2025年3月23日日曜日

0553 「ゲド戦記」の世界 (岩波ブックレット NO. 683)

書 名  「ゲド戦記」の世界 (岩波ブックレット NO. 683)
著 者  清水 真砂子
出 版  岩波書店  2006年9月
ブックレット  60ページ
初 読 2025年3月23日
ISBN-10 4000093835
ISBN-13 978-4000093835
読書メーター https://bookmeter.com/reviews/126874474   

 ゲド戦記5と6が入れ替わる前の2006年の、清水真砂子さんの2回の講演会の内容を編集し、再構成したもの。
 清水さんが誠実で堅実な翻訳家であり、研究者であり、また教育者であることが伝わってくる。

 神聖文字も持たず、真のことばたり得ない私達の言語は、非常に不確かなものながら、それでいて、お互いを結び付け、共通のイメージをふくらましたり、ファンタジーの世界を築き上げたりしている。私達の言葉は、それぞれの生活と体験に依拠するがゆえに、同じ言葉が他の人にとっても完全に同じ意味を持つとは限らない。言葉のそのような揺らぎを知っているその上で、著者の言わんとすることを損なわないように細心の注意を払って、言葉の一つ一つの意味を吟味し翻訳する姿勢を尊敬する。
 その一方で、「私達は誤読する権利がありますから、読みたいように読んでいる」という一節は非常に痛快。
 自身の創作を説明するという陥穽にル=グウィンでさえはまってしまったことについての、清水さん気づきは深いというか、さすがというか。読んで自分も大いに反省させられる。
 しかし、それすらも、ル=グウィンに対する深い敬愛が込められている。
 そのル=グウィンの講演録は、ついに5月末刊行の『火明かり』に収録されるとのことなので、それも楽しみではある。 「あなたの作品は、あなたがここに書いているより、はるかにはるかに豊かだと思う」と清水さんに手紙を書き送られたル=グウィンは、どのように応えたのだろうか。
 「フェミニストの旗手」と見做されていたル=グウィンは、しかし決してそれだけではない。フェミニズムとル=グウィンがどのように関わり、付き合ってきたのかも、もう少し知りたい。

 なお、最近やけに拘りの強い読み方をしていたな、と反省もしきり。そのうち、これまでのレビュ—を書き直すかも。

2025年3月20日木曜日

番外 論文「アーシュラ・K・ル=グウィン〈アースシー〉“第二の三部作”におけるジェンダー・ポリティクス」を読んだ

アーシュラ・K・ル=グウィン〈アースシー〉“第二の三部作”におけるジェンダー・ポリティクス———ポストフェミニズム、クィア理論、反グローバル資本主義
青木康平(一橋大学院) ジェンダー研究(発行:お茶の水女子大学ジェンダー研究所) 第22号 2019年 
https://www2.igs.ocha.ac.jp/en/wp-content/uploads/2019/09/09aoki.pdf
============================================
ジェンダー研究
Journal of Gender Studies
発行:お茶の水女子大学ジェンダー研究所
ISSN:13450638
第21号(2018)~
============================================

 以下の駄文は、研究成果に対する批判・批評を行うものではありません。(私は批評が可能なほど、勉強はしていない。)あくまで、感想程度のものであることを、最初にお断り(言い訳)しておきます。

 この著者は、岩波書店発行の清水真砂子氏訳『ゲド戦記』やその仕事がそもそも好きじゃないんだろうな。っていうか、もちろん翻訳を必要とされていないのだとは思うが。『ゲド戦記』というタイトルがどうなの、という話は、ちょくちょくあって、この論文でも触れられている。岩波書店で付けているタイトル『影との戦い』『こわれた腕輪』『さいはての島へ』『帰還』『アースシーの風』『ドラゴンフライ』という邦訳タイトルを、論文の中で頑なに拒否しているところからしても、そう感じる。しかし、論文の各所で引用されている作品の訳出については、岩波書店版/清水真砂子氏翻訳の各作品を下訳に用いているのではと思えるフシがある。多くの日本の『ゲド戦記』読者なんかお呼びではないのだとは思うけど、論文末の参考文献リストに岩波書店版『ゲド戦記』の掲載がないのは、ちょっと不誠実に感じる。(英訳版の論文であれば、不要であろうが。)

 まあ、通読した感想を述べるならば、私は『フェミニズム』は好きじゃないんだ、というのを再確認した。
 フェミニズムの流れは歴史の必然であるとしても、『フェミニズム』の文脈で歴史や文学を再定義しようとする姿勢が嫌いだ、とでも言おうか。
 論文全体として、物語の記述を、恣意的に歪めて解釈していると思えるところ見受けられたように思う。
 
 たとえば、
 「なぜ、テハヌーは、第4巻の選択を翻したのか。最終巻のタイトルともなっている〈もう一つの風〉とは何か。果たして本当に、作者にその結末を書き直させるに至ったほど〈現在(NOW)は劇的に動いたのか———本稿はこれらの問いを明らかにすることを目的として書かれた。」
 この点について
 第4巻『帰還』(この論文では『テハヌー』)のラスト、古老の竜のカレシンから娘、と呼ばれたテハヌーとカレシンの会話は以下のとおりだ。
 「さあ、もう、行こう。」子どもがうながした。「ほかの風に乗って、ほかの人たちがいるところへ。」 
 「この者たちを残していくのか。」 
 「いいえ。」子どもは答えた。「というと、この人たちは来られないの?」
 「ああ、だめだ。この者たちが生きる場所はここなのだから。」
  「なら、あたしも残る。」

 カレシンは笑う。
 「まあ、いいだろう。そなたにはここでしなければならない仕事があるからな。」
 「わかってる。」
 「そのうち、またそなたを迎えにもどってくる。」

 それからカレシンは、ゲドとテナーに向かい
「わしの子どもをそなたたちにやるぞ。いずれ、そなたたちは自分の子どもをわしにくれるだろうからな。」と言った。 
 「時が来たら。」テナーは応えた。
 (引用 アーシュラ・K.ル=グウィン; 清水 真砂子. 帰還 ゲド戦記 (岩波少年文庫))

