最初の写真は、ヴェルニー公園の先っぽから間近にみた《いずも》です。
遠景に見えるのが、出港したエイブラハム・リンカーンです。浦賀水道を南下中。手前のコンクリートの構造物は消磁所、というらしいです。磁気機雷から艦を守るために船体にたまった磁気をクリアするための場所だとか。
手前はステルス護衛艦の《くまの》です。
おっと、艦番号1!
イージス護衛艦《きりしま》DDG-174
補給艦《ときわ》 AOE-423
イージス護衛艦《あたご》DDG-177
“彼は、植えかえられたサボテンのように、不幸そうだ。”
赦そう、と心のどこかにそっと透は思った。人が人であり、良が良であり、そしてオレがオレであること。このようにしか在れず、(かれ)がそのように在って、それゆえに透か長い自分のため闘いに疲れはててここに座っていること。・・・・・・巽を愛している、と透は思った。この(時)を愛するように、(かれ)を愛するように、(かれ)を愛するすべての──そして透を選ばなかったすべての人を愛するように。たとえいまこのときだけだとしても。(p.117)
その日かれは巽に長い物語をした。口に出した切れはしもあったし、ことばに出さず、ただ胸の中でだけ、ささやきかけた思いもあった。喫茶店を出ると並んで元町を歩き、それから小さな店をひやかして歩いた。巽が透に銀の風変わりな指輪を買いたがるのをやめさせて、美しい透かし細工の柄のついた、細身のペーパー・ナイフをねだった。象牙の刃身に、するどい銀の刃がかぶせてある。贈り物にナイフはいけない、ふたりの間を断ち切るから、という云いつたえを、巽は知っていないようだった。透が切りたかったのは、巽を(赦す)ために邪魔になる、信じるからこそ裏切りをいきどおる人のならいの(心)そのもの、であったかもしれない。(p.118)時はひたすらに流れてゆけばいいのだった。思いはとどまるだろう。口に出さぬ物語をして、透は、二十五年、ひとりで持っていたすべての思いをその思い出ごと、巽に預ける夢を見た。(p.118)
(お前は、誰だったのだろう)透は、良、などという人間が、本当にいたのだろうか、とふと疑ってみる。ひょっとして、良は、ひとびとの(思い)そのものではなかったのか。
巽の朴訥でおおらかな情と熱に包み込まれて、だんだん、凍りついた透の心が解けてくる。その中で、自分が(今のような)自分であること、良が良のような存在であること、を受け入れて、ありのままを赦そうと思う。そのような変化を彼に与え、今も透を守り通す自分であることを信じて疑わない巽を、透は、その巽の思いが永続するものではなく、移ろいやすく壊れやすいものでしかないことも確信しながら、その存在を愛する、と思う。のちに島津が《聖母マリア》と形容する透のその愛の片鱗が初めて見える一節。
幸せとは言えなかった自分の25年の人生の苦しみを、巽に預けるように手放すことで、透は大人になろうとしている。と思った。しかしその後の道のりも、それはそれは厳しく残酷なものなのだ。
ラストの、透の中の《良》の虚像が崩れたあとの、風が吹き抜け、透の周りの空気が動く(と感じられる)描写が、あまりに光と希望に満ちていて、あまりにも清々しくてまた、切ない。その身を投げ出すようにして透が守ろうとした巽はこの後、事もあろうに良に殺されてしまうことになるわけだが、この本の中では、そのシーンまでは語られないのも、そうと知っている読者には悲劇の予感が大きすぎる。透はどれほど狂乱したことだろうか、読者の想像にお任せとは。それにも関わらず、このラストは希望と期待に満ちているのだ。なんてことだろう。
野々村の御大は、この本だけ読むと、特に出だしは卑猥で助平な役得づくの脂ぎったイヤな野郎なんだけど、この男の情の厚いまめまめしいところも知っていると、なんともいえない人間の業の深さを感じる。島津さんも、ほんとただのサディストだけど、この後、透の面倒を見続けて、『ムーン・リヴァー』に続いていくからねえ。『アイ誕10週連続勝ち抜き』っつう企画は、いっくらなんでもベタ過ぎるだろう、と苦笑しか沸かないんだけどさ。
当時この道を表現する隠語が「やおい」だったり「風木」だったり「June」だったりした頃の耽美で背徳的で不健康で、少し背伸びしていて、親には絶対にヒミツだったりしたあの空気感は、昨今の元気で健康でオープンで幸せな感じのBLにはないなあ、とノスタルジーに浸りつつ、〇十年ぶりの再読。
あの時代があってこそ、今の日本のLGBTQがあるんだろうかね。性的マイノリティの知識を一般に広げる一助にはなったんだろうか、それともかえって、偏見を助長したのだろうか。あの頃は「美少年」愛だったものが、今はちゃんと大人の恋愛になっているのにも、ジャンル的な成熟を感じる。
