2025年4月2日水曜日

2025年3月の読書メーター

 昨年末からファンタジー祭りに突入し、乾石智子を呼んでいる途中で、原点を確認したくなり、ゲド戦記を読み始めた。初期の三部作と『帰還』は発行後すぐに読んでいたが、その後の2冊は未読。それに、『西の果ての年代記』は一冊目の『ギフト』しか読んでいない。けっこうワクワクと読み始めたのだが。
 なにしろ、ゲド戦記の周辺が五月蠅すぎる。
 つい、論文やら評論やらも読んでしまって、いっそう心乱れる。これ、もう、ル=グウィンのエッセイやら自伝やらまで読まないと収まらない流れだよな。それと、フェミニズム論についても、簡単に押さえて置く必要がありそう。やれやれである。

3月の読書メーター
読んだ本の数:15
読んだページ数:3324
ナイス数:759

「ゲド戦記」の世界 (岩波ブックレット NO. 683)「ゲド戦記」の世界 (岩波ブックレット NO. 683)感想
ゲド戦記5と6が入れ替わる前の、清水真砂子さんの講演録を編集したもの。清水さんが誠実で堅実な翻訳家であり、研究者であり、また教育者であることが伝わってくる。真のことばたり得ない私達の言葉は、それぞれの生活と体験に依拠するがゆえに、同じ言葉が同じ意味を持つとは限らない。その上で、言葉の一つ一つの意味を吟味し、著者の言わんとすることを損なわないように細心の注意を払って翻訳する姿勢に尊敬を覚える。その一方で、「私達は誤読する権利がありますから、読みたいように読んでいる」という一節が痛快。自身の創作を説明するという陥穽にル=グウィンでさえはまってしまったことについての、清水さん気づきは深いというかさすがというか。読んで自分も大いに反省させられる。そのル=グウィンの講演録は、ついに5月末刊行の『火明かり』に収録されるとのことなので、それも楽しみではある。 「あなたの作品は、あなたがここに書いているより、はるかにはるかに豊かだと思う」と書き送られたル=グウィンが、どのように応えたのか、ちょっと興味を覚える。
読了日:03月23日 著者:清水 真砂子









アースシーの風: ゲド戦記 6 (岩波少年文庫 593 ゲド戦記 6)アースシーの風: ゲド戦記 6 (岩波少年文庫 593 ゲド戦記 6)感想
最初の三部作の18年後に『帰還』その10年後に本作。三部作で十分に描かれなかった死後の世界についての再構築を試みている。前作から時間をおいてこの本だけ読めば納得感を得られたかもしれないが、1冊目から通読するといろいろと無理だった。なによりも、解説的な記述が多い。セセラクとレバンネンが少しづつ距離を縮めたりするところはなかなか良いし、ハンノキも素敵な人物なのだけど。なによりテハヌーの旅立ちには涙するのではあるけど。石垣を壊す描写は、ベルリンの壁崩壊を思い出させられた。物語全体が、現代史の引き写しともとれる。
読了日:03月17日 著者:アーシュラ・K. ル=グウィン

署長シンドローム (講談社文庫 こ 25-55)署長シンドローム (講談社文庫 こ 25-55)感想
Kindle版とAudibleで読了済み。やっと文庫本化したので入手しました。感想はこっちに書いてあります。https://bookmeter.com/reviews/119214165
読了日:03月15日 著者:今野 敏






帰還: ゲド戦記 4 (岩波少年文庫 591 ゲド戦記 4)帰還: ゲド戦記 4 (岩波少年文庫 591 ゲド戦記 4)感想
壮大で抽象的だった前作までと違って、ついに地に足が付いた感じ。やっと物語が落ち着くべきところに落ち着いた。ゲドが特別な力を失った無力な男として、喪失に向き合い、再生すること。テナーが、一度は望んで受け入れた「女」という理不尽で不自由な在り方に向き合い、ゴハという社会的な女から、テナーという個人に再生すること。暴力と性的な虐待を受け、肉体的に大きく損なわれた少女が、本来の内なる全き姿を取り戻すこと。三者それぞれの喪失と再生の物語だった。全体の生と死という極めて抽象的な物語から、個人の物語への回帰でもあった。
読了日:03月09日 著者:アーシュラ・K. ル=グウィン

さいはての島へ: ゲド戦記 3 (岩波少年文庫 590 ゲド戦記 3)さいはての島へ: ゲド戦記 3 (岩波少年文庫 590 ゲド戦記 3)感想
3巻目。壮年に至りロークの大賢人となっているゲドのもとに、エンラッドの若き王子アレンが凶報をもたらす。世界の各地で魔法が失われている。ゲドは原因を探り、世界に均衡を取り戻すためにアレンを供に船出する。ジブリアニメ・宮崎吾郎監督の『ゲド戦記』の原作としてこの本を知った人も多いのでは。私も盛大に期待を膨らませて公開を待ち、なにか変なものでも喰った気分で映画館を後にした一人ではある。しかし、こうしてあらためてこの本を読んでみると、それなりに原作に忠実にやろうとはしていたのかな、とは思った。
読了日:03月04日 著者:アーシュラ・K. ル=グウィン

空を駆けるジェーン: 空飛び猫物語空を駆けるジェーン: 空飛び猫物語感想
前作で、アレキサンダーとカップルになると思い込んでいたジェーンですが、彼女は自立したい女だったようで。平和で退屈な田舎と、退屈な?アレキサンダーの元を去って、都会に飛び出します。悪い男に騙され、危険な目にもあい、訪れたのは、彼女を都会から逃がした生みの母。都会の生活が性に合っていたジェーンは、母と同居しながら、田舎の兄姉や彼氏とも程良い距離を保って自由な女として生きて行くことを選択したよう。なんと空飛び猫は、女性の自立の話だった。それにしても、黒い翼の生えた黒猫なんて、悪魔狩りに遭わなくて良かったと・・・
読了日:03月02日 著者:アーシュラ・K. ル=グウィン

素晴らしいアレキサンダーと、空飛び猫たち素晴らしいアレキサンダーと、空飛び猫たち感想
アレキサンダーは、羽は生えてない普通の猫。お母さんは明るい茶色の長毛種(ペルシャのハーフ)で、アレキサンダーもふさふさのしっぽを受け継いでいる。お父さんはいつも寝ている(笑)。エネルギー過多でつい家族の家を飛び出してしまったアレキサンダーの大冒険。道路でトラックに挽かれかけ、犬に追いかけられて逃げ、木の梢に登って降りられなくなり!定番コースです。そこに助けにきてくれたのが黒猫ジェーン。子猫のときのトラウマで失語症状態だったジェーンの回復を助け、いずれはラブラブなカップルになる未来を感じさせる。
読了日:03月02日 著者:アーシュラ・K. ル=グウィン

帰ってきた空飛び猫帰ってきた空飛び猫感想
書影がイマイチだな。Amazonか読メのどちらかに書影登録機能が欲しい。さて、空飛び猫続刊。田舎の農場で暮らしはじめた4匹の空飛び猫の兄妹たちですが、だんだんお母さん猫のことが気になり始めて。ジェームズとハリエットの2匹が生まれ故郷の都会の「ゴミ捨て場」にジェーン・タビーお母さんを探しに戻ったところ、なんと黒い空飛び猫(しかも子猫!)を発見。もちろん、彼らの弟(もしくは妹)でした。お母さんとも無事再会、妹もつれて、田舎の農場に戻ったのでした。羽を痛めたジェームズが大旅行が出来るまでに回復して良かった。
読了日:03月02日 著者:アーシュラ・K. ル・グウィン