 論文の著者は、なぜ選択を翻したのか、と言うが、実際には、テハヌーがいずれはカレシンの元に戻ることはこの第4巻の時点で予言されている。それに、まだ6歳か7歳の親を必要とする年頃の子供が親元にとどまる選択をすること、そして、15年後に二十歳を超えた成人女性が、親元を離れる選択をすること、それはどちらも必然であって、なんら周囲が喫驚するようなことではない。この物語の流れをもって、「作者に終末を書き直させる」と評するのは無理があるだろうと思う。

 また、テナーは、自らの意志で暗闇の巫女となることを望んだのではなかったように、そこから解放されることもまた、自ら望んだわけではなかったと著者は言うが、本当にそうだろうか。
 『こわれた腕輪』の中で、テナーは、たとえ限られた選択肢しかなかったとしても、その中から自分で運命を選択していたのではないだろうか。たとえば、ゲドを生かす選択をしたのはテナー自身だった。その最初の選択がその後の全ての行為に影響を与えた。ゲドもまた、テナーに選択を促しこそすれ、決定を強制はしなかった。テナーは自分で選択したと信じているだろうし、そこを否定されたら、たぶん怒るだろうね。

 その上で、テナーについて、第4巻(『帰還』)のテナーは、男に頼らず働く自立した女性であり・・・と表現しているのだが。この「男に頼らず働く自立した女性」という表現にはかなりのフェミ臭がするよな。

 オジオンやゲドがテナーに提示したものは、大巫女ではないにしろ、別の孤高の存在になることであったのに対し、テナーが求めたのは3歳の時に失ったものを完全ではなくても回復させることだった。それは暖かい炉辺であり、家族であり、耕す畑と平和な生活だった。
 テナーがオジオンに求めたのは、正に家庭の象徴である炉辺と家族であり、オジオンがいかに高尚で特別なものを与えようとしても、そこは断固拒否し、普通の農家の娘のように、オジオンの元から「嫁に行く」ことを選択した。その後の生活においても彼女にとっての回復を実践したテナーは、非常に意志の強い、自分の人生の選択とその結果を完遂した女性である。しかしその選択は非常に封建的なものでもあった。それは、ポストフェミニズムとは関係なく、単にそれが、彼女の“失われたもの”だったからだろう。彼女の選択と人生を、フェミニズムの視点で語ることは困難だろうと思う。彼女の働き方は農村の労働力としてのそれであり、「自立し」て見えるのは単に夫が死んで独居になってるからで、寡婦として、いずれは息子に譲られる家を護るテナーを「男に頼らず働く自立した女性」と表現するのもナンカチガウ感が・・・

(ほかにもいくつか気になったけどメンドクサイから中略!)

 結局、一介の本読みとして思うことは、作品を透かして、ル=グウィン自身の思想を云々することも、作品を通して現代社会を論証することにも、自分は意義を見いだせないということだった。(もちろん、そういった作業に意義を見いだす人が沢山いることを否定するものではない。私の指向性の問題である。)

 ジェンダーの考察もクィア理論の考証もどんどん為されるが良い。時代・時間とともに変遷する現代の理想も、どんどん記述されるがいい。

 しかし、小説は小説。物語は物語。
 ファンタジーとは、読者の想像力と好奇心をよりどころに、それを揺り動かし、作者とともに未知の世界を探索し、空想を通してこそ到達できる真理を共有するために、作者が渾身の力と情熱を持って記述した、知の贈り物である。読者としてするべきことは、それをネタに著者を研究することではなく、空想の翼でアースシーの空を駆け、アーキペラゴの海を掻き分け進み、ゲドやテハヌー達と同じ大地を踏むことだと、改めて気付かされた次第。

 でも、この論文を読んで、好奇心を刺激されて、『ゲド戦記を“生き直す”』(雑誌 季刊へるめす 45号収録)を読みたくなったので、国立国会図書館に複写をお願いしました。
(追記:「ゲド戦記を“生き直す”」は2025年6月発行予定の『火明かり』(ゲド戦記別冊)に収録されます。)

2025年3月18日火曜日

0552 アースシーの風 ― ゲド戦記Ⅵ(初版時はⅤ)

少年文庫版
書 名 「アースシーの風」
原 題 「THE​ ​OTHER​ ​WIND」2001年
著 者 アーシュラ・K.ル=グウィン
翻訳者 清水 真砂子
出 版 岩波書店
 【岩波少年文庫版】
少年文庫版  384ページ 2009年3月発行
ISBN-10 9784001145939
ISBN-13  978-4001145939
読書メーター 
 【ハードカバー版(初版)】
単行本 349ページ 2003年3月発行
初 読 1993年
ISBN-10 4001155702
ISBN-13 978-4001155709

単行本初版
 出版当初は「最後の書」と銘打たれていた『帰還 ゲド戦記Ⅳ』刊行から10年後に出版された『アースシーの風 ゲド戦記Ⅴ』。このハードカバー版は、このコバルトブルーの表紙のと、黄色い表紙の(『アースシーの風 ゲド戦記Ⅵ』)の二種類が世に出ている。なんとなれば、この本の後に『ゲド戦記 外伝』が出版され、日本国内では、当初刊行順に5、6と番号が振られていたのだが、著者のル=グウィンが、正しい順番は、「外伝」、「アースシーの風」の順番だ!と仰ったかららしい。実際、著者の執筆順はそうだったのだが、『帰還』と直接つながるこの長編の刊行を先にしたのは日本の国内事情のようで、後書きに説明があった。
単行本改定版
 だから、外伝の方もインディゴブルーの表紙の『外伝』とややくすんだ暗いブルーの『ドラゴンフライ ゲド戦記外伝』の2パターンある。
 個人的には、著者に供された発行順でよいのでは?と当初は思っていた。実際自分が持っているのは国内で最初に出た順。後から実は順番がって言われてもな・・・。しかしそれは日本の事情なので、著者からしたら、ちがーう!ってことなのだろう。実際、『ドラゴンフライ』の冒頭の著者前書きを読むと、たしかに順番は、そちらが先なのが判る。そこにこだわりたい気持ちもわかる。ル=グウィンのような意志的な作家の著作を、著者の書いた順番順に発行しない日本の出版事情もなんだかな、と思わないでもない。