と、そういう往年の読者っぽい感慨はさておき、内容的には、ジャズやロックの蘊蓄とTV業界のウラ側と、風間視点のスター理論と、偶像化・美化された今西良に対する賛辞と耽溺の大渦巻きです。風間の独白になんとか移入できるまでの前半はもう、読んでてツライ。風間さん。あんた、人間の中身をなんも見とらんだろう? 人間はロマンチシズムや熱狂だけでは出来てないぞ。と。だがしかし、中盤過ぎて、そんな風間に慣れてしまったものだか、なんと引き込まれてしまった。凄いぞ、栗本サン。そしてラストの大惨事。わたしゃ、森田透推しなせいか、どうにもジョニー命の風間はおバカで好きになれなかったのだけど、だんだん彼に同情心も沸いてきました。
逆説的になるかもしれんが、この話には今西良という青年本人は登場しないのだ。
登場するのは、風間のイメージの中にある、今西良という姿をとった偶像。聖なるミューズに対しては全てが赦されるのだ、という独善的な妄想と妄執によってすべてが正当化され、個人個人の入れ込みが狭い集団内で強化されて、悪魔教的な共依存によって生み出された蠱惑的なアイドル像である。
良本人が何を思っているのか、何を望んで何を望まないのか、何が出来て、なにが出来ないのか、なんてのはどーでも良い。良にとっての安定や幸福の所在、なんでいうのもどうでもよい。外形的な美しさとその外形がまとう、薄幸で不安定だからこそ生まれるエネルギーの発光こそが、なによりも彼に“心酔”する連中にとっては大事なのだ。世の中を席捲するアイドル、夢の世界の象徴としての“今西良”であり、自分勝手でお子様でワガママなのに金と権力と追従だけは有り余るほど持った卑小な人間の集団妄想としての“今西良”である。
アイドルとはどんな存在なのか。それが少しわかるような気がしてくる狂るおしい小説であった。
私は、小説を読む時に「人」を読みたい思うので、この本では今西良、その人を知ることができないのが隔靴掻痒の感がある。また、風間を「知り」「理解したい」と思うかというと、そういう趣味はない。私は良に、風間のイメージを通してではなく、良本人に感情移入してみたい。
余談ながら、私は未だかつて、“アイドル”というものや“スター”というものに熱狂できたことがない。芸能人は『芸』を鬻ぐのが仕事なのだから、こっちは『芸』を受け取れば良い。
歌手なら『歌』、俳優なら『演技』が良ければそれでよし。それ以外のもの(例えば私生活)には興味も無いし、周囲の人たちがアイドル歌手にキャーキャーするのが素で理解できなかった人間なので、なんというかこの小説の世界はある意味新鮮だった。人間の妄想ってのは、際限がないし、ほんとしょーもねーなあ、と思うとともに、それが優れた作品になるってことにもある意味感動。
そうそう、3次元の生きた人間に妄想してキャーキャーすることはできないが、2次元であれば私にも可能だ。(初めから妄想の産物だからかも。)
なお、前書きで著者の栗本薫氏は以下のように書いている。
「前作は多くの無理解と誤解と反発、少しの支持と理解とを得た。この作品もそうであろうと思う。しかし、読者に本を選ぶ権利、批評する権利があると同様、ほんとうは本にも読者を選ぶ権利がある。この本はほんとうは、「真夜中の天使」を読み、その新に云わんとするところを、表面的な特殊さをこえて理解して下さった方々だけにしか、決してほしくないし、多く売れることも、ベスト・セラーになること、批評に取り上げられることも少しも望まない。むしろ八割方の男性読者には、なるべく読まないでくれるようにお願いしたいほどだ。しかし、読まれ、誤解されることナシには共感と知己をうることもまたない。ただ、表面にあらわれたことばや題材に目をうばわれ、目をそむけ、あるいは石を投げる人には、私がこれらの作品群で云おうとした真実のテーマは、決して胸の中に届くことはないであろう。どのみちそうした読者のことばが私の胸に届くこともまたないのである。」
著者にとって、私が望ましい読者であるか、著者がほんとうに理解してほしいと欲したことを受け取ることができたのか、という点については、非常に心許ない。だが、著者の思惑をこえたものを、時には読者に与えることになるのも、小説作品の妙だと思うので、私のつたない感想も赦していただけたら、と思う次第である。
のちに山内練の事件のときの、麻生の心境の底にもこんな思いがあったのだろうな、と思わせられる、先輩の今津刑事の言葉。ホシは社会性の身についていない気弱で精神を病んだ大学生。この時は刑事の優しさが大きな不幸を未然に防いだが。
「そりゃ、女にだって浮浪者はいるだろうさ。けどな。女の場合は、全部なくしてもひとつだけ金に換えられるもんがある。よっぽどのババアでない限り、夜は屋根のあるところで寝られるんだよ、本人が割り切りさえすりゃな」
“そうだ。自分は、正義の為にに警察官になったわけではない。そして、悪を憎むと言い切る自信もない。”
“警察官とは、なんなのだろう。道を踏み外してしまった者にとって、自分を逮捕する警察官とは、どういう存在なのだろう。”
このたびも、冒頭からぼやきが止まらない弊機です。メンサーを(グレイクリス社から)守る、ということを至上命題とし、防御にかけては隙だらけのプリザベーション連合の治安システムと警備当局に終始イライラいらいら(笑)。
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