軍人婿さんと大根嫁さん 2 (芳文社コミックス/FUZコミックス)軍人婿さんと大根嫁さん 2 (芳文社コミックス/FUZコミックス)感想
やっと紙本を入手したので、再読しました。誉さんが素敵ですねえ。もうすぐ、5巻が発売です。
読了日:03月20日 著者:コマkoma
軍人婿さんと大根嫁さん 1 (芳文社コミックス/FUZコミックス)軍人婿さんと大根嫁さん 1 (芳文社コミックス/FUZコミックス)感想
紙本を入手したので、再読しました。やっぱりいいのう。
読了日:03月20日 著者:コマkoma
読書メーター



獅子帝の宦官長II 遥かなる故郷【イラスト付き】【単行本書き下ろしSS付き】 (エクレアノベルス)獅子帝の宦官長II 遥かなる故郷【イラスト付き】【単行本書き下ろしSS付き】 (エクレアノベルス)感想
2024年に分冊版で読了済みながら、電子本(単行本)が出たので書き下ろしSS目当てでDLしました。かなーり嗜虐的な要素のある濃厚エロな作品ですが、イルハリムの清純さと一途さは何にも勝ります。また、皇帝陛下が男らしいったら。八方丸く収まったラストが本当に幸福です。それにしてもオマケのSSはっっ! もう、陛下のおのろけで胸がいっぱい。はじめから最後までノロケ。あーあ、幸せでようござんしたねっっ(笑) 二人の幸せのお裾分けを戴きました。ごちそうさまです。
読了日:03月04日 著者:ごいち

ある手芸中毒者の告白: ひそかな愉しみと不安 縫い欲にまみれたその日常
ある手芸中毒者の告白: ひそかな愉しみと不安 縫い欲にまみれたその日常感想
私も告白するけど、本を買いたい中毒でした。中身も確認しないで衝動買いしちゃった。いろいろと共感出来る部分はある。だけど、決定的に趣味が違った(笑)。わたしもいつかジャンパースカート作ろうと思って解いてあるウールの着物地とか、いつか編もうとおもっている毛糸とか、刺しかけの刺繍のテーブルクロスとか、パターンだけ溜まってるパッチワークとか・・・・。あああ。。。
読了日:03月16日 著者:グレゴリ青山

家が好きな人 (リュエルコミックス)家が好きな人 (リュエルコミックス)感想
温かで優しい筆致で、女性の一人暮らしのワンルームと、その空間でほっこりする時間。家が好きな人、というよりは「こういう家が好きな人」。とても温かだけど、絵にするとどこか非現実的で。だけどこういう本に癒やされるひとも沢山いるだろうなあ。うん。優しい色と線と丸い角で描かれた家の中を、現実のリアルな物に置き換えてみたときに、ここが素敵、と思えるかどうかはワカランです。デリカシーのない感想でゴメンよ。
読了日:03月16日 著者:井田 千秋

2025年3月30日日曜日

日々雑感・・・ファンタジーが読みたかっただけなのに


 昨年末から久しぶりにファンタジー作品を読み始めて、原点回帰、とか思って、ん十年ぶりにゲド戦記を読み始めた。ホント私は、私のファンタジーの原点・・・指輪物語やゲド戦記に回帰したかっただけなんだよ。あと、ル=グウィンに関しては、まだ完読していない『西の果ての年代記』までは辿り着くことが当初の目的。
 だがしかし。
 ゲド戦記の周辺が五月蠅すぎて、無視できない。また、作品そのものも、読んだ人間がざわめくのも無理はない程度には、良くも悪くも問題作だった。
 だから、これを読んだ他の人達はどう考えているのだろうか、とかつい気になって、書評のアレコレや、論文や評論にも手をだした。
 正直、もはや手遅れだが、純粋にゲド戦記の世界に遊んでいた昔の心持ちに戻れるものなら戻りたい。

 『帰還』も、『アースシーの風』も、絶対に受けつけない人もいるみたいだけど、私はそこまでの拒否感はない。それなりに完成度は高いし、面白い。だけど、そう、なんというか、解釈違いの映画化作品でも見たような気分も無いわけじゃない。もう、最初の三部作だけを読んでいた頃には戻れない。ル=グウィンに対しては、彼女のいうところの「今」の作品を書くにしても、なぜゲド戦記の続編でなければならなかったのか、別作品で書いてくれればよかったのに、と、恨めしい気持ちは若干ある。

 『影との戦い』や『さいはての島へ』で出てくる例の石垣については、これまでは、自分なりに、三途の川のようなイメージで読んでいたので、石垣の向こう側があの世だと理解していた。

 だが、『アースシーの風』によって、そのイメージがよく判らなくなった。さらに、外伝(『ドラゴンフライ』)収録の『カワウソ』では死者が石垣のこちら側に居る。根本的な世界観がブレる。『アースシーの風』では死者と生者が力を合わせて石垣を壊す。そして石垣を越えて死者が解放されることが描写されるのだが、あの石垣は一体なんだったんだろう?
 生死の世界の分かれ目なのか、西の果てのそのまた西に続く世界のつながりを仕切っていた魔法なのか。死者は石垣のどちら側に居るのか?

 ル=グウィンが十年、二十年の時を経て、アースシーに戻って、その世界を覗き、そこで見たものを作品に紡いだことで、それまでに読者が過去のル=グウィンの言葉をよすがに創り上げていた、日本人にとっては「ゲド戦記」であり、海外の読者にとっては「アースシー」であるところの、ファンタジー世界の土台は壊れてしまった。あの石垣の如くに。
 べつに著者が何十年かけて作品を書いてもそれは良い、が、著者自ら世界を改変するのは、できれば止めて欲しかった。いったんは読者に委ねた作品であれば、過去の作品が未熟なら未熟なまま、読者に預けておいてくれたらよかったのに。

 まず、このゲド戦記6巻(この6月頃には、7巻になる予定。)を読んで思うのはそのことである。
 そして、外野はやっぱり五月蠅すぎる。(私自身も含めてだ!) 作品を楽しむこと以外しなくでもいいじゃないか、と思う。

 だがしかし何よりも、過去の作品世界をいじらないで、と思うその気持ちが、程度の差こそあれ、例の栗本薫に思ったことと根っこのところでは大差無い、というのが、正直一番の_| ̄|○ なのだった。

ノート 「ゲド戦記」の世界 (岩波ブックレット NO. 683) 

===========================
書 名  「ゲド戦記」の世界 (岩波ブックレット NO. 683) 
著 者  清水 真砂子
出 版  岩波書店  2006年9月
ブックレット  60ページ
初 読 2025年3月23日
ISBN-10 4000093835
ISBN-13 978-4000093835

簡単なレビューはすでにアップしたのだが、このブックレットにいろいろと思考が触発されたので、ノートを作っておく。

子供はいつ「ノー」ということを覚えるのだろう 
 冒頭、「ノー」と言う言葉については、いろいろと思うところがある、と清水さんは語られている。しかし、最初に子供に覚えてほしい言葉は「ノー」であるとのくだりで、あ、この方は子育てはしたことがないのかな、と思った。 
 自我が育ってきた子供が「いや」と言えることは大切なことであるのは、否定するつもりはない。
 しかし、実際には赤ん坊は言葉を獲得する以前に「いや」と言っているのだ。泣くことによって。
 「いや」という言葉を覚えているかいないか、という以前の話で、赤ん坊が泣く→養育者が赤ん坊の欲求を満たすという反復を繰り返すことで、子供は、自己の存在を無条件に受け入れられているという、世の中と自身に対する基本的な肯定感を育む。この時に構築される養育者との愛着関係がその人の根っこを作る。これが人生のスタートで何よりも大切なことである。子供が最初に覚える言葉が、「いや」ではなく、ママであり、妈妈でり、マンマであることには、それ相応の理由がある。
 講演会の導入部で、聴衆に受けの良いであろう話題を選ばれたのかもしれないけれど、この内容は少々的外れなように感じるし、この導入って、『ゲド戦記』の話に必要なん?と思った。

