原 題 「The Farthest Shore」1972年
著 者 アーシュラ・K.ル=グウィン
翻訳者 清水 真砂子
出 版 岩波書店
【岩波少年文庫版】
少年文庫版 368ページ 2009年2月発行
ISBN-10 4001145901
ISBN-13 978-4001145908
読書メーター https://bookmeter.com/reviews/126459454
【ハードカバー版(初版)】
ISBN-10 4001145901
ISBN-13 978-4001145908
読書メーター https://bookmeter.com/reviews/126459454
【ハードカバー版(初版)】
単行本 319ページ 1977年8月発行
初 読 1982年〜83年頃?
ISBN-10 4001106868
ISBN-13 978-4001106862
エレス・アクベの二つに割れた腕輪が一つになって、ハブナーに還ってきてから、17、8年。ゲドは5年前に大賢人に選ばれて、いまはロークに腰を落ち着けていた。
初 読 1982年〜83年頃?
ISBN-10 4001106868
ISBN-13 978-4001106862
エレス・アクベの二つに割れた腕輪が一つになって、ハブナーに還ってきてから、17、8年。ゲドは5年前に大賢人に選ばれて、いまはロークに腰を落ち着けていた。
作中のゲドの口調がすっかり、大賢人というよりはむしろハイジのおじいさん調なのでイメージが混乱するが、この時点でゲドは立派な中年もしくは壮年。『こわれた腕輪』では若者よばわりだったので、今は40代半ばであろうか。なにしろ、次の『帰還』では遅すぎた春もくるのだし・・・(っと、それはさておき。)
私はこの本は多分、三十年ぶりくらいの再読で、ほぼ、ゲドが若者アレンと最果てにいって、力尽きて戻ってきたんだよな、程度の記憶しか残っていない。ほぼ初読と同じ感じで楽しめた。
スタジオジブリ宮崎吾郎監督の『ゲド戦記』(2006年)の原作となったことでこの本を知った人も多いと思うし、それよりずっと以前からこのシリーズを大切にしていた人達も多いだろう。私は後者であるが、ジブリアニメ化の際には盛大に期待を膨らませて公開を待ち、なにか変なものでも喰った気分で映画館を後にした一人である。しかし改めてこうして原作となったこの本を読んでみると、それなりに原作に忠実にやろうとはしていたのかな、とは思った。さすがに、この原作であの父親と比較されるんでは、吾郎ちゃんもかわいそうだよな、と感じるのは今も昔も同じだ。ただ抽象度の高い死の世界を正面から描かず、あくまでも現実世界の騒乱として描いたことと、テハヌーの顔の火傷や障害をきちんと取り扱わなかったことはダメだと思ったし、いきなりの父王殺しも物語としては破綻していたと思う。(作品を超えたメッセージ性は大いにあったが)
で、物語の方に戻るが、エレス・アクベの腕輪が戻り、アーキペラゴ(多島海)には平和が訪れ、ロークの賢者たちも、ゆるゆるとした時の流れに身を委ねていた。ところが、エンラッドの若き王子アレンは、ロークの賢人団に凶報をもたらす。世界の各地で、魔法が失われている。ゲドは世界の安定が失われつつあることを察知し、世界の均衡を取り戻すために、アレンを供に船出する。
この巻だけでなく、ゲド戦記全体が生と死の連環を取り扱っており、この「さいはての島へ」では生の何たるかや死の不可避性がテーマになっているが、こうして今読み返してみると、「生」も「死」も非常に観念的で硬直したイメージを受ける。
この作品の中では、誰もが「永遠の生」を求め、不死性を獲得することで「死の恐怖」からのがれようとし、その結果、人々は大切な「生」の意味そのものを失っていく。そのような罠に人々を引き込む冥い力が世界のあちこちで人の心の中に蠢いていて、ゲドはそのおおもとの禍を封じるために、旅をするのだが。
しかしどうも、いくつか引っ掛かりを感じる。
「永遠に生きたいと願わないものがどこにいる?」
私はこの本は多分、三十年ぶりくらいの再読で、ほぼ、ゲドが若者アレンと最果てにいって、力尽きて戻ってきたんだよな、程度の記憶しか残っていない。ほぼ初読と同じ感じで楽しめた。
スタジオジブリ宮崎吾郎監督の『ゲド戦記』(2006年)の原作となったことでこの本を知った人も多いと思うし、それよりずっと以前からこのシリーズを大切にしていた人達も多いだろう。私は後者であるが、ジブリアニメ化の際には盛大に期待を膨らませて公開を待ち、なにか変なものでも喰った気分で映画館を後にした一人である。しかし改めてこうして原作となったこの本を読んでみると、それなりに原作に忠実にやろうとはしていたのかな、とは思った。さすがに、この原作であの父親と比較されるんでは、吾郎ちゃんもかわいそうだよな、と感じるのは今も昔も同じだ。ただ抽象度の高い死の世界を正面から描かず、あくまでも現実世界の騒乱として描いたことと、テハヌーの顔の火傷や障害をきちんと取り扱わなかったことはダメだと思ったし、いきなりの父王殺しも物語としては破綻していたと思う。(作品を超えたメッセージ性は大いにあったが)
で、物語の方に戻るが、エレス・アクベの腕輪が戻り、アーキペラゴ(多島海)には平和が訪れ、ロークの賢者たちも、ゆるゆるとした時の流れに身を委ねていた。ところが、エンラッドの若き王子アレンは、ロークの賢人団に凶報をもたらす。世界の各地で、魔法が失われている。ゲドは世界の安定が失われつつあることを察知し、世界の均衡を取り戻すために、アレンを供に船出する。
