“彼は、植えかえられたサボテンのように、不幸そうだ。”
赦そう、と心のどこかにそっと透は思った。人が人であり、良が良であり、そしてオレがオレであること。このようにしか在れず、(かれ)がそのように在って、それゆえに透か長い自分のため闘いに疲れはててここに座っていること。・・・・・・巽を愛している、と透は思った。この(時)を愛するように、(かれ)を愛するように、(かれ)を愛するすべての──そして透を選ばなかったすべての人を愛するように。たとえいまこのときだけだとしても。(p.117)
その日かれは巽に長い物語をした。口に出した切れはしもあったし、ことばに出さず、ただ胸の中でだけ、ささやきかけた思いもあった。喫茶店を出ると並んで元町を歩き、それから小さな店をひやかして歩いた。巽が透に銀の風変わりな指輪を買いたがるのをやめさせて、美しい透かし細工の柄のついた、細身のペーパー・ナイフをねだった。象牙の刃身に、するどい銀の刃がかぶせてある。贈り物にナイフはいけない、ふたりの間を断ち切るから、という云いつたえを、巽は知っていないようだった。透が切りたかったのは、巽を(赦す)ために邪魔になる、信じるからこそ裏切りをいきどおる人のならいの(心)そのもの、であったかもしれない。(p.118)時はひたすらに流れてゆけばいいのだった。思いはとどまるだろう。口に出さぬ物語をして、透は、二十五年、ひとりで持っていたすべての思いをその思い出ごと、巽に預ける夢を見た。(p.118)
(お前は、誰だったのだろう)透は、良、などという人間が、本当にいたのだろうか、とふと疑ってみる。ひょっとして、良は、ひとびとの(思い)そのものではなかったのか。
巽の朴訥でおおらかな情と熱に包み込まれて、だんだん、凍りついた透の心が解けてくる。その中で、自分が(今のような)自分であること、良が良のような存在であること、を受け入れて、ありのままを赦そうと思う。そのような変化を彼に与え、今も透を守り通す自分であることを信じて疑わない巽を、透は、その巽の思いが永続するものではなく、移ろいやすく壊れやすいものでしかないことも確信しながら、その存在を愛する、と思う。のちに島津が《聖母マリア》と形容する透のその愛の片鱗が初めて見える一節。
幸せとは言えなかった自分の25年の人生の苦しみを、巽に預けるように手放すことで、透は大人になろうとしている。と思った。しかしその後の道のりも、それはそれは厳しく残酷なものなのだ。
ラストの、透の中の《良》の虚像が崩れたあとの、風が吹き抜け、透の周りの空気が動く(と感じられる)描写が、あまりに光と希望に満ちていて、あまりにも清々しくてまた、切ない。その身を投げ出すようにして透が守ろうとした巽はこの後、事もあろうに良に殺されてしまうことになるわけだが、この本の中では、そのシーンまでは語られないのも、そうと知っている読者には悲劇の予感が大きすぎる。透はどれほど狂乱したことだろうか、読者の想像にお任せとは。それにも関わらず、このラストは希望と期待に満ちているのだ。なんてことだろう。
野々村の御大は、この本だけ読むと、特に出だしは卑猥で助平な役得づくの脂ぎったイヤな野郎なんだけど、この男の情の厚いまめまめしいところも知っていると、なんともいえない人間の業の深さを感じる。島津さんも、ほんとただのサディストだけど、この後、透の面倒を見続けて、『ムーン・リヴァー』に続いていくからねえ。『アイ誕10週連続勝ち抜き』っつう企画は、いっくらなんでもベタ過ぎるだろう、と苦笑しか沸かないんだけどさ。
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