■ものを読むということは
 ものを読むということは、書かれていることを読むだけではだめで、何が書かれていないか、新聞であれば何が取り上げられていないかがわかって、初めて読んだことになる。
 これはとても大切なことで、肝に銘じたい。

■訳語一つへのこだわり
 言葉には既成のイメージがある。「ひとつの言葉には、その言葉の歴史が全部まとわりついている」(P.13 )。そして、その一つの言葉の歴史は、書く人、読む人のそれまでの生活・人生で経験してきたものでもちがう。 その前提で、著者のイメージを過不足なく正確につたえるために、言葉の一つ一つを吟味する作業を繰りかえす。そういった作業に真摯に取り組まれている清水さんは、素晴らしい翻訳者だと思う。

■テルーが最初に所有したものは (p.18)
 このブックレットでは、清水氏はそれを、テナーが作ったドレスだと言っている。テナーが生地をもらい受け、染め、裁断し、赤いドレス、シュミーズ、エプロンを手で縫って仕上げる。多分それを、テルーはそばでじっと見ている。その時間はテルーにとって特別なものだったに違いない。しかし、最初の所有ということでいえば、「骨の人」とイルカ号の中でもらった「骨のイルカ」じゃあないかな、と思うのだけど、どうだろう?  そうはいっても、自分の物を持つことについての大切さが変わるわけではない。

■老人ホーム視察団のエピソード (p.18)
 これも、もっともらしい話ではあるのだけど、長い冬に閉じ込められる北欧の「室内」に対するこだわり、その室内調度品に向ける情熱を、そのまま日本の老人ホームに当てはめると、ちょっとずれるかも、と思った。この調度品へのこだわりという点で、私が思い出すのはジョン・ウェイン主演の「静かなる男」の1シーン。母から譲り受けた先祖伝来の家具を新婚の家に運びこむときのヒロインのふるまいなのであるが。
 それとは対照的に思い出すのが「柳行李ひとつで嫁に」、という当時の皇太子殿下(現在の太上天皇)のプロポーズ。日本人の家や生活は、基本的にヨーロッパよりははるかに軽量。片や、長い冬を屋内で過ごす国、片や災害が多い国柄、ということも理由の一つかもしれない。ともあれ物に詰め込む想いは、たぶん北欧人の方が、日本人よりも格段に重いんじゃないだろうか。人が何をよるがに過去を思い起こすのか、は多分文化によって違う。壁いっぱいの家族写真なのが西洋人だとしたら、日本人は、季節の移ろいとか年中行事、祭りや行事、折々の花、なのかも知れない。老人ホームでは人々の過去が消されている、というのが「ほんとう」なのかどうかは、もうちょっと考えたほうがよいかもしれないと思う。 

■今更ながらフェミニズムとは (p.19)
 第4巻の『帰還』が訳者の突き付けてきたのは、「あそこにある成熟したフェミニズム」をどのような日本語で表現したらいいか、ということだったと清水氏は言っている。

 私には“あそこにあるフェミニズム”がどんなものか、ちょっとよく分からない。
 広義のフェミニズムが20世紀初頭の婦人参政権運動などを含む、脈々と続いてきた女性の権利獲得運動であることは知っているが、ここで語られる“フェミニズム”は、もっと狭義のものだ。第二波なのか、第三波なのかもよく判らない。自分はもう何十年も仕事をして、自立して生きてきているが、その“フェミニズム”について、真剣に考えたことはたぶんない。だからといって、アンチ・フェミニズムではないし、ポストフェミニズムだと思っているわけでもない。ただ、なんとなく「フェミニズム」という言葉が自分から遠い。
 その点を何故だろうかと考えたとき、私は自分が女だどはっきり自覚しているが、一方で自分の中の男性性とでもいうものも意識しており、フェミニズムという用語では自分のその部分が疎外されていると感じるからではないかと思った。フェミニズムは私を表さない。ようは,“女くさい”のだ。と、いうことは世の中の半分を占める男性もそうなのではないか。そのような言葉に、世界を変える力があるのだろうか?
 ル=グウィンが体現していたフェミニズムとはなにで、フェミニストとはどんな人なんだろう? もっと私には勉強が必要だ。

■テナーの第三の言葉とは
 テナーをゲドから託されたオジオンは、テナーに「男性の「知」の世界」を与えようとする。しかしやがてテナーはそれを拒否し、考え始める。「自分は自分の衣装を着たい、自分の着物を着たい」「普通の女たちが生きる人生を全部、自分で引き受けて生きてみたい」。

 私は、それをテナーがかつて失ったもの(関係性や、生活や、それにまつわる事物)を回復させたいと願ったのだととらえた。だから、テナーが求めたものはフェミニズム的なものとは関係がなく、むしろ封建的ですらあった、と考えたのだが、この点は、清水氏とも(ひいては著者とも)考えが違うのかもしれない、とこのブックレットを読んで思った。
 そこで、清水氏はテナーを、「男性的な理論の世界の言葉を一度は、獲得した女性」と語るが、そこも果たしてそうなのかな?とも思う。むしろ、男性的な理論の言葉を拒絶した女性、なのではないか? 普通の女の生活の言葉を持っているが、生活べったりでないことは異論はない。彼女は生活や世の中に対して、ある種の客観性を持っている。しかしそれは、彼女が“白い女”であり、自身が生活する共同体の中に受け入れられていると同時に、常に他者、よそ者であるからではないのか。また、幼少時に「アルハ」という孤高の存在として養育され、教育されたからではないのか。また、カルカド語という、母語を持っているからではないのか。彼女が第三の言語を獲得しているとして、それをオジオンの教育に由来すると考えるのは、行きすぎだと思う。
 に、してもだ。 テナーの持つ「第三の言語」性を表現するために、苦心して翻訳されている清水氏の努力のおかげで、私達は実に生き生きとして、まさにテナーらしいテナーに出会うことができているのだ。

■ ハリー・ポッター(笑)
 別にハリー・ポッターをテキししているわけではないし、夢中で一気読みした。でも、読み終わった瞬間に「膨大な時間のむだ遣い」と思った。とのこと。(笑) 何にも残らなかった。(笑)(p.27) あ、それ言っちゃうんだ(笑)
 まさに。そういう本もある。子供にとってはそれでも良い場合もある。それで、「本を読むこと」「本を読んでワクワクすること」を覚えて、より深い読書の世界の入り口になるかもしれない。ただただ、楽しむだけの読書だってある。だけど、『ゲド戦記』とは違うよね、ということだ。だって、『ゲド戦記』って実際、読んでいてそんなにワクワクしなくないか? 正直いって重くないか? それでもその深みになにか得体の知れないものがありそうで、読まずには居られない。そんな感じだ。