 なお、日本語版のタイトルは「アースシーの風」となっているけど、作中で再三使っている、「もうひとつの風」の方が良かったな、と思う。だって、原題が表す風は、西の果てのそのまた西の別の世界の風であって、あきらかにアースシーの風ではない。
 まあ、それはさておき。

 『帰還』からさらに15年後。冒頭、ゲドは70代との記述があるが、だいたい60代半ばくらいじゃないかな? まあ、70代というのは、他人からみたところ、の話なので、単に農夫として暮らしてきたゲドがすっかり老けている、ということなのだろうと勝手に理解する。
ソフトカバー版

 この本は、ゲド戦記3『さいはての島へ』のレビューで私が書いた違和感や未成熟感についての「答え合わせ」になっている。だがしかし。ちょっとモヤる。

 この本単体としては、とても完成度が高いと思うのだ。だけど、著者も認めるように、始めからこのアースシーの世界観の全容を著者が掴んでいたわけではない。「アースシー」の物語は、始めは前3部作で完結していた。
 その後20年近くたって、『帰還』を書いたときにも、作者自身が『最後の書」と銘打つくらいには、これで物語が完結した、と思っていた。そして、10年後の本書である。

 多分、3部作を読んだあと何年かおいて『帰還』を読み、その10年後くらいに、前作の細かいところは忘れたころに、この『アースシーの風』を読んだならば、あまり細部に引っかからずに素直に感動したんじゃないかと思う。だが、残念なことに、『影との戦い』から一気読みしてしまったんだよ。
 思うに、10代の子供向けであれば、十分に納得感のあった当初の3部作であっても、読者も成熟し、著者自身の思索も深まるにしたがって、いろいろと足りないところ、未熟なところを補完する必要に迫られたのだろう。物語世界そのものが成長したのだ。その辺りは『ドラゴンフライ』の前書きなどでも触れられている。

 だが、それでは、ゲドが全存在を賭けて成し遂げたことはなんだったのか、ということになってしまうじゃないか。いっそのこと、最初から書き直しても良かったんじゃないか?と思ってしまう。それくらい、この『アースシーの風』は、解説的な記述が多かったし、つじつま合わせ感も強いと感じた。

 このアースシーでは、地球は丸いと認識されていて、西に西にずんずん進めば、やがて東の端に出会ってしまう。しかし竜たちが目指す「西の果てのそのまた西」の世界は、地上にあるのではなく、いわば西方浄土的な、聖霊や霊魂の世界である。人間と竜が世界を二つに分けたとき、つまりは人間が地上の富を支配することを選び、竜は精霊の世界を翔 ぶことを選んだわけだ。
 だけど、人の肉体が死んで霊魂が向かう世界は、この竜たちの西の果てとつながっている。本来はそこで、一人ひとりの魂は大きな地球の生命の中に還り、また次の生に転生するはずだったのだが、死んでも魂を手放したくない人間の欲が、霊魂の道を絶って、壁でこちら側に仕切ってしまった。そのために、人間の霊魂だけが、生の世界のすぐ隣にずっととどまり続けることになって、人間が死後に向かう世界は、まさに動きが死に絶えた、恐るべき暗黒の世界になってしまった。その世界に閉じ込められ、輪廻転生の輪に戻れない死した人々の嘆きが、ついにその壁を壊させるに至った。というのが大筋。

 それはそれで良いと思う。だがしかし。

 それでは、クモはいったいどこに穴を開けたのか。
 持てる力の全てを使い尽くしてゲドが塞いだ穴はいったいなんだったのか。
 ゲドが死力を尽くして守ったものはなんだったのか。
 
 この物語のなかで、ゲドの立場も上手に取り繕ってはいるが、全体としては、「後足で砂をかける」って感じがものすごくする。
 ル=グウィンは、どんどん付け足しで物語世界を改変しないで、いっそのこと初めから書き直せばよかったのに、とどうしても考えてしまう。

 ついでながら、『影との戦い』から繰り返して出てくる死者の国との境目の石垣。その石垣を崩すシーンで、デジャブを感じる。そう、あれだ、ベルリンの壁の崩壊。1989年。
 そういう視点を持ってしまうと、物語全体が、現代史の引き写しなんじゃないかという気がする。西と東の対立というモチーフ。その間に築かれた石壁。西を選んだ民(竜)は、束縛を離れ自由を得たが、東を選んだ民(人間)は、手の技とそれが生み出す富を所有する権利を獲得したが太古の知恵は失った。そしてその東(アースシー)の人間はさらに、アーキペラゴの人々と、カルガド帝国の人々に分裂している。
 これは、東側と西側の対立、そして西欧(キリスト教)文明とイスラム文明の対立そのままではないか。(西と東は逆だし、アーキペラゴが有色人種の世界で、カルガドが白人世界なのも、現実世界とは逆ではあるけれど。)

 「そして人間は東へ、竜は西へと移動したのですが、このとき人間は天地創造のことばを手放し、かわりに、あらゆる手の技と、それが生みだすものを所有する権利を獲得しました。竜はそうしたものはすべて失いましたが、そのかわり太古のことばは失わずにいたというわけです。」

 では、壁が崩れたあとはどうなるのだろう。人間の地は人の欲(資本主義)に席巻され、天地創造の言葉(共産主義)は地を離れて、理念の世界に生き延びるのだろうか。

2025年3月10日月曜日

0551 帰還 ゲド戦記 Ⅳ(ゲド戦記 最後の書!?)

