2025年4月20日日曜日

介護日記的な・・・その12 久しぶりの投稿である。

 さて、このネタでの前回の投稿が去年の8月なので、久しぶりの投稿になる。
 この間、母は超低空飛行ながらまだ滑空を続けており、胴体着陸には至っていない。
昨年11月からこっち、住居のマンションの外壁塗装工事があり、足場が組まれたり、シートがかけられたり、窓の外(高層階)を職人さんが歩いていたり、といろいろあったが、幸いにして足場を組んでの外壁補修も三回目なので、なんとなく馴染みがあるのか、大事には至らず、すごすことができた。これに関しては、本当に、無事に乗り切れてよかった。

 母は、だんだんやらないことが増えてきた。
 近所に買い物に出なくなったのは、昨年夏。 
 掃除機をかけなくなった。
 洗濯機を回さなくなった。

 たまに、台所のビニール床の拭き掃除はしているようだ。
 幸い、歯磨きとか洗顔はちゃんとしている。

 衣類は、以前は手洗いしているのかな?と思った時もあったが、今はまず、洗濯していない。とはいえ、代謝も落ちているのか、汗もかかず、衣類が汚れることもあまりなく、不潔になることはないようだ。
 当初は、毎日とはいわずとも、下着類を洗濯している気配があったのだが、この前、洗濯機の前で、洗剤が判らなくなっているところに遭遇。実はこれまでの洗濯も、洗剤は入れて無かったのかも? ここ最近は週末に私が洗濯機を回していた。しかし、洗濯機の中の下着が明らかに少ない。

 だいたい、寝間着に着替えるときに脱いでも、翌日に同じものを着ているのだろう。

 本人に認知の自覚はまるでない上に、ADLは完全に自立しているので、着替えを手伝うこともできず、下着類のチェックがしづらい。

 そこで、先週から、デイサービスの入浴の際に、下着を新しいものにすり替えてもらう作戦に出た。

 先週はとりあえず、ショーツと肌着に挑戦。
 問題なく衣類交換ができたので、今週からは、靴下やブラなども追加した。

 で、問題になるのが、週末の洗濯である。

 もちろん、一週間分、私が洗濯するのだが、まず、洗濯ものハンガーが足りない。ピンチも足りない。(昔は潤沢にあったものも、だんだんに数を減らし、本人が一人暮らしになってからは、ほとんどピンチハンガー(しかもぼろ)一個だけで足りていた。だが、一週間分まとめてとなるとそうはいかない。とりあえず、ダイソーとAmazonで洗濯用品を調達。
 そして、着替えが足りない。新しい下着を買っても、本人に多分「自分のもの」だと認知してもらえないので、家の中のストックから、状態の良いものを探し、数を揃えて名前付けをした。

 洗濯に関しては、干したそばから取り込まれる、というのを数回。本人に任せるとどこかにしまわれてしまうので、母の目を掠めて取り込みして、デイサービス用にパッキングして、母の目に付かないところに隠し、デイのお迎えの際にさりげなく送迎のスタッフにもって行ってもらうことにした。

 なにしろ、本人は、今だに自分がデイサービスに通っていることも、そこで毎日お風呂に入れてもらってることも覚えていないのだ。下着の入った袋など、見つけようものなら、「あらこれ何かしら」と、タンスにしまわれてしまうか、押し入れのどこかに押し込まれるか。

 それにしても、ここのところ落ち着いていた週末の往来が、俄に大変になってしまった。
 来週は加えて、通院もある。頑張らねばならぬ。

2025年4月19日土曜日

発表順に並べ直して再掲 ル=グウィン作品一覧(邦訳のみ)

ル=グウィン 作品一覧(邦訳)年代順


1966 ロカノンの世界  サンリオSF文庫/ハヤカワ文庫(別訳)★
1966 辺境の惑星       サンリオSF文庫/ハヤカワ文庫★
1967 幻影の都市    サンリオSF文庫
/ハヤカワ文庫
1968 影との戦い A Wizard of Earthsea
1969 闇の左手 ハヤカワ文庫(新版)★
1971 こわれた腕環 The Tombs of Atuan
1971 天のろくろ サンリオSF文庫
/ブッキング(改訂復刊)
1972 さいはての島へ The Farthest Shore
1974 所有せざる人々 ハヤカワ文庫★
1975 風の十二方位 ハヤカワ文庫
-主に初期作品集
1976 世界の合言葉は森/ アオサギの眼 (1978)  ハヤカワ文庫
1976 どこからも彼方にある国 あかね書房★
1976 オルシニア国物語 ハヤカワ文庫
1979 マラフレナ 上・下 サンリオSF文庫
1979 夜の言葉‐ファンタジー・SF論  岩波同時代ライブラリー
/(改訂)岩波現代文庫
1980 始まりの場所  早川書房「海外SFノヴェルズ」
1982 コンパス・ローズ  サンリオSF文庫/ちくま文庫
 
1985 オールウェイズ・カミング・ホーム上・下 平凡社
1988 空飛び猫
1989 帰ってきた空飛び猫
1989 世界の果てでダンス   白水社(新装版刊)★
1990 帰還 - 最後の書 Tehanu: The Last Book of Earthsea
1994 素晴らしいアレキサンダーと空飛び猫たち
1994 内海の漁師 ハヤカワ文庫
1995 赦しへの四つの道 早川書房「新ハヤカワ・SF・シリーズ」
1998 文体の舵をとれ ル=グウィンの小説教室  フィルムアート社★
1999 空を駆けるジェーン - 空飛び猫物語
2000 言の葉の樹  ハヤカワ文庫★
2001 アースシーの風 The Other Wind
2001 ゲド戦記外伝(ドラゴンフライ) Tales from Earthsea
2002 世界の誕生日  ハヤカワ文庫(全8篇)★
2003 なつかしく謎めいて  河出書房新社(連作短編)
2004 ギフト ★
2004 ファンタジーと言葉   岩波書店★
2006 ヴォイス★
2007 パワー★
2008 ラウィーニア 河出書房新社 のち文庫★
2011 いまファンタジーにできること    河出書房新社★
2012 現想と幻実 ル=グウィン短篇選集  青土社(全11篇)★
2017 暇なんかないわ 大切なことを考えるのに忙しくて  河出書房新社★
2022 私と言葉たち  河出書房新社★


2025年4月18日金曜日

アーシュラ・K・ル=グウィン  略歴と著作(邦訳・代表作のみ)



アーシュラ・クローバー・ル=グウィン(Ursula Kroeber Le Guin)  1929年10月21日生 2018年1月22日没

・アメリカの小説家でSF・ファンタジー作家。
・1929年10月21日、カリフォルニア州バークレー生まれ。
・父親はドイツ系の文化人類学者のアルフレッド・L・クローバーで、1901年にコロンビア大学でアメリカ合衆国初の人類学の博士号を取得し、カリフォルニア大学バークレー校でアメリカで2番目の人類学科を創設した。
・母親は、夫が研究で係わったアメリカ最後の生粋のインディアン「イシ」の伝記を執筆した作家で文化人類学者のシオドーラ・クラコー・ブラウン。
・ル=グウィンが生まれた日は、カトリックの聖女である聖ウルスラ(Saint Ursula)の祝日で、彼女は聖ウルスラに因んで、アーシュラ(Ursula)と名づけられた。

・子供時代は、バークレーで育つ。大学はラドクリフ・カレッジ(ハーバードと提携関係にあった名門女子大学。のちにハーバードと合併)に進学、フランスとイタリアのルネサンス期文学を専攻し、コロンビア大学で修士号を取得。1953年にフルブライト奨学生としてパリに留学し、フランス人の歴史学者チャールズ・A・ル=グウィン(Charles Le Guin)と結婚。帰国後に夫は州立ポートランド大学の教授となり、自身はマーサー大学、アイダホ大学などでフランス語を教える。1957年長女を出産、その後オレゴン州ポートランドに住む。1959年次女、1964年に長男出産。

・1958年頃から雑誌の書評欄や、現代の架空の国オルシニアを舞台にした短編を書き始め、1961年にその一つ「音楽によせて」(An Die Musik)を『ウェスタン・ヒューマニティズ・レビュー』誌に発表し、初めての商業誌掲載となった。
・1962年に『ファンタスティック』誌9月号に短編「四月は巴里」(April in Paris)が掲載されて本格的に作家デビュー、定期的に作品が雑誌に掲載されるようになる。
・その後『ロカノンの世界』『辺境の惑星』「幻影都市』の3長編を出版したが、注目されなかった。
・1968年に長編『影との戦い』を出版。
・1969年発表の『闇の左手』でヒューゴー賞、ネビュラ賞を同時受賞し、広く知られるようになった。
・2018年1月22日、ポートランドの自宅で死去。

作品一覧(邦訳)
《ハイニッシュ・サイクル》Hainish Cycle
・ロカノンの世界 (1966年)  サンリオSF文庫
             ハヤカワ文庫(別訳)
・辺境の惑星   (1966年)    サンリオSF文庫、ハヤカワ文庫
・幻影の都市  (1967年)        サンリオSF文庫、ハヤカワ文庫
・闇の左手  (1969年)         ハヤカワ文庫(新版)
・所有せざる人々  (1974年)    ハヤカワ文庫
・世界の合言葉は森  (1976年)   ハヤカワ文庫
     アオサギの眼  (1978年) を併録
・言の葉の樹   (2000年)  ハヤカワ文庫

《アースシー》(ゲド戦記) 岩波書店 
・影との戦い A Wizard of Earthsea (1968年)
・こわれた腕環 The Tombs of Atuan (1971年)
・さいはての島へ The Farthest Shore (1972年)
・帰還 - 最後の書 Tehanu: The Last Book of Earthsea (1990年)
・アースシーの風 The Other Wind (2001年)
・ゲド戦記外伝(ドラゴンフライ) Tales from Earthsea (2001年) - 短編集

 ・どこからも彼方にある国(1976年) あかね書房

《オルシニア》  架空の国を舞台にした非SF作品
・オルシニア国物語   (1976年) ハヤカワ文庫
・マラフレナ   (1979年)                サンリオSF文庫(上・下)

《空飛び猫》(絵本)
・空飛び猫  (1988年)
・帰ってきた空飛び猫 (1989年)
・素晴らしいアレキサンダーと空飛び猫たち  (1994年)
・空を駆けるジェーン - 空飛び猫物語  (1999年)

《西のはての年代記》 
・ギフト Gifts (2004年)
・ヴォイス Voices (2006年)
・パワー Powers (2007年) 

・天のろくろ (1971年) - サンリオSF文庫、ブッキング(改訂復刊)
・始まりの場所   (1980年) - 早川書房「海外SFノヴェルズ」
・オールウェイズ・カミング・ホーム   (1985年) - 平凡社(上・下)

《中短編集》
・ラウィーニア  (2008年)    河出書房新社 のち文庫
・風の十二方位   (1975年)  ハヤカワ文庫-主に初期作品集
・コンパス・ローズ   (1982年)  サンリオSF文庫、ちくま文庫 
・内海の漁師   (1994年)     ハヤカワ文庫(一部が《ハイニッシュ・サイクル》)
・赦しへの四つの道   (1995年)  早川書房「新ハヤカワ・SF・シリーズ」
・なつかしく謎めいて  (2003年)  河出書房新社(連作短編)
・世界の誕生日 (2002年)     ハヤカワ文庫(全8篇)
・現想と幻実 ル=グウィン短篇選集   (2012年)    青土社(全11篇)

《エッセイ等》
・夜の言葉‐ファンタジー・SF論   (1979年)  岩波同時代ライブラリー、(改訂)岩波現代文庫
・世界の果てでダンス  (1989年) - 白水社(新装版刊)
・文体の舵をとれ ル=グウィンの小説教室   (1998年)  フィルムアート社
・ファンタジーと言葉   (2004年)   岩波書店
いまファンタジーにできること   (2011年)   河出書房新社、河出文庫
・暇なんかないわ 大切なことを考えるのに忙しくて - 河出書房新社
・私と言葉たち (2022年) - 河出書房新社