 誤読する自由 
 清水氏の「私たちには誤読する権利がありますから、読みたいように読んでいる」という一文にはものすごい破壊力がある。作品をどのように読むか、は読者の権利なのだ、というのはものすごい示唆を含んでいないか? いったん世に放たれた作品は、その意味では、読者の物なのだ、とすら言えないか?
 作者には、自分の創作した作品を、いかようにも描く権利がある。ル=グウィンは、アースシーの世界について、誰はばかり無く作品を世に送り出す権利を持っている。一方で、すでに世に送り出された作品は、読者の中で確固たる世界を築いている。 ゲド戦記の第4巻以降の作品が世に巻き起こした葛藤は、まさにこの両者の対立だったのではないだろうか。
 その葛藤の中で、ル=グウィンすら、その意味を語る必要に駆られてしまった。それが、オックスフォード大学での「ゲド戦記」をひっくり返す」という講演だった。

■「意味」を語るという陥穽
 清水氏は、「ゲド戦記」第4巻は、このスピーチよりもずっと豊かで「こんなもんじゃないぞ」と思った。そして、ル=グウィンに「スピーチ原稿を読んだけれど、あなたの作品は、あなたがここに書いているより、はるかに豊かだと思う」と手紙を送ったのだそう。その手紙にル=グウィンがなんと答えたのか、もしくは応えは無かったのか、はこの清水氏の講演では語られていない。
 そのル=グウィンの作品の豊かさ、とは、読者の中に物語を喚起する力であり、喚起される物語はル=グウィンだけの物では無くなっている、ということだったり、清水氏自身の豊かさだったりするのかもしれない。清水氏が語る「こぼれるもの」は、もっともっと沢山あったが、非常に大雑把にいうと、そういうことなんだな、と思った。

 私は、清水氏のこのブックレット(2本の講演録を整理、編集したもの)を読んで、あれこれと細部の文句を言ったりはしているが、清水氏は素晴らしい翻訳家だと思っている。
 一方で、単語の一つ一つを吟味し、著者の思想を過不足なく伝えようと細心の注意をもって奮闘する翻訳者でありながら、読者としては「誤読する自由」がある、と高らかに宣言する。この強さ(獰猛さ?)が、清水氏の素晴らしさだ。

■ さいごに、映画『ゲド戦記』について
 「人が何かにつき動かされて表現に向かうとき、その表現形態が詩であれ、映画であれ、大事なのは出来上がった作品がそのジャンルの作品として自立しているか否かです。作品が作者をして表現へとつき動かしたものをどれだけ忠実になぞっているかは、全く問題ではありません。」「もしも、できあがった作品が不評を買ったとすれば、それはその作品に、読む者を、あるいは観る者をして我を忘れさせるだけの力がなかったということでしょう。」

 いやこれは、バッサリと。
 正にその通りですが、観客にとっての比較の対象が父宮崎駿であり、ル=グウィンの書いた作品出会ったという点では、吾朗ちゃんは不幸だったとは思う。
 私個人としては、テルーを顔に痣(変色)が残っているものの、きれいでかわいくて、歌の上手な女の子として描いてしまうことだけは、すべきでは無かった、と今でも思っている。
 テルーは顔と上半身の半分が焼けただれて、目も喉も焼け、ケロイドに覆われて、手指は癒着してしまっている、見た目も凄惨な障害を負った少女なのだ。それをきれいに描いてしまうことで、見た目が酷い障害は「絵にならない」「画面に出せない」という強いメッセージを世に放ってしまった。結局アニメはルッキズムを超えられないことを、こうまで残酷に表してしまったことが残念でならない。

2025年3月23日日曜日

0553 「ゲド戦記」の世界 (岩波ブックレット NO. 683)

書 名  「ゲド戦記」の世界 (岩波ブックレット NO. 683)
著 者  清水 真砂子
出 版  岩波書店  2006年9月
ブックレット  60ページ
初 読 2025年3月23日
ISBN-10 4000093835
ISBN-13 978-4000093835
読書メーター https://bookmeter.com/reviews/126874474   

 ゲド戦記5と6が入れ替わる前の2006年の、清水真砂子さんの2回の講演会の内容を編集し、再構成したもの。
 清水さんが誠実で堅実な翻訳家であり、研究者であり、また教育者であることが伝わってくる。

 神聖文字も持たず、真のことばたり得ない私達の言語は、非常に不確かなものながら、それでいて、お互いを結び付け、共通のイメージをふくらましたり、ファンタジーの世界を築き上げたりしている。私達の言葉は、それぞれの生活と体験に依拠するがゆえに、同じ言葉が他の人にとっても完全に同じ意味を持つとは限らない。言葉のそのような揺らぎを知っているその上で、著者の言わんとすることを損なわないように細心の注意を払って、言葉の一つ一つの意味を吟味し翻訳する姿勢を尊敬する。
 その一方で、「私達は誤読する権利がありますから、読みたいように読んでいる」という一節は非常に痛快。
 自身の創作を説明するという陥穽にル=グウィンでさえはまってしまったことについての、清水さん気づきは深いというか、さすがというか。読んで自分も大いに反省させられる。
 しかし、それすらも、ル=グウィンに対する深い敬愛が込められている。
 そのル=グウィンの講演録は、ついに5月末刊行の『火明かり』に収録されるとのことなので、それも楽しみではある。 「あなたの作品は、あなたがここに書いているより、はるかにはるかに豊かだと思う」と清水さんに手紙を書き送られたル=グウィンは、どのように応えたのだろうか。
 「フェミニストの旗手」と見做されていたル=グウィンは、しかし決してそれだけではない。フェミニズムとル=グウィンがどのように関わり、付き合ってきたのかも、もう少し知りたい。

 なお、最近やけに拘りの強い読み方をしていたな、と反省もしきり。そのうち、これまでのレビュ—を書き直すかも。

2025年3月20日木曜日

番外 論文「アーシュラ・K・ル=グウィン〈アースシー〉“第二の三部作”におけるジェンダー・ポリティクス」を読んだ

アーシュラ・K・ル=グウィン〈アースシー〉“第二の三部作”におけるジェンダー・ポリティクス———ポストフェミニズム、クィア理論、反グローバル資本主義
青木康平(一橋大学院) ジェンダー研究(発行:お茶の水女子大学ジェンダー研究所) 第22号 2019年 
https://www2.igs.ocha.ac.jp/en/wp-content/uploads/2019/09/09aoki.pdf
============================================
ジェンダー研究
Journal of Gender Studies
発行:お茶の水女子大学ジェンダー研究所
ISSN:13450638
第21号(2018)~
============================================

 以下の駄文は、研究者の研究成果に対する批判・批評を行うものではありません。(私は批評が可能なほど、勉強はしていない。)あくまで、感想程度のものであることを、最初にお断り(言い訳)しておきます。

 この論者は、岩波書店発行の清水真砂子氏訳『ゲド戦記』やその仕事がそもそも好きじゃないんだろうな。っていうか、もちろん翻訳を必要とされていないのだとは思うが。『ゲド戦記』というタイトルがどうなの、という話はちょくちょくあって、この論文でも触れられている。岩波書店で付けているタイトル『影との戦い』『こわれた腕輪』『さいはての島へ』『帰還』『アースシーの風』『ドラゴンフライ』という邦訳タイトルを、論文の中で頑なに拒否しているところからしても、好きじゃないんだろうな、と感じる。しかし、論文の各所で引用されている作品の訳出については、岩波書店版/清水真砂子氏翻訳の各作品を下敷きに用いているのではと思えるフシがある。論文末の参考文献リストに岩波書店版『ゲド戦記』を掲載していたなら、誠実に思えただろうな。(英訳版の論文であれば、不要であろうが。)

 まあ、通読した感想を述べるならば、私はこのような近視眼的で喧嘩っ早い『フェミニズム』は好きじゃないんだ、というのを再確認した。
 フェミニズムの流れは歴史の必然であるとしても、『フェミニズム』の文脈で歴史や文学を再定義しようとする姿勢が嫌いだ、とでも言おうか。
 論文全体としては、物語の記述を、恣意的に歪めて解釈していると思えるところが見受けられたように思う。
 
