2025年1月8日水曜日

0530 魔導の矜持 (創元推理文庫)

書 名 「魔導の矜持」
著 者 佐藤 さくら   
出 版 東京創元社 2017年11月
文 庫 448ページ
初 読 2025年1月8日
ISBN-10 4488537049
ISBN-13  978-4488537043
読書メーター https://bookmeter.com/reviews/125275667

 エルミーヌのイドラで「魔物棲み」がらみの騒動が起き、カレンスが、カンネ女王の命を受けて、イドラで「魔物棲み」の保護と学校の設立を担うようになった前話から5年後。レオンとゼクスもイドラの学校で「魔物棲み」の指導にあたり、早くも自立した若い魔導士二人が首都に設立された魔導士学校に派遣され、「魔物棲み」として薬漬けにされて自由を奪われていた者の恢復と指導に苦心していた首都でも、イドラでの実践を取り入れて魔導士教育がようやく進みつつある。

 ラバルタ北部地域とカデンツァ自治区では再び緊張が高まり、内戦が再発しそうな情勢で、エルミーヌのフラセット卿が調停役として派遣されることに。フラセットはカレンスと友人のアニエスを同行させる。カデンツァ自治区を初めて訪問したカレンスはゼクから託された手紙をアスターとダーシャに手渡し、ゼクスの生存を知った二人は涙して喜んだ。

 ラバルタ国内では、内戦以降、民衆の魔導士に対する憎悪が強まり、各地で魔導士の迫害・虐殺、私塾の閉鎖や魔導士ギルドへの弾圧が起きている。拠り所や師を失った魔導士の中には野盗化して村を襲う者も出てきており、それがさらに魔導士への迫害の原因となっていた。

 もともとは魔導士の境遇を改善するために立ち上がったはずだったアスターは、自分の行動がラバルタ国内のさらなる分断を招き、国内情勢を不安定にし、魔導士の境遇を一層悪化させたことに責任を感じ、深く苦悩している。

 そんな中、ラバルタ南部の町で魔導士の野盗がある村を襲撃したことに端を発し、近隣の町の私塾が怒り狂った町民に焼き打たれ、師や魔道士見習いの弟子たちが惨殺された。辛くも脱出した16歳と12歳、9歳2人の4人の子供は、魔導士狩りの騎士団に追われ、突然の逃亡生活を強いられることになった。

 デュナン、アース、パスカル、ルーティの4人を偶然の運びで助けることになった落ちぶれた元騎士のガンドと騎士見習いになれなかった貴族の庶子のノエの6人が、ラバルタ国内情勢を見聞するために密かにラバルタ国内を旅していたアスター、ダーシャと偶然出会ったことから、子供たちをエルミーヌのゼクスたちの元に逃がすことになる。

 第1回創元ファンタジイ新人賞で受賞した第一巻で、民族差別と、階級差別の様相を呈する魔導士蔑視に対する抵抗から始まった物語は、第二話では、特定の形質を持つ者(魔脈を持つもの・魔導士)や、精神病者などの社会的弱者の生存権の問題が提示され、この第三話では、さらに個人の内面の尊厳の問題に焦点があてられる。

 最初は、魔導士対それ以外の人間というごく単純化された対立の図式が提示されていたが、その中にも、一人ひとりの心の中の差別意識や、良心の問題や、自尊心の問題ははじめから物語に内包されていたと思う。

 しかし三巻目となると、魔導士対それ以外(魔導士狩りの騎士や大衆)という図式の中に、魔導士(の子供)を助ける騎士対魔導士狩りの騎士に協力する魔導士、という図式が加わる錯綜した状況になり、ことは、人間対人間の問題であることに否応なく気付かされる。

 一人ひとりの人間が持つ尊厳や自尊心、臆病、羞恥、保身、それぞれの個人ががどうやって自分の内面にあるそれらと折り合いをつけ、どのように他者に対するのか。命を懸けた選択を迫られたときに、保身に汲々とするのではなく、自分の誇りをかけ、他人の尊厳を守る行動をとることができるのか。それによって何を失い、何を得るのか。

 著者は、もともとは、一話で完結していた、とあとがきで言っているが、この物語は巻を重ねるごとに深化した。そして、これらは決して「物語」の中の話だけでにあるのではなく、現実の課題として、読者の心に問いを投げてくる。

 例えば差別を受ける側と差別する側がいて、いま、差別する側が差別を受ける側を集団で殺そうとしている。それを目の当たりにしたときに、殺される側に立つ(自分も殺される)ことができるのか。そういう究極的な選択の場に自分が立つことを、読者は読んでいて、想起せざるを得ない。
 話の中では、ガンドもノエも、武器を持ち戦う訓練を受けているので、殺される側に立つ、ということは、自分がその側に立って戦い、形勢を逆転させること、自分が生き残るために相手を殺すこと、と考えるが、現実世界では、両者の勢力が拮抗していない限りは、むしろ差別される側に立つことで「自分も一方的に殺される」という選択肢になる可能性が高い。それでも自分は、自分の良心にかけて、正しい選択をしうるのか。
 または、ノエやガンドや、アースやデュナンと同様に、自分達が生き残るために相手を殺す、という選択にもなりうる。弱者の側に立つ、という選択と、自分が誰かを殺す、という選択を同時に迫られたらどう行動するのか?

 殺されるか、殺される前に殺すか、という命題に対する一つの回答は、デュナンがとった「殺さない」という選択だろう。しかし、その選択をとるためには、自分がアドバンテージをとらないといけない。相手を凌駕し、その上で、生かす。という選択が取れるようになるためにはまず、自分を磨かないとならない。そのための努力は一番前向きなように思えるが、厳しい道であることには変わりなく、自分にできるか、といわれれば多分、イヤ絶対に無理。

 差別(いじめの問題も同様に言われるが)には、中間点は存在しない。傍観することは「殺す側」に立つことなのだ、と改めて考える。それでも自分は、自分の自尊心のために、殺さないこと、弱者の側に立つことを選択できるだろうか。これはまさにこの本のタイトルにある矜持の問題だと感じた。


 著者はあとがきで、ダメな大人が書きたかった、と言っている。その代表格がレオンなのだが、実際レオンは「ダメな大人」ではないと思うのだ。一作目ではまだレオンも20代で若く、悩みながらなんとか生きていこうとしている。だが実際レオンの「ダメさ」は、戦闘能力を持たない、という一点につきる(まあ、生活力がなくてだらしないってのは、「ダメ」な要素ではあるが)。 それは、この巻でも書かれているように、ラバルタの魔道が闘いに特化しており、それ以外の魔道の活用の道を封じてきたからこその結果であって、レオンが研究者として、指導者としては一流であることは、実は一作目から示されているではないか。
 問題は、レオンが「一流か、三流以下なのか」ではなく、レオンが自分のことをどう思っているか、「ダメなやつ」だと思っていることなのではないか。
 一読者で、レオンのファンである私としては、本当は全然「ダメではない」レオンが、卓越した魔道の研究者・指導者として、このファンタジイ世界の中の魔道の中興の祖として、この物語世界の歴史に名を残していてほしいと切望している。

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