2025年4月13日日曜日

0553 ドラゴンフライ アースシーの五つの物語 もしくは ゲド戦記外伝

少年文庫版
書 名 「ドラゴンフライ アースシーの五つの物語 ゲド戦記5」
原 題 「TALES FROM EARTHSEA」2001年
著 者 アーシュラ・K.ル=グウィン    
翻訳者 清水 真砂子    
出 版 岩波書店
初 読 2025年3月22日
初版のハードカバー
読書メーター 
 【岩波少年文庫版】
書 名 「ドラゴンフライ アースシーの五つの物語  ゲド戦記 5 」
少年文庫版  560ページ 2009年3月発行
ISBN-10 4001145928
ISBN-13 978-4001145922


 【ハードカバー版(初版)】
書 名  「ゲド戦記外伝」
単行本 456ページ 2004年5月発行
ISBN-10 4001155729
ISBN-13 978-4001155723

改編後のハードカバー
 【ハードカバー版(改編後)】
書 名  「ドラゴンフライ アースシーの五つの物語  ゲド戦記 Ⅴ」
単行本 464ページ 2011年4月発行
ISBN-10 400115644X
ISBN-13 978-4001156447


 『帰還』と『アースシーの風』の間を埋める『ドラゴンフライ』または『トンボ』(版によって呼び名が違う。トンボをドラゴンフライに改めるくらいなら、オジオンもいっそのことオギオンに改めれば良かったのでは?!)またロークの学院の起源や、若きオジオンとその敬愛する師匠の物語など。
 なぜ、『アースシーの風』の前にこの本を訳出しなかったのだろう。
刊行順にこちらを出版するのでも良かったとおもうのだけど。
ジブリアニメ公開に併せて
再版されたバージョン

 見ての通り、この本は、ハードカバーの『ゲド戦記外伝』→ソフトカバー版『ゲド戦記外伝』(ジブリアニメ化の際に発行されたもの。)、タイトルを改めたハードカバー本『トラゴンフライ』そして物語コレクション版と、岩波少年文庫版の5種類が発行されている。
 後からシリーズの残りを集めようと思って探した時に、おおいに混乱した。ちなみに私が所有しているのは、函入りハードカバー各初版と、岩波少年文庫版と、ソフトカバー版の3種類。なぜかそうなった。
 今年6月に、ル=グウィンが死去してから発行されたゲド最晩年の作品を含む短編と、ル=グウィンの講演録を翻訳した『ゲド戦記を“生き直す”』などが収録されたシリーズ7冊目(多分今度こそ最終巻)が岩波から発行される。ここで函入りハードカバー版を発行しないのは、50年来の読者への裏切りというものだろう!とこれまた若干腹が立つものの、発行自体はとても楽しみにしている。もちろん。
 さて、この別冊改め『ドラゴンフライ』は、短編5作品と著者によるアースシー解説からなる。『カワウソ』はローク学院のはじまりの物語。『ダークローズとダイヤモンド』と『湿原で』は男女の愛に関する物語。『地の骨』は若いオジオンとその師匠の話。『トンボ』改め『ドラゴンフライ』は、例の!アイリアンのお話です。以下感想。

カワウソ
 通り名をカワウソまたはアジサシと名乗った心優しい魔法使いは、様々な曲折を経て、初代の〈守りの長〉となる。アーキペラゴの暗黒時代に灯を点した、ロークの学院草創期の物語。
 ロークの学院の基礎を作ったのは、実は、〈手〉と呼ばれる草の根抵抗組織の女達だった。(レジスタンス、と書いちゃうと、ちょっと時代的に違う感じがする。) 大きな魔力を持ちながら、正しい教育を受ける機会の無かったまじない師のカワウソは、奴隷に落とされたりしながらも正しい魔法と公平と自由を求めて、古来のそれが残っているという島を探しつづけ、ついにその島に辿り着く。そしてその地で愛を得る。魔法が男だけのものになる前の時代の物語でもある。
 意外なローク学院の始まりについては、ちょっと後付け感も感じないではないけど、カワウソの素朴で正直で控えめな人柄は、『アースシーの風』のハンノキにも共通する温かみがある。女性も魔法使いになり、教師になり、長になれていた初期のロークから、どのようにして女性が疎外されていったのか、そこはとても気になる。
 あと、一つだけ言いたい。「タフなヤツだな。」という台詞は、めちゃくそ浮いてるぞ!

ダークローズとダイヤモンド 
 ダイヤモンドという通り名の青年が、真に自分の魂が求める道に辿り付くまでのお話。ダイヤモンドは“力”のある若者だったが、それが発揮されるのは音楽の道だった。詩がロークの“高尚な”学問に含まれ、歌が含まれなかったのは、学院の始祖たる魔法使いの中に歌を得意とするものがいなかっただけだと『カワウソ』を読んだものなら気づく。それはさておき、ダイヤモンドはロークに行く道を選ばす、愛するものと供にいること、そして歌うことを選んだ。

地 の 骨 
 師匠には「だんまり」と呼ばれた寡黙な少年は、師匠の元で魔法を学び、ゴントで独り立ちした。大地の太古の魔法を知る師匠は、この島に大きな災害が迫っていることを知り、弟子とともに地殻変動に立ち向かう。沈黙のオジオンとその師匠のセレス、さらにその師匠の物語。このシリーズを通じて、オジオンが一番素敵だし、大賢人にふさわしいと思うのは、きっと私だけじゃない。

湿 原 で 
 ある島に現れたまじない師の男は、動物と言葉をかわし、病気を癒やす力を持っていた。疲れはてて一夜の宿を求め、酪農農家の寡婦の家に寄宿することになるが。穏やかで寡黙な男に引かれるおかみさん、男を捜して現れたゲドが語る、男の物語。
 正直、ゲドの語る男のこれまでと、島に現れた男の性格に落差がありすぎて、もうちょっと男の気づきとか改心のいきさつを語ってくれないと、別人のように思える。

ドラゴンフライ(まはたトンボ)
 なんで〈トンボ〉を〈ドラゴンフライ〉に直したかなあ。トンボのままではいけなかったのか。アジサシや、カワウソや、タカも素朴な日本語として意味の通る名前にしたのに、〈トンボ〉をあえて日本人には馴染みのない〈ドラゴンフライ〉にしたのはどうしてだろう。訳者の清水さんにとっては、トンボがどうにも違和感があったらしいのだけど。確かに竜が翔ぶ話なので、ドラゴンフライは本質を突いているんだけど、偉大で巨大な生き物である竜が、人であったときには小さな空飛ぶ昆虫の名前を名乗っている、というギャップも、面白いと思う。
 それはともかく、『アースシーの風』を読むと、突然でてくるアイリアンという女性の名前。そのお話である。最近わたしはKindle版と紙本を併用で読むことが多いのだが、Kindle版は岩波少年文庫版が底本なので「ドラゴンフライ」 紙本(ハードカバー旧版とソフトカバ—版)は「トンボ」。・・・・やっぱりトンボの方が好みだ。
 ゲドの盟友であったトリオンは、ゲドを探しに死者の国に赴いたが、戻ってくることが出来なくなった。しかし、皆がトリオンが死んだと思ったとき、生に対する執着と野心だけが生ける亡者として肉体に戻ってきた。そのトリオンとアイリアンの闘い・・・と思いきや圧倒的物量と熱量の差で、瞬殺。
 にしても、アズバーと守りの長はともかくとして、ロークの賢人団がなかなかのぼんくら揃いに見えてしまうのが残念なところ。

アースシー解説
 ル=グウィンによる、この世界の地理、民族、文化、言語、文字、歴史などの概略解説。
 ル=グウィンはこの世界の言語(真正神聖文字やハード語の文字)を漢字のような表意文字だとしているようだ。解説を読むに、一単語が一字に相当しているよう。
 ネイティブ・アメリカンをモデルにしているという、アーキペラゴの人々に漢字的な表意文字をあて、白人のカルカド人にインカ帝国風の紐を結ぶ伝達の方法をあてるなど、(主には)白人の意識を揺さぶるしくみが仕掛けられてるなあ。
 歌と歌謡は、アーキペラゴの最初の起源を証しているというのに、『ダイヤモンド』で描かれているように、学問大系の中では、歌による伝承の「詩」の部分に重点が置かれて、「歌」の部分はきちんと位置づけられていないんだな。まことの言葉の仕組みとしては、言葉の意味はわからなくても、音律だけで魔法を発動させることも出来そうな気がするんだけど。(そうなると、乾石智子のファンタジー世界っぽいかも。)
 子供は皆教育のようで、6,7歳頃には、『エアの創造』を語り聴かされ、暗唱できるようになる。常識ある大人であれば、だれも『エアの創造』を子供に語ることができる。子供たちは学校でハード語疑似神聖文字(神聖文字に由来し、ハード語を表記するために生まれたた、魔法の力を持たない文字。数百から数千に及ぶ。)を学ぶ。ル=グウィンは、「物語」に丁度良い、閉じて、均質化されていて、文化と富に満ちた世界を創造したようだ。
 ローク学園から女性が排除されたのには、初代大賢人ハルケルの影響が強かったよう。しかし、ロークの設立に女性が深く関わった点については、きちんと知識として継承されればよかったのにね。魔女達のあいだに「魔女の契り」や魔女婚(同性婚)の風習があったのに、魔法使いの間にそれがないのも面白い。

 さて、この巻で既刊の『ゲド戦記』はついに読了。あとは『火明かり』の刊行を待つばかりである。

2025年4月2日水曜日

2025年3月の読書メーター

 昨年末からファンタジー祭りに突入し、乾石智子を読んでいる途中で原点を確認したくなり、ゲド戦記を読み始めた。初期の三部作は子供の頃に、『帰還』は発行後すぐに読んでいたが、その後の2冊は未読。それに、『西の果ての年代記』は一冊目の『ギフト』しか読んでいない。けっこうワクワクと読み始めたのだが。
 なにしろ、ゲド戦記の周辺が五月蠅すぎる。
 つい、論文やら評論やらも読んでしまって、いっそう心乱れる。これ、もう、ル=グウィンのエッセイやら自伝やらまで読まないと収まらない流れ。それと、フェミニズムについても、自分の理解が極めて曖昧なので、簡単に押さえて置く必要がある。やれやれである。

3月の読書メーター
読んだ本の数:15
読んだページ数:3324
ナイス数:759

「ゲド戦記」の世界 (岩波ブックレット NO. 683)「ゲド戦記」の世界 (岩波ブックレット NO. 683)感想
ゲド戦記5と6が入れ替わる前の、清水真砂子さんの講演録を編集したもの。清水さんが誠実で堅実な翻訳家であり、研究者であり、また教育者であることが伝わってくる。真のことばたり得ない私達の言葉は、それぞれの生活と体験に依拠するがゆえに、同じ言葉が同じ意味を持つとは限らない。その上で、言葉の一つ一つの意味を吟味し、著者の言わんとすることを損なわないように細心の注意を払って翻訳する姿勢に尊敬を覚える。その一方で、「私達は誤読する権利がありますから、読みたいように読んでいる」という一節が痛快。自身の創作を説明するという陥穽にル=グウィンでさえはまってしまったことについての、清水さん気づきは深いというかさすがというか。読んで自分も大いに反省させられる。そのル=グウィンの講演録は、ついに5月末刊行の『火明かり』に収録されるとのことなので、それも楽しみではある。 「あなたの作品は、あなたがここに書いているより、はるかにはるかに豊かだと思う」と書き送られたル=グウィンが、どのように応えたのか、ちょっと興味を覚える。
読了日:03月23日 著者:清水 真砂子