 たとえば、
 「なぜ、テハヌーは、第4巻の選択を翻したのか。最終巻のタイトルともなっている〈もう一つの風〉とは何か。果たして本当に、作者にその結末を書き直させるに至ったほど〈現在(NOW)は劇的に動いたのか———本稿はこれらの問いを明らかにすることを目的として書かれた。」
 この点について
 第4巻『帰還』(この論文では『テハヌー』)のラスト、古老の竜のカレシンから娘、と呼ばれたテハヌーとカレシンの会話は以下のとおりだ。
 「さあ、もう、行こう。」子どもがうながした。「ほかの風に乗って、ほかの人たちがいるところへ。」 
 「この者たちを残していくのか。」 
 「いいえ。」子どもは答えた。「というと、この人たちは来られないの?」
 「ああ、だめだ。この者たちが生きる場所はここなのだから。」
  「なら、あたしも残る。」

 カレシンは笑う。
 「まあ、いいだろう。そなたにはここでしなければならない仕事があるからな。」
 「わかってる。」
 「そのうち、またそなたを迎えにもどってくる。」

 それからカレシンは、ゲドとテナーに向かい
「わしの子どもをそなたたちにやるぞ。いずれ、そなたたちは自分の子どもをわしにくれるだろうからな。」と言った。 
 「時が来たら。」テナーは応えた。
 (引用 アーシュラ・K.ル=グウィン; 清水 真砂子. 帰還 ゲド戦記 (岩波少年文庫))

 論者は、「なぜ選択を翻したのか」、と問うが、実際には、テハヌーがいずれはカレシンの元に戻ることはこの第4巻の時点で予言されている。それに、まだ6歳か7歳の親を必要とする年頃の子供が親元にとどまる選択をすること、そして、15年後に二十歳を超えた成人女性が、親元を離れる選択をすること、それはどちらも必然であって、なんら周囲が喫驚するようなことではない。この物語の流れをもって、「作者に終末を書き直させる」と言うのは無理があるだろうと思う。

 また、テナーは、自らの意志で暗闇の巫女となることを望んだのではなかったように、そこから解放されることもまた、自ら望んだわけではなかったと論者は言うが、本当にそうだろうか。
 『こわれた腕輪』の中で、テナーは、たとえ限られた選択肢しかなかったとしても、その中から自分で運命を選択していたのではないだろうか。たとえば、ゲドを生かす選択をしたのはテナー自身だった。その最初の選択がその後の全ての行為に影響を与えた。ゲドもまた、テナーに選択を促しこそすれ、決定を強制はしなかった。テナーは自分で選択したと信じているだろうし、そこを否定されたら、たぶん怒るだろう。

 その上で、テナーについて、第4巻(『帰還』)のテナーは、男に頼らず働く自立した女性であり・・・と表現しているのだが。この「男に頼らず働く自立した女性」という表現にはかなりのフェミ臭がする。

 オジオンやゲドがテナーに提示したものは、大巫女ではないにしろ、別の孤高の存在になることであったのに対し、テナーが求めたのは3歳の時に失ったものを完全ではなくても回復させることだったのではないだろうか。それは暖かい炉辺であり、家族であり、耕す畑と平和な生活であったろう。
 テナーが求めたのは、正に家庭の象徴である炉辺と家族であり、それはオジオンが与えられるものではなかった。オジオンがいかに高尚で特別なものを彼女に与えようとしても、そこは断固拒否し、普通の農家の娘のように生活し、「嫁に行く」ことをテナーは選択した。その後の生活においても彼女にとっての回復を実践したテナーは、非常に意志の強い、自分の人生の選択を完遂し、その結果を甘受した女性である。しかしその選択は非常に封建的なものでもあった。それは、ポストフェミニズムとは関係なく、単にそれが、彼女の“失われたもの”だったからだろう。彼女の選択と人生を、フェミニズムの視点で語ることは困難だろうと思う。彼女の働き方は農村の労働力としてのそれであり、「自立し」て見えるのは単に夫が死んで独居になってるからで、寡婦として、いずれは息子に譲られる家を護るテナーを「男に頼らず働く自立した女性」と表現するのもナンカチガウ感が・・・

(ほかにもいくつか気になったけどメンドクサイから中略!結局のところ、この論者さんは『ゲド戦記』をきちんと読んでいないのよ。)

 一介の本読みとして思うことは、作品を透かして、ル=グウィン自身の思想を云々することも、作品を通して現代社会を論証することにも、自分は意義を見いだせないということだった。(もちろん、そういった作業に意義を見いだす人が沢山いることを否定するものではない。私の指向性の問題である。)

 ジェンダーの考察もクィア理論の考証もどんどん為されるが良い。時代・時間とともに変遷する現代の理想も、どんどん記述されるがいい。

 しかし、小説は小説。物語は物語。
 ファンタジーとは、読者の想像力と好奇心をよりどころに、それを揺り動かし、作者とともに未知の世界を探索し、空想を通してこそ到達できる真理を共有するために、作者が渾身の力と情熱を持って記述した、知の贈り物である。読者としてするべきことは、それをネタに著者を研究することではなく、空想の翼でアースシーの空を駆け、アーキペラゴの海を掻き分け進み、ゲドやテハヌー達と同じ大地を踏むことだと、改めて気付かされた次第だった。

 でも、この論文を読んで、好奇心を刺激されて、『ゲド戦記を“生き直す”』(雑誌 季刊へるめす 45号収録)を読みたくなったので、国立国会図書館に複写をお願いしました。
(追記:「ゲド戦記を“生き直す”」は2025年6月発行予定の『火明かり』(ゲド戦記別冊)に収録されます。)

2025年3月18日火曜日

0552 アースシーの風 ― ゲド戦記Ⅵ(初版時はⅤ)

少年文庫版
書 名 「アースシーの風」
原 題 「THE​ ​OTHER​ ​WIND」2001年
著 者 アーシュラ・K.ル=グウィン
翻訳者 清水 真砂子
出 版 岩波書店
 【岩波少年文庫版】
少年文庫版  384ページ 2009年3月発行
ISBN-10 9784001145939
ISBN-13  978-4001145939
読書メーター 
 【ハードカバー版(初版)】
単行本 349ページ 2003年3月発行
初 読 1993年
ISBN-10 4001155702
ISBN-13 978-4001155709

単行本初版
 出版当初は「最後の書」と銘打たれていた『帰還 ゲド戦記Ⅳ』刊行から10年後に出版された『アースシーの風 ゲド戦記Ⅴ』。このハードカバー版は、このコバルトブルーの表紙のと、黄色い表紙の(『アースシーの風 ゲド戦記Ⅵ』)の二種類が世に出ている。なんとなれば、この本の後に『ゲド戦記 外伝』が出版され、日本国内では、当初刊行順に5、6と番号が振られていたのだが、著者のル=グウィンが、正しい順番は、「外伝」、「アースシーの風」の順番だ!と仰ったかららしい。実際、著者の執筆順はそうだったのだが、『帰還』と直接つながるこの長編の刊行を先にしたのは日本の国内事情のようで、後書きに説明があった。
単行本改定版
 だから、外伝の方もインディゴブルーの表紙の『外伝』とややくすんだ暗いブルーの『ドラゴンフライ ゲド戦記外伝』の2パターンある。
 個人的には、著者に供された発行順でよいのでは?と当初は思っていた。実際自分が持っているのは国内で最初に出た順。後から実は順番がって言われてもな・・・。しかしそれは日本の事情なので、著者からしたら、ちがーう!ってことなのだろう。実際、『ドラゴンフライ』の冒頭の著者前書きを読むと、たしかに順番は、そちらが先なのが判る。そこにこだわりたい気持ちもわかる。ル=グウィンのような意志的な作家の著作を、著者の書いた順番順に発行しない日本の出版事情もなんだかな、と思わないでもない。