これが冒頭で、ゲドとアレンはあの島、この島と航海を重ねていく。その旅は行き当たりばったり感が強いし、ずっと船の上だし、正直に白状すれば、感情が移ろいやすく、フラフラふわふわしている若造なアレンにはかなりイライラした。やっぱり王子様には賢くあってほしいし、真っ当に頑張って欲しいんだよな、とは、最近ラノベの読みすぎか。いやたぶん、アレンはちゃんと頑張っていた。たぶん年相応以上には。ちょっと華がなかっただけ。
この巻だけでなく、ゲド戦記全体が生と死の連環を取り扱っており、この「さいはての島へ」では生の何たるかや死の不可避性がテーマになっているが、こうして今読み返してみると、「生」も「死」も非常に観念的で硬直したイメージを受ける。
この作品の中では、誰もが「永遠の生」を求め、不死性を獲得することで「死の恐怖」からのがれようとし、その結果、人々は大切な「生」の意味そのものを失っていく。そのような罠に人々を引き込む冥い力が世界のあちこちで人の心の中に蠢いていて、ゲドはそのおおもとの禍を封じるために、旅をするのだが。
しかしどうも、いくつか引っ掛かりを感じる。
「永遠に生きたいと願わないものがどこにいる?」
とクモは問うが、人は本当に、「永遠に生きたい」と一様に願う生き物なだろうか。
「だが、おれは人間だ。自然よりもすぐれ、自然を支配する人間だ。」
という言葉は、いかにも西洋的だ。
死の国においても、「苦しみの山脈」に通った一本道を通ることは死者には「禁じられている」という。つまり、死者の国も、生者の国も超越して、命じることのできる絶対者がいることが前提なのだ。この世界ではその創造神はセゴイというのだが。
こういった世界観は、私の(おそらくは多くの日本人の)世界観とは違っている。むしろ万物は生々流転する、その「動き」こそが生命であって、生も死もその一形態に過ぎない、というような考え方のほうがよほど、しっくりとくる。
私がゲド戦記の世界観に感じる硬直感は、おそらく、東洋と西洋の間の文化的な背景の差異に由来するのではないかと思うので、これは、ゲド戦記やル=グウィンの思想を考察した評論なんかを読んでみたほうが良いかな、と思った次第。そうはいっても、この本が若年の私に影響を与えた大切な本であることには変わりはなく。
やっぱり、これを読んだ十代そこそこの自分に感想を聞いてみたいものだと思った。
永遠の生に対する渇望や死に対する恐れ、といった、この本の中で登場人物が共通して抱く想念に、どうも共感できなかったのだ。
「死にたくない」という願望が、貴賤を問わず、魔法使いから市井まで、人々に通底する世界に共通する欲望として描かれているが、あまりにも単純化されていて、なんというか、納得がいかない。
死に対する恐怖の克服とは、文字どおり「死」を恐怖の対象としないことであり、「死」をなくすことではないはずだと思うのだ。なぜなら、「死」がなくなったなら、恐怖の対象が目の前にないから恐れずに済むだけで、本当は「死」が恐ろしいままであるから。作中で賢者といわれる人々までが、「永遠に生きること」に取りつかれたようになることへの違和感がぬぐえないし、クモの動機も、妙に幼稚に感じられる。
たとえば現代医療においては、病気ではない「老衰死」が人間の生の最終到達地点になるだろうし、移植医療は「理不尽な死」を克服しようとする取り組みであって、「死」そのものをなくすためのものではないだろう。「死」において、人が絶えがたいと思うのは、「理不尽さ」であって万人に等しく訪れる公平な「死」ではないとも思う。
「死にたくない」という願望が、貴賤を問わず、魔法使いから市井まで、人々に通底する世界に共通する欲望として描かれているが、あまりにも単純化されていて、なんというか、納得がいかない。
死に対する恐怖の克服とは、文字どおり「死」を恐怖の対象としないことであり、「死」をなくすことではないはずだと思うのだ。なぜなら、「死」がなくなったなら、恐怖の対象が目の前にないから恐れずに済むだけで、本当は「死」が恐ろしいままであるから。作中で賢者といわれる人々までが、「永遠に生きること」に取りつかれたようになることへの違和感がぬぐえないし、クモの動機も、妙に幼稚に感じられる。
たとえば現代医療においては、病気ではない「老衰死」が人間の生の最終到達地点になるだろうし、移植医療は「理不尽な死」を克服しようとする取り組みであって、「死」そのものをなくすためのものではないだろう。「死」において、人が絶えがたいと思うのは、「理不尽さ」であって万人に等しく訪れる公平な「死」ではないとも思う。
また、作品に通底する一神教的な視点に対する違和感もあった。
クモが放つ、
クモが放つ、
「だが、おれは人間だ。自然よりもすぐれ、自然を支配する人間だ。」
という言葉は、いかにも西洋的だ。
死の国においても、「苦しみの山脈」に通った一本道を通ることは死者には「禁じられている」という。つまり、死者の国も、生者の国も超越して、命じることのできる絶対者がいることが前提なのだ。この世界ではその創造神はセゴイというのだが。
こういった世界観は、私の(おそらくは多くの日本人の)世界観とは違っている。むしろ万物は生々流転する、その「動き」こそが生命であって、生も死もその一形態に過ぎない、というような考え方のほうがよほど、しっくりとくる。
私がゲド戦記の世界観に感じる硬直感は、おそらく、東洋と西洋の間の文化的な背景の差異に由来するのではないかと思うので、これは、ゲド戦記やル=グウィンの思想を考察した評論なんかを読んでみたほうが良いかな、と思った次第。そうはいっても、この本が若年の私に影響を与えた大切な本であることには変わりはなく。
やっぱり、これを読んだ十代そこそこの自分に感想を聞いてみたいものだと思った。