アースシーの風: ゲド戦記 6 (岩波少年文庫 593 ゲド戦記 6)アースシーの風: ゲド戦記 6 (岩波少年文庫 593 ゲド戦記 6)感想
最初の三部作の18年後に『帰還』その10年後に本作。三部作で十分に描かれなかった死後の世界についての再構築を試みている。前作から時間をおいてこの本だけ読めば納得感を得られたかもしれないが、1冊目から通読するといろいろと無理だった。なによりも、解説的な記述が多い。セセラクとレバンネンが少しづつ距離を縮めたりするところはなかなか良いし、ハンノキも素敵な人物なのだけど。なによりテハヌーの旅立ちには涙するのではあるけど。石垣を壊す描写は、ベルリンの壁崩壊を思い出させられた。物語全体が、現代史の引き写しともとれる。
読了日:03月17日 著者:アーシュラ・K. ル=グウィン

署長シンドローム (講談社文庫 こ 25-55)署長シンドローム (講談社文庫 こ 25-55)感想
Kindle版とAudibleで読了済み。やっと文庫本化したので入手しました。感想はこっちに書いてあります。https://bookmeter.com/reviews/119214165
読了日:03月15日 著者:今野 敏






帰還: ゲド戦記 4 (岩波少年文庫 591 ゲド戦記 4)帰還: ゲド戦記 4 (岩波少年文庫 591 ゲド戦記 4)感想
壮大で抽象的だった前作までと違って、ついに地に足が付いた感じ。やっと物語が落ち着くべきところに落ち着いた。ゲドが特別な力を失った無力な男として、喪失に向き合い、再生すること。テナーが、一度は望んで受け入れた「女」という理不尽で不自由な在り方に向き合い、ゴハという社会的な女から、テナーという個人に再生すること。暴力と性的な虐待を受け、肉体的に大きく損なわれた少女が、本来の内なる全き姿を取り戻すこと。三者それぞれの喪失と再生の物語だった。全体の生と死という極めて抽象的な物語から、個人の物語への回帰でもあった。
読了日:03月09日 著者:アーシュラ・K. ル=グウィン

さいはての島へ: ゲド戦記 3 (岩波少年文庫 590 ゲド戦記 3)さいはての島へ: ゲド戦記 3 (岩波少年文庫 590 ゲド戦記 3)感想
3巻目。壮年に至りロークの大賢人となっているゲドのもとに、エンラッドの若き王子アレンが凶報をもたらす。世界の各地で魔法が失われている。ゲドは原因を探り、世界に均衡を取り戻すためにアレンを供に船出する。ジブリアニメ・宮崎吾郎監督の『ゲド戦記』の原作としてこの本を知った人も多いのでは。私も盛大に期待を膨らませて公開を待ち、なにか変なものでも喰った気分で映画館を後にした一人ではある。しかし、こうしてあらためてこの本を読んでみると、それなりに原作に忠実にやろうとはしていたのかな、とは思った。
読了日:03月04日 著者:アーシュラ・K. ル=グウィン

空を駆けるジェーン: 空飛び猫物語空を駆けるジェーン: 空飛び猫物語感想
前作で、アレキサンダーとカップルになると思い込んでいたジェーンですが、彼女は自立したい女だったようで。平和で退屈な田舎と、退屈な?アレキサンダーの元を去って、都会に飛び出します。悪い男に騙され、危険な目にもあい、訪れたのは、彼女を都会から逃がした生みの母。都会の生活が性に合っていたジェーンは、母と同居しながら、田舎の兄姉や彼氏とも程良い距離を保って自由な女として生きて行くことを選択したよう。なんと空飛び猫は、女性の自立の話だった。それにしても、黒い翼の生えた黒猫なんて、悪魔狩りに遭わなくて良かったと・・・
読了日:03月02日 著者:アーシュラ・K. ル=グウィン

素晴らしいアレキサンダーと、空飛び猫たち素晴らしいアレキサンダーと、空飛び猫たち感想
アレキサンダーは、羽は生えてない普通の猫。お母さんは明るい茶色の長毛種(ペルシャのハーフ)で、アレキサンダーもふさふさのしっぽを受け継いでいる。お父さんはいつも寝ている(笑)。エネルギー過多でつい家族の家を飛び出してしまったアレキサンダーの大冒険。道路でトラックに挽かれかけ、犬に追いかけられて逃げ、木の梢に登って降りられなくなり!定番コースです。そこに助けにきてくれたのが黒猫ジェーン。子猫のときのトラウマで失語症状態だったジェーンの回復を助け、いずれはラブラブなカップルになる未来を感じさせる。
読了日:03月02日 著者:アーシュラ・K. ル=グウィン

帰ってきた空飛び猫帰ってきた空飛び猫感想
書影がイマイチだな。Amazonか読メのどちらかに書影登録機能が欲しい。さて、空飛び猫続刊。田舎の農場で暮らしはじめた4匹の空飛び猫の兄妹たちですが、だんだんお母さん猫のことが気になり始めて。ジェームズとハリエットの2匹が生まれ故郷の都会の「ゴミ捨て場」にジェーン・タビーお母さんを探しに戻ったところ、なんと黒い空飛び猫(しかも子猫!)を発見。もちろん、彼らの弟(もしくは妹)でした。お母さんとも無事再会、妹もつれて、田舎の農場に戻ったのでした。羽を痛めたジェームズが大旅行が出来るまでに回復して良かった。
読了日:03月02日 著者:アーシュラ・K. ル・グウィン

軍人婿さんと大根嫁さん 2 (芳文社コミックス/FUZコミックス)軍人婿さんと大根嫁さん 2 (芳文社コミックス/FUZコミックス)感想
やっと紙本を入手したので、再読しました。誉さんが素敵ですねえ。もうすぐ、5巻が発売です。
読了日:03月20日 著者:コマkoma
軍人婿さんと大根嫁さん 1 (芳文社コミックス/FUZコミックス)軍人婿さんと大根嫁さん 1 (芳文社コミックス/FUZコミックス)感想
紙本を入手したので、再読しました。やっぱりいいのう。
読了日:03月20日 著者:コマkoma
読書メーター



獅子帝の宦官長II 遥かなる故郷【イラスト付き】【単行本書き下ろしSS付き】 (エクレアノベルス)獅子帝の宦官長II 遥かなる故郷【イラスト付き】【単行本書き下ろしSS付き】 (エクレアノベルス)感想
2024年に分冊版で読了済みながら、電子本(単行本)が出たので書き下ろしSS目当てでDLしました。かなーり嗜虐的な要素のある濃厚エロな作品ですが、イルハリムの清純さと一途さは何にも勝ります。また、皇帝陛下が男らしいったら。八方丸く収まったラストが本当に幸福です。それにしてもオマケのSSはっっ! もう、陛下のおのろけで胸がいっぱい。はじめから最後までノロケ。あーあ、幸せでようござんしたねっっ(笑) 二人の幸せのお裾分けを戴きました。ごちそうさまです。
読了日:03月04日 著者:ごいち

ある手芸中毒者の告白: ひそかな愉しみと不安 縫い欲にまみれたその日常
ある手芸中毒者の告白: ひそかな愉しみと不安 縫い欲にまみれたその日常感想
私も告白するけど、本を買いたい中毒でした。中身も確認しないで衝動買いしちゃった。いろいろと共感出来る部分はある。だけど、決定的に趣味が違った(笑)。わたしもいつかジャンパースカート作ろうと思って解いてあるウールの着物地とか、いつか編もうとおもっている毛糸とか、刺しかけの刺繍のテーブルクロスとか、パターンだけ溜まってるパッチワークとか・・・・。あああ。。。
読了日:03月16日 著者:グレゴリ青山

家が好きな人 (リュエルコミックス)家が好きな人 (リュエルコミックス)感想
温かで優しい筆致で、女性の一人暮らしのワンルームと、その空間でほっこりする時間。家が好きな人、というよりは「こういう家が好きな人」。とても温かだけど、絵にするとどこか非現実的で。だけどこういう本に癒やされるひとも沢山いるだろうなあ。うん。優しい色と線と丸い角で描かれた家の中を、現実のリアルな物に置き換えてみたときに、ここが素敵、と思えるかどうかはワカランです。デリカシーのない感想でゴメンよ。
読了日:03月16日 著者:井田 千秋

2025年3月30日日曜日

日々雑感・・・ファンタジーが読みたかっただけなのに


 昨年末から久しぶりにファンタジー作品を読み始めて、原点回帰、とか思って、ん十年ぶりにゲド戦記を読み始めた。私はただ、私のファンタジーの原点・・・指輪物語やゲド戦記に回帰したかっただけなんだよ。あと、ル=グウィンに関しては、まだ完読していない『西の果ての年代記』までは辿り着くことが当初の目的だった。
 だがしかし。
 ゲド戦記の周辺が賑やかすぎて、無視できない。また、作品そのものも、読んだ人間がざわめくのも無理はない程度には、良くも悪くも問題作だった。
 だから、これを読んだ他の人達はどう考えているのだろうか、とかつい気になって、書評のアレコレや、論文や評論にも手をだした。
 結果として,もう手遅れなのだが、純粋にゲド戦記の世界に遊んでいた昔の心持ちに戻れるものなら戻りたい。

 『帰還』も、『アースシーの風』も、絶対に受けつけない人もいるみたいだけど、私はそこまでの拒否感はない。それなりに完成度は高いし、面白い。だけど、そう、なんというか、解釈違いの映画化作品でも見たような気分も無いわけじゃない。ル=グウィンに対しては、彼女のいうところの「今」の作品を書くにしても、なぜゲド戦記の続編でなければならなかったのか、別作品で書いてくれればよかったのに、と、恨めしい気持ちは若干ある。

 『影との戦い』や『さいはての島へ』で出てくる例の石垣については、これまでは、自分なりに、三途の川のようなイメージで読んでいたので、石垣の向こう側があの世だと理解していた。

 だが、『アースシーの風』によって、そのイメージがよく判らなくなった。さらに、外伝(『ドラゴンフライ』)収録の『カワウソ』では死者が石垣のこちら側に居る。根本的な世界観がブレる。『アースシーの風』では死者と生者が力を合わせて石垣を壊す。そして石垣を越えて死者が解放されることが描写されるのだが、それではあの石垣は一体何を仕切っていたのだ?
 生死の世界の分かれ目なのか、西の果てのそのまた西に続く世界のつながりを仕切っていた魔法なのか。死者は石垣のどちら側に居るのか?

 ル=グウィンが十年、二十年の時を経て、アースシーに戻って、その世界を覗き、そこで見たものを作品に紡いだことで、それまでに読者が過去のル=グウィンの言葉をよすがに創り上げていた、日本人にとっては「ゲド戦記」であり、海外の読者にとっては「アースシー」であるところの、ファンタジー世界の土台は壊れてしまった。あの石垣の如くに。

 べつに著者が何十年かけて作品を書いてもそれは良い、が、著者自ら世界を改変するのは、できれば止めて欲しかった。いったんは読者に委ねた作品であれば、過去の作品が未熟なら未熟なまま、読者に預けておいてくれたらよかったのに。

 まず、このゲド戦記6巻(この6月頃には、7巻になる予定。)を読んで思うのはそのことである。
 そして、外野はやっぱり五月蠅すぎる。(私自身も含めてだ!) 作品を楽しむこと以外しなくでもいいじゃないか、と思う。

 だがしかし何よりも、過去の作品世界をいじらないで、と思うその気持ちが、程度の差こそあれ、例の栗本薫に思ったことと根っこのところでは大差無い、というのが、正直一番の_| ̄|○ なのだった。

ノート 「ゲド戦記」の世界 (岩波ブックレット NO. 683) 

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書 名  「ゲド戦記」の世界 (岩波ブックレット NO. 683) 
著 者  清水 真砂子
出 版  岩波書店  2006年9月
ブックレット  60ページ
初 読 2025年3月23日
ISBN-10 4000093835
ISBN-13 978-4000093835