 なお、日本語版のタイトルは「アースシーの風」となっているけど、作中で再三使っている、「もうひとつの風」の方が良かったな、と思う。だって、原題が表す風は、西の果てのそのまた西の別の世界の風であって、あきらかにアースシーの風ではない。
 まあ、それはさておき。

 『帰還』からさらに15年後。冒頭、ゲドは70代との記述があるが、だいたい60代半ばくらいじゃないかな? まあ、70代というのは、他人からみたところ、の話なので、単に農夫として暮らしてきたゲドがすっかり老けている、ということなのだろうと勝手に理解する。
ソフトカバー版

 この本は、ゲド戦記3『さいはての島へ』のレビューで私が書いた違和感や未成熟感についての「答え合わせ」になっている。だがしかし。ちょっとモヤる。

 この本単体としては、とても完成度が高いと思うのだ。だけど、著者も認めるように、始めからこのアースシーの世界観の全容を著者が掴んでいたわけではない。「アースシー」の物語は、始めは前3部作で完結していた。
 その後20年近くたって、『帰還』を書いたときにも、作者自身が『最後の書」と銘打つくらいには、これで物語が完結した、と思っていた。そして、10年後の本書である。

 多分、3部作を読んだあと何年かおいて『帰還』を読み、その10年後くらいに、前作の細かいところは忘れたころに、この『アースシーの風』を読んだならば、あまり細部に引っかからずに素直に感動したんじゃないかと思う。だが、残念なことに、『影との戦い』から一気読みしてしまったんだよ。
 思うに、10代の子供向けであれば、十分に納得感のあった当初の3部作であっても、読者も成熟し、著者自身の思索も深まるにしたがって、いろいろと足りないところ、未熟なところを補完する必要に迫られたのだろう。物語世界そのものが成長したのだ。その辺りは『ドラゴンフライ』の前書きなどでも触れられている。

 だが、それでは、ゲドが全存在を賭けて成し遂げたことはなんだったのか、ということになってしまうじゃないか。いっそのこと、最初から書き直しても良かったんじゃないか?と思ってしまう。それくらい、この『アースシーの風』は、解説的な記述が多かったし、つじつま合わせ感も強いと感じた。

 このアースシーでは、地球は丸いと認識されていて、西に西にずんずん進めば、やがて東の端に出会ってしまう。しかし竜たちが目指す「西の果てのそのまた西」の世界は、地上にあるのではなく、いわば西方浄土的な、聖霊や霊魂の世界である。人間と竜が世界を二つに分けたとき、つまりは人間が地上の富を支配することを選び、竜は精霊の世界を翔 ぶことを選んだわけだ。
 だけど、人の肉体が死んで霊魂が向かう世界は、この竜たちの西の果てとつながっている。本来はそこで、一人ひとりの魂は大きな地球の生命の中に還り、また次の生に転生するはずだったのだが、死んでも魂を手放したくない人間の欲が、霊魂の道を絶って、壁でこちら側に仕切ってしまった。そのために、人間の霊魂だけが、生の世界のすぐ隣にずっととどまり続けることになって、人間が死後に向かう世界は、まさに動きが死に絶えた、恐るべき暗黒の世界になってしまった。その世界に閉じ込められ、輪廻転生の輪に戻れない死した人々の嘆きが、ついにその壁を壊させるに至った。というのが大筋。

 それはそれで良いと思う。だがしかし。

 それでは、クモはいったいどこに穴を開けたのか。
 持てる力の全てを使い尽くしてゲドが塞いだ穴はいったいなんだったのか。
 ゲドが死力を尽くして守ったものはなんだったのか。
 
 この物語のなかで、ゲドの立場も上手に取り繕ってはいるが、全体としては、「後足で砂をかける」って感じがものすごくする。
 ル=グウィンは、どんどん付け足しで物語世界を改変しないで、いっそのこと初めから書き直せばよかったのに、とどうしても考えてしまう。

 ついでながら、『影との戦い』から繰り返して出てくる死者の国との境目の石垣。その石垣を崩すシーンで、デジャブを感じる。そう、あれだ、ベルリンの壁の崩壊。1989年。
 そういう視点を持ってしまうと、物語全体が、現代史の引き写しなんじゃないかという気がする。西と東の対立というモチーフ。その間に築かれた石壁。西を選んだ民(竜)は、束縛を離れ自由を得たが、東を選んだ民(人間)は、手の技とそれが生み出す富を所有する権利を獲得したが太古の知恵は失った。そしてその東(アースシー)の人間はさらに、アーキペラゴの人々と、カルガド帝国の人々に分裂している。
 これは、東側と西側の対立、そして西欧(キリスト教)文明とイスラム文明の対立そのままではないか。(西と東は逆だし、アーキペラゴが有色人種の世界で、カルガドが白人世界なのも、現実世界とは逆ではあるけれど。)

 「そして人間は東へ、竜は西へと移動したのですが、このとき人間は天地創造のことばを手放し、かわりに、あらゆる手の技と、それが生みだすものを所有する権利を獲得しました。竜はそうしたものはすべて失いましたが、そのかわり太古のことばは失わずにいたというわけです。」

 では、壁が崩れたあとはどうなるのだろう。人間の地は人の欲(資本主義)に席巻され、天地創造の言葉(共産主義)は地を離れて、理念の世界に生き延びるのだろうか。

2025年3月10日月曜日

0551 帰還 ゲド戦記 Ⅳ(ゲド戦記 最後の書!?)

少年文庫版
書 名 「帰還」
原 題 「TEHANU」1990年
著 者 アーシュラ・K.ル=グウィン
翻訳者 清水 真砂子
出 版 岩波書店
 【岩波少年文庫版】
少年文庫版  400ページ 2009年2月発行
ISBN-10 400114591X
ISBN-13 978-4001145915
読書メーター 
 【ハードカバー版(初版)】
単行本 344ページ 1993年3月発行
初 読 1993年
ISBN-10 400115529X
ISBN-13 978-4001155297
単行本初版
 完結していたはずのゲド戦記3部作から時が経つこと、18年。1990年に刊行され、1993年に翻訳出版されたのがこの本。赤い表紙のハードカバー。表紙絵は、切り絵風から油彩風になって、中年になったテナーと、焚き火で焼かれた少女テルー、そして背景には巨大な竜が描かれている。奥の暗闇に輝くのは明星テハヌー。実は、背景が竜の頭だと、今回まじまじと見て初めて気がついた(マヌケ)。そして、表紙には「ゲド戦記Ⅳ」ではなくこう書かれていたのだ。「ゲド戦記 最後の書」と。これは、ル=グウィンが、原著にもそう記したもの。本当に彼女はこれで「最後」だと思ったのだ。そう、執筆した当初は。

 『こわれた腕輪』の物語の直後の25年前、突然、ゲドが17歳の女の子をル・アルビに連れてきて、オジオンに託していった。このオジオンの一番弟子ときたら、師匠を信頼しているが故とはいえ、けっこうあんまりだと思うよ。オジオンは困っただろう(笑)。
ソフトカバー版
 とはいえ、オジオンはテナーを養女としてかわいがり、一生懸命育てた。ゲドを育てた時よりはだいぶ甘々だった気がする。
 なにしろ、世捨て人の賢者と少女の組み合わせだ。それだけでラノベなら何冊も物語が書けそうだ。
 しかし結局、テナーはなにか特別な力のある孤高の存在になりたいとは願わず、普通の世間並みの女として世の中に溶け込むことを望んだ。やがて、オジオンの家を出て村に暮らし、富農の男と結婚。良い女房、良い母親、良い後家、身持ちの良い女として生きてきた。