少年文庫版
書 名 「帰還」
原 題 「TEHANU」1990年
著 者 アーシュラ・K.ル=グウィン
翻訳者 清水 真砂子
出 版 岩波書店
 【岩波少年文庫版】
少年文庫版  400ページ 2009年2月発行
ISBN-10 400114591X
ISBN-13 978-4001145915
読書メーター 
 【ハードカバー版(初版)】
単行本 344ページ 1993年3月発行
初 読 1993年
ISBN-10 400115529X
ISBN-13 978-4001155297
単行本初版
 完結していたはずのゲド戦記3部作から時が経つこと、18年。1990年に刊行され、1993年に翻訳出版されたのがこの本。赤い表紙のハードカバー。表紙絵は、切り絵風から油彩風になって、中年になったテナーと、焚き火で焼かれた少女テルー、そして背景には巨大な竜が描かれている。奥の暗闇に輝くのは明星テハヌー。実は、背景が竜の頭だと、今回まじまじと見て初めて気がついた(マヌケ)。そして、表紙には「ゲド戦記Ⅳ」ではなくこう書かれていたのだ。「ゲド戦記 最後の書」と。これは、ル=グウィンが、原著にもそう記したもの。本当に彼女はこれで「最後」だと思ったのだ。そう、執筆した当初は。

 『こわれた腕輪』の物語の直後の25年前、突然、ゲドが17歳の女の子をル・アルビに連れてきて、オジオンに託していった。このオジオンの一番弟子ときたら、師匠を信頼しているが故とはいえ、けっこうあんまりだと思うよ。オジオンは困っただろう(笑)。
ソフトカバー版
 とはいえ、オジオンはテナーを養女としてかわいがり、一生懸命育てた。ゲドを育てた時よりはだいぶ甘々だった気がする。
 なにしろ、世捨て人の賢者と少女の組み合わせだ。それだけでラノベなら何冊も物語が書けそうだ。
 しかし結局、テナーはなにか特別な力のある孤高の存在になりたいとは願わず、普通の世間並みの女として世の中に溶け込むことを望んだ。やがて、オジオンの家を出て村に暮らし、富農の男と結婚。良い女房、良い母親、良い後家、身持ちの良い女として生きてきた。

 これが、ゲドの冒険の裏側、ゴント島の一隅で起こっていたこと。
 そして、『さいはての島へ』で竜のカレシンの背に乗ってロークを去ったゲドは、ゴント島のオジオンの元に還ってきた。全ての力を失った、傷つき、疲れはて、死にかけたただの男として。
 その数日前に、すでに高齢で死期を迎えていたオジオンは旅立っていた。これは単なる妄想だけど、オジオンは遠く離れたゴントから密かに死の世界で戦うゲドに、残った命の全てをかけて力を与えたのではないか。なんてね。

 この物語はそこから。「帰還」してのちの話だ。
 フェミニズム的な視野なんだろうな、とは思うのだけど、女性の扱われかたとか、ゴハの内心の葛藤とかは読んでいるこちらも、それなりにイライラした。
 また、王たるレバンネンに同行してゴントにやって来た風の長の、身に染みついた「女は取るに足らない」という感覚にもちょっとイラっ。
 
 しかし、壮大な空中戦みたいだった前作までと違って、ついに地に足が付いた感じの今作。テナーとゲドが夫婦になり、オジオンの家にこれから住まう。やっと落ち着くべきところに落ち着いた二人。

 ゲドが全ての特別な力を失った無力な男として、喪失に向き合い、再生すること。
 テナーが、一度は望んで受け入れた「女」という理不尽で不自由な在り方に向き合い、ゴハという社会的な女から、テナーという個人に再生すること。
 暴力と性的な虐待を受け、肉体的に大きく損なわれた少女が、内なる本来の全き姿を取り戻すこと。三者それぞれの喪失と再生の物語だ。全体の生と死という極めて抽象的な物語から、個人の物語への回帰でもあった。
 もっと、深い読み方もできるんだろうけど、ひとまずはここまで。次巻からは、本当の初読なので楽しみ。

2025年3月5日水曜日

0550 さいはての島へ ゲド戦記 3

少年文庫版
書 名 「さいはての島へ ゲド戦記 3」
原 題 「The Farthest Shore」1972年
著 者 アーシュラ・K.ル=グウィン
翻訳者 清水 真砂子
出 版 岩波書店
 【岩波少年文庫版】
少年文庫版  368ページ 2009年2月発行
ISBN-10 4001145901
ISBN-13 978-4001145908
読書メーター https://bookmeter.com/reviews/126459454
 【ハードカバー版(初版)】
単行本 319ページ 1977年8月発行
初 読 1982年〜83年頃?
ISBN-10 4001106868

ISBN-13 978-4001106862
単行本初版
 エレス・アクベの二つに割れた腕輪が一つになって、ハブナーに還ってきてから、17、8年。ゲドは5年前に大賢人に選ばれて、いまはロークに腰を落ち着けていた。
 作中のゲドの口調がすっかり、大賢人というよりはむしろハイジのおじいさん調なのでイメージが混乱するが、この時点でゲドは立派な中年もしくは壮年。『こわれた腕輪』では若者よばわりだったので、今は40代半ばだろうか。なにしろ、次の『帰還』では遅すぎた春もくるのだし・・・(っと、それはさておき。)

【ほぼ初読】
 私はこの本は多分、三十年ぶりくらいの再読で、初読の印象はほぼ、ゲドが若者アレンと最果てにいって、力尽きて戻ってきたんだよな、程度の記憶しか残っていなかった。なので、ほぼ初読と同じ感じで楽しめた。

