原 題 「The Dark Tide」2009年
読書メーター https://bookmeter.com/reviews/104696486 著 者 ジョシュ・ラニヨン
翻 訳 者 冬斗 亜紀
出 版 新書館 (モノクローム・ロマンス文庫) 2015年12月
文 庫 506ページ
初 読 2022年2月23日
ISBN-10 4403560237
ISBN-13 978-4403560231
前作のアドリアンの綺麗な涙で、すべて片がついたと思いきや。これまでの苦い恋の反動と、これまでの辛い病苦への反動で、アドリアンはほとんど抑鬱状態、精神的にボロボロになっているではないか。
まあ、判らないでもない。日々発作を恐れ、いつか心臓が悪化して死ぬ自分を恐れながら長年暮らしてきたのに、まだ覚悟も定まらないうちに手術を受けるはめになり、意識が戻ったら、もう君はだいじょうぶだと医師には言われ、それなのに術後の体はあきらかに以前より衰えており、ろくに活動できず辛い。周囲からはあからさまに病人扱い。おまけに、ジェイクへの想いも行き場を失っている。
自分の体も気持ちも扱いあぐねていることに自覚すらないアドリアンのもとに、ジェイクだけでなくメル、ガイ、と過去の恋人たちが次々に現れて気持ちを乱し、おまけに長年の望みだった書店のフロア拡張工事では50年前の白骨死体まででてくる。
作者のミステリ愛も相変わらず炸裂しているこの巻には、レイモンド・チャンドラーからの引用が全編にちりばめられ、1巻の冒頭「eのつくアドリアン」(もちろん「eがつくマーロウ」のもじり)という自己紹介から始まったこの物語は、『長いお別れ』のたゆたうような暗い流れにのって、古びた桟橋の下を流れる瞑い潮汐のように、人々の人生を洗い、流し、やがて聖なるものへと辿り着く。『長いお別れ』というタイトルすら、2人の長い別離と重なって、切なくなる。
番外編になるのかもしれないが、次作が2人と2つの(3つの?)家族を中心としたクリスマスとニューイヤーの物語「So This is Christmas」(タイトルだけで泣けそう)なのも、クリスマスで始まり、クリスマスで終わる(というより、新しい年へ向かう)ジョシュ・ラニヨンらしい美しい構成に、静かで満ち足りた幸福感が心にしみる。
アドリアンの悩みや苦しみは、ある意味ジェイクからしたら身勝手ですらあるけれど、まあジェイクもこれまでがかなり身勝手だったからな。むしろ、身勝手でいない人間なんているのか?とも思う。ふたりとも、自分の気持ちと存在に真摯に立ち向かっただけだ。真剣に生きようとした結果、大切にしたいと願ったはずの人を傷つけてしまうのが、人間ではないか。そしてそこに醜い物語も、美しい聖なる物語も生まれるのだ。
ジェイクの艱難辛苦や、アドリアンの苦悩と、ミステリーらしい白骨遺体の捜査が絶妙に絡まり、やがて白骨遺体にまつわる事件の真相が明らかになるとともに、それはアドリアンとジェイクの、そして多くの性的マイノリティの人生にも重なる暗い潮流となる。
MMで、BLで、ゲイ・ミステリーで、ロマ・サス。だけどジェイクとアドリアンの行為が、神聖なもののように思えるのはなぜだろう。人が人を愛することが、こんなにも美しいと思えるのはなぜだろう。2人の人生が、幸いでありますように。と心から願う。
(余談)今作も、リサの強者ぶりが素晴らしい。リサはうっとおしい人ではあるが、若いうちに夫と死別したあとも夫が残した財産と一人息子を守り、その病気の息子を支え続け、上流社会を泳ぎ、今は大物議員の妻役をこなし、なさぬ中の3人の娘にも君臨してみせる、スゴイ人なのだ。
そして、彼女はアドリアンもジェイクのことすらもお見通し、なのだ。
さよならを言うのは、ひとかけら死ぬことだ。『長いお別れ』レイモンド・チャンドラー(P.7)
レイモンド・チャンドラーの一節を思い出していた──〝街は、夜より深いなにかで暗かった〟。(P.11)
「つまり〝L・A・コンフィデンシャル〟でガイ・ピアースが演じたような、もしくは〝白いドレスの女〟のウィリアム・ハートのような?」(P.48)
ハンフリー・ボガートの〝三つ数えろ〟はチャンドラーの映画といえば誰もが一番に思いうかべる一作だし、〝青い戦慄〟はチャンドラーが唯一書き下ろした映画のシナリオだ。彼の作品の様々な要素が詰めこまれている。(P.140)
夜にかかるとオリーブとマラスキーノチェリー入りのフルーツサラダを作り、『長いお別れ』の続きを読んだ。チャンドラー作品の中で一番好きというわけではないが──一番は『湖中の女』だ──しかしチャンドラーの駄作は大抵の作家の傑作に勝る。いや、このエドガー賞を受賞した『長いお別れ』が駄作のわけはない。チャンドラーの社会批判と、己の人生を切り貼りして書いた手法を見る意味でも興味深い作品だ。(P.235)
「この映画だよ。ロバート・アルトマン監督が映画化したチャンドラーの『長いお別れ』だ。ほら〝弾丸に勝るさよならはない〟」(P.278)
チャンドラーの『湖中の女』からの引用を、ここでジェイクに聞かせてやることもできた。〝警察というのは厄介なもんだ。政治に似ている。高潔な人間を必要とするくせに、高潔な人間を惹きつけるような仕事じゃない〟と(P.422)
チャンドラーは書いた──〝星々の間の距離のように、私は虚ろで、空っぽだった〟と。(P.498)
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