簡単なレビューはすでにアップしたのだが、このブックレットにいろいろと思考が触発されたので、ノートを作っておく。

子供はいつ「ノー」ということを覚えるのだろう 
 冒頭、「ノー」と言う言葉については、いろいろと思うところがある、と清水さんは語られている。しかし、最初に子供に覚えてほしい言葉は「ノー」であるとのくだりで、あ、この方は子育てはしたことがないのかな、と思った。 
 自我が育ってきた子供が「いや」と言えることは大切なことであるのは、否定するつもりはない。
 しかし、実際には赤ん坊は言葉を獲得する以前に「いや」と言っているのだ。泣くことによって。
 「いや」という言葉を覚えているかいないか、という以前の話で、赤ん坊が泣く→養育者が赤ん坊の欲求を満たすという反復を繰り返すことで、子供は、自己の存在を無条件に受け入れられているという、世の中と自身に対する基本的な肯定感を育む。この時に構築される養育者との愛着関係がその人の根っこを作る。これが人生のスタートで何よりも大切なことである。子供が最初に覚える言葉が、「いや」ではなく、ママであり、妈妈でり、マンマであることには、それ相応の理由がある。
 講演会の導入部で、聴衆に受けの良いであろう話題を選ばれたのかもしれないけれど、この内容は少々的外れなように感じるし、この導入って、『ゲド戦記』の話に必要なん?と思った。

■ものを読むということは
 ものを読むということは、書かれていることを読むだけではだめで、何が書かれていないか、新聞であれば何が取り上げられていないかがわかって、初めて読んだことになる。
 これはとても大切なことで、肝に銘じたい。

■訳語一つへのこだわり
 言葉には既成のイメージがある。「ひとつの言葉には、その言葉の歴史が全部まとわりついている」(P.13 )。そして、その一つの言葉の歴史は、書く人、読む人のそれまでの生活・人生で経験してきたものでもちがう。 その前提で、著者のイメージを過不足なく正確につたえるために、言葉の一つ一つを吟味する作業を繰りかえす。そういった作業に真摯に取り組まれている清水さんは、素晴らしい翻訳者だと思う。

■テルーが最初に所有したものは (p.18)
 このブックレットでは、清水氏はそれを、テナーが作ったドレスだと言っている。テナーが生地をもらい受け、染め、裁断し、赤いドレス、シュミーズ、エプロンを手で縫って仕上げる。多分それを、テルーはそばでじっと見ている。その時間はテルーにとって特別なものだったに違いない。しかし、最初の所有ということでいえば、「骨の人」とイルカ号の中でもらった「骨のイルカ」じゃあないかな、と思うのだけど、どうだろう?  そうはいっても、自分の物を持つことについての大切さが変わるわけではない。

■老人ホーム視察団のエピソード (p.18)
 これも、もっともらしい話ではあるのだけど、長い冬に閉じ込められる北欧の「室内」に対するこだわり、その室内調度品に向ける情熱を、そのまま日本の老人ホームに当てはめると、ちょっとずれるかも、と思った。この調度品へのこだわりという点で、私が思い出すのはジョン・ウェイン主演の「静かなる男」の1シーン。母から譲り受けた先祖伝来の家具を新婚の家に運びこむときのヒロインのふるまいなのであるが。
 それとは対照的に思い出すのが「柳行李ひとつで嫁に」、という当時の皇太子殿下(現在の太上天皇陛下)のプロポーズ。日本人の家や生活は、基本的にヨーロッパよりははるかに軽量。片や、長い冬を屋内で過ごす国、片や災害が多い国柄、ということも理由の一つかもしれない。ともあれ物に詰め込む想いは、たぶん北欧人の方が、日本人よりも格段に重いんじゃないだろうか。人が何をよすがに過去を思い起こすのか、は多分文化によって違う。壁いっぱいの家族写真なのが西洋人だとしたら、日本人は、季節の移ろいとか年中行事、祭りや行事、折々の花かも知れない。老人ホームでは人々の過去が消されている、というのが「ほんとう」なのかどうかは、もうちょっと考えたほうがよいかもしれないと思う。 

■今更ながらフェミニズムとは (p.19)
 第4巻の『帰還』が訳者の突き付けてきたのは、「あそこにある成熟したフェミニズム」をどのような日本語で表現したらいいか、ということだったと清水氏は言っている。

 私には“あそこにあるフェミニズム”がどんなものか、ちょっとよく分からない。
 広義のフェミニズムが20世紀初頭の婦人参政権運動などを含む、脈々と続いてきた女性の権利獲得運動であることは知っているが、ここで語られる“フェミニズム”は、もっと狭義のものだ。第二波なのか、第三波なのかもよく判らない。自分はもう何十年も仕事をして、自立して生きてきているが、その“フェミニズム”について、真剣に考えたことはたぶんない。だからといって、アンチ・フェミニズムではないし、ポストフェミニズムだと思っているわけでもない。ただ、なんとなく「フェミニズム」という言葉が自分から遠い。
 その点を何故だろうかと考えたとき、私は自分が女だとはっきり自覚しているが、一方で自分の中の男性性とでもいうものも意識しており、フェミニズムという用語では自分のその部分が疎外されていると感じるからではないかと思った。フェミニズムは私を表さない。ようは,“女くさい”のだ。と、いうことは世の中の半分を占める男性もそうなのではないか。そのような言葉に、世界を変える力があるのだろうか?
 ル=グウィンが体現していたフェミニズムとはなにで、フェミニストとはどんな人なんだろう? もっと私には勉強が必要だ。

■テナーの第三の言葉とは
 テナーをゲドから託されたオジオンは、テナーに「男性の「知」の世界」を与えようとする。しかしやがてテナーはそれを拒否し、考え始める。「自分は自分の衣装を着たい、自分の着物を着たい」「普通の女たちが生きる人生を全部、自分で引き受けて生きてみたい」。

 私は、それをテナーがかつて失ったもの(関係性や、生活や、それにまつわる事物)を回復させたいと願ったのだととらえた。だから、テナーが求めたものはフェミニズム的なものとは関係がなく、むしろ封建的ですらあった、と考えたのだが、この点は、清水氏とも(ひいては著者とも)考えが違うのかもしれない、とこのブックレットを読んで思った。
 そこで、清水氏はテナーを、「男性的な理論の世界の言葉を一度は、獲得した女性」と語るが、そこも果たしてそうなのかな?とも思う。むしろ、男性的な理論の言葉を拒絶した女性、なのではないか? 普通の女の生活の言葉を持っているが、生活べったりでないことは異論はない。彼女は生活や世の中に対して、ある種の客観性を持っている。しかしそれは、彼女が“白い女”であり、自身が生活する共同体の中に受け入れられていると同時に、常に他者、よそ者であるからではないのか。また、幼少時に「アルハ」という孤高の存在として養育され、教育されたからではないのか。また、カルカド語という、母語を持っているからではないのか。彼女が第三の言語を獲得しているとして、それをオジオンの教育に由来すると考えるのは、行きすぎだと思う。
 に、してもだ。 テナーの持つ「第三の言語」性を表現するために、苦心して翻訳されている清水氏の努力のおかげで、私達は実に生き生きとして、まさにテナーらしいテナーに出会うことができているのだ。

■ ハリー・ポッター(笑)
 別にハリー・ポッターをテキししているわけではないし、夢中で一気読みした。でも、読み終わった瞬間に「膨大な時間のむだ遣い」と思った。とのこと。(笑) 何にも残らなかった。(笑)(p.27) あ、それ言っちゃうんだ(笑)
 まさに。そういう本もある。子供にとってはそれでも良い場合もある。それで、「本を読むこと」「本を読んでワクワクすること」を覚えて、より深い読書の世界の入り口になるかもしれない。ただただ、楽しむだけの読書だってある。だけど、『ゲド戦記』とは違うよね、ということだ。だって、『ゲド戦記』って実際、読んでいてそんなにワクワクしなくないか? 正直いって重くないか? それでもその深みになにか得体の知れないものがありそうで、読まずには居られない。そんな感じだ。

 誤読する自由 
 清水氏の「私たちには誤読する権利がありますから、読みたいように読んでいる」という一文にはものすごい破壊力がある。作品をどのように読むか、は読者の権利なのだ、というのはものすごい示唆を含んでいないか? いったん世に放たれた作品は、その意味では、読者の物なのだ、とすら言えないか?
 作者には、自分の創作した作品を、いかようにも描く権利がある。ル=グウィンは、アースシーの世界について、誰はばかり無く作品を世に送り出す権利を持っている。一方で、すでに世に送り出された作品は、読者の中で確固たる世界を築いている。 ゲド戦記の第4巻以降の作品が世に巻き起こした葛藤は、まさにこの両者の対立だったのではないだろうか。
 その葛藤の中で、ル=グウィンすら、その意味を語る必要に駆られてしまった。それが、オックスフォード大学での「ゲド戦記」をひっくり返す」という講演だった。

■「意味」を語るという陥穽
 清水氏は、「ゲド戦記」第4巻は、このスピーチよりもずっと豊かで「こんなもんじゃないぞ」と思った。そして、ル=グウィンに「スピーチ原稿を読んだけれど、あなたの作品は、あなたがここに書いているより、はるかに豊かだと思う」と手紙を送ったのだそう。その手紙にル=グウィンがなんと答えたのか、もしくは応えは無かったのか、はこの清水氏の講演では語られていない。
 そのル=グウィンの作品の豊かさ、とは、読者の中に物語を喚起する力であり、喚起される物語はル=グウィンだけの物では無くなっている、ということだったり、清水氏自身の豊かさだったりするのかもしれない。清水氏が語る「こぼれるもの」は、もっともっと沢山あったが、非常に大雑把にいうと、そういうことなんだな、と思った。

 私は、清水氏のこのブックレット(2本の講演録を整理、編集したもの)を読んで、あれこれと細部の文句を言ったりはしているが、清水氏は素晴らしい翻訳家だと思っている。
 一方で、単語の一つ一つを吟味し、著者の思想を過不足なく伝えようと細心の注意をもって奮闘する翻訳者でありながら、読者としては「誤読する自由」がある、と高らかに宣言する。この強さ(獰猛さ?)が、清水氏の素晴らしさだ。

■ さいごに、映画『ゲド戦記』について
 「人が何かにつき動かされて表現に向かうとき、その表現形態が詩であれ、映画であれ、大事なのは出来上がった作品がそのジャンルの作品として自立しているか否かです。作品が作者をして表現へとつき動かしたものをどれだけ忠実になぞっているかは、全く問題ではありません。」「もしも、できあがった作品が不評を買ったとすれば、それはその作品に、読む者を、あるいは観る者をして我を忘れさせるだけの力がなかったということでしょう。」

 いやこれは、バッサリと。
 正にその通りですが、観客にとっての比較の対象が父宮崎駿であり、ル=グウィンの書いた作品出会ったという点では、吾朗ちゃんは不幸だったとは思う。
 私個人としては、テルーを顔に痣(変色)が残っているものの、きれいでかわいくて、歌の上手な女の子として描いてしまうことだけは、すべきでは無かった、と今でも思っている。
 テルーは顔と上半身の半分が焼けただれて、目も喉も焼け、ケロイドに覆われて、手指は癒着してしまっている、見た目も凄惨な障害を負った少女なのだ。それをきれいに描いてしまうことで、見た目が酷い障害は「絵にならない」「画面に出せない」という強いメッセージを世に放ってしまった。結局アニメはルッキズムを超えられないことを、こうまで残酷に表してしまったことが残念でならない。

2025年3月23日日曜日

0553 「ゲド戦記」の世界 (岩波ブックレット NO. 683)

書 名  「ゲド戦記」の世界 (岩波ブックレット NO. 683)
著 者  清水 真砂子
出 版  岩波書店  2006年9月
ブックレット  60ページ
初 読 2025年3月23日
ISBN-10 4000093835
ISBN-13 978-4000093835
読書メーター https://bookmeter.com/reviews/126874474   

 ゲド戦記5と6が入れ替わる前の2006年の、清水真砂子さんの2回の講演会の内容を編集し、再構成したもの。
 清水さんが誠実で堅実な翻訳家であり、研究者であり、また教育者であることが伝わってくる。