ジブリアニメ化の際に
再販されたバージョン
【ジブリ『ゲド戦記』】

 スタジオジブリ宮崎吾郎監督の『ゲド戦記』(2006年)の原作となったことでこの本を知った人も多いだろうし、それよりずっと以前からこのシリーズを大切にしていた人達も多かったと思う。私も後者ではあるが、ジブリアニメ化の際には盛大に期待を膨らませて公開を待ち、なにか変なものでも喰った気分で映画館を後にした一人でもある。あの『ゲド戦記』は惨憺たる評判だったと記憶している。棒読みとか酷評されていた気もするが、私はテルー役の手島葵さんの声は好きで、映画の役柄にも合っていたと思っている。ちょっと掠れた感じの唄声も好みで、その後、CDを購入したりもした。総じて、歌と音楽は良かった。それに、今改めてこうして原作となったこの本を読んでみると、それなりに原作に忠実にやろうとはしていたのかな、とは感じた。この原作であの父親と比較されるんでは、吾郎ちゃんも分が悪いよな、とは当時も思った。ただ抽象度の高い死の世界を正面から描かず、あくまでも現実世界の騒乱として描いたことや、テルーの顔の火傷をきちんと取り扱わなかったことはダメだと思った。いきなりのアレンの父王殺しも物語としては破綻していたと思う。(作品を超えたメッセージ性は大いにあったけどねえ。)
 なお、右のソフトカバー版の素敵な表紙のバージョンは、映画化に併せて再販されたもの。私はこの装丁のセンスは好きだ。

【そして、物語の感想】
 で、本の物語の方に戻るが、エレス・アクベの腕輪が戻り、アーキペラゴ(多島海)には平和が訪れ、ロークの賢者たちも、ゆるゆるとした時の流れに身を委ねていた。ところが、エンラッドの若き王子アレンが、ロークの賢人団に凶報をもたらす。世界の各地で、魔法が失われている。ゲドはいったんは取り戻せたと思った世界の安定と平和が失われつつあることを察知し、世界の均衡を取り戻すために、アレンを供に〈はてみ丸〉で船出する。これが冒頭。

①アレンがちょっと辛い
 ゲドとアレンはあの島、この島と航海を重ねていく。その旅は行き当たりばったりだし、正直に白状すれば、感情が移ろいやすく、フラフラふわふわしている若造なアレンにはかなりイライラした。やっぱり王子様には賢くあってほしいし、真っ当に頑張って欲しいんだよな、とは、最近ラノベの読みすぎか。いやたぶん、アレンはちゃんと頑張っていた。たぶん年相応以上には。ちょっと華がなかったけど。

②死の世界のイメージが
 これまでのゲド戦記全体が生と死の連環を取り扱っており、この「さいはての島へ」では生の何たるかや死の不可避性が大きなテーマになっている。しかし、こうして今読み返してみると、ここで語られる「生」も「死」も非常に観念的で、イメージは硬直化している。とくに「死」や「死者の国」の描かれ方が絶望的に暗く、なんの救いもないのに驚く。そりゃあ、死後の世界があんなんでは、だれも死にたくなくなるだろう。いったい、この死のイメージはどこから来ているのだろう。ル=グウィンは、死というものに何を思っていたのだろうか?
 この作品の中では、誰もが「永遠の生」を求め、不死性を獲得することで「死の恐怖」からのがれようとし、その結果、人々は大切な「生」の意味そのものを失っていくのだが、作品に通底する生死感、というよりは生と死を包含する世界観は非常に断片的で、しかも救いがない。死者の国が狭く、奥行きがない。死んだ人がすべてそこに行き着く世界であるなら、どれだけ観念的であったとしても、すくなくとも現世と同じくらいか、またそれ以上の奥行きが必要なのではないのか?と思うのだ。輪廻転生のイメージが、きちんとル=グウィンの中で成熟していないような気がする。

③人はそんなに死にたくないものだろうか
「永遠に生きたいと願わないものがどこにいる?」
 とクモは問うのだが、しかし人は本当に、「永遠に生きたい」と一様に願うものだろうか。
 永遠の生に対する渇望や死に対する恐れ、といった、この本の中で登場人物が共通して抱く想念に、いまいちリアリティが感じられない。(ファンタジーにリアリティは必要なのか?とかはひとまず置いておく。)
 「死にたくない」という願望が、貴賤を問わず、魔法使いから市井まで、人々に通底する世界に共通する欲望として描かれているが、あまりにも単純化されていて、なんというか、納得がいかないのだ。市井の無学な人々はともかく、知識を極めたはずのロークの賢人団があれでいいのだろうか?
 死に対する恐怖の克服とは、文字どおり「死」を恐怖の対象としないことであり、「死」をなくすことではないんじゃないかと思うのだ。なぜなら、「死」がなくなったなら、恐怖の対象が目の前にないから恐れずに済むだけで、本当は「死」が恐ろしいままであるから。
 賢者といわれるような人々までが、「永遠に生きること」に取りつかれたようになることへの違和感がぬぐえないし、ましてや、「悪役」クモの動機の浅さは噴飯もので、これで世界が壊れるのでは、あまりにも世界そのものが脆弱ではないか、と思えてしまう。

 たとえば現代医療においては、病気ではない「老衰死」が人間の生の最終到達地点になるだろうし、移植医療は「理不尽な死」を克服しようとする取り組みであって、「死」そのものをなくすためのものではないだろう。「死」において、人が耐え難いと思うのは、「理不尽さ」であって万人に等しく訪れる公平な「死」じゃないんではないだろうか? そしてその先にはさらに、「死の理不尽さも受け入れる」という境地もありそうな気がするが。

④この世界は一神教
 また、作品に通底する一神教的な視点に対する違和感もあった。
 クモが放つ、
「だが、おれは人間だ。自然よりもすぐれ、自然を支配する人間だ。」という言葉は、いかにも西洋的である。

 死の国においても、「苦しみの山脈」に通った一本道を通ることは死者には「禁じられている」という。つまり、死者の国も、生者の国も超越して、命じることのできる絶対者がいることが前提なのだ。命じているのは誰なのか。

⑤西洋的なものと土着的なもの、その間で定まらない著者?
 こういった世界観は、私の(そして多分、多くの日本人の)世界観とは違っている。アーキペラゴの人々はネイティブアメリカンがモデルのようで、白人はカルガド帝国など一部にしかおらず、戦闘的で侵略的な人々として描かれている。しかし、非白人の精神性がきちんと描かれているかというと、そこまでは出来ておらず、たとえば、死後の世界とか輪廻転生的な東洋の発想を取り入れようとする一方で、強烈な一神教的、父権的な価値観から逃れきれていない息苦しさを感じる、というのはうがちすぎか。