 これが、ゲドの冒険の裏側、ゴント島の一隅で起こっていたこと。
 そして、『さいはての島へ』で竜のカレシンの背に乗ってロークを去ったゲドは、ゴント島のオジオンの元に還ってきた。全ての力を失った、傷つき、疲れはて、死にかけたただの男として。
 その数日前に、すでに高齢で死期を迎えていたオジオンは旅立っていた。これは単なる妄想だけど、オジオンは遠く離れたゴントから密かに死の世界で戦うゲドに、残った命の全てをかけて力を与えたのではないか。なんてね。

 この物語はそこから。「帰還」してのちの話だ。
 フェミニズム的な視野なんだろうな、とは思うのだけど、女性の扱われかたとか、ゴハの内心の葛藤とかは読んでいるこちらも、それなりにイライラした。
 また、王たるレバンネンに同行してゴントにやって来た風の長の、身に染みついた「女は取るに足らない」という感覚にもちょっとイラっ。
 
 しかし、壮大な空中戦みたいだった前作までと違って、ついに地に足が付いた感じの今作。テナーとゲドが夫婦になり、オジオンの家にこれから住まう。やっと落ち着くべきところに落ち着いた二人。

 ゲドが全ての特別な力を失った無力な男として、喪失に向き合い、再生すること。
 テナーが、一度は望んで受け入れた「女」という理不尽で不自由な在り方に向き合い、ゴハという社会的な女から、テナーという個人に再生すること。
 暴力と性的な虐待を受け、肉体的に大きく損なわれた少女が、内なる本来の全き姿を取り戻すこと。三者それぞれの喪失と再生の物語だ。全体の生と死という極めて抽象的な物語から、個人の物語への回帰でもあった。
 もっと、深い読み方もできるんだろうけど、ひとまずはここまで。次巻からは、本当の初読なので楽しみ。

2025年3月5日水曜日

0550 さいはての島へ ゲド戦記 3

少年文庫版
書 名 「さいはての島へ ゲド戦記 3」
原 題 「The Farthest Shore」1972年
著 者 アーシュラ・K.ル=グウィン
翻訳者 清水 真砂子
出 版 岩波書店
 【岩波少年文庫版】
少年文庫版  368ページ 2009年2月発行
ISBN-10 4001145901
ISBN-13 978-4001145908
読書メーター https://bookmeter.com/reviews/126459454
 【ハードカバー版(初版)】
単行本 319ページ 1977年8月発行
初 読 1982年〜83年頃?
ISBN-10 4001106868

ISBN-13 978-4001106862
単行本初版
 エレス・アクベの二つに割れた腕輪が一つになって、ハブナーに還ってきてから、17、8年。ゲドは5年前に大賢人に選ばれて、いまはロークに腰を落ち着けていた。
 作中のゲドの口調がすっかり、大賢人というよりはむしろハイジのおじいさん調なのでイメージが混乱するが、この時点でゲドは立派な中年もしくは壮年。『こわれた腕輪』では若者よばわりだったので、今は40代半ばだろうか。なにしろ、次の『帰還』では遅すぎた春もくるのだし・・・(っと、それはさておき。)

【ほぼ初読】
 私はこの本は多分、三十年ぶりくらいの再読で、初読の印象はほぼ、ゲドが若者アレンと最果てにいって、力尽きて戻ってきたんだよな、程度の記憶しか残っていなかった。なので、ほぼ初読と同じ感じで楽しめた。

ジブリアニメ化の際に
再販されたバージョン
【ジブリ『ゲド戦記』】

 スタジオジブリ宮崎吾郎監督の『ゲド戦記』(2006年)の原作となったことでこの本を知った人も多いだろうし、それよりずっと以前からこのシリーズを大切にしていた人達も多かったと思う。私も後者ではあるが、ジブリアニメ化の際には盛大に期待を膨らませて公開を待ち、なにか変なものでも喰った気分で映画館を後にした一人でもある。あの『ゲド戦記』は惨憺たる評判だったと記憶している。棒読みとか酷評されていた気もするが、私はテルー役の手島葵さんの声は好きで、映画の役柄にも合っていたと思っている。ちょっと掠れた感じの唄声も好みで、その後、CDを購入したりもした。総じて、歌と音楽は良かった。それに、今改めてこうして原作となったこの本を読んでみると、それなりに原作に忠実にやろうとはしていたのかな、とは感じた。この原作であの父親と比較されるんでは、吾郎ちゃんも分が悪いよな、とは当時も思った。ただ抽象度の高い死の世界を正面から描かず、あくまでも現実世界の騒乱として描いたことや、テルーの顔の火傷をきちんと取り扱わなかったことはダメだと思った。いきなりのアレンの父王殺しも物語としては破綻していたと思う。(作品を超えたメッセージ性は大いにあったけどねえ。)
 なお、右のソフトカバー版の素敵な表紙のバージョンは、映画化に併せて再販されたもの。私はこの装丁のセンスは好きだ。

【そして、物語の感想】
 で、本の物語の方に戻るが、エレス・アクベの腕輪が戻り、アーキペラゴ(多島海)には平和が訪れ、ロークの賢者たちも、ゆるゆるとした時の流れに身を委ねていた。ところが、エンラッドの若き王子アレンが、ロークの賢人団に凶報をもたらす。世界の各地で、魔法が失われている。ゲドはいったんは取り戻せたと思った世界の安定と平和が失われつつあることを察知し、世界の均衡を取り戻すために、アレンを供に〈はてみ丸〉で船出する。これが冒頭。

①アレンがちょっと辛い
 ゲドとアレンはあの島、この島と航海を重ねていく。その旅は行き当たりばったりだし、正直に白状すれば、感情が移ろいやすく、フラフラふわふわしている若造なアレンにはかなりイライラした。やっぱり王子様には賢くあってほしいし、真っ当に頑張って欲しいんだよな、とは、最近ラノベの読みすぎか。いやたぶん、アレンはちゃんと頑張っていた。たぶん年相応以上には。ちょっと華がなかったけど。

②死の世界のイメージが
 これまでのゲド戦記全体が生と死の連環を取り扱っており、この「さいはての島へ」では生の何たるかや死の不可避性が大きなテーマになっている。しかし、こうして今読み返してみると、ここで語られる「生」も「死」も非常に観念的で、イメージは硬直化している。とくに「死」や「死者の国」の描かれ方が絶望的に暗く、なんの救いもないのに驚く。そりゃあ、死後の世界があんなんでは、だれも死にたくなくなるだろう。いったい、この死のイメージはどこから来ているのだろう。ル=グウィンは、死というものに何を思っていたのだろうか?
 この作品の中では、誰もが「永遠の生」を求め、不死性を獲得することで「死の恐怖」からのがれようとし、その結果、人々は大切な「生」の意味そのものを失っていくのだが、作品に通底する生死感、というよりは生と死を包含する世界観は非常に断片的で、しかも救いがない。死者の国が狭く、奥行きがない。死んだ人がすべてそこに行き着く世界であるなら、どれだけ観念的であったとしても、すくなくとも現世と同じくらいか、またそれ以上の奥行きが必要なのではないのか?と思うのだ。輪廻転生のイメージが、きちんとル=グウィンの中で成熟していないような気がする。