 神聖文字も持たず、真のことばたり得ない私達の言語は、非常に不確かなものながら、それでいて、お互いを結び付け、共通のイメージをふくらましたり、ファンタジーの世界を築き上げたりしている。私達の言葉は、それぞれの生活と体験に依拠するがゆえに、同じ言葉が他の人にとっても完全に同じ意味を持つとは限らない。言葉のそのような揺らぎを知っているその上で、著者の言わんとすることを損なわないように細心の注意を払って、言葉の一つ一つの意味を吟味し翻訳する姿勢を尊敬する。
 その一方で、「私達は誤読する権利がありますから、読みたいように読んでいる」という一節は非常に痛快。
 自身の創作を説明するという陥穽にル=グウィンでさえはまってしまったことについての、清水さん気づきは深いというか、さすがというか。読んで自分も大いに反省させられる。
 しかし、それすらも、ル=グウィンに対する深い敬愛が込められている。
 そのル=グウィンの講演録は、ついに5月末刊行の『火明かり』に収録されるとのことなので、それも楽しみではある。 「あなたの作品は、あなたがここに書いているより、はるかにはるかに豊かだと思う」と清水さんに手紙を書き送られたル=グウィンは、どのように応えたのだろうか。
 「フェミニストの旗手」と見做されていたル=グウィンは、しかし決してそれだけではない。フェミニズムとル=グウィンがどのように関わり、付き合ってきたのかも、もう少し知りたい。

 なお、最近やけに拘りの強い読み方をしていたな、と反省もしきり。そのうち、これまでのレビュ—を書き直すかも。

2025年3月20日木曜日

番外 論文「アーシュラ・K・ル=グウィン〈アースシー〉“第二の三部作”におけるジェンダー・ポリティクス」を読んだ

アーシュラ・K・ル=グウィン〈アースシー〉“第二の三部作”におけるジェンダー・ポリティクス———ポストフェミニズム、クィア理論、反グローバル資本主義
青木康平(一橋大学院) ジェンダー研究(発行:お茶の水女子大学ジェンダー研究所) 第22号 2019年 
https://www2.igs.ocha.ac.jp/en/wp-content/uploads/2019/09/09aoki.pdf
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ジェンダー研究
Journal of Gender Studies
発行:お茶の水女子大学ジェンダー研究所
ISSN:13450638
第21号(2018)~
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 以下の駄文は、研究者の研究成果に対する批判・批評を行うものではありません。(私は批評が可能なほど、勉強はしていない。)あくまで、感想程度のものであることを、最初にお断り(言い訳)しておきます。

 この論者は、岩波書店発行の清水真砂子氏訳『ゲド戦記』やその仕事がそもそも好きじゃないんだろうな。っていうか、もちろん翻訳を必要とされていないのだとは思うが。『ゲド戦記』というタイトルがどうなの、という話はちょくちょくあって、この論文でも触れられている。岩波書店で付けているタイトル『影との戦い』『こわれた腕輪』『さいはての島へ』『帰還』『アースシーの風』『ドラゴンフライ』という邦訳タイトルを、論文の中で頑なに拒否しているところからしても、好きじゃないんだろうな、と感じる。しかし、論文の各所で引用されている作品の訳出については、岩波書店版/清水真砂子氏翻訳の各作品を下敷きに用いているのではと思えるフシがある。論文末の参考文献リストに岩波書店版『ゲド戦記』を掲載していたなら、誠実に思えただろうな。(英訳版の論文であれば、不要であろうが。)

 まあ、通読した感想を述べるならば、私はこのような近視眼的で喧嘩っ早い『フェミニズム』は好きじゃないんだ、というのを再確認した。
 フェミニズムの流れは歴史の必然であるとしても、『フェミニズム』の文脈で歴史や文学を再定義しようとする姿勢が嫌いだ。
 論文全体としては、物語の記述を、恣意的に歪めて解釈していると思えるところが見受けられたように思う。
 
 たとえば、
 「なぜ、テハヌーは、第4巻の選択を翻したのか。最終巻のタイトルともなっている〈もう一つの風〉とは何か。果たして本当に、作者にその結末を書き直させるに至ったほど〈現在(NOW)は劇的に動いたのか———本稿はこれらの問いを明らかにすることを目的として書かれた。」
 この点について
 第4巻『帰還』(この論文では『テハヌー』)のラスト、古老の竜のカレシンから娘、と呼ばれたテハヌーとカレシンの会話は以下のとおりだ。
 「さあ、もう、行こう。」子どもがうながした。「ほかの風に乗って、ほかの人たちがいるところへ。」 
 「この者たちを残していくのか。」 
 「いいえ。」子どもは答えた。「というと、この人たちは来られないの?」
 「ああ、だめだ。この者たちが生きる場所はここなのだから。」
  「なら、あたしも残る。」

 カレシンは笑う。
 「まあ、いいだろう。そなたにはここでしなければならない仕事があるからな。」
 「わかってる。」
 「そのうち、またそなたを迎えにもどってくる。」

 それからカレシンは、ゲドとテナーに向かい
「わしの子どもをそなたたちにやるぞ。いずれ、そなたたちは自分の子どもをわしにくれるだろうからな。」と言った。 
 「時が来たら。」テナーは応えた。
 (引用 アーシュラ・K.ル=グウィン; 清水 真砂子. 帰還 ゲド戦記 (岩波少年文庫))

 論者は、「なぜ選択を翻したのか」、と問うが、実際には、テハヌーがいずれはカレシンの元に戻ることはこの第4巻の時点で予言されている。それに、まだ6歳か7歳の親を必要とする年頃の子供が親元にとどまる選択をすること、そして、15年後に二十歳を超えた成人女性が、親元を離れる選択をすること、それはどちらも必然であって、なんら周囲が喫驚するようなことではない。この物語の流れをもって、「作者に終末を書き直させる」と言うのは無理があるだろうと思う。

 また、テナーは、自らの意志で暗闇の巫女となることを望んだのではなかったように、そこから解放されることもまた、自ら望んだわけではなかったと論者は言うが、本当にそうだろうか。
 『こわれた腕輪』の中で、テナーは、たとえ限られた選択肢しかなかったとしても、その中から自分で運命を選択していたのではないだろうか。たとえば、ゲドを生かす選択をしたのはテナー自身だった。その最初の選択がその後の全ての行為に影響を与えた。ゲドもまた、テナーに選択を促しこそすれ、決定を強制はしなかった。テナーは自分で選択したと信じているだろうし、そこを否定されたら、たぶん怒るだろう。

 その上で、テナーについて、第4巻(『帰還』)のテナーは、男に頼らず働く自立した女性であり・・・と表現しているのだが。この「男に頼らず働く自立した女性」という表現にはかなりのフェミ臭がする。

 オジオンやゲドがテナーに提示したものは、大巫女ではないにしろ、別の孤高の存在になることであったのに対し、テナーが求めたのは3歳の時に失ったものを完全ではなくても回復させることだったのではないだろうか。それは暖かい炉辺であり、家族であり、耕す畑と平和な生活であったろう。
 テナーが求めたのは、正に家庭の象徴である炉辺と家族であり、それはオジオンが与えられるものではなかった。オジオンがいかに高尚で特別なものを彼女に与えようとしても、そこは断固拒否し、普通の農家の娘のように生活し、「嫁に行く」ことをテナーは選択した。その後の生活においても彼女にとっての回復を実践したテナーは、非常に意志の強い、自分の人生の選択を完遂し、その結果を甘受した女性である。しかしその選択は非常に封建的なものでもあった。それは、ポストフェミニズムとは関係なく、単にそれが、彼女の“失われたもの”だったからだろう。彼女の選択と人生を、フェミニズムの視点で語ることは困難だろうと思う。彼女の働き方は農村の労働力としてのそれであり、「自立し」て見えるのは単に夫が死んで独居になってるからで、寡婦として、いずれは息子に譲られる家を護るテナーを「男に頼らず働く自立した女性」と表現するのもナンカチガウ感が・・・

(ほかにもいくつか気になったけどメンドクサイから中略!結局のところ、この論者さんは『ゲド戦記』をきちんと読んでいないのよ。)

 一介の本読みとして思うことは、作品を透かして、ル=グウィン自身の思想を云々することも、作品を通して現代社会を論証することにも、自分は意義を見いだせないということだった。(もちろん、そういった作業に意義を見いだす人が沢山いることを否定するものではない。私の指向性の問題である。)

 ジェンダーの考察もクィア理論の考証もどんどん為されるが良い。時代・時間とともに変遷する現代の理想も、どんどん記述されるがいい。

 しかし、小説は小説。物語は物語。
 ファンタジーとは、読者の想像力と好奇心をよりどころに、それを揺り動かし、作者とともに未知の世界を探索し、空想を通してこそ到達できる真理を共有するために、作者が渾身の力と情熱を持って記述した、知の贈り物である。読者としてするべきことは、それをネタに著者を研究することではなく、空想の翼でアースシーの空を駆け、アーキペラゴの海を掻き分け進み、ゲドやテハヌー達と同じ大地を踏むことだと、改めて気付かされた次第だった。

 でも、この論文を読んで、好奇心を刺激されて、『ゲド戦記を“生き直す”』(雑誌 季刊へるめす 45号収録)を読みたくなったので、国立国会図書館に複写をお願いしました。
(追記:「ゲド戦記を“生き直す”」は2025年6月発行予定の『火明かり』(ゲド戦記別冊)に収録されます。)

2025年3月18日火曜日

0552 アースシーの風 ― ゲド戦記Ⅵ(初版時はⅤ)

少年文庫版
書 名 「アースシーの風」
原 題 「THE​ ​OTHER​ ​WIND」2001年
著 者 アーシュラ・K.ル=グウィン
翻訳者 清水 真砂子
出 版 岩波書店
 【岩波少年文庫版】
少年文庫版  384ページ 2009年3月発行
ISBN-10 9784001145939
ISBN-13  978-4001145939
読書メーター 
 【ハードカバー版(初版)】
単行本 349ページ 2003年3月発行
初 読 1993年
ISBN-10 4001155702
ISBN-13 978-4001155709

単行本初版
 出版当初は「最後の書」と銘打たれていた『帰還 ゲド戦記Ⅳ』刊行から10年後に出版された『アースシーの風 ゲド戦記Ⅴ』。このハードカバー版は、このコバルトブルーの表紙のと、黄色い表紙の(『アースシーの風 ゲド戦記Ⅵ』)の二種類が世に出ている。なんとなれば、この本の後に『ゲド戦記 外伝』が出版され、日本国内では、当初刊行順に5、6と番号が振られていたのだが、著者のル=グウィンが、正しい順番は、「外伝」、「アースシーの風」の順番だ!と仰ったかららしい。実際、著者の執筆順はそうだったのだが、『帰還』と直接つながるこの長編の刊行を先にしたのは日本の国内事情のようで、後書きに説明があった。
単行本改定版
 だから、外伝の方もインディゴブルーの表紙の『外伝』とややくすんだ暗いブルーの『ドラゴンフライ ゲド戦記外伝』の2パターンある。
 個人的には、著者に供された発行順でよいのでは?と当初は思っていた。実際自分が持っているのは国内で最初に出た順。後から実は順番がって言われてもな・・・。しかしそれは日本の事情なので、著者からしたら、ちがーう!ってことなのだろう。実際、『ドラゴンフライ』の冒頭の著者前書きを読むと、たしかに順番は、そちらが先なのが判る。そこにこだわりたい気持ちもわかる。ル=グウィンのような意志的な作家の著作を、著者の書いた順番順に発行しない日本の出版事情もなんだかな、と思わないでもない。

 なお、日本語版のタイトルは「アースシーの風」となっているけど、作中で再三使っている、「もうひとつの風」の方が良かったな、と思う。だって、原題が表す風は、西の果てのそのまた西の別の世界の風であって、あきらかにアースシーの風ではない。
 まあ、それはさておき。

 『帰還』からさらに15年後。冒頭、ゲドは70代との記述があるが、だいたい60代半ばくらいじゃないかな? まあ、70代というのは、他人からみたところ、の話なので、単に農夫として暮らしてきたゲドがすっかり老けている、ということなのだろうと勝手に理解する。
ソフトカバー版