【まとめ】
 私がゲド戦記の世界観に感じる硬直感について思うことは、この本はハイ・ファンタジーであるとともに、ある種の思想書、しかもまだ成熟していない思想書だということ。この本についての考察を進めるのであれば、ゲド戦記やル=グウィンの思想を考察した評論なんかも読んでみたほうが良いと思うし、たぶんもっと調べていけば、ここまで書いた感想も、また違ったものになってくるだろうとは思うのだが、そこまで突き詰めるだけの意欲と集中した時間は今はもてないかな。

 しかし、そうはいっても、この本が若年の私に影響を与えた大切な本であることには変わりはない。むしろ、若いころにはこんなことをぐだぐだと考えずに、ゲドとアレンの冒険にのめり込めたと思うので、やっぱり本には読み時というものがあるし、この本はジュブナイル小説なんだろうな、と思う次第。

 やっぱり、これを読んだ十代そこそこの自分に感想を聞いてみたいものだ。

2025年3月2日日曜日

0549 空を駆けるジェーン

書 名 「空を駆けるジェーン」
原 題 「JANE ON HER OWN」1999年
著 者 アーシュラ・K. ル・グウィン
絵   D・S・シンドラ- 
翻訳者 村上 春樹    
出 版 講談社 2001年9月
単行本 54ページ
初 読 2025年03月02日
ISBN-10 406210895X
ISBN-13 978-4062108959
読書メーター https://bookmeter.com/reviews/126424231

 「どうして私達は翼をもっているんだろう?」小さなジェーンの疑問。それは空を飛ぶため! なんて簡単でシンプルな答え!
 翼は持っていないけど、彼らの仲間のアレキサンダーは、どうやらお父さん似ののんびりぐうたらで寝るのが大好きな成猫に育ったもよう。

 ジェーンは元気いっぱいな若猫そのもので、我が家の猫たちにも、「あと2年位したら、置物みたいになってくれるかしら」と遠い目になってたことを思い出す(笑)。さすがの運動量のうちのアビシニアンも、7歳になってさすがに置物に近くなってきたところ。やれやれ。(アビシニアンは、「イエネコ」というよりは小型のネコ科肉食獣って感じの、かなりハゲシイ猫なのです。)

 閑話休題。

 さて、前作で、私はきっとアレキサンダーとジェーンはカップルになるんだろうと思ったのだけど、大間違いでした。ジェーンはもっともっと、自立した(自立したい?)女でした。
 安全だけれど変化の少ない田舎を飛び出し、都会に単身飛び込む、現代っ子。もちろん、悪い男にも騙されたし、危険な目にも遭いましたが。
 そこで頼ったのは、実のお母さん。
 なんだかニンゲンも身につまされる話でした。なにはともあれ、都会の女ジェーンは、母と同居しながら、田舎とも行き来をし、アレキサンダーとも程良い距離を保ちながら、自由に暮らした模様。
 それにしても、翼の生えた黒猫じゃあ、悪魔狩りに遭わなくてよかった・・・と思います。

 余談だけど、なぜこの本だけ、サイズが小さいんだろう・・・。本棚に収まりが悪いじゃないか。

0548  素晴らしいアレキサンダーと、空飛び猫たち

書 名 「素晴らしいアレキサンダーと、空飛び猫たち」
原 題 「WONDERFUL ALEXANDER AND THE CATWINGS」1994年
著 者 アーシュラ・K. ル・グウィン
絵   D・S・シンドラ- 
翻訳者 村上 春樹    
出 版 講談社 1997年6月
単行本 60ページ
初 読 2025年03月02日
ISBN-10 4062081504
ISBN-13 978-4062081504
読書メーター 
https://bookmeter.com/reviews/126422643

 なんと、イラストがオールカラーです。やった〜!
 空飛び猫の三冊目。主人公のアレキサンダーは、羽は生えてない普通の猫だった。お母さんは明るい茶色の長毛種(ペルシャのハーフ)で、アレキサンダーもふさふさのしっぽを受け継いでいる。お父さん猫はいつも寝ている(笑)。エネルギー過多で妹たちにもウザがられているようだけど、本人は無自覚。(こういう子っているよね。) ついに家族の家を飛び出して冒険に出てしまったアレキサンダーだが。
 道路でトラックに挽かれかけ、犬に追いかけられて逃げ、やみくもに逃げて木の梢に登って降りられなくなり!定番コースです。そこに助けにきてくれたのが黒猫ジェーン。子猫のときの恐怖体験のトラウマで失語症状態だったジェーンだったが、アレキサンダーはジェーンに怖かったことを話すように促し、彼女の回復を助ける。いずれはラブラブなカップルになる未来を感じさせたお話でした。

0547 帰ってきた空飛び猫

書 名 「帰ってきた空飛び猫」
原 題 「CATWINGS RETURN」1989年
著 者 アーシュラ・K. ル・グウィン
絵   D・S・シンドラ- 
翻訳者 村上 春樹    
出 版 講談社 1993年12月
単行本 59ページ
初 読 2025年03月02日
ISBN-10 4062058812
ISBN-13 978-4062058810
読書メーター https://bookmeter.com/reviews/126408087

 「帰ってきた」のは、元の都会の街へか、ジェーン・タビーお母さんのところへ、か読者の元へか。
『空飛び猫』の続刊です。今は田舎の農場で安全に、幸福に暮らす4匹の空飛び猫の兄妹たちですが、だんだん、元いた街で暮らしているはずのお母さんが気になり始めて。
 話し合いの末、ハリエットとジェームズの2匹が故郷の都会の街の「ゴミ捨て場」に戻ってみることになる。ところが、長旅の末戻ってみると、ゴミ捨て場は無くなり、下町の路地には再開発の波が押し寄せている!
 しかも、廃屋になったビルの屋根裏には、なんと子猫の空飛び猫が一匹、取り残されていた。もちろん、彼らの弟(もしくは妹)でした。ジェーン・タビーお母さんとも無事再会、妹もつれて、田舎の農場に戻ったのでした。羽を痛めたジェームズが大旅行が出来るまでに回復していて一安心。
 なお、この本は巻末の村上氏の翻訳話も面白いのだけど、「HATE! HATE! HATE!」という子猫の鳴き声を「嫌いだ!嫌いだ!嫌いだ!」と村上氏訳。個人的には、猫の鳴き声に寄せて「ヤ、ヤ、イヤー!」なんかでも良かったな。なんて、ちと図々しいか(笑)

