書 名 「死闘の駆逐艦」
原 題 「DESTROYER CAPTAIN」1975年
著 者 ロジャー・ヒル
翻訳者 雨倉 孝之
出 版 朝日ソノラマ 1991年1月
初 読 2020年10月
WWⅡを3隻の駆逐艦で北海から地中海まで駆け回った元英国駆逐艦艦長ロジャー・P・ヒル(英国海軍少佐)、本人による記録。
極めて優秀かつたたき上げの駆逐艦乗りである。士官候補生時代から、艦長になるまでを大型艦で過ごした時期が多く、巡洋戦艦リナウン、地中海艦隊旗艦レゾリューション、戦艦フットにも乗務。本人はとにかく駆逐艦に乗り組みたくて、大型艦に配属されるのが不満だった。夢は駆逐艦を指揮して戦うこと。念願どおり《レドベリー》、《グレンヴィル》そして《ジャーヴィス》の艦長を歴任。従事した作戦はソ連向けPQ17、マルタ向け輸送船団、ビスケー湾のUボート掃討、カイロ会談にむかうチャーチル一向を載せた巡洋戦艦〈リナウン〉の護衛、そしてノルマンディー上陸作戦の援護など。
これらの作戦行動を日誌に基づき、分単位で丁寧に書き起こしている。精読の価値ある一冊である。
そして独の新兵器だった無線誘導滑空爆弾を初対面で飛行の癖を読んで操艦でかわし、海に叩き込んだのがすごいの一言につきる。一方で戦闘への従事が長引くにつれ戦争神経症で精神症状が悪化していく様子も克明に記録されている。冷静に自分をとらえ、部下と艦の安全のために必要だと判断すれば、自分の処遇について上官に上申。なかなかできることではないと思う。
歯に衣着せぬ物言いで無能な参謀や上官に作戦行動についてモノ申し、彼を嫌う人間もいたが、理解者となる上官もいた。
ただし、グレンヴィルに乗っていた後半、着任してきた駆逐隊司令官とは折り合いが悪く、かなり冷遇されたように見える。精神状態の悪化に加え、司令官からのいやがらせのような数々は、さぞかし心身に堪えたことと思う。しかし乗務していたのは奇蹟の幸運艦〈ラッキージャービス〉で艦内と部下達との関係がしごく良好だったのが救いだ。
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グレンヴィル時代のヒル艦長。写真は英語版WIKIより |
この駆逐艦ジャーヴィスについては、興味のある方はWikiを読まれたし。数々の作戦に従事し終戦まで戦い抜き、しかもその間一人の戦死者も出さなかった幸運の艦として《ラッキージャーヴィス》と呼ばれた奇跡の艦である。 《ジャーヴィス》が長期修理でドック入りをしたのを機に艦を離任する際、部下達からは素敵な記念品が贈呈された。この本は、この離艦で終わる。
この後従事した作戦で、ヒル少佐は負傷し、入院中に戦争が終結。終戦の翌年の46年に病院を退院して海軍を退役した。65年にニュージーランドに移住、念願のこの本を記す。
1910年生まれの彼は、WW2のころはまだ若い。最初の指揮官レドベリーは平均年齢22歳で、当時32歳の艦長は「年寄り」だった。大型駆逐艦のジャーヴィスは乗員220名ほど。これだけの能力と統率力を発揮できる人が平和な今、どれだけいるだろうか。
以下は、この本の前書きと英語版WIKIより、ロジャー・パーシヴァル・ヒル氏の略歴。
1910年6月22日 | 生誕 | 1927年 | 英国海軍入隊 | | 〈エレバス〉に1年間乗務 | 1928年9月〜1039年10月 | 巡洋戦艦〈リナウン〉に少尉候補性として2年半乗務 | | ダドリー・パウンド提督が座乗。艦長タルボット大佐 | | この間に、訓練で駆逐艦〈ウォッチマン〉に1か月乗る。駆逐艦に魅せられて、駆逐艦乗務を志すようになる。 | 1931年7月 | 少尉に任官 | 1931年8月〜1932年1月 | ポーツマスで昇任コース受講 | 〜1933年6月 | 地中海艦隊旗艦 巡洋戦艦〈レゾリューション〉乗務(2年) | | 司令長官 ウィリアム・フィッシャー卿。艦長マックス・ホートン大佐 | 1933年12月 | 中尉に昇進 | 1933年〜1934年 | 巡洋艦〈キャドラック〉乗務 任地は中国揚子江の上流漢口。艦長はスイフレット | 1935年〜1937年 | 駆逐艦〈エレクトラ〉乗務。任地アレクサンドリア(3年)。艦長ブラックバーン中佐 | 1936年〜 | スペイン内戦にともない、スペイン近海で法人救出任務 | 1937年8月〜1938年2月 | 戦艦〈フッド〉乗務 任地は地中海、スペイン沖 | | 司令長官 A.B.カニンガム提督、艦長プリングル大佐。 | | この間に結婚。 | 1938年 | 巡洋艦〈ペネロペ〉乗務 任地スペイン沖→ハイファ | | 艦長ハットン大佐、副長ヘンリー・デンハム中佐 | 1939年9月1日 | ヒトラーがポーランド進行を開始 | 1939年 | 潜水母艦〈アレクト〉乗務 | | 艦長ビル・フェル | 1939年〜1940年3月 | 掃海トロール船〈タモーラ〉乗務 | 1940年春 | スループ艦〈エンチャントレス〉乗務(先任将校) | | アラン・スコット・モンクリーフ艦長。 大西洋航路の護衛任務 | | 戦艦〈バーラム〉に乗務していた弟が21で戦死 | | | 1942年1月~9月 | 駆逐艦〈レドベリー〉艦長 | | PQ15,16の間接護衛任務につく。 | 1942年6月 | ソ連向け輸送船団PQ17の直接護衛任務につく。 | | マルタでの護送任務。戦争神経症の悪化。不眠、震え、情緒不安を覚え、艦を離れる決心をする。 | 1942年9月〜1943年4月 | キング・アルフレッドで指導教官を務める。 | | 〈オハイオ〉号の功績でD.S.O(殊功勲章)を授与される。 | 1943年4月~1944年2月 | 駆逐艦〈グレンビル〉艦長 | | イギリス海峡における〈トンネル作戦〉、ビスケー湾のUボート掃討、地中海での各種作戦、 カイロ会談に向かうチャーチルを乗せた〈リナウン〉の護衛航海
| 1944年2月~1944年9月 | 駆逐艦〈ジャービス〉艦長 | 1944年6月6日 | グレンビル時代の功績で殊勲十字章を受章 ノルマンディー上陸作戦
| 1944年9月以降時期不詳 | 頭部負傷により入院 | 1946年 | 退院。イギリス海軍退役 | 1965年 | 健康を害し、ニュージーランドに移住。本書を記す。 | | | 2001年5月5日 | 死去 |
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【駆逐艦レドベリー】
念願の駆逐艦艦長になった最初の任務が、ソ連向け輸送船団PQ15〜17の護衛。15と16は、船団についた護衛艦隊の戦艦と、護衛艦向け給油船の護衛、という間接任務だったが、例の悪名高きPQ17では、船団の直接護衛任務だった。
このPQ17は、時刻を追った克明な記録となっている。船団が出発した早い時期から、ドイツの航空艇がずっとひっついており、逐一行動を把握されていたこと。潜水艦と航空機による波状攻撃。面白かったのは、ずっとひっついてくるドイツの偵察機に、艦内のドイツ語に堪能な乗員が電文をつくって「おまえのせいで眠ることもできなくてふらふらだから、どこかへ行ってくれまいか」と信号を送ったところ「O・K」と返事が来て本当にどこかへ行ってしまった、という逸話。書いているヒル艦長も???クエスチョンマークが一杯。
船団に「散開せよ」という不可解な緊急電文指令を受け首をかしげるが、立て続けに司令部からくる電文に誰もが怖れていたドイツ戦艦〈ティルピッツ〉と重巡〈ヒッパー〉が出てきたに違いない、と考える。ドイツ艦に攻撃を仕掛けるのだ、と思い、艦隊にしたがって船団を離れていくが、どこにも敵はいなかった。数時間後には、無防備な商船船団を危険の中に置き去りにしたのだと気付かざるを得なかった。後においてきた壊滅しつつある船団からの悲痛な電文。反転して救援にいくことも考えたが、それまでに相当な燃料を消費しており、船団に戻ることは叶わなかった。
帰任後、護衛艦隊の駆逐艦艦長5名が司令長官に呼ばれて、「なぜ護送船団を離れたのか」と皮肉交じりに詰問される。別の艦長が「そのように命令をうけたからだ」と答えたが、艦長達の怒りと虚脱感は計り知れない。ヒル艦長の部下達に寄せる思いはひとしおで、全艦あげて帰還祝賀会を開き、部下達の技術を誉め、今回の行動が海軍本部の不手際によるもので艦の責ではないことを伝えた。船団に参加した6隻の駆逐艦に対する批判は相当なだったようで、これに反論することがこの本の目的の一つだったのかもしれない。ヒル艦長はいつかこの本を書く日のために、克明な航海日誌を手元に置いていた。責任はないかもしれないがそれでも後悔が残る。あのとき、命令に違反してでも戻るべきだった。そうすれば、駆逐艦何隻かは沈められることになっても、あと何隻かは商船を無事にアルハンゲリスクに連れていけた。そうするべきだった。
この作戦以来、陸上で紙の上で作戦を指揮する司令部の参謀という連中を、ほとんど信用しなくなった、と本人がこの本に記している。
ヒル艦長が徹底的に鍛えて良く統率の取れていたレドベリーの乗組員達も、任務後は気持ちが荒れた。港で連合軍の米艦の連中に英国海軍はすぐ逃げる、と揶揄されて喧嘩沙汰になって処分者が出たり、と心理的にも影響の大きさが判る。