 この本は、ゲド戦記3『さいはての島へ』のレビューで私が書いた違和感や未成熟感についての「答え合わせ」になっている。だがしかし。ちょっとモヤる。

 この本単体としては、とても完成度が高いと思うのだ。だけど、著者も認めるように、始めからこのアースシーの世界観の全容を著者が掴んでいたわけではない。「アースシー」の物語は、始めは前3部作で完結していた。
 その後20年近くたって、『帰還』を書いたときにも、作者自身が『最後の書」と銘打つくらいには、これで物語が完結した、と思っていた。そして、10年後の本書である。

 多分、3部作を読んだあと何年かおいて『帰還』を読み、その10年後くらいに、前作の細かいところは忘れたころに、この『アースシーの風』を読んだならば、あまり細部に引っかからずに素直に感動したんじゃないかと思う。だが、残念なことに、『影との戦い』から一気読みしてしまったんだよ。
 思うに、10代の子供向けであれば、十分に納得感のあった当初の3部作であっても、読者も成熟し、著者自身の思索も深まるにしたがって、いろいろと足りないところ、未熟なところを補完する必要に迫られたのだろう。物語世界そのものが成長したのだ。その辺りは『ドラゴンフライ』の前書きなどでも触れられている。

 だが、それでは、ゲドが全存在を賭けて成し遂げたことはなんだったのか、ということになってしまうじゃないか。いっそのこと、最初から書き直しても良かったんじゃないか?と思ってしまう。それくらい、この『アースシーの風』は、解説的な記述が多かったし、つじつま合わせ感も強いと感じた。

 このアースシーでは、地球は丸いと認識されていて、西に西にずんずん進めば、やがて東の端に出会ってしまう。しかし竜たちが目指す「西の果てのそのまた西」の世界は、地上にあるのではなく、いわば西方浄土的な、聖霊や霊魂の世界である。人間と竜が世界を二つに分けたとき、つまりは人間が地上の富を支配することを選び、竜は精霊の世界を翔ぶことを選んだわけだ。
 だけど、人の肉体が死んで霊魂が向かう世界は、この竜たちの西の果てとつながっている。本来はそこで、一人ひとりの魂は大きな地球の生命の中に還り、また次の生に転生するはずだったのだが、死んでも魂を手放したくない人間の欲が、霊魂の道を絶って、壁でこちら側に仕切ってしまった。そのために、人間の霊魂だけが、生の世界のすぐ隣にずっととどまり続けることになって、人間が死後に向かう世界は、まさに動きが死に絶えた、恐るべき暗黒の世界になってしまった。その世界に閉じ込められ、輪廻転生の輪に戻れない死した人々の嘆きが、ついにその壁を壊させるに至った。というのが大筋。

 それはそれで良いと思う。だがしかし。

 それでは、クモはいったいどこに穴を開けたのか。
 持てる力の全てを使い尽くしてゲドが塞いだ穴はいったいなんだったのか。
 ゲドが死力を尽くして守ったものはなんだったのか。
 
 この物語のなかで、ゲドの立場も上手に取り繕ってはいるが、全体としては、「後足で砂をかける」って感じがものすごくする。
 ル=グウィンは、どんどん付け足しで物語世界を改変しないで、いっそのこと初めから書き直せばよかったのだ。もしくは、別の新たな物語を書けば良かったのだ。

 ついでながら、『影との戦い』から繰り返して出てくる死者の国との境目の石垣。その石垣を崩すシーンで、デジャブを感じる。そう、あれだ、ベルリンの壁の崩壊。1989年。
 そういう視点を持ってしまうと、物語全体が、現代史の引き写しなんじゃないかという気がする。西と東の対立というモチーフ。その間に築かれた石壁。西を選んだ民(竜)は、束縛を離れ自由を得たが、東を選んだ民(人間)は、手の技とそれが生み出す富を所有する権利を獲得したが太古の知恵は失った。そしてその東(アースシー)の人間はさらに、アーキペラゴの人々と、カルガド帝国の人々に分裂している。
 これは、東側と西側の対立、そして西欧(キリスト教)文明とイスラム文明の対立そのままではないか。(西と東は逆だし、アーキペラゴが有色人種の世界で、カルガドが白人世界なのも、現実世界とは逆ではあるけれど。)

 「そして人間は東へ、竜は西へと移動したのですが、このとき人間は天地創造のことばを手放し、かわりに、あらゆる手の技と、それが生みだすものを所有する権利を獲得しました。竜はそうしたものはすべて失いましたが、そのかわり太古のことばは失わずにいたというわけです。」

 では、壁が崩れたあとはどうなるのだろう。人間の地は人の欲(資本主義)に席巻され、天地創造の言葉(共産主義)は地を離れて、理念の世界に生き延びるのだろうか。

2025年3月10日月曜日

0551 帰還 ゲド戦記 Ⅳ(ゲド戦記 最後の書!?)

少年文庫版
書 名 「帰還」
原 題 「TEHANU」1990年
著 者 アーシュラ・K.ル=グウィン
翻訳者 清水 真砂子
出 版 岩波書店
 【岩波少年文庫版】
少年文庫版  400ページ 2009年2月発行
ISBN-10 400114591X
ISBN-13 978-4001145915
読書メーター 
 【ハードカバー版(初版)】
単行本 344ページ 1993年3月発行
初 読 1993年
ISBN-10 400115529X
ISBN-13 978-4001155297
単行本初版
 完結していたはずのゲド戦記3部作から時が経つこと、18年。1990年に刊行され、1993年に翻訳出版されたのがこの本。赤い表紙のハードカバー。表紙絵は、切り絵風から油彩風になって、中年になったテナーと、焚き火で焼かれた少女テルー、そして背景には巨大な竜が描かれている。奥の暗闇に輝くのは明星テハヌー。実は、背景が竜の頭だと、今回まじまじと見て初めて気がついた(マヌケ)。そして、表紙には「ゲド戦記Ⅳ」ではなくこう書かれていたのだ。「ゲド戦記 最後の書」と。これは、ル=グウィンが、原著にもそう記したもの。本当に彼女はこれで「最後」だと思ったのだ。そう、執筆した当初は。

 『こわれた腕輪』の物語の直後の25年前、突然、ゲドが17歳の女の子をル・アルビに連れてきて、オジオンに託していった。このオジオンの一番弟子ときたら、師匠を信頼しているが故とはいえ、けっこうあんまりだと思うよ。オジオンは困っただろう(笑)。
ソフトカバー版
 とはいえ、オジオンはテナーを養女としてかわいがり、一生懸命育てたようだ。ゲドを育てた時よりはだいぶ甘々だったのでは?
 なにしろ、世捨て人の賢者と少女の組み合わせだ。それだけでラノベなら何冊も物語が書けそうだ。
 しかし結局、テナーはなにか特別な力のある孤高の存在になりたいとは願わず、普通の世間並みの女として世のでやっていくことを望んだ。やがて、オジオンの家を出て村に暮らし、富農の男と結婚。良い女房、良い母親、良い後家、身持ちの良い女として生きてきた。

 これが、ゲドの冒険の裏側、ゴント島の一隅で起こっていたこと。
 そして、『さいはての島へ』で竜のカレシンの背に乗ってロークを去ったゲドは、ゴント島のオジオンの元に還ってきた。全ての力を失った、傷つき、疲れはて、死にかけたただの男として。
 その数日前に、すでに高齢で死期を迎えていたオジオンは旅立っていた。これは単なる妄想だけど、オジオンは遠く離れたゴントから密かに死の世界で戦うゲドに、残った命の全てをかけて力を与えたのではないか。なんてね。

 この物語はそこから。「帰還」してのちの話だ。
 フェミニズム的な視野なんだろうな、とは思うのだけど、女性の扱われかたとか、ゴハの内心の葛藤とかは読んでいるこちらも、それなりにイライラした。
 また、王たるレバンネンに同行してゴントにやって来た風の長が、身に染みついた「女は取るに足らない」という考えが、無意識のうちに言動ににじみ出ているのも腹立たしい(笑)。
 
 しかし、壮大な空中戦みたいだった前作までと違って、ついに地に足が付いた感じの今作。テナーとゲドが夫婦になり、オジオンの家にこれから住まう。やっと落ち着くべきところに落ち着いた二人。

 ゲドが全ての特別な力を失った無力な男として、喪失に向き合い、再生すること。
 テナーが、一度は望んで受け入れた「女」という理不尽で不自由な在り方に向き合い、ゴハという社会的な女から、テナーという個人に再生すること。
 暴力と性的な虐待を受け、肉体的に大きく損なわれた少女が、内なる本来の全き姿を取り戻すこと。三者それぞれの喪失と再生の物語だ。全体の生と死という極めて抽象的な物語から、個人の物語への回帰でもあったと思う。
 もっと、深い読み方もできるんだろうけど、ひとまずはここまで。次巻からは、本当の初読なので楽しみ。

2025年3月5日水曜日

0550 さいはての島へ ゲド戦記 3

少年文庫版
書 名 「さいはての島へ ゲド戦記 3」
原 題 「The Farthest Shore」1972年
著 者 アーシュラ・K.ル=グウィン
翻訳者 清水 真砂子
出 版 岩波書店
 【岩波少年文庫版】
少年文庫版  368ページ 2009年2月発行
ISBN-10 4001145901
ISBN-13 978-4001145908
読書メーター https://bookmeter.com/reviews/126459454
 【ハードカバー版(初版)】
単行本 319ページ 1977年8月発行
初 読 1982年〜83年頃?
ISBN-10 4001106868

ISBN-13 978-4001106862
単行本初版
 エレス・アクベの二つに割れた腕輪が一つになって、ハブナーに還ってきてから、17、8年。ゲドは5年前に大賢人に選ばれて、いまはロークに腰を落ち着けていた。
 作中のゲドの口調がすっかり、大賢人というよりはむしろハイジのおじいさん調なのでイメージが混乱するが、この時点でゲドは立派な中年もしくは壮年。『こわれた腕輪』では若者よばわりだったので、今は40代半ばだろうか。なにしろ、次の『帰還』では遅すぎた春もくるのだし・・・(っと、それはさておき。)

【ほぼ初読】
 私はこの本は多分、三十年ぶりくらいの再読で、初読の印象はほぼ、ゲドが若者アレンと最果てにいって、力尽きて戻ってきたんだよな、程度の記憶しか残っていなかった。なので、ほぼ初読と同じ感じで楽しめた。

ジブリアニメ化の際に
再販されたバージョン
【ジブリ『ゲド戦記』】

 スタジオジブリ宮崎吾郎監督の『ゲド戦記』(2006年)の原作となったことでこの本を知った人も多いだろうし、それよりずっと以前からこのシリーズを大切にしていた人達も多かったと思う。私も後者ではあるが、ジブリアニメ化の際には盛大に期待を膨らませて公開を待ち、なにか変なものでも喰った気分で映画館を後にした一人でもある。あの『ゲド戦記』は惨憺たる評判だったと記憶している。棒読みとか酷評されていた気もするが、私はテルー役の手島葵さんの声は好きで、映画の役柄にも合っていたと思っている。ちょっと掠れた感じの唄声も好みで、その後、CDを購入したりもした。総じて、歌と音楽は良かった。それに、今改めてこうして原作となったこの本を読んでみると、それなりに原作に忠実にやろうとしていたのだな、とは感じた。この原作であの父親と比較されるんでは、吾郎ちゃんも分が悪いよな、とは当時も思った。原作者のル=グウィンは宮崎駿による映画化を希望していた、なんて情報も、吾朗ちゃんには良い方に働かなかったに違いない。ただ、抽象度の高い死の世界を正面から描かず、あくまでも現実世界の騒乱として描いたことや、テルーの顔の火傷をきちんと取り扱わなかったことはダメだと思った。いきなりのアレンの父王殺しも物語として破綻していたと思う。(作品を超えたメッセージ性は大いにあったけど。)
 なお、右のソフトカバー版の素敵な表紙のバージョンは、映画化に併せて再販されたもの。私はこの装丁のセンスは好きだ。