2025年3月1日土曜日

2025年2月の読書メーター

 1月からこちら、ファンタジー月間継続中であるが、『沈黙の書』でちょっと気分が削がれ気味になったので、初心に帰るつもりで、かねてから再読しようと思っていた『ゲド戦記』を読み始めた。なお、『アースシーの風』と『ゲド戦記外伝(ドラゴンフライ)』はまだ読んでいないので今回読めれば初読になる。
 ゲド戦記については、初読は小6か中1くらいの頃のはずなのだが、今更ながら、「よく読んだな」というのが正直な感想。これ、けっこう重いぞ。私のファンタジーの世界観を決定付けた大切な本なのだが、一体私は、当時本当にこの本を理解していたのか・・・っていうか、どういう風に理解していたのか、当時の自分に聞いてみたい気がしている。現在、『さいはての島へ』を読んでいる途中だが、『影との戦い』も『こわれた腕輪』もそうだったが、エンタメ的要素は皆無なので、軟弱で楽しい読書に慣れ親しんだ身には辛いわ、重いわ・・・。(でも読む。)
 そんな読書の合間につい、読んでしまったのが、『捨てられ公爵夫人』と『ないもの探し』。どちらも相当面白いが、とくに『捨てられ公爵夫人』の農業全般・ビール醸造や砂糖精製などの蘊蓄がすごい。時代は中世後期〜近世くらいか? いったいこの話はどこまで転がっていくんだろう? これは最後まで追いかけねば。

2月の読書メーター
読んだ本の数:9
読んだページ数:2493
ナイス数:489

空飛び猫空飛び猫感想
にわかにル=グウィン月間になったので、以前から気になりつつ読んでいなかったこの本も読んだ。何しろ猫に羽が生えて生まれてきた!お母さんねこもビックリだ。だけど、何しろ自分の産んだ子猫だし、せっせと舐めて世話して、一人前になったと見極めたら世界に送り出す。お母さんねこアッパレ。個人的には彼らの羽に生えているのは羽根なのか、毛なのかが猛烈に気になる(笑)。フクロウに虐められたジェームズがなんとか飛べるまでに回復して良かった。村上春樹氏の翻訳には定評があるが、巻末の訳注も楽しいです。
読了日:02月25日 著者:アーシュラ・K. ル・グウィン

捨てられ公爵夫人は、平穏な生活をお望みのようです捨てられ公爵夫人は、平穏な生活をお望みのようです感想
なろうサイトで偶然に拾って・・・っていうか、『小説家になろう年間第1位』『2024年もっとも読まれた超人気作、遂に書籍化!』とのこと。転生令嬢もので、持って生まれたチートな知識をフル活用して農地改革・領地改革をしていく16歳〜18歳。いくら公爵令嬢とはいえ、これは少女の風格ではないぞ、と思わんでもないが、とにかく微に入り細を穿つ知識と人心掌握、優しさと心意気。すごく面白い。なろうサイトでどんどん読んでしまって、出版された分は読んじゃったが、Kindle版も購入したのは、番外編も読みたかったから。オススメ。
読了日:02月24日 著者:カレヤタミエ

ないもの探しは難しい (Ruby collection)ないもの探しは難しい (Ruby collection)感想
Xで、ドイツ語版が配信されているとの情報を拾い、海を渡っている日本BL(オメガバース)!!に好奇心爆発してDLして読みました。いや、文章のテンポがすごく良くて、気持ちいい。主人公の、健気だけど元気でめげない雑草のようなたくましさがとても好ましい。ろくに発情もしない薄いΩ設定なので、あまり濡れ場は濡れ濡れしていないというかあっさりめ。主を叱咤する執事のマシューさんの性格も好み。とても面白かった。
読了日:02月23日 著者:metta

こわれた腕環: ゲド戦記 2 (岩波少年文庫 589 ゲド戦記 2)こわれた腕環: ゲド戦記 2 (岩波少年文庫 589 ゲド戦記 2)感想
初読の時には暗く重い印象が残っていたが、再読すると、テナーの若木のようなみずみずしさと、しなやかな強さがこれまた印象的だと思う。ゲドはまだこの巻では若者なんだけど、すっかりおじさん的な風格をまとっている。派手に呪文を唱えたり魔法が迸ったりはしないのだけど、暗黒の神々の膝元でゲドが黙々と全力で戦ったのだ、と納得。こののちのテナーの物語は、18年後?に執筆された『帰還』につながっていく。
読了日:02月20日 著者:アーシュラ・K. ル=グウィン

13言語対応! 語彙力が上がる! 異世界ファンタジー・ネーミング辞典13言語対応! 語彙力が上がる! 異世界ファンタジー・ネーミング辞典感想
本のタイトルこそ「ネーミング辞典」ですが、様々な名詞や単語を日本語、各ヨーロッパ言語、アラビア語、ヘブライ語、中国語で横並び表記したもの。気に入った意味と音をアナグラムにしたりすると、たしかにネーミングが楽になるかもですが。巻末付録に、トールキンのエルフ語辞典も載ってます。これはなかなか面白い。こういう雑学系の本は好きです。
読了日:02月20日 著者:幻想世界研究会

