賊王子と初恋花嫁 (Ruby collection)感想
疲れた心に優しいお話です。癒されたい人と癒されたい時に最適だ。砂漠の帝国のハーレムの一角で忘れられたような17番目の皇子と海洋都市国家(生業は海軍。傭兵+海賊)の首領の息子。10歳と12歳から始まる幼い友情と恋愛。17と15で再会して、海賊王子のカイが、初恋の相手で幼馴染みのイシュルをひたすらに口説いている。同時に手も出てる。カイはいい男だし、イシュルはただただ健気だが、心が強いのが良き。BL描写は極控えめ。船のイメージは帆付きのガレー船のイメージで読んだ。
読了日:05月21日 著者:須王 あや

違国日記 1 (フィールコミックス FCswing)違国日記 1 (フィールコミックス FCswing)感想
生きづらさを抱えながらも、自分の居場所を守りつつ、そこに、苦手としりつつ親戚の子供を引き取って・・・。槙生さんの生活はちょっとうらやましくもある。一人で引きこもって生きていくことに憧れてしまう。 私も、ラストからでも本を読める人なので、そこはちょっと共通点があって嬉しい。
読了日:05月18日 著者:ヤマシタトモコ

OBLIVION<矢代俊一シリーズ25>OBLIVION<矢代俊一シリーズ25>感想
《毒を喰らわば皿まで》検証『トゥオネラの白鳥』の展開には合理性があるのか!?《補遺》。矢代俊一シリーズ最後の本。未完。薫サン2008年12月の筆。翌年の2009年5月に死去された。今更だが故人の冥福を祈る。矢代俊一グループは、富士河口湖畔のホテル兼スタジオを貸し切って新アルバムの収録に臨む。収録にはコアメンバー5人の他にピアニストの松本弓彦、和太鼓の社中なども参加し、俊一の父も参加する予定。新アルバムは『雨月物語』をテーマに、人間の業と救済を描く。そしてそのホテルで心霊現象に遭遇したところで・・・未完。
読了日:05月04日 著者:栗本薫

五歳で、竜の王弟殿下の花嫁になりました3【電子書籍限定書き下ろしSS付き】 (Celicaノベルス)五歳で、竜の王弟殿下の花嫁になりました3【電子書籍限定書き下ろしSS付き】 (Celicaノベルス)感想
 3巻目が発売したので、読む。もはや私の心の包帯と化している。今作はレティシアの幸福を阻まんとする悪い策謀に対して、フェリス様の怒りが爆裂。レティシアの前では優しい猫をかぶってるフェリスの黒い面も堪能。白フェリスと黒フェリスの塩梅が絶妙です。ラノベとはいえ侮れん。この人文章うまいな〜と思いながら読みました。なお、男前?な王太后様がすんばらしかった。見直したよ。
読了日:05月03日 著者:須王あや

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