【そして、物語の感想】
 で、本の物語の方に戻るが、エレス・アクベの腕輪が戻り、アーキペラゴ(多島海)には平和が訪れ、ロークの賢者たちも、ゆるゆるとした時の流れに身を委ねていた。ところが、エンラッドの若き王子アレンが、ロークの賢人団に凶報をもたらす。世界の各地で、魔法が失われている。ゲドはいったんは取り戻せたと思った世界の安定と平和が失われつつあることを察知し、世界の均衡を取り戻すために、アレンを供に〈はてみ丸〉で船出する。これが冒頭。

①アレンがちょっと辛い
 ゲドとアレンはあの島、この島と航海を重ねていく。その旅は行き当たりばったりだし、正直に白状すれば、感情が移ろいやすく、フラフラしている若造なアレンにはかなりイライラした。やっぱり王子様には賢くあってほしいし、真っ当に頑張って欲しいんだよな、とは、最近ラノベの読みすぎか。いやたぶん、アレンはちゃんと頑張っていた。たぶん年相応以上には。華がなかっただけだ。

②死の世界のイメージが
 これまでのゲド戦記全体が生と死の連環を取り扱っており、この「さいはての島へ」では生の何たるかや死の不可避性が大きなテーマになっている。しかし、こうして今読み返してみると、ここで語られる「生」も「死」も非常に観念的で、イメージが硬直化している。とくに「死」や「死者の国」の描かれ方が絶望的に暗く、なんの救いもないのに驚く。そりゃあ、死後の世界があんなんでは、だれも死にたくなくなるだろう。いったい、この死のイメージはどこから来ているのだろう。ル=グウィンは、死というものに何を思っていたのだろう?
 この作品の中では、誰もが「永遠の生」を求め、不死性を獲得することで「死の恐怖」からのがれようとし、その結果、人々は大切な「生」の意味そのものを失っていくのだが、作品に通底する、生と死を包含する世界観が非常に断片的で、しかも救いがない。死者の国は狭く、奥行きがない。死んだ人がすべてそこに行き着く世界であるなら、どれだけ観念的であったとしても、すくなくとも現世以上の奥行きが必要なのではないのか?と思うのだ。輪廻転生のイメージが、きちんとル=グウィンの中で成熟していないような気がする。

③人はそんなに死にたくないものだろうか
「永遠に生きたいと願わないものがどこにいる?」
 とクモは問うのだが、しかし人は本当に、「永遠に生きたい」とあのように一様に願うものなのだろうか。
 永遠の生に対する渇望や死に対する恐れ、といった、この本の中で登場人物が共通して抱く想念に、いまいちリアリティが感じられない。(ファンタジーにリアリティは必要なのか?とかはひとまず置いておく。)
 「死にたくない」という願望が、貴賤を問わず、魔法使いから市井まで、人々に通底する世界に共通する欲望として描かれているが、あまりにも単純化されていて納得がいかない。市井の無学な人々はともかく、知識を極めたはずのロークの賢人団があれでいいのか?
 死に対する恐怖の克服とは、文字どおり「死」を恐怖の対象としないことであり、「死」をなくすことではないんじゃないかと思うのだ。なぜなら、「死」がなくなったなら、恐怖の対象が目の前にないから恐れずに済むだけで、本当は「死」が恐ろしいままであるから。

 この話の中で、賢者といわれるような人々までが、「永遠に生きること」に取りつかれたようになることへの違和感がぬぐえないし、ましてや、「悪役」クモの動機の浅さは噴飯もので、これで世界が壊れるのでは、あまりにも世界そのものが脆弱ではないか、と思えてしまう。

 たとえば現代医療においては、病気ではない「老衰死」が人間の生の最終到達地点になるだろうし、移植医療は「理不尽な死」を克服しようとする取り組みであって、「死」そのものをなくすためのものではないだろう。「死」において、人が耐え難いと思うのは、「理不尽さ」であって万人に等しく訪れる公平な「死」じゃないんではないだろうか? そしてその先にはさらに、「死の理不尽さも受け入れる」という境地もありそうな気がするが。

④この世界は一神教
 また、自分が日本人であるからか、作品に通底する一神教的な視点に対する違和感もあった。
 クモが放つ、
「だが、おれは人間だ。自然よりもすぐれ、自然を支配する人間だ。」という言葉は、いかにも西洋的である。

 死の国においても、「苦しみの山脈」に通った一本道を通ることは死者には「禁じられている」という。つまり、死者の国も、生者の国も超越して、命じることのできる絶対者がいることが前提なのだ。命じているのは誰なのか。

⑤西洋的なものと土着的なもの、その間で定まらない著者?
 このような作品の世界観は、私の(そして多分、多くの日本人の)世界観とは違っている。アーキペラゴの人々はネイティブアメリカンがモデルのようで、白人はカルガド帝国など一部にしかおらず、戦闘的で侵略的な人々として描かれている。しかし、非白人の精神性がきちんと描かれているかというと、そこまでは出来ておらず、たとえば、死後の世界とか輪廻転生的な東洋の発想を取り入れようとする一方で、強烈な一神教的、父権的な価値観から逃れきれていない息苦しさを感じる、というのはうがちすぎか。

【まとめ】
 私がゲド戦記の世界観に感じる硬直感について思うことは、この本はハイ・ファンタジーであるとともに、ある種の思想書、しかもまだ成熟していない思想書だということ。この本についての考察を進めるのであれば、ゲド戦記やル=グウィンの思想を考察した評論なんかも読んでみたほうが良いと思うし、たぶんもっと調べていけば、ここまで書いた感想も、また違ったものになってくるだろうとは思うのだが、そこまで突き詰めるだけの意欲と集中した時間は今はもてないかな。

 しかし、そうはいっても、この本が若年の私に影響を与えた大切な本であることには変わりはない。むしろ、若いころにはこんなことをぐだぐだと考えずに、ゲドとアレンの冒険にのめり込めたと思うので、やっぱり本には読み時というものがあるし、この本はジュブナイル小説なんだろうな、と思う次第。

 やっぱり、これを読んだ十代そこそこの自分に感想を聞いてみたいものだ。

2025年3月2日日曜日

0549 空を駆けるジェーン

書 名 「空を駆けるジェーン」
原 題 「JANE ON HER OWN」1999年
著 者 アーシュラ・K. ル・グウィン
絵   D・S・シンドラ- 
翻訳者 村上 春樹    
出 版 講談社 2001年9月
単行本 54ページ
初 読 2025年03月02日
ISBN-10 406210895X
ISBN-13 978-4062108959
読書メーター https://bookmeter.com/reviews/126424231

 「どうして私達は翼をもっているんだろう?」小さなジェーンの疑問。それは空を飛ぶため! なんて簡単でシンプルな答え!
 翼は持っていないけど、彼らの仲間のアレキサンダーは、どうやらお父さん似ののんびりぐうたらで寝るのが大好きな成猫に育ったもよう。

 ジェーンは元気いっぱいな若猫そのもので、我が家の猫たちにも、「あと2年位したら、置物みたいになってくれるかしら」と遠い目になってたことを思い出す(笑)。さすがの運動量のうちのアビシニアンも、7歳になってさすがに置物に近くなってきたところ。やれやれ。(アビシニアンは、「イエネコ」というよりは小型のネコ科肉食獣って感じの、かなりハゲシイ猫なのです。)

 閑話休題。

 さて、前作で、私はきっとアレキサンダーとジェーンはカップルになるんだろうと思ったのだけど、大間違いでした。ジェーンはもっともっと、自立した(自立したい?)女でした。
 安全だけれど変化の少ない田舎を飛び出し、都会に単身飛び込む、現代っ子。もちろん、悪い男にも騙されたし、危険な目にも遭いましたが。
 そこで頼ったのは、実のお母さん。
 なんだかニンゲンも身につまされる話でした。なにはともあれ、都会の女ジェーンは、母と同居しながら、田舎とも行き来をし、アレキサンダーとも程良い距離を保ちながら、自由に暮らした模様。
 それにしても、翼の生えた黒猫じゃあ、悪魔狩りに遭わなくてよかった・・・と思います。

 余談だけど、なぜこの本だけ、サイズが小さいんだろう・・・。本棚に収まりが悪いじゃないか。

0548  素晴らしいアレキサンダーと、空飛び猫たち

書 名 「素晴らしいアレキサンダーと、空飛び猫たち」
原 題 「WONDERFUL ALEXANDER AND THE CATWINGS」1994年
著 者 アーシュラ・K. ル・グウィン
絵   D・S・シンドラ- 
翻訳者 村上 春樹    
出 版 講談社 1997年6月
単行本 60ページ
初 読 2025年03月02日
ISBN-10 4062081504
ISBN-13 978-4062081504
読書メーター 
https://bookmeter.com/reviews/126422643

 なんと、イラストがオールカラーです。やった〜!
 空飛び猫の三冊目。主人公のアレキサンダーは、羽は生えてない普通の猫だった。お母さんは明るい茶色の長毛種(ペルシャのハーフ)で、アレキサンダーもふさふさのしっぽを受け継いでいる。お父さん猫はいつも寝ている(笑)。エネルギー過多で妹たちにもウザがられているようだけど、本人は無自覚。(こういう子っているよね。) ついに家族の家を飛び出して冒険に出てしまったアレキサンダーだが。
 道路でトラックに挽かれかけ、犬に追いかけられて逃げ、やみくもに逃げて木の梢に登って降りられなくなり!定番コースです。そこに助けにきてくれたのが黒猫ジェーン。子猫のときの恐怖体験のトラウマで失語症状態だったジェーンだったが、アレキサンダーはジェーンに怖かったことを話すように促し、彼女の回復を助ける。いずれはラブラブなカップルになる未来を感じさせたお話でした。

0547 帰ってきた空飛び猫

書 名 「帰ってきた空飛び猫」
原 題 「CATWINGS RETURN」1989年
著 者 アーシュラ・K. ル・グウィン
絵   D・S・シンドラ- 
翻訳者 村上 春樹    
出 版 講談社 1993年12月
単行本 59ページ
初 読 2025年03月02日
ISBN-10 4062058812
ISBN-13 978-4062058810
読書メーター https://bookmeter.com/reviews/126408087

 「帰ってきた」のは、元の都会の街へか、ジェーン・タビーお母さんのところへ、か読者の元へか。
『空飛び猫』の続刊です。今は田舎の農場で安全に、幸福に暮らす4匹の空飛び猫の兄妹たちですが、だんだん、元いた街で暮らしているはずのお母さんが気になり始めて。
 話し合いの末、ハリエットとジェームズの2匹が故郷の都会の街の「ゴミ捨て場」に戻ってみることになる。ところが、長旅の末戻ってみると、ゴミ捨て場は無くなり、下町の路地には再開発の波が押し寄せている!
 しかも、廃屋になったビルの屋根裏には、なんと子猫の空飛び猫が一匹、取り残されていた。もちろん、彼らの弟(もしくは妹)でした。ジェーン・タビーお母さんとも無事再会、妹もつれて、田舎の農場に戻ったのでした。羽を痛めたジェームズが大旅行が出来るまでに回復していて一安心。
 なお、この本は巻末の村上氏の翻訳話も面白いのだけど、「HATE! HATE! HATE!」という子猫の鳴き声を「嫌いだ!嫌いだ!嫌いだ!」と村上氏訳。個人的には、猫の鳴き声に寄せて「ヤ、ヤ、イヤー!」なんかでも良かったな。なんて、ちと図々しいか(笑)