影との戦い: ゲド戦記 1 (岩波少年文庫 588 ゲド戦記 1)影との戦い: ゲド戦記 1 (岩波少年文庫 588 ゲド戦記 1)感想
通読では四半世紀ぶりの再読。よくこの本10代そこそこで読んだな、と今更ながら感心する。大きな冒険ではなく、ひたすらゲドが自分自身と向き合い続ける。オジオンの庵での語らい、エスタリオルとの再会。ノコギリソウと彼女の小さな竜と竈を囲んでパンで手を温めながらのシーンはほのぼのと小麦の薫りが漂ってきそうな幸せなひととき。このゲドが19歳だというのにまた驚く。生と死を自分の中に一つとした全き存在。「生を全うするためにのみ己の生を生き、破滅や苦しみ、憎しみや暗黒なるものに、もはやその生を差し出すことはないだろう。」
読了日:02月16日 著者:アーシュラ・K. ル=グウィン

沈黙の書 (創元推理文庫)沈黙の書 (創元推理文庫)感想
これまでに読んだ乾石智子氏の物語の中では、一番消化不良気味。自分のイメージ力の貧困さにも泣く。人間の残虐さをリアルに描くと同時に、とてもメルヘンな神話的・童話的世界も描かれる。これが頭の中でハレーション。言葉が人間の絆となり平和の礎になる、というメッセージは分かるが、北の蛮族の描かれ方がどうなんだろう?言葉が通じない異民族や文明を持たない蛮族は、薙ぎ払い、一顧だにしないのか。と、とてもモヤってしまった。
読了日:02月09日 著者:乾石 智子

オーリエラントの魔道師たち (創元推理文庫)オーリエラントの魔道師たち (創元推理文庫)感想
単行本から『紐結びの魔導師』を抜いて、『陶工魔導師』が追加されている。お話としては酸いも甘いも噛み分ける『陶工魔導師』が一番好きだが、まったくもって救いのない『黒蓮華』が黒々としているのにとても心惹かれた。(ラストにちょっと救われるけど。)『闇を抱く』は女たちの自衛の魔術アルアンテス。そしてもう一人の〈夜の写本師〉、イスルイールのやや若い頃のお話。イスルイールはやっぱり魅力的だった。にゃんこを蹴るのは人間だけ。至言。
読了日:02月05日 著者:乾石 智子

紐結びの魔道師 (創元推理文庫)紐結びの魔道師 (創元推理文庫)感想
紐結びの魔導師リクエンシスの短編連作。情景を語るのが凄く上手い作家さんだけど、この本は、すごく季節感や気候を感じる。にしても、こんなに安心して読める本は何冊ぶりのことか?それもひとえにエンスの人柄ゆえ。エンスが大好きになること請け合い。魔導師が長命であることはこの物語世界の基本設定だけど、この本は、そこに焦点を当てている。掌編の『形見』がとてもよいと思う。『夜の写本師』に登場する指なしカッシが指を失う経緯がこんなに間抜けで可愛いお話だったとは。
読了日:02月01日 著者:乾石 智子

読書メーター

2025年2月24日月曜日

0546 捨てられ公爵夫人は、平穏な生活をお望みのようです(単行本)

書 名 「捨てられ公爵夫人は、平穏な生活をお望みのようです」
著 者 カレヤタミエ
出 版 TOブックス 2025年1月
単行本 352ページ
初 読 2025年2月22日
ISBN-10 4867944211
ISBN-13 978-4867944219
読書メーター
 https://bookmeter.com/reviews/126248779

 「小説家になろう」年間第1位(2024年4月~10月現在)。ついに書籍化! とのこと。
 私は、「小説家になろう」のサイトを徘徊していて、ちょっと気になって読み始めて、あまりに面白いので一気読みした。これだけ面白くて力のある著者さんであれば、それ相応の敬意を表すべき!と思って書籍版も購入。(ちょっと勘違いして(?)、Kindle版もDLした。)

 最近、ぽつぽつとライトノベルを読むようになったが、これは面白い。蘊蓄もなかなかのもの。

 攻略ゲームの中に日本人の女子高生が転生、って設定はあまりにも「なろう系」だし、タイトルも書店の本棚に並んでいたら絶対に他の本と区別がつかないと確信が持てるけど、こういう宝石が埋まってるんだな、あの界隈には!との認識を新たにした。
 侯爵家の令嬢に生まれながら、出生に疑念も持たれて疎まれつつ育ち、結婚年齢に達したとたん公爵家に嫁がされたのに、初対面で「お前を愛するつもりはない」と言い渡される。結婚生活も営むつもりはないから、ほどほどに贅沢して体面を保って勝手に社交でもしながら生活しろ、と夫となった公爵アレクシスに言い放たれるメルフィーナ。そこは絶望するところだが、アレクシスから辺境の領地の領有権をもぎ取り、翌日には領地に向かって出立。荒れた開拓地と貧しい領民を目の当たりにし、持ち前の知識で領地開発と農業改良に乗り出す。
 もちろん、まるで経験のない女子が知識だけで農業はじめて、あまりにもトントン拍子なのは否めないが、メルフィーナの行動力と優しさと、豊富な知識と、内面の深さ、お付きの二人や公爵アレクシス、公爵の護衛騎士のオーギュストなどなど、登場するキャラクターがそれぞれに個性が立っていて、非常に物語を面白くしている。なにしろ、主人公メルフィーナが、公正で真摯で尊い。
 転生ものって、こんなに面白くなるんだ! と目からウロコが落ちた。

 なお、番外編の2本も良し。おちゃらけた見かけのオーギュストが良い味出してるのよね。こういうキャラは大好きだ。(グレイマン・シリーズのザックっぽい。)
 今年中に続刊も出るようなので、(すでに読んでしまってはいるが)楽しみにしている。
 ラノベらしく結構イラストが挿入されているけど、文章そのものにイメージ喚起力があるので、挿絵は自分の中のイメージとぶつかってしまった。もともと、なろうサイト内の作品には挿絵はないので、文書だけで勝負するのも良いのではないかと思う。
 なお、後書きによると、著者のペンネームの「カレヤタミエ」は かれや・たみえでもなく、かれやた・みえ、でもなく「かれやたみえ」なんだそう。読み方ムズいぞ。