こののち、レドベリーは、マルタ行き護送船団の護衛任務につく。PQ17での大きな犠牲の後遺症で、艦長以下、この船は「人助け」をせずにはいられないフネになったようだ。海中に墜落した英国軍機の乗員を助ける際には、艦長みずから水中に飛び込んだ。
当時のマルタは、陸・海を敵に囲まれて孤立している一方で、ドイツのアフリカ派遣軍への補給を阻害する要衝となっており、マルタへの補給は欠かすことができないものだった。特にレドベリーが従事した輸送作戦以前の数ヶ月間にわたり、オイルタンカーを一隻もマルタに持ち込めておらず、燃料不足が深刻化していた。そのような状況の中で護衛船団を送り込むが、度重なる敵の攻撃に晒され、大型タンカー〈オハイオ〉号が舵も動力も失って漂流、ドイツ・イタリアの急降下爆撃と闘いながら、レドベリーを含む駆逐艦3隻で曳航・護送し、マルタに持ち込むことに成功した。
マルタの後、ヒル艦長は不眠や震えや強い恐怖感、情緒不安、しつこい胃痛などの神経症の症状が悪化する。艦をイギリスに連れ帰り、修理のためドックに入れたあとで、艦長はレドベリーを去ることになった。当面は休息も兼ねて、キング・アルフレッドの士官養成所の指導教官をつとめ、その間にマルタの功績でDSO(殊功勲章)を授けられている。
【駆逐艦グレンビル】
6ヶ月間のキング・アルフレッドでの陸上勤務ののち、新造艦グレンビルの艦長の任命を受ける。この艦もヒル艦長の手で鍛えあげ、ビスケー湾における対Uボート掃討に従事。Uボートキラーとして勇名を馳せたウォーカー大佐とも作戦を共にした。面白いのが、ヒル艦長はレドベリー時代から雑種の小型犬を連れており(というか世話をしていたのはもっぱら従兵と水兵達)、この犬が幸運の使い手として艦で崇められていたこと。上の艦長の写真で小脇に抱えているのがそれ。犬が港で迷子になると水兵が探し回って出航もままならなかった。幸運の担い手を迷子にしたまま危険な任務に出航したい乗組員はいなかっただろう。
また、このビスケー湾で、ヒル艦長のグレンビルはドイツの新兵器、ロケット推進の無線誘導弾に遭遇している。他のフネがこれにやられて大破、中破するなかロケットのクセを読んで巧みに操艦し、艦についてきた爆弾を海に落として対抗した。
イギリス海峡での任務のあとは、ジブラルタルで地中海艦隊に加わり、カイロ会談に向かうチャーチル一行をのせた〈リナウン)の護衛も務めた。この頃からまた精神状態が悪化し、不眠、幻聴、死臭を感じる、悪夢に悩まされるようになる。ジブラルタルで休養して回復し、グレンビルに復帰。その後、イタリア、アドリア海での任務ののち、駆逐隊司令が指揮していた〈ジャービス〉が損傷したため、司令と艦を交換するかたちで《ジャービス》に異動する。
【駆逐艦ジャービス】
不本意な形でジャーヴィスの艦長となったが、《ラッキー・ジャーヴィス》は強運と乗組員の強い連帯に恵まれた素晴らしい艦だった。この艦で、ヒル艦長はノルマンディー上陸作戦を闘うことになる。ジャーヴィスは、幸運・強運を遺憾なく発揮し、数々の戦闘で砲弾の雨の中を闘い、あるときは6個の音響機雷を誘爆させるもほとんど無傷だった。精神状態への不安は相変わらずで、この時期は司令からの嫌がらせがあったりといささか気の毒であるが、部下との関係は良好だったようだ。
ロジャー・パーシヴァル・ヒル艦長の駆逐艦(リンクは全てウィキペディア。引用も)
建造所 ソーニクロフト
進水 1941年9月27日
就役 1942年2月11日
退役 1946年3月退役、1958年7月解体。
左の写真は、タンカー《オハイオ号》にひっついているレドベリー(多分右側の白っぽい艦だろうか)。この一件で、ヒル艦長は殊功勲章を与えられている。“お気の毒にも陛下は、自ら数百人の人の胸に勲章を付け、握手を賜る労働に励まれるのだった。”
英国駆逐艦《グレンビル》
建造所 スワン・ハンター
就役 1943年
改修 1953年
再就役 1954年
3月19日
退役 1974年
ジャーヴィスは第二次世界大戦において、軽巡洋艦オライオン及び駆逐艦ヌビアンと共に戦艦ウォースパイトの14個に次ぐ13個の戦闘名誉章 (Battle honour) を受章した武勲めでたい艦として知られる
。戦争期間中主要な戦いの多くに参加したにもかかわらず、一人も戦死者を出さなかった幸運と活躍から「ラッキー・ジャーヴィス」(Lucky Jervis)の渾名で呼ばれた。
級名 J級駆逐艦(嚮導艦)
愛称 ラッキー・ジャーヴィス(Lucky Jervis)
進水 1938年9月9日
就役 1939年5月9日
退役 1946年5月