2025年3月1日土曜日

2025年2月の読書メーター

 1月からこちら、ファンタジー月間継続中であるが、『沈黙の書』でちょっと気分が削がれ気味になったので、初心に帰るつもりで、かねてから再読しようと思っていた『ゲド戦記』を読み始めた。なお、『アースシーの風』と『ゲド戦記外伝(ドラゴンフライ)』はまだ読んでいないので今回読めれば初読になる。
 ゲド戦記については、初読は小6か中1くらいの頃のはずなのだが、今更ながら、「よく読んだな」というのが正直な感想。これ、けっこう重いぞ。私のファンタジーの世界観を決定付けた大切な本なのだが、一体私は、当時本当にこの本を理解していたのか・・・っていうか、どういう風に理解していたのか、当時の自分に聞いてみたい気がしている。現在、『さいはての島へ』を読んでいる途中だが、『影との戦い』も『こわれた腕輪』もそうだったが、エンタメ的要素は皆無なので、軟弱で楽しい読書に慣れ親しんだ身には辛いわ、重いわ・・・。(でも読む。)
 そんな読書の合間につい、読んでしまったのが、『捨てられ公爵夫人』と『ないもの探し』。どちらも相当面白いが、とくに『捨てられ公爵夫人』の農業全般・ビール醸造や砂糖精製などの蘊蓄がすごい。時代は中世後期〜近世くらいか? いったいこの話はどこまで転がっていくんだろう? これは最後まで追いかけねば。

2月の読書メーター
読んだ本の数:9
読んだページ数:2493
ナイス数:489

空飛び猫空飛び猫感想
にわかにル=グウィン月間になったので、以前から気になりつつ読んでいなかったこの本も読んだ。何しろ猫に羽が生えて生まれてきた!お母さんねこもビックリだ。だけど、何しろ自分の産んだ子猫だし、せっせと舐めて世話して、一人前になったと見極めたら世界に送り出す。お母さんねこアッパレ。個人的には彼らの羽に生えているのは羽根なのか、毛なのかが猛烈に気になる(笑)。フクロウに虐められたジェームズがなんとか飛べるまでに回復して良かった。村上春樹氏の翻訳には定評があるが、巻末の訳注も楽しいです。
読了日:02月25日 著者:アーシュラ・K. ル・グウィン

捨てられ公爵夫人は、平穏な生活をお望みのようです捨てられ公爵夫人は、平穏な生活をお望みのようです感想
なろうサイトで偶然に拾って・・・っていうか、『小説家になろう年間第1位』『2024年もっとも読まれた超人気作、遂に書籍化!』とのこと。転生令嬢もので、持って生まれたチートな知識をフル活用して農地改革・領地改革をしていく16歳〜18歳。いくら公爵令嬢とはいえ、これは少女の風格ではないぞ、と思わんでもないが、とにかく微に入り細を穿つ知識と人心掌握、優しさと心意気。すごく面白い。なろうサイトでどんどん読んでしまって、出版された分は読んじゃったが、Kindle版も購入したのは、番外編も読みたかったから。オススメ。
読了日:02月24日 著者:カレヤタミエ

ないもの探しは難しい (Ruby collection)ないもの探しは難しい (Ruby collection)感想
Xで、ドイツ語版が配信されているとの情報を拾い、海を渡っている日本BL(オメガバース)!!に好奇心爆発してDLして読みました。いや、文章のテンポがすごく良くて、気持ちいい。主人公の、健気だけど元気でめげない雑草のようなたくましさがとても好ましい。ろくに発情もしない薄いΩ設定なので、あまり濡れ場は濡れ濡れしていないというかあっさりめ。主を叱咤する執事のマシューさんの性格も好み。とても面白かった。
読了日:02月23日 著者:metta

こわれた腕環: ゲド戦記 2 (岩波少年文庫 589 ゲド戦記 2)こわれた腕環: ゲド戦記 2 (岩波少年文庫 589 ゲド戦記 2)感想
初読の時には暗く重い印象が残っていたが、再読すると、テナーの若木のようなみずみずしさと、しなやかな強さがこれまた印象的だと思う。ゲドはまだこの巻では若者なんだけど、すっかりおじさん的な風格をまとっている。派手に呪文を唱えたり魔法が迸ったりはしないのだけど、暗黒の神々の膝元でゲドが黙々と全力で戦ったのだ、と納得。こののちのテナーの物語は、18年後?に執筆された『帰還』につながっていく。
読了日:02月20日 著者:アーシュラ・K. ル=グウィン

13言語対応! 語彙力が上がる! 異世界ファンタジー・ネーミング辞典13言語対応! 語彙力が上がる! 異世界ファンタジー・ネーミング辞典感想
本のタイトルこそ「ネーミング辞典」ですが、様々な名詞や単語を日本語、各ヨーロッパ言語、アラビア語、ヘブライ語、中国語で横並び表記したもの。気に入った意味と音をアナグラムにしたりすると、たしかにネーミングが楽になるかもですが。巻末付録に、トールキンのエルフ語辞典も載ってます。これはなかなか面白い。こういう雑学系の本は好きです。
読了日:02月20日 著者:幻想世界研究会

影との戦い: ゲド戦記 1 (岩波少年文庫 588 ゲド戦記 1)影との戦い: ゲド戦記 1 (岩波少年文庫 588 ゲド戦記 1)感想
通読では四半世紀ぶりの再読。よくこの本10代そこそこで読んだな、と今更ながら感心する。大きな冒険ではなく、ひたすらゲドが自分自身と向き合い続ける。オジオンの庵での語らい、エスタリオルとの再会。ノコギリソウと彼女の小さな竜と竈を囲んでパンで手を温めながらのシーンはほのぼのと小麦の薫りが漂ってきそうな幸せなひととき。このゲドが19歳だというのにまた驚く。生と死を自分の中に一つとした全き存在。「生を全うするためにのみ己の生を生き、破滅や苦しみ、憎しみや暗黒なるものに、もはやその生を差し出すことはないだろう。」
読了日:02月16日 著者:アーシュラ・K. ル=グウィン

沈黙の書 (創元推理文庫)沈黙の書 (創元推理文庫)感想
これまでに読んだ乾石智子氏の物語の中では、一番消化不良気味。自分のイメージ力の貧困さにも泣く。人間の残虐さをリアルに描くと同時に、とてもメルヘンな神話的・童話的世界も描かれる。これが頭の中でハレーション。言葉が人間の絆となり平和の礎になる、というメッセージは分かるが、北の蛮族の描かれ方がどうなんだろう?言葉が通じない異民族や文明を持たない蛮族は、薙ぎ払い、一顧だにしないのか。と、とてもモヤってしまった。
読了日:02月09日 著者:乾石 智子

オーリエラントの魔道師たち (創元推理文庫)オーリエラントの魔道師たち (創元推理文庫)感想
単行本から『紐結びの魔導師』を抜いて、『陶工魔導師』が追加されている。お話としては酸いも甘いも噛み分ける『陶工魔導師』が一番好きだが、まったくもって救いのない『黒蓮華』が黒々としているのにとても心惹かれた。(ラストにちょっと救われるけど。)『闇を抱く』は女たちの自衛の魔術アルアンテス。そしてもう一人の〈夜の写本師〉、イスルイールのやや若い頃のお話。イスルイールはやっぱり魅力的だった。にゃんこを蹴るのは人間だけ。至言。
読了日:02月05日 著者:乾石 智子

紐結びの魔道師 (創元推理文庫)紐結びの魔道師 (創元推理文庫)感想
紐結びの魔導師リクエンシスの短編連作。情景を語るのが凄く上手い作家さんだけど、この本は、すごく季節感や気候を感じる。にしても、こんなに安心して読める本は何冊ぶりのことか?それもひとえにエンスの人柄ゆえ。エンスが大好きになること請け合い。魔導師が長命であることはこの物語世界の基本設定だけど、この本は、そこに焦点を当てている。掌編の『形見』がとてもよいと思う。『夜の写本師』に登場する指なしカッシが指を失う経緯がこんなに間抜けで可愛いお話だったとは。
読了日:02月01日 著者:乾石 智子

読書メーター

2025年2月24日月曜日

0546 捨てられ公爵夫人は、平穏な生活をお望みのようです(単行本)

書 名 「捨てられ公爵夫人は、平穏な生活をお望みのようです」
著 者 カレヤタミエ
出 版 TOブックス 2025年1月
単行本 352ページ
初 読 2025年2月22日
ISBN-10 4867944211
ISBN-13 978-4867944219
読書メーター
 https://bookmeter.com/reviews/126248779

 「小説家になろう」年間第1位(2024年4月~10月現在)。ついに書籍化! とのこと。
 私は、「小説家になろう」のサイトを徘徊していて、ちょっと気になって読み始めて、あまりに面白いので一気読みした。これだけ面白くて力のある著者さんであれば、それ相応の敬意を表すべき!と思って書籍版も購入。(ちょっと勘違いして(?)、Kindle版もDLした。)

 最近、ぽつぽつとライトノベルを読むようになったが、これは面白い。蘊蓄もなかなかのもの。

 攻略ゲームの中に日本人の女子高生が転生、って設定はあまりにも「なろう系」だし、タイトルも書店の本棚に並んでいたら絶対に他の本と区別がつかないと確信が持てるけど、こういう宝石が埋まってるんだな、あの界隈には!との認識を新たにした。
 侯爵家の令嬢に生まれながら、出生に疑念も持たれて疎まれつつ育ち、結婚年齢に達したとたん公爵家に嫁がされたのに、初対面で「お前を愛するつもりはない」と言い渡される。結婚生活も営むつもりはないから、ほどほどに贅沢して体面を保って勝手に社交でもしながら生活しろ、と夫となった公爵アレクシスに言い放たれるメルフィーナ。そこは絶望するところだが、アレクシスから辺境の領地の領有権をもぎ取り、翌日には領地に向かって出立。荒れた開拓地と貧しい領民を目の当たりにし、持ち前の知識で領地開発と農業改良に乗り出す。
 もちろん、まるで経験のない女子が知識だけで農業はじめて、あまりにもトントン拍子なのは否めないが、メルフィーナの行動力と優しさと、豊富な知識と、内面の深さ、お付きの二人や公爵アレクシス、公爵の護衛騎士のオーギュストなどなど、登場するキャラクターがそれぞれに個性が立っていて、非常に物語を面白くしている。なにしろ、主人公メルフィーナが、公正で真摯で尊い。
 転生ものって、こんなに面白くなるんだ! と目からウロコが落ちた。

 なお、番外編の2本も良し。おちゃらけた見かけのオーギュストが良い味出してるのよね。こういうキャラは大好きだ。(グレイマン・シリーズのザックっぽい。)
 今年中に続刊も出るようなので、(すでに読んでしまってはいるが)楽しみにしている。
 ラノベらしく結構イラストが挿入されているけど、文章そのものにイメージ喚起力があるので、挿絵は自分の中のイメージとぶつかってしまった。もともと、なろうサイト内の作品には挿絵はないので、文書だけで勝負するのも良いのではないかと思う。
 なお、後書きによると、著者のペンネームの「カレヤタミエ」は かれや・たみえでもなく、かれやた・みえ、でもなく「かれやたみえ」なんだそう。読み方ムズいぞ。

0545 ないもの探しは難しい (Ruby collection)

書 名 「ないもの探しは難しい」
著 者 metta
出 版 KADOKAWA 2025年1月
文 庫 304ページ
初 読 2025年2月22日
ISBN-10 4041138531
ISBN-13 978-4041138533

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 X(旧ツイッタ−)で、仁茂田もにさんのリポストで、この本のドイツ語版が配信されているとの情報を得、海を渡っている日本BL!(オメガバース)に好奇心が爆発してDLして読みました。
 冒頭から、文章のテンポがすごく良くて、気持ちいい。主人公の、健気だけど湿っぽくはなく、元気でめげない雑草のようなたくましさがとても好ましい。ろくに発情しない薄いΩであるとの設定なので、あまり濡れ場は濡れ濡れしていないというかあっさりめ。イラストは概ね好みだけど、読んでいると主人公の片割れアルファのダリウス卿は、大柄でガタイが良くて厳ついイメージを抱いていたので、この表紙のダリウスさんは、ちょっと線が細くて優し過ぎかも?
 それはさておき、タイトルどおり「ないもの」を探すのほど難しいものはなく。
 さしたる特徴もない普通の人が、細心の注意を払って身を隠したらどうなるのか。
 それを探し出すのは、もはや番アルファの執念しかない。
 途中で和解する兄や、主を叱咤する執事のマシューさんの性格も好み。とても面白かったデス。彼らのムスメのシグリットのまったく秘めてない恋と執着の行方も、なかなか楽しみではあるね。