③人はそんなに死にたくないものだろうか
「永遠に生きたいと願わないものがどこにいる?」
 とクモは問うのだが、しかし人は本当に、「永遠に生きたい」と一様に願うものだろうか。
 永遠の生に対する渇望や死に対する恐れ、といった、この本の中で登場人物が共通して抱く想念に、いまいちリアリティが感じられない。(ファンタジーにリアリティは必要なのか?とかはひとまず置いておく。)
 「死にたくない」という願望が、貴賤を問わず、魔法使いから市井まで、人々に通底する世界に共通する欲望として描かれているが、あまりにも単純化されていて、なんというか、納得がいかないのだ。市井の無学な人々はともかく、知識を極めたはずのロークの賢人団があれでいいのだろうか?
 死に対する恐怖の克服とは、文字どおり「死」を恐怖の対象としないことであり、「死」をなくすことではないんじゃないかと思うのだ。なぜなら、「死」がなくなったなら、恐怖の対象が目の前にないから恐れずに済むだけで、本当は「死」が恐ろしいままであるから。
 賢者といわれるような人々までが、「永遠に生きること」に取りつかれたようになることへの違和感がぬぐえないし、ましてや、「悪役」クモの動機の浅さは噴飯もので、これで世界が壊れるのでは、あまりにも世界そのものが脆弱ではないか、と思えてしまう。

 たとえば現代医療においては、病気ではない「老衰死」が人間の生の最終到達地点になるだろうし、移植医療は「理不尽な死」を克服しようとする取り組みであって、「死」そのものをなくすためのものではないだろう。「死」において、人が耐え難いと思うのは、「理不尽さ」であって万人に等しく訪れる公平な「死」じゃないんではないだろうか? そしてその先にはさらに、「死の理不尽さも受け入れる」という境地もありそうな気がするが。

④この世界は一神教
 また、作品に通底する一神教的な視点に対する違和感もあった。
 クモが放つ、
「だが、おれは人間だ。自然よりもすぐれ、自然を支配する人間だ。」という言葉は、いかにも西洋的である。

 死の国においても、「苦しみの山脈」に通った一本道を通ることは死者には「禁じられている」という。つまり、死者の国も、生者の国も超越して、命じることのできる絶対者がいることが前提なのだ。命じているのは誰なのか。

⑤西洋的なものと土着的なもの、その間で定まらない著者?
 こういった世界観は、私の(そして多分、多くの日本人の)世界観とは違っている。アーキペラゴの人々はネイティブアメリカンがモデルのようで、白人はカルガド帝国など一部にしかおらず、戦闘的で侵略的な人々として描かれている。しかし、非白人の精神性がきちんと描かれているかというと、そこまでは出来ておらず、たとえば、死後の世界とか輪廻転生的な東洋の発想を取り入れようとする一方で、強烈な一神教的、父権的な価値観から逃れきれていない息苦しさを感じる、というのはうがちすぎか。

【まとめ】
 私がゲド戦記の世界観に感じる硬直感について思うことは、この本はハイ・ファンタジーであるとともに、ある種の思想書、しかもまだ成熟していない思想書だということ。この本についての考察を進めるのであれば、ゲド戦記やル=グウィンの思想を考察した評論なんかも読んでみたほうが良いと思うし、たぶんもっと調べていけば、ここまで書いた感想も、また違ったものになってくるだろうとは思うのだが、そこまで突き詰めるだけの意欲と集中した時間は今はもてないかな。

 しかし、そうはいっても、この本が若年の私に影響を与えた大切な本であることには変わりはない。むしろ、若いころにはこんなことをぐだぐだと考えずに、ゲドとアレンの冒険にのめり込めたと思うので、やっぱり本には読み時というものがあるし、この本はジュブナイル小説なんだろうな、と思う次第。

 やっぱり、これを読んだ十代そこそこの自分に感想を聞いてみたいものだ。

2025年3月2日日曜日

0549 空を駆けるジェーン

書 名 「空を駆けるジェーン」
原 題 「JANE ON HER OWN」1999年
著 者 アーシュラ・K. ル・グウィン
絵   D・S・シンドラ- 
翻訳者 村上 春樹    
出 版 講談社 2001年9月
単行本 54ページ
初 読 2025年03月02日
ISBN-10 406210895X
ISBN-13 978-4062108959
読書メーター https://bookmeter.com/reviews/126424231

 「どうして私達は翼をもっているんだろう?」小さなジェーンの疑問。それは空を飛ぶため! なんて簡単でシンプルな答え!
 翼は持っていないけど、彼らの仲間のアレキサンダーは、どうやらお父さん似ののんびりぐうたらで寝るのが大好きな成猫に育ったもよう。

 ジェーンは元気いっぱいな若猫そのもので、我が家の猫たちにも、「あと2年位したら、置物みたいになってくれるかしら」と遠い目になってたことを思い出す(笑)。さすがの運動量のうちのアビシニアンも、7歳になってさすがに置物に近くなってきたところ。やれやれ。(アビシニアンは、「イエネコ」というよりは小型のネコ科肉食獣って感じの、かなりハゲシイ猫なのです。)

 閑話休題。

 さて、前作で、私はきっとアレキサンダーとジェーンはカップルになるんだろうと思ったのだけど、大間違いでした。ジェーンはもっともっと、自立した(自立したい?)女でした。
 安全だけれど変化の少ない田舎を飛び出し、都会に単身飛び込む、現代っ子。もちろん、悪い男にも騙されたし、危険な目にも遭いましたが。
 そこで頼ったのは、実のお母さん。
 なんだかニンゲンも身につまされる話でした。なにはともあれ、都会の女ジェーンは、母と同居しながら、田舎とも行き来をし、アレキサンダーとも程良い距離を保ちながら、自由に暮らした模様。
 それにしても、翼の生えた黒猫じゃあ、悪魔狩りに遭わなくてよかった・・・と思います。

 余談だけど、なぜこの本だけ、サイズが小さいんだろう・・・。本棚に収まりが悪いじゃないか。

0548  素晴らしいアレキサンダーと、空飛び猫たち

書 名 「素晴らしいアレキサンダーと、空飛び猫たち」
原 題 「WONDERFUL ALEXANDER AND THE CATWINGS」1994年
著 者 アーシュラ・K. ル・グウィン
絵   D・S・シンドラ- 
翻訳者 村上 春樹    
出 版 講談社 1997年6月
単行本 60ページ
初 読 2025年03月02日
ISBN-10 4062081504
ISBN-13 978-4062081504
読書メーター 
https://bookmeter.com/reviews/126422643

 なんと、イラストがオールカラーです。やった〜!
 空飛び猫の三冊目。主人公のアレキサンダーは、羽は生えてない普通の猫だった。お母さんは明るい茶色の長毛種(ペルシャのハーフ)で、アレキサンダーもふさふさのしっぽを受け継いでいる。お父さん猫はいつも寝ている(笑)。エネルギー過多で妹たちにもウザがられているようだけど、本人は無自覚。(こういう子っているよね。) ついに家族の家を飛び出して冒険に出てしまったアレキサンダーだが。
 道路でトラックに挽かれかけ、犬に追いかけられて逃げ、やみくもに逃げて木の梢に登って降りられなくなり!定番コースです。そこに助けにきてくれたのが黒猫ジェーン。子猫のときの恐怖体験のトラウマで失語症状態だったジェーンだったが、アレキサンダーはジェーンに怖かったことを話すように促し、彼女の回復を助ける。いずれはラブラブなカップルになる未来を感じさせたお話でした。